安満遺跡 ― 2023年06月22日 10:08
安満遺跡(あまいせき)は大阪市高槻市にある弥生時代の遺跡である。
概要
大阪平野の北東部、淀川右岸となる三島地域にある。高槻市八丁畷町、高垣町、安満東の町、安満新町にまたがる東西1500m、南北700mの範囲にある。 約2,500年前、稲作技術もって開拓者が安満山を望む葦辺に水田を拓いた。 日本各地の弥生遺跡の中で、集落の3要素である居住域・生産域・墓域の範囲や時期が確認された遺跡である。弥生ムラの成り立ちからクニへの発展過程を知るために貴重である。
調査
昭和3年京都大学農場の開設時に発見された。京都帝国大学(当時)農学部附属農場建設のさい、多量の土器・石器が出土した。 1932年(昭和7年)、小林行雄により、昭和3年出土の安満B類土器と九州の遠賀川式土器の比較研究により、北部九州の弥生文化がいち早く近畿地方に伝わったことが証明された。稲作農耕文化は北部九州から近畿地方に伝搬したとされ、学史上著名な遺跡となった。 1966年1月調査で弥生時代前期の農具等が多数出土した。 1970年、保存良好な木棺墓を検出し遠方から入手したコウヤマキと判明した。1976年、高垣町地内で方形周溝墓群調査、木棺2基を出土した。1976年、木棺2基出土。1984年までに高垣町地内で方形周溝墓群方形周溝墓群は合計100基を超えた。 2013年、2014年遺跡の南西部で弥生時代前期の水田、前期末から後期の土壙墓、方形周溝墓、弥生時代中期から後期の灌漑施設が出土した。水田は洪水による砂礫で覆われていたため、保存状態が良好であった。標高6.5mから3.8mにあり、傾斜地形に合わせ、小区画の2mから3mの水田が畦で区切られていた。畦に幅は20cmから30cmでm高さは約5cmであった。高い田から低い田に水を越流させている。確認できた範囲は9000m2ある。前期末に発生した洪水で埋没し、土砂の高まりが生じ、そこを墓域として利用するようになった。方形周溝墓や土器棺墓が作られた。
遺構
1972年7月調査により弥生時代の井戸、環濠(溝)、土壙墓、方形周溝墓、柱穴がみつかった。
遺物
指定
- 平成5年 国の史跡に指定
- 平成23年 追加指定
安満遺跡公園
京都大学大学院農学研究科附属農場の移転に伴い、その跡地を含めた一帯を高槻市が「安満遺跡公園」として整備した。2021年3月に公園内が全面開園した。展示館では発掘現場を再現した「ギャラリー」、弥生時代の様子を「シアター」で映像化、貴重な出土品を含む発掘成果の展示を行う。
- 開園時間 24時間利用可
- 本館 :午前10時から午後7時 / 休館日:年末年始
- 展示館:午前9時から午後5時 / 休館日:年末年始
アクセス等
- 名称:安満遺跡
- 所在地:〒569-0096 大阪府高槻市八丁畷町12番3号
- 交通:阪急京都線「高槻市駅」から徒歩10分、JR京都線「高槻駅」から徒歩13分
参考文献
- 文化庁(;2016)『発掘された日本列島 2016』共同通信
- 原口正三・田代克己(1969)「安満遺跡」『月刊文化財』3
- 森田克行(1977)『安満遺跡発掘調査報告書』市文報10
檜和琴 ― 2023年06月22日 10:22
檜和琴(ひのきのわごん, Japanese cypress Wakoto)は正倉院に収蔵されている木製の日本固有の六絃の琴である。
概要
和琴は「大和琴」(やまとごと)、「東琴」(あずまごと)「倭琴」(やまとこと)とも言われる。神社で使用される和琴は、弥生時代から檜、杉、高野槙等を使用していたとされる。
由来
神楽や雅楽などで用いられ楽器であったという。古墳時代の埴輪の弾琴像や埴輪に描かれる琴は、四絃または五絃で、六絃のものはない。近畿地方から出土した埴輪の琴も五絃である。和琴がいつから六弦になったかは不明である。
古事記の琴
古事記に「爾握其神之髮、其室毎椽結著而、五百引石取塞其室戸、負其妻須世理毘賣、卽取持其大神之生大刀與生弓矢及其天詔琴而、逃出之時、其天詔琴、拂樹而地動鳴。」 (大意)其の妻の須世理毘賣(スセリビメ)を背負うとすぐに、取持其大神の生大刀(いくたち)と生弓矢(いくゆみや)と其の天の詔琴(のりごと) を取って、逃げ出す時、其の天の詔琴が樹に触れて、地が鳴動鳴した。 (意訳)大穴牟遅は須佐之男の髪を束ねて部屋の太い柱に結びつけ、巨大な岩で部屋の入口を封鎖し、妻の須勢理毘売を背負い、神宝の大刀・弓矢・天の詔琴を手にして逃げ出そうとしたところ、詔琴が樹に触れ、大地が揺れ動ごき轟音が響いた。須佐之男は気づいて起き出した。 神代の三種の神器は、太刀・弓・琴だったようだ。このような忙しい場面で琴を持ち出そうとしている。
