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流田遺跡 (大阪府)2025年07月28日 00:10

流田遺跡 (大阪府)(ながれたいせき)は、大阪府茨木市にある弥生時代晩期、古墳時代から中世までの集落跡遺跡である。

概要

西に茨木川、東に安威川(あいかわ)が位置し、2つの河川に挟まれた遺跡である。

調査

遺構

遺物

古墳時代中期の層から扉板が発見された。長軸長さ140cm、短軸45cm、厚さ3cmぶ加工された板材である。扉板の中央に閂貫を通すための突起がある。発見されたのは1枚だけであるが、元は左右対称の観音開きの扉と考えられる。扉板右下部分に回転の軸となるホゾも 扉板を覆う地層で古墳時代中期の須恵器が見つかったことから、扉板は古墳時代のものとみられる。 建物の上部構造が分かる遺物が出土することは極めて稀である。今回の出土は北新町遺跡の扉とよく似ている。離れた地域で似たものが出ることは、古墳時代の標準形式であった可能性がある。

類例

  • 北新町遺跡 - 大阪府大東市
  • 讃良郡条里遺跡 - 大阪府寝屋川市

指定

アクセス

  • 名称:流田遺跡
  • 所在地:大阪府茨木市田中町
  • 交 通:JR総持寺駅から徒歩10分

参考文献

  1. 近つ飛鳥博物館(2016)『歴史発掘おおさか2015』近つ飛鳥博物館

ソグド人2025年07月28日 00:12

ソグド人(そぐどじん、sogd)は 中央アジアのソグディアナ地方を本拠地としていたイラン系民族である。

概要

ソグディアナ地方はアム川とシル川にはさまれた地方で、現在のウズベキスタンに当たる場所である。東に中国、東南にインド、西南にペルシア(現イラン)があり、東西交通の要衝である。都市はサマルカンド(康国)、タシュケント(石国)、ブハラ(安国)などの都市国家ができていた。 サマルカンドを中心とする都市から東西への商業を得意としてシルクロード周辺域の隊商など多様な経済活動を行っていた。ソグド人の領土は、サマルカンドを中心にゼラフシャン川流域にあった。シルクロード交易を約700年にわたり支配した謎の民族と言われる。中国語では栗特と呼ばれ、中国では西方から来た人々を胡人と呼んでいた。6世紀の中国の記録では240人の隊商が600頭の駱駝による隊列を組み、万に及ぶ絹を運んだと記される。移動先で集落を作り定住することもあった。2000年に西安で発見された墓は、ソグド人の墓であった。薩保(薩宝)という名前の人物であった。元はキャラバンのリーダーを意味していたという。碑文では集落の代表者を表すことばになっていた(NHK「隊商の民 ソグド」)。宗教的としてはゾロアスター教を信仰したが、2世紀から3世紀にかけて中国に仏教を伝えた。 6世紀60年代、エフタルはチュルク朝とイランによって征服された。8世紀初頭、アラブ人はソグド諸侯国を征服したが、政治は安定せず、反乱の鎮圧は困難であった。719年から739年にかけてほぼ絶え間なく続いた戦争のため、ソグドは荒廃し、深刻な衰退が訪れて、イスラム教を受容した。アラビア語では「川の向こう側にある地方」を意味するマー・ワラー・アンナフルの名で呼ばれ、この地名が定着する。最後には13世紀のモンゴルの来襲によって破壊され、終焉を迎えたとされる。

現代に残るソグド人

ザラフシャン川の流域はソグディアナ(ソグド人の土地)と呼ばれるが、現在はソグド人はいない。タジキスタンのアルトーチュ村にソグド人の子孫が300人残る。子供が生まれると蜜をなめさせ、コインを握らせる。ソグドの伝統で蜜は食べ物に困らないように、コインはお金持ちになるようにとの願いである。子供が20才になると旅に出す慣習がある。

中国への定住

北朝から隋・唐時代にソグド人の往来が最大となり、定住する者も多くいた。中国で定住すると戸籍にはいり漢字の姓を持つようになる。昭武姓と呼ばれ、出身地ごとに異なっている。サマルカンド出身なら「康」、ブハラ出身なら「安」、タシケント出身なら「石」となる。有名な安禄山は、「安」姓で、禄山もソグド語の名前を漢字で音写したものと考えられている。

