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籩豆2024年05月01日 08:42

籩豆(へんとう)は高坏の意味である。

概要

魏志倭人伝に「食飲用籩豆 手食」「すなわち飲食には籩豆を用い、手で食べると記述する。 『漢辞海』によれば、「籩」(へん)は食物を盛るために竹を細かく編んだ容器、祭祀や宴会に用いたとされる。「豆」(とう、ず)はたかつき、食器、祭礼器としても用いた。「籩豆」で木、竹や土器でできた高坏を表す。 高坏の材質は土、木、竹、ガラス、金属などがある。

文献

論語に「籩豆之事、則有司存(包曰子忽大務小、故又戒之以此。籩豆、禮器)」と書かれる。 金泰虎(2007)は「籩豆とは,中国で祭祀・宴会に用いる器で,籩は竹製で果実類,豆は木製で魚介・禽獣の肉を盛る」とする。つまり、籩と豆は素材と盛り付けるものが異なる。

考察

木製の高坏は唐古・鍵遺跡、青谷上寺地遺跡で出土している。

参考例

  • 高坏 - 唐古・鍵遺跡、奈良県磯城郡田原本町、木製蓋付高杯、弥生時代
  • 高坏 - 青谷上寺地遺跡、花弁文様高坏、弥生時代
  • 土器高坏 - 東野遺跡、岐阜県加茂郡坂祝町黒岩・大針、弥生時代後期

参考文献

  1. 佐藤進・濱口富士雄(2011)『漢辞海』三省堂
  2. 金泰虎(2007)「日韓の食事作法」言語と文化 11 pp.99-116
  3. 門田誠一(2018)「魏志倭人伝の籩豆をめぐる史的環境」佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 14,pp. 1-21

龍頭遺跡2024年05月02日 00:04

龍頭遺跡(りゅうずいせき)は大分県杵築市にある縄文時代から弥生時代の遺跡である。

概要

龍頭遺跡は北側は丘陵、南側は八坂川となる標高100mの河岸段丘に位置する。 龍頭遺跡から縄文時代の編袋3点が出土した。ツルやイヌビワなどの植物で編んだもので、食べ物を保存する貯蔵穴に入っていた。貯蔵穴付近から横倒しの形で出土した。運搬具や容器として利用していたものが廃棄された可能性がある。編袋の内部には堅果類は入っていなかった。破損により貯蔵穴内に遺棄されたものと見られる。平行する縦方向の帯状素材に横方向の帯状素材を編み込む「縄目編み」技法または網代編み技法等で作られる。 縄文時代後期の通称ドングリピットの貯蔵穴(土坑)が60以上発見された。大きさは直径1m、深さは80cmである。カシ類(イチイカシ、アラカシ)を主体とした多数のドングリが格納されていた。約13000個、kgのドングリが出土した。

龍頭遺跡

漢字で同名の龍頭遺跡(りゅうとういせき)は福岡県筑紫郡那珂川町大字安徳8にある弥生時代、古墳時代の遺跡である。

考察

遺構

  • 土坑60以上

遺物

  • 縄文土器
  • 編物
  • 製品

指定

  • 大分県の有形文化財指定

展示

  • 大分県立埋蔵文化財センター
  • 豊の国考古館

アクセス

  • 名 称:龍頭遺跡
  • 所在地:大分県杵築市山香町野原
  • 交 通:九州旅客鉄道日豊本線 中山香駅

参考文献

  1. 大分県教育委員会(1999)「龍頭遺跡 大分県文化財調査報告書第 102 輯」大分県教育委員会
  2. 堀川久美子(2011)「日本における遺跡出土カゴ類の基礎的研究」植生史研究,第 20 巻 第 1 号,pp.3-26

