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入間町城山遺跡2025年11月25日 00:31

入間町城山遺跡(いりまちょうしろやまいせき)は、東京都調布市にある縄文時代、古墳時代、鎌倉時代の複合遺跡である。

概要

調布市の南東部、武蔵野台地の縁辺部で先端の舌状台地の上にある遺跡である。遺跡の海抜は50m前後で、崖下との比高差は15mである。遺跡範囲は東西約400メートル、南北約650メートルである。旧石器時代の石器集中、礫群、縄文時代中期の竪穴住居跡は32軒、弥生時代中期から古墳時代前期の竪穴住居跡は83軒、古墳時代後期から奈良時代の竪穴住居跡は150軒以上、掘立柱建物跡は30棟が出土した。

土器群は縄文時代中期中葉の勝坂2式・3式土器、阿玉台式土器や、勝坂式と阿玉台式との折衷土器が出土した。古墳時代中期の集落はすべて飛鳥時代のもので、7世紀初頭に集落が形成され、7世紀中頃に最盛期があり、奈良時代に入る前に廃絶した。行政単位の編成にともない、集落全体で移動したことがうかがえる。

調査

遺構

  • 竪穴建物2
  • 土坑
  • 落とし穴
  • 集石9
  • 炉穴2
  • ピット24
  • 石器集中
  • 礫群

遺物

旧石器

  • ナイフ形石器
  • 剥片
  • 槍先形尖頭器
  • スクレイパー
  • 抉入石器
  • 細部調整のある剥片
  • 使用痕のある剥片
  • 石核

縄文時代

  • 縄文土器
  • 石器

展示

考察

指定

  • 令和3年3月31日 調布市指定有形文化財

アクセス等 

  • 名称  :入間町城山遺跡
  • 所在地 :東京都調布市入間町2-28-21
  • 交 通 :仙川駅から徒歩26分(1.9km)

参考文献

根津山遺跡2025年11月24日 00:47

根津山遺跡(ねづやまいせき)は、東京都世田谷区にある縄文時代の遺跡である。

概要

根津山遺跡は約1万数千年前の縄文時代草創期の土器が出土した遺跡である。 公園になる前は、大正時代末期から実業家の根津嘉一郎の所有地であったことから「根津山」と呼ばれた雑木林である。1956年に都立公園として開園し、「羽根木」という当時の地名にちなんで「羽根木公園」と名が付いた。1965年に世田谷区に移管された。古代は「羽根木公園」の中心部に野鍛冶(鍛冶職人)の「六郎次」が住んでいたと伝えられるため「六郎次山」とも言われる。 根津山遺跡は羽根木公園の隣接地の崖下の民家にある。南北100m、東西50mの範囲と見られる。約1万数千年前の縄文時代草創期前半の遺物である。世田谷区内で出土した縄文時代草創期の土器は、根津山遺跡から出土した5点のみである。

調査

1952年、直良信夫、江坂輝弥、佐藤敏也らが根津山遺跡で宅地造成の切り崩し造成中に礫群、尖頭器、礫器、削片石器を発見した。1978年2月20日から28日の緊急調査で民家に隣接する延長64mの崖面の擁壁工事に際し、立会調査を行った。幅3mの取付道の断面を削ったところ、北側の面に炉穴(1から5号炉穴)があり、磨石、土器片が採取された。南側断面から土坑が検出された。

1号炉穴

全体の1/2が残存しており、径80cm以上、深さ40cmである。覆土中から縄文時代草創期から使用され始めた有茎尖頭器が出土し、焼土上面から条痕文土器と打製石斧が出土した。

2号炉穴

径60cm、深さ23cmである。覆土中から礫器1点が出土した。

3号炉穴

40cm×30cmの不整円形である。遺物は無かった。4号炉穴、5号炉穴とも遺物は無い。

1号土坑

ナイフ形石器1点が出土した。

隆線文土器

1号炉穴東側Ⅲ層から出土した土器破片5点である。幅4mm前後の丸いヘラ状の工具を押し引きし、高さ1mm、幅2mmの隆線を3条以上つける。器厚は3mmから5mmである。色は赤褐色または淡褐色である。 隆線文土器は関東地方では大宮遺跡(杉並区)前原遺跡(小金井市)、西之台B遺跡(小金井市)、ナスナ原遺跡(町田市)、多摩ニュータウンNo426遺跡(八王子市)、橋立岩陰遺跡(秩父市)、小岩井渡場遺跡(飯能市)、ハケ上B遺跡(富士市)、瀬戸遺跡(千葉)、花見山遺跡(横浜市)、西鹿田遺跡(群馬県)、大谷寺洞窟(栃木県)などがある。どこでも出土するものではないので、貴重である。

