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一宮八王子遺跡2025年01月24日 00:10

一宮八王子遺跡(いちのみやはちおうじいせき)は愛知県一宮市に所在する弥生時代から古墳時代、古代に渡る複合遺跡である。

概要

日光川左岸の自然堤防上に立地し、南北を丘陵に挟まれる遺跡である。尾張地域で最古の八王子銅鐸が発見された。南西約1kmに山中遺跡(弥生前・後期)をはじめとする萩原 遺跡群が同じ自然堤防上に展開する。弥生時代には、中央を南西に幅100mを超える巨大な 自然の谷が走っており、その北で弥生時代前期の環濠1条、総延長約70mにわたり見つかった。環濠の外では石器製作時の石屑を捨てた土坑2基と1辺3mの小型で四隅に陸橋部をもつ方形周溝墓を1基検出した。

調査

弥生時代

弥生時代中期の集落は谷の北岸を中心にして展開していたが、弥生時代後期の遺構群は谷を挟む南側を中心とした集落構造に大きく変化した。 玉作りに用いた可能性をもつ溝の刻まれた砥石2点のほか、100点を超える多量の石鏃が出土した。

弥生時代終末期・古墳時代初頭(廻間I 式・II 式期)

山中II 式期から廻間I 式期初頭にかけて谷の急激な埋没が見られる。廻間I 式期には、それまでの通常の集落景観は一変し、異様な構造物が出現する。大型建物や巨大な区画が設定され、一般集落とは異なる空間となる。溝の中に大型掘立柱建物は一辺12m ほどの規模が1棟だけある。区画内にはその他の施設は存在しない。 長方形区画は南北約80m 東西40m の規模をもち、二重の溝で囲まれていた。付近には複雑なクランク状の区画溝が見られる。一過性の単発的な建物と想定されている。大型建物と泉は弥生時代には見られない。出土遺物は、最古のS字甕と人面文、小型の精製土器群、模造品など古墳時代を予想させるものであった。S字甕はそれ以前の伝統的な煮沸具や台付甕の常識を覆す革命的なものであった。 対岸の左岸には東西100m、南北200mの区画があり、その中に柵で囲まれた総柱の掘立柱建物や独立棟持ち柱をもつ建物群によって構成される注目すべき遺構群が見られる。一般集落とは異なる特異な空間が作られていた。

規模

遺構

弥生時代

  • 竪穴住居
  • 環濠
  • 方形周溝墓
  • 土坑

古墳時代

  • 掘立柱建物
  • 竪穴住居
  • 土坑
  • 井泉

遺物

弥生時代

  • 弥生土器
  • 石器
  • 土偶
  • 銅鐸
  • 砥石

古墳時代

  • 土師器
  • 須恵器
  • 木製品
  • 銅鏃

八王子銅鐸

弥生中期の居住地から、倒立状態の埋納で発見された。外縁付鈕式で県内では最古の銅鐸である。高さ21cm、底部の長径11.3cm(鰭間で13.4cm)、短径7.8cmの小型品、鐸身に流水文が描かれている。埋納場所は集落内であり、類例の少ない倒立埋納である。1997年に愛知県埋蔵文化財センター主任専門員樋上昇氏が発見した。 鈕に明瞭なヒモ擦れ痕跡が見られるため、「鳴らす銅鐸」を裏付けるものである。

放射性炭素年代測定

八王子遺跡より検出された土器付着物試料14点について、加速器質量分析法(AMS 法)による放射性炭素年代測定を行った(愛知県埋蔵文化財センター(2002))。 PLD-1023の1σ暦年代範囲が cal BC 400 - 360 (81.9%)、PLD-1023がcal BC 325 - 280 (40.5%)、PLD-1027がPLD-1023といずも紀元前390年から300年の弥生時代を示している。弥生時代終末期の土器年代と整合性がある。