池子遺跡群2024年05月03日 11:14

池子遺跡群(いけごいせきぐん)は神奈川県逗子市にあるから弥生時代から近代までの複合遺跡である。

概要

三浦半島の付け根に位置し、逗子湾に注ぐ田越川支流の池子川が開析した谷戸開口部にある。弥生時代の河跡から土器・石器のほか、地下水に浸かっていたために保存された多種多様な木製品・骨角製品が見つかった。木製農具・機織り具・骨角製漁労具などの様々な生活道具、シカ・イノシシなどの動物やカツオ・カジキ・サメ・タイなどの魚の骨、サメや鯨の歯を加工したペンダント、大型蛤刃石斧、扁平片刃石斧、鹿や猪の骨を利用した卜骨、祭祀具(陽物品)が出土した。 弥生時代の生活がよく分かる資料である。

調査

旧池子弾薬庫跡地は1937年(昭和12年)に旧日本帝国海軍の弾薬庫として接収され、戦後はアメリカ軍への提供用となった。1996年(平成8年)4月に池子米海軍家族住宅として使用されるようになったが、住宅建設事業んの前に、1989年(平成元年)から1994年(平成6年)にかけて、神奈川県立埋蔵文化財センターと財団法人かながわ考古学財団が発掘調査を行った。出土遺物は先土器時代から近代までの長期に渡り、1999年(平成11年)3月、整理箱で4,000箱の出土遺物が池子遺跡群資料館および旧弾薬庫内に保管された。弥生時代の河道跡から大量の農具などの木製品が見つかった。

考察

遺構(弥生中期)

  • 河川
  • 水田1
  • しがらみ1

遺物

  • 弥生土器 食事用具
    • 高坏
    • ひしゃく状製品
  • 狩猟具
  • 石器 磨製石斧、磨製石剣、環状石錘
  • 牙製品(腕輪)
  • 木製品
    • 丸棒状製品
    • 櫂状製品
    • 有頭製品
    • 剣形製品
    • 把手状製品
    • 有頭棒状製品
    • 有頭方柱状製品
  • 農耕具
    • 横槌
    • 竪杵
    • 広鍬握り・広鍬
    • 横鍬
    • 組合式鋤柄
  • 機織具
    • 緯打具
    • 布巻具
    • 経巻具
    • 綜絖
    • 紡錘車
    • 卜骨
  • 骨角製品
    • 漁労具 ヤス、銛頭、釣針、回転式離頭銛、釣針、銛
    • シカの角や骨、
    • イノシシの牙
    • 装身具 垂飾 かんざし
    • Y形柄
    • 腕(足)飾
  • 編物
    • かご
    • 網代
    • 簗状製品

指定

  • 2002年(平成14年)2月12日 -神奈川県指定重要文化財指定

展示

  • 池子遺跡群資料館

アクセス

  • 名 称:池子遺跡群
  • 所在地:〒249-0003 神奈川県逗子市池子 Hisagi St, 1丁目
  • 交 通:

参考文献

七支刀2024年05月04日 13:45

七支刀

七支刀 (しちしとう)は奈良県天理市の石上神宮が所蔵する国宝で、身の左右に各3本の枝刃を段違いに造り出した鉄剣である。

概要
史料の少ない4世紀の倭に関する貴重な資料である。剣は全長74.8センチ、剣身の長さ65.6cm、茎は9.3cm。下から約3分の1のところで折損する。4世紀に百済から贈られたとされてきた。剣身の棟の両面に表裏合わせて60余字の銘文が金象嵌で刻まれている。解読は明治以降続けられてきた。

発見の経緯
1874年(明治7年)、菅政友が石上神宮の大宮司として任命され、4年間在任した。菅政友は厳重に封印された木箱を開けると、六又鉾を見出した。鉄さびが全体を覆うが、ところどころ金色が見られ、錆の下に銘文があることき気づいた。