条痕文土器

縄文早期の土器破片42点が出土した。色は淡褐色、橙褐色で、少量の繊維を含む。報告者は野島式土器とみた。

遺構

縄文

  • 炉穴
  • 土坑

遺物

旧石器時代

  • ナイフ形石器
  • 槍先形尖頭器
  • 剥片
  • 角錐状石器
  • 礫器

縄文時代

  • 隆線文土器 - 縄文土器
  • 条痕文土器

展示

考察

指定

アクセス等 

  • 名称  :根津山遺跡
  • 所在地 :東京都世田谷区代田4-38
  • 交 通 :小田急線梅ヶ丘駅から徒歩6分

参考文献

  1. 世田谷区遺跡調査会(1980)『根津山遺跡・狐塚古墳ほか』世田谷区遺跡調査報告1
  2. 根津山・六郎次山遺跡調査会(1986)『根津山遺跡群』
  3. 白石浩之(1976)「先土器終末から縄文草創期前半の尖頭器について」『考古学ジャーナル』26

赤山陣屋跡遺跡2025年11月20日 00:44

赤山陣屋跡遺跡(あかやまじんやあといせき)は、埼玉県川口市にある縄文時代の遺跡である。

概要

大宮台地南端にあり,東を綾瀬川、西を芝川にはさまれる谷地形が発達した鳩ヶ谷支台に立地する。縄文時代のトチの実の加⼯場だったと推察される「水場遺構」が出土した。「トチの実加工場跡」が検出された西側低湿地は綾瀬川へつづく浸食谷の奥に位置する。*調査 1980年代前半,東京外かく環状道路の開発に伴う調査により、台地平坦面-斜面-低湿が横断的に調査され、縄文時代草創期から晩期にわたる遺構や遺物が検出された。縄文時代後期末葉〜晩期中葉の安行式期に西側低湿地東側において「トチの実加工場跡」や「板囲い遺構」などの木組遺構が作られた。「トチの実加工場跡」遺構は、長軸9.0m,最大幅2.4m,最小幅1.9mの長方形の木組遺構である。木組遺構に近接して人為的に破砕されたトチノキの種皮が集積した「トチ塚」が2基検出された。遺構内および周辺から大型粗製土器が大量に出土し、さらに堅果類の加工具と考えられる磨石や叩石、台石などが出土した。

水場遺構

水場遺構は赤山陣屋跡遺跡の発掘調査を最初として、東日本を中心に多くの確認事例が報告されている。渡辺誠は用語の統一のため「アク抜きなどを主とする植物質食料の処理・加工の場であり、台所的な場所である」と水さらし場遺構を再定義した。水場遺構の形態を江原英(1996)は寺野東遺跡をもとに、木を組んで造っているものをA類、谷自体への人為的な造作によるものをB類、谷へかかる斜面を形成して谷の流水を利用するC類に分け、さらにA類を4分類した。佐々木由香(2000)は堅果類の加工処理に限定されない多様な低地利用の存在を指摘し、堅果類の加工処理の場と理解されつつあった「水場遺構」を「水場空間」・「水場施設」・「水場遺物」という3レベルに分類し、再定義した。

遺構

縄文

  • 土坑
  • 柱穴
  • 炉3
  • 集石1
  • 建物

遺物

旧石器時代

  • ナイフ形石器
  • スクレイパー
  • ナイフ形石器
  • 国府型ナイフ形石器
  • 槍先形尖頭器
  • 有茎尖頭器
  • 敲石
  • 礫器
  • 剥片
  • 石核
  • 細部調整のある剥片
  • 尖頭器状石器
  • 磨石
  • いも石

縄文時代

  • 縄文土器
    • 条痕文系土器
    • 安行式土器
    • 加曽利E式土器
    • 加曽利B式土器
    • 堀之内式土器
    • 称名寺式土器
    • 勝坂式土器

展示

考察

指定

アクセス等 

  • 名称  :赤山陣屋跡遺跡
  • 所在地 :埼玉県川口市大字赤山字曲輪448
  • 交 通 :

参考文献

  1. 小林政史(2010)「赤山陣屋跡遺跡のナッツ類加工場から出土した縄文晩期深鍋の使い方」
  2. 佐々木由香(2000)「縄文時代の「水場遺構」に関する基礎的研究」『古代』108:pp.93-126
  3. 江原英(1996)「栃木県寺野東遺跡の遺構について『考古学ジャーナル』405、ニューサイエンス社、pp.11-22

