西塚古墳 (福井県) ― 2026年07月01日 00:05
西塚古墳(にしづかこふん)は福井県若狭町脇袋に所在する古墳時代中期(4世紀末~5世紀)の前方後円墳で、上中古墳群(脇袋古墳群)を構成する主要古墳の一つである。1935年に国の史跡に指定された。
概要
墳丘は大部分が失われているが、復元全長約74m、後円部径39m、前方部幅47mと推定される。墳丘は前方部・後円部ともに3段築成で、前方部を南に向ける。埋葬施設は長さ約5mの横穴式石室とされる(武藤正典(1972),p.113)。主体部は墳丘と直角の東西方向である。 2026年現在では水田の中に墳丘(2個所、前方部と後円部)の一部が残されている。
1915年、国鉄(当時)小浜線線路建設工事の際に石室が発見され、多数の副葬品が出土した。なおそのときの国鉄工事関係者は発病し、村民の多くが腸チフスにかかったため、たたりをおそれて工事を中止したとされる(武藤正典(1972),p.113)。 その後も1917年の濱田耕作による調査、1969年・1991年の範囲確認調査、さらに2019~2022年の地中レーダー探査などが実施されている。近年の調査では、周濠外堤や石室の可能性を示す反応が確認され、周濠を横断する陸橋状遺構も検出された。
副葬品は豊富であり、鏡・武器・武具・馬具・装身具・農耕具などが出土した。特に注目されるのは、中国系の意匠をもつ神人歌舞画像鏡と変形三獣鏡である。神人歌舞画像鏡には神仙や歌舞する人物が浮彫りで表現され、吉祥を願う漢文銘が刻まれている。同型鏡は大阪府の長持山古墳や東京都の亀塚古墳からも出土している。大加耶産と考えられる器物(金製垂飾付耳飾)を含む副葬品と評価されている。
武器・武具としては鉄剣、戈、鉄鏃、頸甲、短甲、冑などが出土し、馬具として杏葉・轡・雲珠・鏡板なども確認されている。さらにガラス勾玉、碧玉製管玉、金銅製帯金具、金製耳飾などの装身具や、鉄斧、砥石、須恵器、土師器も副葬されていた。出土品は宮内庁に保管されている。
西塚古墳が高く評価される理由は、これらの豪華な副葬品にある。神人歌舞画像鏡や玉類は首長権威を示す威信財であり、大量の鉄製武器・武具や鉄斧は被葬者が強大な軍事力と鉄資源の流通支配力を有していたことを示している。また、鏡や馬具には中国・朝鮮半島との交流をうかがわせる要素がみられる。
こうした副葬品は、若狭地域の首長がヤマト政権と密接な関係を持ち、日本海交易や大陸との連絡に重要な役割を果たしていたことを示す資料と考えられている。被葬者については、『日本書紀』にみえる膳臣斑鳩に比定する説もあり、朝鮮半島との関わりを持った有力豪族の墓であった可能性が指摘されている。
史跡指定の拡張
国の文化審議会は2026年6月19日、脇袋古墳群にある古墳時代中期の国指定史跡「西塚古墳」の指定エリアを拡大(墳丘および周濠のうち条件の整った部分を追加指定)するよう答申を行った。2020年以降の若狭町や花園大学の調査で古墳の全形が復元できる状況となったことから、史跡の範囲を1万2174平方メートルに広げるよう答申した。
指定
- 1935年(昭和10年)12月24日 史跡指定
アクセス
- 名称:西塚古墳
- 所在地:福井県三方上中郡若狭町脇袋
- 交通: 西日本旅客鉄道(JR西日本)小浜線 上中駅 徒歩 20分
参考文献
- 上田三平(1916)「若狭國遠敷郡瓜生村西塚古墳」『考古学雑誌』7巻4号,日本考古学会、p224~229
- 清喜裕二(1998)「福井県西塚古墳出土品調査報告」『書陵部紀要』第49号,pp.71-90