構成
槽に檜材を使用し、上面は金銀泥で麒麟、鹿、尾長鳥、草花などを描く。周縁には金泥・銀泥で模様を描いた玳瑁を張り、竜頭・竜尾にも玳瑁を張る。緑地の玳瑁は後補である。竜頭・竜尾の玳瑁は、予め型を作りはめ込んでいる。側面は彩画を施した玳瑁と金箔を裏から押した玳瑁を交互に貼り付ける。彩画のものは直接、朱・緑などで文様を描く(参考文献1)。
類例
時代は下るが、彦根城博物館の和琴は六弦である(参考文献2)。
材料
槽・磯は檜材である。
展示歴
- 1949年 - 東京国立博物館、御物特別展
- 1952年 - 第6回
- 1967年 - 第20回
- 1984年 - 第35回
- 1997年 - 第49回
- 2013年 - 第65回
管理
- 名称 :檜和琴
- 倉番 :南倉 98
- 用途 :楽器・楽具
- 技法 :木竹工
- 寸法 :全長156.0cm,頭部幅17.0cm,尾部幅13.5cm(注:参考文献1では全長156.0cm,厚さ4cm,尾部幅17cmとなっている(p.16)。)
- 材質:槽・磯は檜 裏板は環孔材 栢形・櫛形は紫檀貼 金銀泥絵 金箔 玳瑁 金銀細線 螺鈿 木画(黄楊木・紫檀・黒檀) 象牙
参考文献
- 内田至(1991)「正倉院宝物の海ガメ摂収集調査報告」正倉院紀要13号
- 松本重行作「和琴 銘葵」南北朝時代 永徳元年(1381),井伊家伝来資料
土師器 ― 2023年06月22日 21:51
土師器(はじき)は古墳時代から平安時代まで使われた、弥生土器の系統を引く素焼の土器である。
概要
土師器は、粘土紐巻き上げ法によって成形するのが通常である。祭祀用土器では手づくね法がとられている。焼成温度は800度前後である。色調は全体に赤身を帯びる。 日常生活用具のひとつである。壺、甕、坏、高坏、器台、盤、甑、椀などがある。整形には叩き、刷毛目、磨き、なで、削り、押さえなど、多様な手法が取られるが、手法には地域差がある。 古墳時代前期は弥生時代土器の特徴を受け継いでいる。壺、器台、小型丸型土器などが作られた。中期は壺や高坏形土器などの形態が変化し、甑形土器の表面調整にも変化が生じる。 後期になると須恵器が登場し、伴出する例が増える。奈良時代、平安時代は須恵器、施彩陶器が主流となる。
用語
平安時代の文献『延喜式』や『和名抄』に「波爾」を「はじ」と読む。
出土例
- 壺は群馬県太田市の石田川遺跡
- 皿は宮城県仙台市の郡山遺跡
- 高坏は奈良県天理市柳本町出土 東京国立博物館蔵 8世紀 重要文化財
- 土師器甕 奈良時代・神亀6年(729) 東京国立博物館 奈良市都祁甲岡町 小治田安万侶墓出土
参考文献
- 大塚初重(1982)『古墳辞典』東京堂出版
- 江坂輝彌、芹沢長介()『考古学ハンドブック』ニューサイエンス社
造出 ― 2023年06月22日 22:07
造出(つくりだし)は5世紀代の前方後円墳のくびれ部に作られた方形または半円形の壇状の施設である。「造出し」、「造り出し」とも表記される。
概要
造出は前方部と後円部の接点付近の周上におかれる。左右または片側だけの場合がある。多数の須恵器や土師器が出土したので、祭壇と考えられている。 宝塚1号墳では周囲の斜面には古墳本体と同じように葺石が置かれている。東・西・北側の3面の葺石は、2段に分かれており、下段は古墳の葺石につながり、葺石間の平らな面には埴輪が列状に並べられている。「造り出し」の周囲では、当時置かれた位置を保った状態の埴輪が多数みつかり、埴輪を使った儀式のようすを知る手がかりを得られた。また、「造り出し」は古墳本体と通路のような土橋でつながっている。このような姿のものが発掘調査でみつかったのは宝塚1号墳が初めてであった。宝塚1号墳の「造り出し」で注目される点は、古墳が造られた当時に置かれた位置で埴輪がみつかったことである。
出土例
- 宝塚1号墳 - 5世紀初め頃、三重県松阪市
- 今里車塚古墳 -古墳時代中期初頭、京都府長岡京市
参考文献
- 大塚初重(1982)『古墳辞典』東京堂出版
- 江坂輝彌、芹沢長介()『考古学ハンドブック』ニューサイエンス社
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