日本書紀
日本書紀巻第九 神功皇后五十二年秋九月丁卯朔丙子条「五十二年秋九月丁卯朔丙子、久氏等從千熊長彦詣之、則獻七枝刀一口・七子鏡一面・及種々重寶、仍啓曰「臣國以西有水、源出自谷那鐵山、其邈七日行之不及、當飲是水、便取是山鐵、以永奉聖朝。」乃謂孫枕流王曰「今我所通、海東貴國、是天所啓。是以、垂天恩割海西而賜我、由是、國基永固。汝當善脩和好、聚歛土物、奉貢不絶、雖死何恨。」自是後、毎年相續朝貢焉。」と書かれる。この「七枝刀」が「七支刀」である。
大意は「神功52年秋9月に百済が派遣した久氏らが千熊長彦に連れられてきて、七支刀一口と七子鏡一面そのほか様々な重宝を献上した」書紀に寄れば百済の肖古王のときである。

原文解読
(表面) 泰■四年(■■)月十六日丙午正陽造百練釦七支刀□辟百兵宜供侯王■■■■作 (裏面) 先世以来未有此刀百済■世■奇生聖音故爲倭王旨造■■■世

年号の解釈

最初の2字は年号であるが、1字目は「泰」で問題ないとして、2字目は不明である。 「泰和四年」の解釈であるが、泰和の年号は存在しない。中国で「泰」がつく年号は泰始、泰常、泰豫である。
しかし中国の漢字音義通用の原則と、「泰」は「太」と字音と意味が同一であることから、泰和は太和と読み替えることができる。福山敏男は、中国東晋の太和四年(369年)あるいは三国魏の太和四年(230年)を候補にあげた。宮崎市定は「丙午」を「5月16日」の干支として、それにあてはまる「泰■四年■月」を「泰始四年五月」として解釈した。 李進煕(1951)は反論を提示し、太和四年に続く「五月十一日丙午」と書かれる製作日付に注目した(十六日は偽作とする)。東晋太和では、干支日が合わないからである。北魏の太和四年(480年)とする合うと主張した。369年は百済の近肖王の代であるが、480年になると百済王は東城王となる。 また日付は吉祥句にすぎないとの意見もある。 まとめると年号の解釈には4通りがある。 (1)268年説(泰始4年(西晋):菅政友、高橋健児、喜田貞吉、大場磐雄)、 (2)369年説(太和4年(東晋):福山敏男、吉田晶、浜田耕策、三品彰英、栗原朋信)、 (3)468年説(泰始四年(南朝宋):宮崎市定)、 (4)480年(北魏:李進煕)がある。
           
No 年号西暦国号
1 泰始4 268 西晋 武帝
2 泰常4 419 北魏 明元帝
3 泰始4 468 南朝宋 明帝
4 泰豫4 472 南朝宋 明帝
5 太和4 369 東晋 司馬奕
6 太和4 480 北魏 孝文帝

その後、東晋太和四年が神功五二年(干支二運下げた年代371年)と近似値を示すことから東晋太和四年が通説となった。

解釈

福山敏男の解釈は以下の通り。 (表面)泰和四年正月十一(或は六か)日の淳陽日中の時に百錬の鉄の七支(枝)刀を作る。以って百兵を辟除し、侯王の供用とするに宜しく、吉祥であり、某(或は某所)これを作る。 (裏面)先世以来未だ見なかったこのような刀を、百済王と太子とは生を御恩に依倚しているが故に、倭王の上旨によって造る。永く後の世に伝わるであろう。

国宝

1953年(昭和28年)国宝指定。

侯王の解釈

「百済王」は「倭王」を侯王と位置付けたとする研究者が多い。しかし、渡辺公子は、銘文の字句を中国金石文の実例と比較し「侯王」は吉祥句に過ぎないとしている。

聖音

村山正雄は拙者拡大写真を用いて裏面の「聖□」は「聖晋」ではなく「聖音」とする。

献上か下賜か

刀は、百済王から倭王に献上されたものなのか、反対に下賜されたものかという解釈であるが、金錫亨や上田正昭は、この銘文を素直に読めば、上位者(百済王)から下位者(倭王)への命令的文書の形式をとっていることを指摘している。

