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甲塚古墳(下野市)2025年08月11日 00:05

甲塚古墳(下野市)(かぶとづかこふん)は栃木県下野市にある帆立貝形古墳である。 日本百名墳に選出されている。

概要

栃木県南部には古墳が多数点在する。そのうち大型古墳は摩利支天塚古墳(120m)・琵琶塚古墳(123m)・甲塚古墳(80m)・愛宕塚古墳(78.5m)・山王塚古墳(72m)・丸塚古墳(65m)・吾妻古墳(128m)がある。築造順は、「摩利支天塚古墳→琵琶塚古墳→吾妻古墳→甲塚古墳→愛宕塚古墳→山王塚古墳→丸塚古墳」とされる。 埋葬施設は凝灰岩の切石の横穴式石室である。栃木県南部地域に分布する後期古墳群の主墳とされる。令和5年度に須恵器の脚付長頸壺と大甕、円筒埴輪1点の修理を行った。

調査

1883年(明治16年)・1893年(明治26年)の発掘により、墳丘は十文字に破壊されていた。 下野国分寺跡の史跡整備に伴い2004年(平成16年)に発掘調査を行った。石室西側の基壇面から、埋葬に伴う儀礼時で使用した360個体以上の土器群が出土した。古墳の測量・周湟トレンチ調査を行い、墳丘は第一段下端の計で78.1m、周湟外周径で94.8m、周湟底から墳頂までの高さ9.3から9.8mで、墳丘第一段の平坦部をもつ、この地域の大型円墳と判明した。玄門と羨道との間に刳り抜き玄門があると推定されている。2004年(平成16年)に墳形の確認と埴輪の配置の確認のため調査が行われた。

下野型古墳

典型的な「下野型古墳」である。①墳丘の1段目(基壇)が低く幅が広い、②前方部に横穴式石室がある、③石室に凝灰岩製の石を使う(安山岩でない)。広い基壇面(①)は埴輪や須恵器による墓まつりが行われていたゾーンと見られている(下野市教育委員会(2017))。

埴輪

馬形埴輪には女性が横座りする際の足置きが表現される。古墳南側周溝に食い込むように建てられてるホテルがあり、南側の範囲は確認できていない。埴輪群に4 色(赤・白・黒・灰)の彩色が施されていた。人物埴輪にも彩色が残る。人物埴輪は男性7体、女性9体、不明1体である。人物埴輪7,8以外の人物埴輪は、周溝側(外側)を向いて設置されていた。 日本初の出土例の機織形埴輪2基が検出された。1基は地機をする女性、1基は原始機である。6世紀後半における2種類の機織機が存在していたことが明らかになった。機織機を捜査するのはいずれも女性である。4基の馬形埴輪には白く塗られており、白馬を表していたと推察される。主体部寄りの馬形埴輪1と2は壺鐙、馬鐸、輪鐙、鈴を装着する飾馬であり、後方の馬形埴輪3と4は裸馬である。 なお2004年(平成16年)に埴輪の盗難事件があり、完形に近い良品の埴輪3体だけが夜中に盗まれてしまった。

重要文化財

2017年年9月15日告示により、「栃木県下野市甲塚古墳出土品」は正式に重要文化財に指定された。指定理由は、①我が国唯一の機織形埴輪であること、②彩色を含めてよく残り、特徴的で種類が豊富であること、③位置や向きが明確であり埴輪配列の復元が可能であること、④土器を用いた祭祀行為の復元が可能であること、である。

規模

  • 形状 前方後円墳(帆立貝形古墳)
  • 築成 前方部:2段、後円部:2段
  • 墳長 85m
  • 後円部 径径63m 高7.5m
  • 前方部 幅56m 高4m

遺構

  • 主体部 室・槨 - 横穴式石室(単室)

遺物

  • 形象埴輪24基
    • 機織形埴輪2基
    • 人物埴輪17基
    • 盾持ち人1基
    • 馬形埴輪4基
  • 土器
    • 須恵器脚付長頸壺
    • 須恵器大甕

築造時期

  • 6 世紀後半に築造

被葬者

展示

  • しもつけ風土記の丘資料館

指定

  • 2017年09月15日 - 国指定 重要文化財(考古・歴史資料)

考察

アクセス等 

  • 名称:甲塚古墳(下野市)
  • 所在地 :栃木県下都賀郡岩舟町大字畳岡
  • 交 通 :JR宇都宮線小金井駅から3㎞

参考文献

  1. (財)とちぎ未来づくり財団埋蔵文化財センタ-(2012)『栃木県埋蔵文化財調査報告343:甲塚古墳』(財)とちぎ未来づくり財団埋蔵文化財センタ-
  2. 下野市教育委員会(2017)「よみがえる甲塚古墳」