- 清喜裕二(2011)「福井県西塚古墳出土遺物の来歴調査について」書陵部紀要』第63号
- 福井県若狭町(2024)『脇袋古墳群 国史跡西塚古墳』若狭町文化財調査報告 第5集
- 武藤正典(1972)『若狭文化財散歩』学生社
- 朝日新聞「110年前に石室露出の古墳、全形が復元可能に」2026年6月23日、朝刊
飛鳥浄御原令 ― 2026年07月02日 00:05
飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は天武天皇が編纂を命じ、689年に持統天皇が施行した、日本最初の本格的な令法典と考えられている。現存していないため詳細は不明であるが、官制や戸籍制度など、天皇を中心とする中央集権的な国家体制の基礎を定めたと考えられている。
概要
天武天皇は681年(天武10年)に律令の編纂を命じた(『日本書紀』天武10年2月条)。完成は天武天皇の死後となり、飛鳥浄御原令は689年に施行(頒行)された。 日本最初の体系的な令法典とされている。この段階では「律(刑法)」は制定されておらず、令(行政・戸籍・官制などを定めた法)のみの施行であった。のちの本格的な法典である大宝律令(701年)へとつながる過渡期の法令とみられている。飛鳥浄御原令以前には、天智天皇が制定したとされる近江令があるが、その関係については諸説がある。飛鳥浄御原令の編纂は、八色の姓などの政治改革と並行して進められた。
巻数
『弘仁格式』序によれば22巻で構成されていたとされ、丸山裕美子(2004)は「令1部22巻が諸司に頒賜された」とする。律は完成しておらず唐律が準用されていたとするのが通説とされるが、吉田孝(1978)は五罪、八虐、六議の部分は施行されていた可能性を指摘する。
主要規定
戸令
戸籍を整備し、租税・労役の賦課の基礎とした。飛鳥浄御原令の「戸令(こりょう)」は、「庚寅年籍(こういんねんじゃく)」を作成するための法的根拠である。戸令に基づいて、持統4年(690年)に日本で最初の律令に基づく全国的な戸籍(庚寅年籍)が作られた。戸令の規定に則って、人民を「戸」に編成し、人々の性別・年齢・戸主との続柄を記録した。これにより後の班田収授や税(租庸調)の徴収が可能になった。庚寅年籍は、6年ごとに戸籍を作り直す「六年一造」の出発点となる。この制度は後の養老令にも受け継がれ、律令国家の基本制度となった。
行政制度
飛鳥浄御原令では行政組織や官人の任命、昇進・考課(勤務評定)などの規則を定め、中央・地方行政の運営体制を整備した。
国号の制定
近年では飛鳥浄御原令の制定過程で「日本」という国号や「天皇」という称号が制度上正式に採用された可能性が指摘されている。ただし確定した説ではない。
原文
編纂着手
- 『日本書紀』巻第二十九、天武10年(681年)
- (原文)二月庚子朔甲子、天皇々后共居于大極殿、以喚親王諸王及諸臣、
- 詔之曰「朕今更欲定律令改法式、故倶修是事。然頓就是務公事有闕、
- 分人應行。」是日、立草壁皇子尊爲皇太子、因以令攝萬機。
- (大意) 天武10年2月25日、天武天皇は皇后と共に大極殿にでて、親王・諸王・諸臣に「いまから律令を定め、制度を改めたい。全員が編纂に従事すると公務が滞るから、手分けして行ってほしい」と詔した。
参考文献
- 井上光貞、佐伯有清、川副武胤(2020)『日本書紀』中央公論新社
- 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
- 丸山裕美子(2004)「律令」『文字と古代日本1』吉川弘文館