考察
『日本書紀』の百済王の記載が正しいとすれば百済の肖古王が贈ったと解釈できる。肖古王は三国史記の「近肖古王」であり、その在位は346年から374年であるから太和4年(東晋、369年)と整合性がある。百済第5代「肖古王」、第6代「仇首王」と区別するため、第14代「近仇首王」と書かれるが当時は肖古王と読んでいたのであろう。『日本書紀』では肖古王の表記であるが、『古事記』では「照古王」とする。
『晋書』(巻九・簡文帝紀・咸安二年(372年)正月条及び六月条)では「余句」とする。「(372年)六月,遣使拜百濟王餘句爲鎮東將軍,領樂浪太守。戊子,前護軍將軍庾希舉兵反,自海陵入京口,晉陵太守卞眈奔于曲阿。」(百済王が使を遣わし鎮東將軍,領樂浪太守の称号を得た。)
大和4年の369年は東晋の年号であり、百済は東晋の年号を使用していたと考えられる。 百済の独自年号説もあるが、これは証拠がない。
日本書紀では369年は仁徳の代であり、和年号とは整合がとれない。銘文にある「侯王」の語は、これは裏面の「倭王」を指す。高句麗と百済は369年から371年にかけて戦争をしているが、この戦争に当たり倭の協力を得たいと考えたのであろう。すると、七支刀が贈られた年は369年が最有力と考えられる。

参考文献

1.福山敏男(1951)「石上神宮の七支刀」(上田正昭編(1971)『日本文化の起源2』平凡社)
2.渡辺(神保)公子(1975)「七支刀の解釈をめぐって」史学雑誌84 (11), pp.1503-1525
3.渡辺公子(1981)「七支刀銘文の解釈をめぐって」『東アジア世界における日本古代史講座』 学生社
4.上田正昭(1973)石「石上神宮と七支刀」(『論集日本歴史 1』原島礼二編)有精堂
5.金錫亨・朝鮮史研究会編(1969)『古代朝日関係史―大和政権と任那』勁草書房
6.石上神宮「伝世の社宝」
7.石上神宮(1929)『石上神宮宝物誌』 8.宮崎市定(1983)『謎の七支刀』中央公論社
9.李進煕(1980)『広開土王碑と七支刀』学生社
10.村山正雄(1979)「七支刀銘字一考」『朝鮮歴史論集』上巻、竜渓書社
11.佐伯有精(1977)『七支刀と広開土王碑』吉川弘文館

池子遺跡資料館2024年05月05日 12:13

池子遺跡資料館(いけごいせきしりょうかん)は池子遺跡群で出土した品を展示保管する歴史資料館である、

概要

発掘調査で出土した旧石器時代から近代にわたる各時代の資料のほか、地質学的、生物学的に貴重なシロウリガイ類化石を展示する。神奈川県の重要文化財241点を含む2万5千点以上の貴重な資料を保存、展示する。作りかけの未製品が数多く出土したことにより木製品製作の方法、手順が明らかになり、弥生時代の初期農耕文化が明らかになった。60年間の、立入り制限により弥生時代の旧河道をはじめとする多くの遺構や、当初の予想をはるかに越えた数万点の遺物が良い状態で発掘された。発掘調査終了後の1999年(平成11年)に出土遺物や資料が神奈川県から逗子市に移管され、2015年(平成27年)2月1日以降は、池子の森自然公園に付属する施設となった。展示施設は3階の1室である。2階部分は遺物収蔵庫、収蔵室合計3室である。 神奈川県逗子市の持田遺跡の資料(石製装身具、大形管玉、勾玉)も合わせて展示する