緑川東遺跡2025年11月18日 00:15

緑川東遺跡(みどりかわひがしいせき)は東京都国立市にある縄文時代早期後半から後期にかけての集落遺跡である。

概要

緑川東遺跡は国立市の南西部、多摩川の中流部左岸の青柳段丘面にある。JR南武線の矢川駅から西の700mの地点にある。 2012年(平成24年)の調査で縄文時代中期末葉から後期初頭の敷石遺跡が発見された。東西径3.2m、南木径.1m。北側に縁戚が途切れる個所がある。床面に平らな河原石が敷かれ、縁には2、3段の積石がある。しかし炉や焼土がないため、これまでの敷石住居とは特徴が異なり、住居とは断定できない。

調査

これまで4回の調査が行われている。

第1次調査

平成7年から8年にかけて区画整理事業に伴う調査が行われた。旧石器時代末期では配石4基、礫群2基、ブロック5基、縄文時代早期後半の竪穴住居跡1軒、炉穴9基、焼土跡8基、陥穴土坑が出土した。

第2次調査

平成10年の調査で竪穴住居跡1軒、焼土跡、集石が検出された。遺物は縄文土器、石鏃、スタンプ形石器、石錘が出土した。

第3次調査

平成13年の調査で縄文時代中期前半の集石5基と中期末葉の敷石住居跡2軒が確認された。

第4次調査

平成24年6月から7月に行われた調査で、縄文時代中期末から後期初頭の敷石遺構1基、集石9基が検出された。敷石遺構の床面に祭祀儀礼で使用された大型石棒4本がほぼ完形で出土した。炉跡を挟んで2本ずつ4本が整然と横たわるように出土している。敷石遺構の規模は東西径3.2m、南北径3.1mとほぼ円形である。敷石遺構の床面には河原石が敷かれている。炉や焼土がなく、規模も小さいため、住居ではないとみられる。

石棒

「敷石遺構SV1」と名付けられた遺構の石敷きの建物跡の底面から長さ1m以上の大形石棒が4本並んで出土した。長さ100~112.5cm、最大幅10~14cmで、重量は30.8㎏、形や大きさなどが揃っており、規格性がうかがえる。頭部は半球状の笠形であり、1段と2段がある。材質は安山岩系とみられる。表面に研磨した跡がみられる。意識から出土する他の石棒にみられる被熱痕、破砕痕は見られない。大形石棒と言われる1mを超える石棒は、意図的に破壊された状態で出土することが多く、大形品がほぼ完形で、かつ4本がまとまって出土することはきわめて珍しい。全体を敲打によって成形されたのち、研磨によって形が整えられているが、下端部を含め敲打痕が残る。胴部半ばで膨らみを有する点など月夜平遺跡の石棒(No.146)とよく似た特徴を有しており、どちらもほぼ同時期と比定される。 発見当初から大きな話題となったが、その評価は未だに定まらない。特に大形石棒が設置された時期について異なる意見が提出されている。石棒は土偶とならんで、縄文時代の祭祀儀礼に使われた道具である。ほとんどは「まつり」の際に焼かれ、壊された状態で出土する。4本の石棒を使ってどのような祭祀が行われていたか、今後、検証が必要である。 縄文時代の石棒祭祀の具体的なあり方を考える上で、学術的価値が極めて高いものであると評価された。これまでの調査結果から、当時の文化伝播や交流の証拠を示す重要な資料とされる。

遺構

  • 竪穴建物
  • 竪穴住居
  • 敷石遺構
  • 集石
  • 炉穴
  • 土坑
  • ピット
  • 焼土
  • 配石
  • 礫群
  • 溝状遺構
  • ブロック

遺物

石器

細石刃核

  • 打製石斧
  • 石匙
  • 礫器
  • ケツ入磨石
  • 磨石
  • 石皿
  • 石錘
  • 石棒
  • 石鏃
  • 有茎尖頭器
  • スタンプ形石器
  • スクレイパー
  • 耳栓
  • 垂飾
  • 皿石

土器

  • 縄文土器(子母口式+田戸上層式+新道式)
  • 土偶

指定

  • 2017年9月15日 –国指定重要文化財(美術品)
  • 指定名称:石棒 四本、附土器残欠 三点(美術工芸品 考古資料の部)