魏の使者の到達場所2025年08月11日 00:10

魏の使者の到達場所(ぎのししゃのとうたつばしょ)は3世紀の倭国に派遣された魏の使者は倭国のどこまで来たかという古代史の論点である。

概要

魏の使者が邪馬台国に来たか、倭王に面会したかは、位置論とも関わる重要な論点となる。到達説と非到達説を対比して述べる。

到達説

魏志倭人伝に「正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭國 拝暇倭王」と書かれる。すなわち「西暦240年に楽浪太守の弓遵は建中校尉の梯儁らを遣わし、詔書、印綬を奉じて倭国に詣り、倭王に拝仮した」と書かれている。 「拝仮」は別記事で論じているが、謁見あるいは拝謁したと解釈できる。その通りに解釈すれば、投馬国から「水行十日、陸行一月」の旅程をたどって梯儁らは女王の居所まで到達したことを意味する。 到達説の例として、近江昌司他(1992)は「(弓遵の部下の)梯儁は魏の王の詔書と印綬を奉じて倭国にやってきて倭王に面会し、金、木綿、錦、毛織物、刀、鏡を倭王に授けました。・・・倭王は・・感謝の言葉を述べました」(近江昌司(1992)、p.35)と解釈する。

冊封使として

ここで重要なことは、梯儁等は冊封使という位置付けである。冊封儀礼の本質は、皇帝の命令(詔勅)を持参し、冊書と印綬を授け、倭王に直接面会して任命を伝える事である。卑弥呼が「親魏倭王」になるためには、面会は必要不可欠とされる。そうだとすれば梯儁らは倭王の卑弥呼本人に拝謁し、実際に邪馬台国(邪馬壹國)まで到達したと考えられる。その証拠に、『魏志倭人伝』は倭王の警備の様子、周囲の状況、人にめったに会わないなどの行動様式を具体的に記述している。宮殿構造、楼閣、警備、侍婢制度などの記述は卑弥呼の居所への訪問経験もしくは詳細な報告に基づいた描写と見る事ができる。 その他の論点として、梯儁等の冊封使は単に金、木綿等の物品を運ぶだけでなく、文化的・儀礼的な行動を重視していた。『魏志倭人伝』には書かれないが、冊封使は中国官人の服装で威厳を示し、冊封儀式として天子の命を伝える使節として、王の前で行程の詔を読み上げる。倭は歓迎の酒宴を開いて、歌舞等を冊封使に披露する。

非到達説

魏の使者は伊都国までしか行っていないとする邪馬台国非到達説がある。 非到達説は、伊都国以後の記述に具体性が欠けるという「反証的視点」を提供している。さらに伊都国以降は方角・距離・戸数・官名などの記述方法が変化して、「余」の表記がなくなり、表記が日数に切り替わることを挙げる。 水野祐(1987)祐は「正始元年に帯方郡使梯儁が倭国に至り・・・女王の代行者である一大率に対し、封印された物品の遺漏なきを確かめ、女王に間違いなく伝達するよう命じた」(水野祐(1987)、p.540)と書く。明らかに非到達説で、伊都国までしか行っていないことの説明である。

非到達説と到達説の評価

非到達説は根拠と説得力に欠けると見られる。『魏志倭人伝』は旅程記事と政治記事をまとめて構成しており、伊都国以後の記述だけが抽象的だからといって、「邪馬台国に未到達」と断定するのは難がある。邪馬台国の宮殿の様子の具体的な記述について、伝聞だけで説明するのは根拠が弱い。一方、『拝假』表現が曖昧との指摘もある。実際に面会したのか、または形式的な上申のみであるのか、評価は分かれる。 一大率に代行してもらい、冊封儀式を疎かにするのは魏の時代にあったという証拠は見当たらない。魏晋の外交では対匈奴、対鮮卑など皇帝の冊命を現地使節を通じて直接執行する例が多いとされる。つまり実際に使節を派遣し、官位や称号の授与(王号)を相手の王がいない現地で行った記録がある(『魏書』匈奴伝、鮮卑伝)。後代になると、唐の太宗(李世民)がヒルティック・カガン(突厥)との交渉時、河川を挟んで会見して交渉を行い、冊封を想起させる地位を与えた記録がある。明の永楽帝は、チムール(ティムール朝)の後継であるシャー=ルフとの外交関係において、冊封式を巡り柔軟な対応を取っているとされる。しかし明朝・永楽帝や唐の太宗(李世民)における事例は魏の時代からは遠いので、政治体制・外交制度の発展段階が異なるため、直接的な類推により魏の時代に面会せずに任命したかどうかは注意が必要となる。 また『魏志倭人伝』の伊都国以後の旅程全体を否定するためには評価の材料が不足しているといえる。

考察

古代史の専門家は概ね「拝仮」を正しく解釈しているといえるのではないか。倭王が感謝の言葉を発したということ、宮殿の様子の具体的な描写は実際に倭王に面会した証拠とみることができる。

参考文献

  1. 石原道博編訳(1951)『新訂魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝』岩波書店
  2. 西嶋定生(1994)『邪馬台国と倭国』吉川弘文館
  3. 近江昌司、置田雅昭他(1992)『卑弥呼の時代』学生社
  4. 水野祐(1987)『評釈 魏志倭人伝』雄山閣