時期

  • 弥生時代中期から古墳時代初頭

展示

  • 一宮市博物館

指定

  • 平成21年6月24日 一宮市内指定文化財、八王子遺跡出土銅鐸1点

アクセス等

  • 名称:一宮八王子遺跡
  • 所在地:愛知県一宮市大和町苅安賀
  • 交通:名鉄尾西線 苅安賀駅 徒歩25分

参考文献

  1. 愛知県埋蔵文化財センター(2002)「八王子遺跡」愛知県埋蔵文化財センター調査報告書第92集

倭国の時代2025年01月25日 00:27

倭国の時代(わこくのじだい)は2024年12月21日に行われた古代史講演会のテーマである。

概要

  • タイトル  第27回古代史講演会「倭国の時代」
  • 会場    オンライン
  • 講師    古市 晃氏(神戸大学大学院人文学研究科 教授)
  • 日時    2024年12月21日(土)14時00分から15時30分

要旨

倭国はどのように成り立ったか。研究成果によれば5、6世紀は倭王中心の王族による専制的倭王権であった。5世紀段階は血縁継承とはいえず、血統による王権継承は6世紀からである。 倭王のグループから倭王がどのように選ばれるか。5世紀後半から倭王の権力が強まった。 470年代では倭王による専制支配であった。6世紀前半の欽明以後は血縁継承と認められている通説をどのように考えるか。諸伝承の排除は理由がある。記紀伝承は後からの造作があることが明らかにされている。作られた物語からは歴史を構成できない。しかし、まったくのゼロではない。記紀の基礎的な部分には歴史的事実があるだろう。出土文字資料は同時代資料であるから、造作の心配が無い。5世紀後半に「大王」の出土文字資料があり、稲荷山古墳の鉄剣に書かれる。当時は複数の王統があった。記紀と宋書を見比べれば、「珍」と「斉」は血縁関係は無い。中国の史書においては、諸外国の王朝についても、継承関係は可能な限り正確に書くのが原則であるから、血縁が記されないのは、重みがある。藤間生大は「珍」と「斉」は血縁がないと書いている。すなわち当時は少なくとも2つの王統があったことになる。5世紀の倭王の王権は不安定であったといえる。

考察

参考文献

  1. 古市 晃(2021)「倭国 古代国家への道」講談社

飯塚市歴史資料館2025年01月26日 00:11

飯塚市歴史資料館(いいずかしれきししりょうかん)は福岡県飯塚市にある歴史資料館である。

概要

飯塚市歴史資料館は1981年(昭和56年)11月に開館した。立岩遺跡堀田甕棺群から出土した約100点の国指定重要文化財で日本で最古級の前漢鏡のほか貝輪、銅矛・鉄戈などを展示する資料館である。そのほか縄文時代、弥生時代、古墳時代の出土品や中国西安市から寄贈された秦始皇帝兵馬俑も展示される。建物は市の有形文化財に指定されている。カクメ石古墳石室が移築されている。提示室の中は撮影禁止である。

収蔵展示室

  • 前漢鏡 10面
  • 川島・殿ヶ浦出土縄文土器
  • 立岩遺跡堀田甕棺群出土品 重要文化財
  • 立岩・焼ノ正出土銅戈鋳型片
  • 立岩運動場遺跡出土品
  • 川島古墳出土品
  • 滑石刻真言
  • 小正西古墳出土品
  • 立岩遺跡立体模型室

常設展示室

  • 「くらしと文化」 飯塚地方の近世から近代まで

企画展

  • 「実はすごい!筑豊の化石展」
  • 7月18日(木曜日)から8月20日(火曜日)
  • 貝や植物の化石、世界中から収集した化石、恐竜の足跡(レプリカ)など約300点を展示

指定

アクセス等

  • 名称:飯塚市歴史資料
  • 所在地:〒820-0011 福岡県飯塚市柏の森959番地1
  • 休館日: 毎週水曜日(祝日除く)
  • 開館時間:9:30~17:00 (入館16:30まで)
  • 入館料: 一般(団体) : 230円(160円)
  • 交通:JR新飯塚駅東口から徒歩10分