- 吉田孝(1978)「名令律継授の初段階」『日本古代の社会と経済』吉川弘文館
舟戸山古墳 (茨城県) ― 2026年07月03日 00:11
舟戸山古墳(ふなとやまこふん)は茨城県日立市に所在する古墳時代前期末から中期初頭(4世紀後半~5世紀前半頃)に築造された方墳である。
概要
舟戸山古墳は久慈川支流だった茂宮川に近い高台に位置する古墳である。舟戸山古墳は茂宮川や久慈川の河口近くの私有地の丘陵に所在する。舟戸山共同墓地の阿弥陀堂の背後となる。茨城大学人文社会科学部考古学研究室と日立市郷土博物館による調査により、1952年の調査以来、約70年ぶりとなる本格的な調査によって、その歴史的価値が改めて評価された。茨城大学人文社会科学部考古学研究室と日立市郷土博物館は2026年6月22日、舟戸山古墳の規模は1辺60メートル以上の方墳であり、高さは7m。古墳時代前期(4世紀後半)から中期(5世紀前半)に造られたものとしては東日本最大級の方墳となる可能性があると発表した。周溝を含めた規模は約101mである。終末期(7世紀)の方墳では岩屋古墳(千葉県栄町)が東日本で最大規模とされ、1辺78mである。
測量調査
2023年度から2025年度にかけて約2年半に渡り、茨城大学の田中裕教授(考古学)は測量と地中レーダー探査を行った。その結果、古墳は正方形か長方形の2段築成とみられ、墳丘の高さは7m、頂上部は平坦な1辺21~22m四方の規模と確認された。頂上部や周辺から見つかった高坏などの土器からも築造時期を推定した。墳頂部平坦面に2か所の反応があり、竪穴系埋葬施設の可能性があるとされた。墳頂から土師器、墳丘周辺から弥生土器、瑪瑙片、瑪瑙原石が採取された。 従来は円墳とされてきたが、今回、方墳であることが判明した。1952年、周辺の墓地造成に伴う調査により組合式石棺や人骨、鉄剣などが出土しており、直径50メートルの円墳またはホタテ貝型古墳とみられていた。組合式石棺は整地時に発見されている。 田中裕教授は舟戸山古墳の重要性として、古墳の頂上から久慈川河口や港を見下ろせる場所にあり、荷物の積み下ろしを監視し、古墳時代に水上交通を掌握していた可能性のある首長層集団がいたと指摘した。また舟戸山古墳から採集した円形透穴をもつ屈折脚高杯から古墳時代中期以前に位置付けられる可能性が示された。
報告書
2026年には茨城大学人文社会科学部考古学研究室から調査報告書『常陸国久慈郡・那珂郡域の古墳研究 調査報告(墳丘・遺構・遺物)』が刊行され、舟戸山古墳の墳丘構造、出土・採集遺物、墳形、築造年代などについて詳細な検討が行われた。
指定
アクセス
- 名称:舟戸山古墳
- 所在地:茨城県日立市久慈町4丁目279
- 交通: JR常磐線 大甕駅から徒歩37分(2.6km)
参考文献
- 「東日本最大の方墳 日立・舟戸山古墳 古墳時代前中期造営で」茨城新聞、2026年6月23日
- 「茨城の舟戸山古墳、東日本最大級の方墳の可能性」朝日新聞、2026年6月25日
- 田中 裕「日本古代における「里長」層の形成過程とその政治的社会的基盤」2024年度 実施状況報告書、科研費
上窪遺跡 ― 2026年07月04日 00:05
上窪遺跡(かみくぼいせき)は山梨県中央市に所在する、平安時代中頃から鎌倉時代初頭にかけての集落跡・水田跡を中心とする大規模な複合遺跡である。
概要
