Bing
PVアクセスランキング にほんブログ村

方形貼石墓2025年06月17日 00:19

方形貼石墓(ほうけいはりいしぼ)は弥生時代の墳丘墓に葺石のような貼石を墳丘面に貼った弥生墳丘墓である。

概要

方形の墳丘に貼り石を貼った弥生墳丘は島根県東部、広島県北部、兵庫県北部に見られる。 最初に方形貼石墓が見つかったのは、舞鶴市志高遺跡であった。古墳時代前期の層を剥ぎ取ると、貼石を持つ墳丘が3基発見された。 最も古い方形貼石墓は波来浜遺跡(島根県江津市)で、弥生時代中期中葉とみられている(石尾政信(2006))。さらに2006年に難波野遺跡から2基の方形貼石墓が見つかった。墳形は方形または長方形とみられる。南辺と東辺の一部を確認できたが大部分は調査地外であった。墳丘の規模は南辺が16.2mである。周溝の幅は東辺で4.5m、南辺で5mであった石尾政信(2006)。寺岡遺跡では、貼石を伴う方形周溝墓と報告されている。肥後弘之(2010)は近畿北部の方形貼石墓を8遺跡、13例で報告した。立地は(1)集落と隣接したもの、(2)集落から隔絶した丘陵上にあるものに大別された。日吉ヶ丘遺跡と寺岡遺跡では方形貼石墓は1基だけであるが、周囲に方形周溝墓が存在する。 方形貼石墓は山陰地方を中心として分布する墓である。島根県や広島県では弥生時代中期に発生し、その隅部が発達して四隅突出墳丘墓になり、大型化すると考えられている(肥後弘之(2009))。 弥生時代後期には方形貼石墓はほとんど作られなくなる。

波来浜遺跡A-2号墓

山陰最古級の方形貼石墓の波来浜遺跡A-2号墓(江津市所在、弥生時代中期)では、発掘調査の結果、順庵原1号墓と異なり、墳丘墓の構築と同時並行で墓穴を掘り、被葬者を埋葬していることが判明した。

日吉ヶ丘遺跡(京都府与謝野町)

1999年に日吉ヶ丘遺跡(京都府与謝野町)で、大型の方形貼石墓が検出された。

日吉ヶ丘・明石墳墓群(京都府与謝郡加悦町)

京都府北部、丹後半島の南に位置する弥生時代から古墳時代にかけての墳墓群である。平成11年からの加悦町教育委員会では発掘調査により、弥生時代中期の大規模な方形貼石墓を検出した。規模は長辺約32m、短辺約20mである。墳丘斜面上半には平らな石を貼り付けていた。埋葬施設は組合せ式木棺1基が確認され、頭部と推定される場所で670点を越える管玉と赤色顔料を検出した。

中野美保遺跡

 2001年から2003年の発掘調査で標高5m未満の沖積地から弥生時代中期中葉の方形貼石墓と、弥生時代後期後葉の四隅突出型墳丘墓が検出された。形貼石墓は東西約5.5メートル、南北約4.5メートルの大きさで、墳丘に3から4列の貼石が見つかった。

参考文献

  1. 肥後弘之(2010)「方形貼石墓概論」京都府埋蔵文化財論集第6集-創立三十周年記念誌-
  2. 石尾政信(2006)「難波野遺跡の方形貼石墓」
  3. 肥後弘之(2009)「墓制から見た弥生時代の近畿北部」市大日本史 12,pp.41-56

臈纈2025年06月17日 21:39

臈纈(ろうけち、ろうけつ)は染色技法のひとつで布帛に蝋で文様を描き、染液中に浸したあとで蝋を取り除く染め方である。 「蝋纈」、「蝋結」、「﨟纈」とも書く。

概要

インドで生み出された染色技法とされる。飛鳥・奈良時代に中国経由で伝わったとされ、正倉院に蝋纈が残る。型で蝋を押して文様を表したものが多い。奈良時代に盛行したが、平安時代以降は、ほとんど使われておらず、明治時代から大正時代になって復活した。着物、帯、暖簾、タペストリーなどの染色に使われる。 布帛の模様部分を蝋で防染し、模様を描き出す。布帛を染料に浸し、その後、蝋を洗い落とすと、蝋のあった個所に模様が表現される。

天平の三纈

「天平の三纈」と言われる染色技法に夾纈(キョウケチ)・纐纈(コウケチ)・﨟纈(ロウケチ)がある。

正倉院

正倉院では以下の宝物に蝋纈が使われている。

  • 臈纈屏風  象木屏風
  • 御袈裟箱袋 第1号
  • 臈纈屏風  鸚烏武屏風
  • 縹臈纈布袋 第13号
  • 赤地鳳凰唐草丸文臈纈絁
  • 白綾几褥 第23号
  • 緑地唐草襷花文臈纈絁
  • 白橡臈纈?袴 第1号