展示

  • 「くにたち郷土文化館」

アクセス等

  • 名称:緑川東遺跡
  • 所在地:東京都国立市青柳3-2-5
  • 交通:JR南武線矢川駅から徒歩13分。

参考文献

  1. 和田哲(1983)『国立市の遺跡 市文化財報告12』
  2. 文化庁(2013)「発掘された日本列島2013」朝日新聞出版
  3. 東京都教育委員会(2013)「東京都遺跡調査・研究発表会38 発表要旨」

道合遺跡 (北区)2025年11月11日 00:27

道合遺跡 (北区)(みちいあいいせき)は東京都北区にある縄文時代から古代、中世、近代に至る複合遺跡である。

概要

JR 赤羽駅の北西側の崖線の上、武蔵野台地の北東端となる本郷台上の赤羽台」に位置する。側は荒川、南側を石神井川が流れる標高20~25mの場所である。縄文時代後期前葉の遺構・遺物が中心であり、土坑9基、ピット85基が検出された。弥生時代の遺構から住居跡が検出され、住居跡内のピットから弥生時代後期の直口壺の口縁部破片が出土した。

調査

2019年度(令和元年度)からの調査で、縄文時代早期の炉穴群や弥生時代後期、古墳時代後期、古代の竪穴住居跡、中世の地下式横穴、近代の旧日本陸軍被服本廠の倉庫の建物基礎などが検出された。旧石器時代では信州産とみられる黒曜石製のナイフ形石器が出土した。そのほか削器が出土した。縄文時代の竪穴住居跡の規模は、一辺が約4mから5mがほとんどであるが、約7の大型住居(302号住居跡)が検出されている。この住居から直径約1.5cm、厚さ約3mm の石製の臼玉が出土した。297号住居からは諸磯式土器が検出された。

遺構

縄文時代

  • 住居跡18(前期初頭10、中葉5)
  • 地点貝塚1(前期中葉)
  • 炉穴58
  • 土坑80(陥穴、前期初頭・中期墓坑)
  • 集石2(早期前葉)
  • 遺物集中地点1(早期前葉)
  • ピット
  • 土坑9
  • 焼土範囲1
  • ピット85

弥生時代

  • 住居跡1(中期後半)

遺物

縄文時代

  • 土器(早期前葉・後葉・末葉、前期初頭・前葉・中葉・後葉、中期中葉・後葉、後期前葉)
  • 土製品(二次利用土器片)
  • 石器(尖頭器:草創期、石鏃・磨製石斧・打製石斧・石皿・磨石・剥片・石核:早期から前期)
  • 土器
  • 打製石斧
  • 磨製石斧
  • 石鏃
  • 楔型石器
  • 獣骨
  • 魚骨
  • 貝殻

弥生時代

  • 土器(壺・広口壺・甕・台付甕)

展示

考察

指定

アクセス等 

  • 名称  :道合遺跡
  • 所在地 :東京都北区赤羽台1・2丁目
  • 交 通 :

参考文献

  1. 東京都埋蔵文化財センター(2024)「道合遺跡 赤羽上ノ台遺跡」東京都埋蔵文化財センター調査報告 第381集
  2. (財)東京都スポーツ文化事業団 東京都埋蔵文化財センタ(2010)『道合遺跡』東京都埋蔵文化財センター調査報告247

比丘尼橋遺跡2025年11月10日 00:32

比丘尼橋遺跡(びくにばしいせき)は東京都練馬区にある旧石器時代と縄文時代の遺跡である。

概要

白子川右岸の段丘上の標高35mに位置する。立川ロームⅢ層からⅨ層まで5つの遺物群が確認された。礫の総数は26,929点であった。水晶製や安山岩製のナイフ形石器、台形様石器、スクレイパなどが出土した。

調査

1988年(昭和63年)から1992年(平成4年)にかけて外環自動車道の大泉以北部分が調査され、地下調節池部分がB地点として調査された。2014年(平成26年)から2018年(平成30年)にC地点として外環自動車道の大泉ジャンクション部分が調査された。C地点では旧石器時代の遺物総数は石器5,260点・礫26,929点が出土した。旧石器時代の礫総重量は2,491kgに及ぶ。礫の接合個体数は総計3,483個体、接合資料数は総計10,439点、全出土礫数に対する接合率は38.9%であった。1群では長さ6.5cmの彫刻刀削片が右側縁に接合した。2群では平坦な調整加工を施した素材剝片の右上から面的な調整加工を施した有樋型尖頭形石器と東内野タイプを主体とする30点の有樋型尖頭形が出土した。 水晶製石器は、赤外分光分析による原産地推定により甲府の花崗閃緑岩体中の未知のペグマタイト鉱床に由来することが示唆された。