参考文献

朝日遺跡2025年01月27日 00:46

朝日遺跡(あさひいせき)は愛知県清須市から名古屋市西区にかけて所在する弥生時代の遺跡である。

概要

東西1400m、南北800mで、遺跡の面積は100万平方メートルに達する東海地方で際だった弥生時代の環濠集落である。東西に伸びる微高地に立地する。微高地は東西の谷に分断される。逆茂木・乱杭、環濠などからなる強固な防御施設が発見され、戦乱の「弥生時代」を示す遺跡として有名になっている。居住域の広がり、墓域、玉作り工房跡、埋納された銅鐸、鳥形土製品、ブタの飼育など特徴的な遺物が出土している。最盛期の2200年前には、約1000人が暮らしていたと推定されている。逆茂木は外敵の侵入を防ぐため、環濠の外側に設けられた防御装置である。環濠の溝中から枝が付いたままの木が幾重にも重なって出土している。。円窓付土器は土器の横に丸い穴を開けたモノで、用途不明の土器である。乱杭は地上に不規則に打ち込んだ杭である。ただ、 逆茂木や乱杭は洪水から村を守るための施設との解釈もある。洪水になると流木が押し寄せ、家を破壊するので、それを押しとどめる役割とも解釈できる。

調査

発掘調査では膨大な量の遺物が出土し、うち 2,028 点は弥生時代の多様な生業、生産・流通の様相が分かる重要な資料として評価され、国の重要文化財に指定されている。

遺構

弥生時代

  • 方形周溝墓14
  • 土坑
  • 包含層
  • 落込み
  • ピット
  • 住居

遺物

  • 弥生土器
  • 赤彩土器 パレス・スタイル壺 重要文化財
  • 赤彩土器 合子 重要文化財
  • 打製石鏃
  • 磨製石鏃
  • 石器
  • S字状口縁台付甕
  • 小型短頸壺
  • 石器・石製品
  • ガラス小玉
  • 勾玉
  • 管玉
  • 金属製品
  • 骨角牙貝製品

弥生時代のブタ

弥生時代においては、遺跡から出土する動物遺体はシカよりイノシシが圧倒的に多いと報告されている。朝日遺跡ではシカは成獣が71%であるが、イノシシは若・幼獣が78%を占める。西本はイノシシまたはブタが飼育されており、農耕儀礼に伴い殺された可能性を指摘する。西本は第一頸椎の形態がイノシシとは異なり、一部の骨はイノシシの特徴があるが、大部分には第一頸椎が高く、吻部が細いなどブタの特徴かあると指摘する。イノシシは1割以下とする(西本豊弘(1992))。

指定

  • 1971年(昭和46年) 貝殻山貝塚周辺の約1ヘクタールを国の史跡に指定
  • 2012年(平成24年)9月6日 出土品2,028点が重要文化財

展示

  • あいち朝日遺跡ミュージアム

アクセス等

  • 名称:朝日遺跡
  • 所在地:愛知県名古屋市西区中沼町/〒452-0932 愛知県清須市朝日貝塚1
  • 交通:JR「名古屋駅」から「枇杷島駅」、乗り換えで城北線「枇杷島駅」から「尾張星の宮駅」より 徒歩9分

参考文献

  1. 西本豊弘(1992)「朝日遺跡の弥生時代のブタ」愛知県埋蔵文化財センタ-『朝日遺跡 自然科学編』
  2. 愛知県埋蔵文化財センタ-(1992)「朝日いせき」

高知県立歴史民族資料館2025年01月28日 00:32

高知県立歴史民族資料館(こうちけんりつれきしみんぞくしりょうかん)は高知県南国市にある歴史資料館である。

概要

高知県の歴史・考古・民俗・美術工芸を広く紹介するため、各時代の特徴的事象を取り上げて総合展示する。1991年(平成3年)5月3日に開館した。2006年(平成18年)4月、(財)高知県文化財団が館の指定管理者となる。戦国武将・長宗我部氏の居城跡(国史跡・岡豊城跡)に立つ。