上窪遺跡は甲府盆地のほぼ中央に位置し、標高252mの微高地上に立地する。中央市中央北、JR身延線小井川駅から東へ約1.2km、山梨大学医学部の南に位置する。 上窪遺跡は山梨県中央市に所在する遺跡であり、平安時代中頃から鎌倉時代初頭にかけての水田跡・集落跡・墓跡が良好な状態で確認されている。木製埋葬品や墨書木簡の出土で知られる。 第1・第2次調査ではトレンチ調査が行われ、古代水田跡の存在が確認された。水田跡は、現地表下約100cmで検出された。その後の発掘調査では、一般庶民の埋葬状況を伝える木製品や、判読可能な古代木簡が出土した。区画整理事業などに伴い、8次にわたる発掘調査が行われ、第5次調査において水田跡や平安時代住居跡4軒などがみつかった。 第5次調査で出土した木製品などを含む「上窪遺跡(5次)墓跡出土品一括」は山梨県指定有形文化財となっている。
発掘調査
主要地方道韮崎南アルプス中央線県道橋梁改築工事に関わる第5次調査で平安時代の墓から、当時の埋葬の様子がわかる木製品が出土した。斎串と呼ばれる儀式で使われる道具、下駄、櫛などが植物質の敷物で遺体とともに包まれた状態で地表下約1.2メートルで検出された墓からみつかった。墓底面から、斎串が42本出土した。斎串は最短41.6cm、最長75.7cmである。平安時代の一般庶民の具体的な埋葬儀礼を知る貴重な資料となった。 平安時代中頃から鎌倉時代初頭の断続的な水田跡や集落跡が確認されている。複数回の洪水被害を受けた痕跡が見られるほか、地震による地割れや噴砂の痕跡が見られる。 集落跡から「今」「時」「副」といった文字が墨書された木簡が出土した。この時代の地方集落における文字の利用や、集落の役割を解明する手がかりとなり、社会背景を解明する上で歴史的価値が高いとみられる。
アクセス
- 名称:上窪遺跡
- 所在地:山梨県中央市成島・下河東
- 交通:
参考文献
- 中央市教育委員会(2010)「上窪遺跡(5次調査)」中央市埋蔵文化財調査報告書 第2集
久留倍遺跡 ― 2026年07月05日 00:21
久留倍遺跡(くるべいせき)は三重県四日市市に所在する縄文時代から中世にわたる複合遺跡である。特に古代の官衙跡(久留倍官衙遺跡)として知られ、伊勢国朝明郡衙跡と考えられている。
概要
四日市市東部の、朝明川と海蔵川に挟まれた垂坂丘陵の北端部に位置する。標高は10mから30mである。大谷地山畑遺跡や下之宮遺跡が隣接する。遺跡の範囲は東西約350m、南北約300mで、丘陵全体に及ぶ。 平成18年(2006年)に実施された発掘調査では、遺構として弥生時代の竪穴住居跡と炉と考えられる被熱遺構、井戸(時期不明)、溝、掘立柱建物跡(古代)を検出した。住居規模は1辺4m程度である。ほかに土坑を確認している。弥生土器は甕、壺、鉢である。壺には櫛描波状文・櫛描直線文・櫛刺突文・櫛刺突列点文などが描かれる。そのほか土製丸玉が出土した。 久留倍官衙遺跡は官衙の政庁や正倉などの施設が時期ごとに配置を変えながら営まれたことが判明している。古代の伊勢国朝明郡の郡役所(郡衙)跡と考えられている。久留倍官衙遺跡は官衙遺跡の配置等が判明しており、政庁、正倉等が明瞭に把握できる点で貴重となる。
久留倍遺跡の評価
飛鳥時代から平安時代の地方役所跡として評価が高い国指定史跡であり。
歴史的価値
飛鳥時代から平安時代にかけての「朝明郡」の役所跡であり、壬申の乱や聖武天皇の東国行幸との関連が指摘されている。
工夫された展示施設
併設される「くるべ古代歴史館」の展示施設は木簡や出土品、復元模型などが展示され、古代の郡衙の仕組みを理解できる。
歴史公園の整備
隣接して「くるべ古代歴史公園」歴史公園として整備され、復元建物や万葉植物などを見学できる。
アクセス
- 名称:久留倍遺跡
- 所在地:三重県四日市市大矢知町字久留倍2267番8外
- 交通:
参考文献