遺構

旧石器時代

  • 石器集中部74
  • 礫集中部95
  • 礫群

縄文時代

  • 土坑15
  • 集石12
  • 炉穴12
  • 焼土跡13
  • 竪穴建物2
  • 炉穴15
  • 集石土坑1
  • 落とし穴1

遺物

旧石器時代

  • 尖頭形石器
  • ナイフ形石器
  • 彫刻刀形石器
  • 錐形石器
  • 斧形石器
  • 台形石器
  • 角錐状石器
  • 槍先形尖頭器
  • スクレイパー
  • 敲石
  • 礫器
  • 細部調整のある剥片
  • 石核
  • 使用痕のある剥片
  • 剥片
  • 抉入石器
  • 石錐
  • 楔形石器
  • 槍先形尖頭器
  • 鋸歯縁石器
  • 鋸歯縁石器
  • 彫器
  • 打製石斧
  • 磨石
  • 敲打器
  • 石皿
  • 石棒
  • ケツ状耳飾

縄文時代

  • 撚糸文系
  • 条痕文系
  • 石皿
  • 打製石斧
  • スタンプ形石器
  • 磨石
  • 石鏃

展示

考察

指定

アクセス等 

  • 名称  :比丘尼橋遺跡
  • 所在地 :東京都練馬区東大泉二丁目
  • 交 通 :大泉学園駅北口から徒歩約25分

参考文献

  1. 公益財団法人東京都スポーツ文化事業団東京都埋蔵文化財センター(2020)『東京都埋蔵文化財センター調査報告356:比丘尼橋遺跡C地点』公益財団法人東京都スポーツ文化事業団東京都埋蔵文化財センター

奥沢台遺跡2025年11月08日 00:17

奥沢台遺跡(おくさわだいいせき)は東京都世田谷区にある縄文時代の遺跡である。

概要

遺跡の存在は明治末年から知られていた。1930年、池上啓介により道路断面の観察記録が『日本研究』第1冊(早大日本学会)に報告されて、大規模な遺跡と認識された。公開された資料は『世田谷区史料第8集 考古編』(1975年)に掲載されている。1955年、明治大学の大塚初重による発掘が行われ、「世田谷区奥沢遺跡」(『日本考古学年報』8)に掲載される。加曽利E2式期の住居跡1軒が確認されている。 奥沢台遺跡は世田谷区奥沢6丁目付近を中心として、南北300m、東西100mの範囲と想定されている。呑川水系に属し、北に張り出す標高30nの舌状台地の先端に位置する。縄文時代中期中葉から後期にかけての大集落と考えられている。

調査

第一次調査

1981年に世田谷区文化財保護委員の古川幸雄がパトロール中に住宅建築の工事現場で、住居跡が露出している現場を見つけた。世田谷区教育委員会が9月30日に立ち会いを行い、住居跡2軒と土器片を採取した。そこで1981年10月5日から10月16日まで調査を行った。10月18日には現地見学会で300人が来訪した。11月9日、TBSテレビの取材があった。第一次調査では縄文時代の住居跡15軒を検出した。遺物は縄文時代の打製石斧、半磨製石斧、石鏃、凹石、石皿、磨石などが出土した。

第二次調査

1982年5月11日から13日にかけて発掘調査が行われた。縄文時代の土坑(1号、2号)が検出され、土坑中から少量の獣骨片を検出した。土器は土坑から阿玉台式、勝坂式、加曽利E式、堀之内式、加曽利B式の土器片が出土した。

第三次調査

1982年10月15日から12月10日まで実施された。縄文時代の住居跡10軒、土坑4基、ピット群100以上、埋設土器2基を検出した

注口土器

土坑墓から縄文時代後期の注口土器が出土した。注口部分は欠けているが、ほぼ完形である。 高さ13.8センチメートル、最大径16.7センチメートルである。

遺構

  • 住居址3
  • ピット37

遺物

  • 土器
  • 石器
  • 土製品

展示

  • 宇奈根考古資料室 (通常非公開)

考察

指定

  • 平成25年3月29日 世田谷区区指定有形文化財(考古資料)

アクセス等 

  • 名称  :奥沢台遺跡
  • 所在地 :東京都世田谷区奥沢6丁目9番/16番/18番
  • 交 通 :九品仏駅から徒歩5分(350m)。

参考文献

  1. 世田谷区遺跡調査会(1983)『世田谷区遺跡調査報告4:慶元寺1号墳・陣屋前遺跡・奥沢台遺跡他』世田谷区教育委員会