総合展示室

  • 銅矛 高知市三里池長崎遺跡
  • 方格規矩四神鏡 南国市田村遺跡群
  • 方格規矩四神鏡片 南国市田村遺跡群
  • 銅剣(通称絵画銅剣) 平成12年6月27日 国指定重要文化財
  • 袈裟襷文銅鐸(複製)伝香川県善通寺市善通寺町 善通寺五重塔出土
  • 方格規矩四神鏡(南国市田村遺跡群 出土)中国新〜後漢代,1世紀、出土遺構は弥⽣時代後期

企画展

指定

アクセス等

  • 名称:高知県立歴史民族資料
  • 所在地:〒783-0044 高知県南国市岡豊町八幡1099-1
  • 休館日:年末年始 12月27日?1月1日
  • 開館時間:9:00 ~ 17:00(入館は16:30まで)
  • 入館料: 通常展 大人(18歳以上):470円、企画展 大人(18歳以上):520円
  • 交通:高知駅バスターミナル乗り場から南国オフィスパーク、領石行き(G5~6)で約30分。「学校分岐」(歴民館入口)下車、徒歩約15分

参考文献

富雄丸山古墳2025年01月28日 15:37

富雄丸山古墳(とみおまるやまこふん)は古墳時代に築造された奈良県奈良市にある日本で最大の円墳である。

概要

奈良市街地から西方の富雄川左岸の丘陵に築造された大型円墳である。奈良盆地の西の矢田丘陵の東を南流する富雄川中流域右岸の台地上に立地する。北側に三条大路が通り、暗越の道路付近で単独の営造である。宝来山古墳(佐紀古墳群南大支群)からは約3km西である。北方に大阪平野と奈良盆地を結ぶ「暗(クラガリ)越え」が走る交通の要衝である。 円丘の径は109mで、高さ14.3mの三段築成である。 墳丘北東側に造出を有する。特異な形の「盾形銅鏡」「蛇行剣」が出土したと、2023年1月に報道されたことで知られる。この鏡と剣はいままでに類例のない形とサイズである。国宝級との声もある。墳頂部は盗掘を受けているが、造り出しの粘土槨は未盗掘であった。 1段目平坦面に円筒埴輪列があり、10cm間隔で密に樹立する。南東側から囲形埴輪と家型埴輪が出土した。囲形埴は60cm以上の正方形である。中に30cmの家型は庭と水槽型埴輪が入る。水辺の祭祀儀礼を示す最古の囲形埴輪である。二段目平坦面に鰭付円筒埴輪列がある。

張出部

  • 幅45m、長さ10mの方形である。平坦面に3cmの河原石がある。斜面に拳大の河原石による葺石を伴う。

発見

発見された銅鏡は「だ龍文盾形銅鏡」と命名された。鏡面の面積は過去最大の福岡県・平原遺跡の銅鏡(直径46・5センチ)を上回る。盾のような形をした鏡が見つかったのは、今回が初めてである。文様面は国産のだ龍鏡2枚を配置したデザインである。板の成分は、銅にスズや鉛を混ぜた青銅であった。 長さ64cm、幅は約31cmである。木棺の蓋を蔽う被覆粘土の形状に合わせて斜めに立てかけられていた。背面中央に紐があり、その上下に倭鏡に認められるだ龍鏡の図像文様が確認できる。ほかに鋸歯文を中心とする文様がある。内区外周に半円方格帯が備わる。三角縁神獣鏡では環状乳、半円方格帯を表す例は少ない。