- 四日市市教育委員会(2013)『久留倍遺跡』四日市市埋蔵文化財発掘調査報告書47
- 四日市市教育委員会(2008)『久留倍遺跡3』四日市市埋蔵文化財発掘調査報告書40
- 四日市市教育委員会社会教育・文化財課(2021)『史跡久留倍官衙遺跡保存活用計画』四日市市教育委員会
- 四日市市教育委員会(2007)「久留倍官衙遺跡整備基本計画書」
石刀 ― 2026年07月06日 00:05
石刀(せきとう)は縄文時代後期から弥生時代に作られた片刃の石製の刀剣形の磨製石器である。
概要
両刃のものを石剣、片刃のものを石刀という。石刀は片刃の刀を模した形状を特徴とする。 祭器・石棒は刃部を持たない棒状の祭器である。石刀は武器として実用された痕跡は乏しく、祭りや儀式で使われた「祭器」、呪術具の一種と考えられている。 東日本に多く分布するが、近畿地方や瀬戸内地方など西日本でも出土例が知られている。 縄文時代晩期の土坑墓の中から副葬品(死者と一緒に埋められた品)として出土する例が多い。
亀ヶ岡石器時代遺跡出土の石刀は柄の部分に美しい彫刻(S字状入組文など)が施され、赤く着色(赤彩)された精巧な装飾が施された代表例として知られる。。 萪内遺跡(岩手県花巻市)で出土した石刀は、「萪内型石刀」と呼ばれる緩やかに湾曲した特徴的な形態を示す。
町田堀遺跡(鹿児島県霧島市)からは、刀身が湾曲し、頭部に独特の文様を刻み赤彩された石刀が出土している。さらに南九州では、天附遺跡群などから九州特有の石刀が出土しており、緩やかな湾曲や厚さ約5ミリメートルの薄い刀身、持ち手や先端部に刻まれた幾何学文様などを特徴とする。
出土例
- 石刀 - 岐阜県白川町佐見出土、縄文時代(後~晩期)、東京国立博物館
- 石刀 - 伝富山県中新川郡立山町岩峅寺字上ノ山出土、縄文時代、九州国立博物館
- 石刀 - 平田遺跡、三重県鈴鹿市、縄文時代晩期
参考文献
- 小林行雄(1937)「石包丁」『考古学』8巻7号
- 齋藤 岳, 平山 明寿(2022)「青森県外ヶ浜町中ノ平遺跡出土の石刀について」研究紀要、青森県埋蔵文化財調査センター
- 八幡一郎(1933)「石剣及石刀に就いて」『人類学雑誌』48巻7号
サヌカイト ― 2026年07月07日 00:05
サヌカイト(さぬかいと)は高マグネシア安山岩に分類される火山岩で、古銅輝石を特徴的に含む。中新世中期の瀬戸内海地域における火山活動によって形成された瀬戸内火山岩帯を代表する高マグネシア安山岩の一種である。「讃岐岩」あるいは、叩くと金属音を発することから「カンカン石」とも呼ばれる。
概要
本岩は1890年代前半に来日したドイツ人地質学者エルンスト・ヴァインシェンク(Ernst Weinschenk)によって研究され、当初は Sanukit と表記されたが、その後、英語圏で一般的な岩石名の語尾 "-ite" に合わせて Sanukite が定着した。 サヌカイトは黒色で緻密かつ硬堅、斑晶が少なく、ガラス質で微晶質の均質な岩質を示す。貝殻状断口をもち、打撃によって鋭利な剥片を得やすいため、石器材料として優れている。 この特性から、主に縄文時代から弥生時代にかけて、石鏃・石刃・石包丁形石器などの石器材料として広く利用され、一部では旧石器時代にも利用例が知られる。 主な産地は香川県五色台地域(国分台・金山など)や、大阪府・奈良県境の二上山周辺、考古遺跡からは原産地を離れた地域でも出土し、広域的な流通・交易の存在を示す重要な資料となっている。
サヌカイトの考古学的意義