アフラシアブ博物館

アフラシアブ博物館はサマルカンドで1970年に開館した。サマルカンドの中心部から北東近郊に広がる岩の丘 「アフラシャブの丘」の近くにある。サマルカンドの都城は、紀元前 6、5世紀頃から建設が開始され、ソグド人の康国の中心として繁栄した。アフラシャブの丘の宮殿址から出土した壁画は、ソグド王国の宮殿の壁に描かれており、特に外交使節を描いたものが有名である。 壁画はソグド王国のバルフマン王の治世の時に制作されたと推定されており、王国を訪問した様々な国の使節団が描かれる。高句麗の使節は鳥羽冠を被り、環頭大刀を腰に帯びて描かれる。バルフマン王は中国側の史料では、唐の高宗から康居都督府の都督に任じられた「拂呼縵」とされる。復元された壁画(オリジナルに近い模写図)はソウルの国立中央博物館3階中央アジア室に展示されている。

言語

紀元7世紀前半に中国人旅行家の義浄は、チュー川沿いのシュアブの町からケシュに至る土地すべてがソグドと呼ばれ、ソグド語を使用し、ソグド語が話されていたと述べている。ソグド語は国際的な言語であった。ソグド語はシルクロードの共通語として使用されていた。 ソグド人がもたらしたソグド文字はウイグル文字となり、そのウイグル文字が13世紀にモンゴル文字となった。イスラム時代には言語として近世ペルシア語を用いるようになり、ソグド語は使われなくなり、イランとの文化的な繋がりが緊密になった。1907年にイギリスの探検家のスタインは、中国・敦煌西北の烽火台の下から8通のソグド語の文書(手紙)を発見した。

ソグド人の遺跡

ソグド人の遺跡にはペンジケント、アフラシアブ(当時はマラカンダの名称)、バラフシャなどがある。全盛期は6世紀の都市遺跡であり、宮殿跡から壁画、幾何学紋様の塑像が発掘された。付近にゾロアスター経の神殿がある。中国でソグド人は胡人と呼ばれ、唐で胡服、胡歌、胡旋舞が流行した。ペンジケント遺跡はサマルカンドから東に65km、タジク共和国の西北にある。5世紀から6世紀の間に最も発展していた。ペンジケント遺跡から壁画や炭化した仏像が出土する。連珠文にパルメット紋を配する副服装は、ササン朝ペルシャと共通する。風貌は金髪、巻き毛、目は大きく蒼く、鼻は高く口髭を蓄え、眉毛は濃い。アフラシアブはサマルカンドの北にあるソグド人の都市遺跡である。

正倉院のソグド

渤海使として来日したソグド人もおり、日本の文化にも影響を与えたといわれる。 法隆寺献納宝物の一部として白檀2点と沈香1点が伝わる。白檀2点に刻まれた謎の刻印と焼印は、ソグド商人の海と陸にわたる交易のネットワークの手がかりである。白檀に記された墨書は天平宝字5年(716年)のもので、刻名の文字はパフラヴィー語(中期ペルシア語)で「ボーフトーイ」(人名)、焼印の文字はソグド文字で「ニーム・スィール」とされる(加藤九祚)。 ソグド人の特徴である「深目高鼻」の面が、正倉院に残る。ソグド人の首領は帽子を被っている。正倉院の「酔胡王」と「酔胡従」の伎楽面はソグド人を表す。酔胡王は泥酔した胡(古代ペルシャ)の王という設定であるが、高い鼻をもち、分厚い唇、太い眉毛、高い帽子でソグド人の特徴をもつ。奈良県明日香村の飛鳥池遺跡で、古代の仮面舞踊劇「伎楽」に使用する面の一つ「酔胡王」を描いた木簡が出土している。義浄の『南海寄帰内法伝』に671年の広州に住むペルシアの船商人について書かれている。唐招提寺の四代目住職の安如宝は中国揚州のソグド人であった。

考察

参考文献

  1. 早田啓子(2005)「中央アジアとその周辺の宗教文化V」昭和女子大学紀要 学苑 (773), pp.88-97
  2. 早田啓子(2004)「中央アジアとその周辺の宗教文化Ⅳ」昭和女子大学紀要 學苑 (762) pp.113-122
  3. 「NHKスペシャル 文明の道 第5集 シルクロードの謎 隊商の民 ソグド」2003年9月14日放送
  4. 加藤九祚(1981)『西域の秘宝を求めて第2版』新時代社
  5. 森安孝夫(2016)『シルクロードと唐帝国』