蛇行剣

全長237cmで、幅約6cmの鉄剣である。最古級の大蛇行剣である。木製の鞘に収める。 日本最大の鉄剣であり、蛇行剣としては日本最古の事例である。 鉄剣は左右に屈曲した「蛇行剣」であり、漆塗りの柄や鞘の痕跡が残っている。完全な形で出土したものとしては過去最大である。奈良大学の豊島直博教授は「あれだけ長い剣を作ろうとすると、相当大きな炉や人と道具を揃えないといけない。素材もたくさんの鉄が必要になるので、高度な技術と製作体制が必要になる。当時の鍛冶技術の最高傑作といえる」と話す。 今尾氏によれば、この寸法は後漢単位尺の十尺に相当する。倭の工房で生産した蓋然性は高いとする。今尾氏は倭の4世紀に中国起源の尺度を理解していた可能性があると指摘する。

明治の盗掘

1879年(明治12年)ころに墳頂が盗掘された。副葬品の一部は天理参考館や京都国立博物館などに収蔵されている。盗掘を見た人の証言では、「地表下約2・4メートルに礫層があり、この真ん中の粘土の中に、刀、鏡、石製品などがきれいに並んでいた」とされる。石製品(鋤形石、刀子形、ノミ形、琴柱形、碧玉合子、鉇形)、鉄製品、有鉤銅釧を発見したとされる。 京都在住の弁護士で、書画や骨董品の収集家として知られた守屋孝蔵のコレクションとなったが、1957年に国の重要文化財に指定され、1968年に京都国立博物館が購入した。

調査

  • 第1次調査:2017年度
    • 発掘計画策定のための航空機レーザー測量により、3段築成で直径110mの造り出し付き円墳であることが判明した。高さ14.3mで、北東側に「造り出し」と呼ばれる方形の張り出しがあることが確認された(参考文献5)。
  • 第2次調査:2018年度
    • 埋葬施設の再調査を行い、墓坑1段目の輪郭を確認し、副葬品の一部が出土した。直径は復元で109mとなり、日本最大の円墳と判明した。埋葬施設の東側では墳頂平坦面の中心部がさらに1段高まる壇を確認した。
    • 一段目、二段目平坦面では中央に円筒埴輪列を確認した。
    • 造り出しは北西側で斜面が二段になっている。葺石が良好に残存していた。
  • 第3次調査:2019年度
    • 普通円筒埴輪列のほか、鰭付円筒埴輪の配列を確認した。
  • 第4次調査:2020年度。
    • 南東側くびれ部で円丘部から作り出しへと屈曲する基底石と葺石を確認した。斜面の 葺石は7cm程度の石材であるが、基底石は20cmの石材を使用する。造り出し北西側の斜面が三段(上・中・下)に構築されていることが判明した。これは珍しい作りである。
  • 第5次調査:2021年度
    • 葺石の下から続く排水溝を検出した。幅約0.7m、深さ0.3m以上。溝内に葺石と同様の石材を詰める。造り出し側面の埴輪列が前面で途切れることが判明した。
  • 第6次調査:2022年度
    • 造り出しの調査。粘土槨から蛇行剣と盾形銅鏡を発見した。
    • 2023年1月25日、造り出しを発掘し、全長5メートル前後の木棺を収めた埋葬施設を新たに発見したと報道された(参考文献4,5)。木棺を覆う粘土の中から、全長約2・37メートル、幅約6センチの鉄剣と、長さ約64センチ、幅約31センチの銅鏡が重なって出土した。過去に類例のない盾形銅鏡と全長2メートルを超える巨大な鉄剣である。銅鏡も鉄剣も国内で過去最大のものである。鏡、剣ともに古墳研究史上の画期的な発見とされる。
  • 第7次調査 令和5年12月4日~令和6年3月31日にかけ行われた。 成果は、木棺の規模と構造が判明したこと、水銀朱の散布を確認したこと、竪櫛を格にしたこと、青銅鏡3面が出土したことである。