サヌカイト(讃岐岩)は、主に瀬戸内海沿岸の限られた地域で産出する火山岩であるが、考古学的にはその産地の限定性と、広域的な分布に考古学上の大きな特徴がある。特に縄文時代後期から弥生時代にかけて、石鏃・石刃・石包丁形石器などの主要石器材料として用いられ、原産地を大きく離れた地域の遺跡からも多数出土している。
サヌカイトは、黒色で緻密、均質な岩質をもち、貝殻状断口により鋭利な刃部を得やすい。このため、狩猟具や農耕具の刃材として極めて優れており、機能的価値の高さが遠距離搬送を可能にした重要な要因と考えられる。
主要な原産地は、香川県の五色台、大阪府・奈良県にまたがる二上山周辺、坂出市の金山・城山など、瀬戸内火山岩帯に限られる。しかし、これらの地域から数十から百数十キロメートル以上離れた畿内各地、近畿東部、さらには東海地方の遺跡においても、サヌカイト製石器が確認されている。この分布は、単なる局地的資源利用を超えた広域流通網の存在を示唆する。
流通形態については、未加工の原石や剥片の搬送だけでなく、半製品あるいは完成品としての移動も想定されている。特に弥生時代には、集落間の物資交換や首長層を介した配布の可能性が指摘され、サヌカイト製石器は単なる道具素材にとどまらず、地域間ネットワークを解明する重要な資料となる。
また、産地周辺では大規模な採取・加工の痕跡が確認される一方、消費地では完成品が多い傾向がみられることから、採取地→加工地→消費地の役割分担が成立していた可能性も論じられている。これは、縄文社会後期から弥生社会への移行期における、分業化や社会構造の変化を考える上でも重要な視点である。
このようにサヌカイトは、単なる優良な石器素材ではなく、人々の移動、交易、社会的結びつきを読み解く鍵となる考古資料であり、瀬戸内地域を核とした広域交流の実態を復元する上で、欠かすことのできない存在である。
サヌカイトと頁岩の判別実験
頁岩製石製品とサヌカイト製石製品とは肉眼観察では判別が難しい。和田岩坪遺跡の計測資料剥片5点(サヌカイト)、立野遺跡の計測資料は剥片など14 点(頁岩製9点、サヌカイト製1点、頁岩かサヌカイトの判別ができないもの3点、黒色を呈した頁岩でもサヌカイトでもない石材1点)の比重を調べ比較した。比重が2.55前後ならサヌカイト製、2.65前後なら頁岩製に判別できることが示された。しかし比重2.60 前後では比重だけで石材を判別するのは難しいことが判明した。石材は不純物の多寡や風化などによって比重が変わる場合もあり、現時点では肉眼観察による判別と合わせて総合的に判断することが必要と結論づけた。なおこの実験は、和田岩坪遺跡・立野遺跡だけの研究結果であり一般化に限界があることに注意しておきたい。
サヌカイト原産地遺跡の実態解明
橿原考古学研究所は2026年、奈良県香芝市の鶴峯荘第1地点遺跡の再調査成果として、丘陵斜面の崩落を契機に原石採掘が始まった可能性を報告した(朝日新聞、2026年6月24日)。
参考文献
- 朝日新聞「サヌカイト開発、斜面崩落がきっかけ?」2026年6月24日
- 田之上裕子・仲原知之(2026)「頁岩製とサヌカイト製石製品の比重による判別は可能か」交易財団法人和歌山県文化財センター年報
- 奈良国立博物館(2008)『正倉院展六十回のあゆみ』奈良国立博物館
- 薬科哲男、東村武信(1977)「蛍光X線分析法によるサヌカイト石器の原産地推定(Ⅲ)」考古学と自然科学 第10号
- 山口卓也(2004)「サヌカイト以前」関西大学博物館紀要 10,pp.A91-A99
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