木棺

丸木をくりぬいて作られた木棺は未盗掘とみられ、保存状態も良好だった。「木棺」が盗掘されない状態のまま、木棺本体が見つかるのは珍しいことである。下部の本体である「身」と呼ばれる部分は、長さ約5.6m・幅は70cmほどのサイズで、全体の約7割が残存する。 木棺は、両端を小口板で密封し、その内部空間を2枚の仕切板で3分割していた。棺に使用されている樹種は、棺蓋・棺身・小口板がコウヤマキであったが、仕切板2枚だけがスギであり使い分けがされていた。 2025年1月27日、割竹形木棺の木棺に縄掛突起があることが公表された。縄掛突起は長さ16cmでふたと身の両端に2本ずつの計8本の縄掛突起があったと推定されており、うち3本が現存する。突起同士を縄で結んでふたと身を密封する説は埋葬状況から否定された。ふたをかぶせる時点で身の突起は粘土に覆われて埋まっていたため、縄で結ぶことができない構造と判明した。運搬用の突起とみられている。

竪櫛

第7次調査では主室の南東端から漆塗の竪櫛が9点出土した。全長14センチメートル・棟幅2センチメートルの小型品である。髪につけるアクセサリーとしてだけでなく、葬送儀礼で使われたと推察されている。

規模

  • 直径109m ,高さ14.3m(第一次調査、第二次調査)

遺構

埋葬施設は粘土槨で、内部には割竹形木棺(推定長6.9メートル弱)が据えられた。

遺物

  • だ龍文盾形銅鏡
  • 蛇行剣
  • 斜縁神獣鏡
  • 鍬形石
  • 管玉
  • 銅鏃
  • 刀子
  • 鋤先
  • 普通円筒埴輪 底径25cm
  • 朝顔形埴輪  底径30-34cm
  • 鰭付楕円筒埴輪
  • 形象埴輪 家、盾、蓋(きぬがさ)、草摺

伝出土品

京都国立博物館

  • 鋤形石
  • 琴柱形石製品
  • ヤリガンナ形石製品
  • ノミ形石製品
  • 刀子形石製品
  • 斧頭形石製品
  • 合子
  • 管玉
  • 小玉
  • 有鉤釧形銅製品

天理参考館

  • 三角縁神獣鏡 3面
    • 奈良市埋蔵文化財センター保管 弥勒寺所蔵
  • 三角縁神獣鏡 1面

築造時期

4世紀 前半から後半

指定

なし

現場の一般公開

奈良市教委は2023年1月28日12時半~15時と29日10~15時、奈良市丸山1丁目の富雄丸山古墳の発掘現場を一般公開した。出土現場を見学できる最後の機会のため、1月28日は1403人、29日は3100人、合計4503名が参加し、長蛇の列をなした。

被葬者像

奈良市埋蔵文化財調査センターの村瀨陸研究員は「我々の想像以上に大王に近い人物である」と語る。出土場所は、墳丘の北東方向に方形に突出した「造出し」の粘土槨で、調査によって埋葬施設であることが判明している。

アクセス等

  • 名称:富雄丸山古墳
  • 所在地:〒631-0056 奈良県奈良市丸山1丁目1079-239
  • 交通:近鉄学園前駅(28系統)・富雄駅(50系統)・近鉄郡山駅(38系統)から奈良交通若草台行き、もしくは奈良県総合医療センター行きバス「丸山橋」下車徒歩約5分

参考文献

  1. 肥後和男・竹石健二(1973)「日本古墳100選」秋田書店
  2. 大塚初重(1996)『古墳辞典』東京堂出版
  3. 「富雄丸山古墳の調査 第一次から第三次」奈良市埋蔵文化財調査センター速報 展示資料67
  4. 「国内最大の鏡と剣出土「金工の最高傑作」」日本経済新聞、2023年1月25日
  5. 「直径110m国内最大の円墳と判明」朝日新聞,2017年11月16日
  6. 『木棺の突起は運搬用に作られたか 保存状態良く「第一級の史料」』産経新聞、2025年1月27日

大友遺跡2025年01月29日 00:08

大友遺跡(おおともいせき)は佐賀県東松浦郡呼子町にある弥生時代から古墳時代にかけての墓地である。

概要

東松浦半島の北端、玄界灘に面した海岸部にある遺跡である。1967年(昭和42年)に1967年(昭和42年)に海水浴に来ていた中学生によって発見された。夜臼式期に造られた支石墓の下部構造は石を土坑の壁沿いにめぐらせる「石囲いの土坑」であり、北部九州の支石墓のなかでも朝鮮半島の遺跡に近い。弥生時代前期の板付Ⅰ式併行期には初期に形成された支石墓群とは別の場所に土坑墓群が作られ、弥生時代前期中葉から後葉の伯玄式・金海式の段階には単独の甕棺墓が営まれた。弥生時代のはじめに朝鮮半島経由で伝わった支石墓や土壙墓、甕棺墓、石棺墓など210基を超える墳墓が確認された。 遺物には、副葬品として南海産のオオツタノハ製腕輪や、ゴホウラ製腕輪など多様な貝輪や、小壷・甕棺・管玉などの玉類、貝輪などが出土した。墓地は弥生早期から古墳時代までにかけて使用されていたと考えられており、埋葬習俗の変遷が明瞭に辿れる集団墓として着目されている。

調査

第1次調査は昭和43年から44年にかけて、第2次調査は昭和45年に実施された。玄界灘に面する墓地遺跡で、支石墓、土墳墓、牽棺墓や箱式石棺墓等の多様な埋葬遺構が発見されている。九州大学考古学研究室により1999年に5次、2000年に6次発掘調査が行われた。4次調査で検出されていた57号支石墓の北側に10基の支石墓(しせきぼ)、8基の土坑墓、3基の甕棺墓、2基の石棺墓などが検出された。

遺構

  • 甕棺墓36
  • 石棺墓22
  • 土壙墓30
  • 石囲墓1

遺物

  • 弥生土器
  • 石器
  • 貝輪
  • 骨角器
  • 玉類

弥生人骨の核DNA分析

神澤秀明・角田恒雄・安達登他(2021)は側頭骨が残存する個体のうち,オオツタノハ貝製腕輪を着装した5次8号支石墓の熟年女性を分析に用いた。ミトコンドリアDNA ハプログループはM7a1a6 と判定された。縄文人の典型的なハプログループである。核DNA データを用いた主成分分析から,大友5次8号支石墓出土人骨は縄文人のクラスターの範疇に収まり,大陸系集団との混血の影響は見出されなかった。この結果と、支石墓から発見された人骨は、いわゆる「渡来人」的な特徴ではなく、頬骨が低く平面的で、鼻が広くひろがる、「縄文人」的な特徴を持っていたことから、支石墓は縄文系人が朝鮮半島の墓制を取り入れたものと解釈することが妥当と考えられた。

海洋リザーバー効果

炭素14年代は大気中の14C濃度を基準として計算されるが、海洋リザーバー効果という海水循環による影響のため、海洋起源の炭素を摂取した生物は実際よりも古い年代値となる。日本海沿岸における海洋リザーバー効果のデータはそれまで得られていない。 三原正三、宮本一夫(2003)は海洋リザーバー効果があるとの前提に立ち、較正年代を算出しているが、海洋リザーバー効果の有無は検証していない。

指定

  • 平成26年10月6日 追加指定で大友遺跡が含まれる「史跡 唐津松浦墳墓群」

展示

  • 佐賀県立博物館

アクセス等

  • 名称:大友遺跡
  • 所在地:佐賀県唐津市呼子町大友
  • 交通:

参考文献

  1. 三原正三、宮本一夫(2003)「佐賀県大友遺跡出土人骨の AMS14C 年代測定海洋リザーバー効果」
  2. 神澤秀明・角田恒雄・安達登他(2021)「佐賀県唐津市大友遺跡第5 次調査出土弥生人骨の核DNA分析」国立歴史民俗博物館研究報告 228,pp.385-393