展示

  • 骨角牙製品(池子遺跡群)
  • 石製品・その他の遺物(池子遺跡群)
  • 土器(池子遺跡群)
  • 木製品(その他)(池子遺跡群)
  • 木製品(機織具)(池子遺跡群)
  • 木製品(石斧等の柄)(池子遺跡群)
  • 木製品(農耕具)(池子遺跡群)
  • 木製品(容器等)(池子遺跡群)

シロウリガイ類

時期の定まる繁殖期はなく、わずかな水温上昇や海流変化に反応して放卵することが報告されている。長い間「幻の貝」であったが、1984年の潜水調査で相模湾の硫化水素が湧く海底で生きていることが確認された。シロウリガイは、海底から猛毒の硫化水素が湧いている場所でしか生きられない。プランクトンを水と一緒に取り込んで食べることはできない。胃や腸などの消化器官は退化しており、その代わりに鰓が大きく発達している。鰓にバクテリアが生息し、バクテリアの餌が硫化水素となり、そこからエネルギーをもらって生きる。水深1,000~1,450mの海域で生息する。

諸元

  • 名 称:池子遺跡資料館
  • 開 設:1999年(平成11年)9月開館
  • 休館日:月曜日(休日にあたる場合は翌日の平日)、年末年始(12/28~1/3)
  • 開館時間:9時00分~16時00分
  • 観覧料:無料
  • 面積:440.0m2 展示室 87.5m2
  • 所在地: 〒249-0003 神奈川県逗子市池子字花ノ瀬60-1 池子の森自然公園内
  • 交通:京急線 神武寺駅から徒歩15分

石製円板2024年05月06日 00:31

石製円板(せきせいえんばん)は滑石製の薄い円板である、

概要

石製模造品の一種である。円板に孔が中央またが周辺に1つまたは2つあけられているものがあるが、孔のないものもある。双孔が最も多い。有孔円板は有孔土製円板ないしは有孔石製円板の略称である。高橋健児(1919)は「石製円板」の名を用いてそれが定着した。

用途

祭祀遺構(土器集積遺構)から出土することが多く、紐通し穴があることから木の枝などに吊るされて使用されたと見られる。葬送儀礼・豊穣祈願・家内の祈りなど、さまざまな祭祀において道具として使われた。祭祀に使う鏡の模造品と考えられているが、紡錘車や璧(へき)の模造品とみる説もある。

大場磐雄の分類

大場磐雄は石製円板を大中小の3段階に分類した。

  1. 大 - 27.71mm × 28.99mm
  2. 中 - 19.07mm ×20.65mm
  3. 小 - 15.10mm ×15.70mm

出土例

  • 石製有孔円板 - 葉県成田市 高倉所在古墳出土、古墳時代・5~6世紀古墳時代・5~6世紀、東京国立博物館
  • 石製円盤- 佐味田宝塚古墳、 奈良県河合町、古墳時代・4~5世紀 東京国立博物館

参考文献

  1. 白石太一郎(1985)「神まつりと古墳の祭祀」国立歴史民俗博物館研究報告通号 7、p79~114
  2. 大場磐雄(1981)「石製模造品」神道考古学講座. 第3巻、雄山閣出版
  3. 笹尾衛(2010)「古墳時代における祭具の再検討」國學院大學伝統文化リサーチセンター研究紀要 2,pp.91-112
  4. 種石悠(2015)「北海道湧別町川西遺跡出士オホーツク文化の有孔円盤について」北海道立北方民族博物館研究紀要 24 (0),pp. 67-78
  5. 高橋健児(1919)「古墳発見石製模造器具の研究」帝室博物館学報. 第1冊

器台2024年05月06日 09:18

器台(きだい)は土器などを載せる台である。

概要

器台形土器ともいう。壺、甕、皿などの容器を上に載せるための台である。 弥生時代後期のから発達し、古墳時代にも見られる。 壺に比べると出土数はかなり少ない。

形状

上部は広がり、鼓の様な形をなし、中部はくびれて細くなり、底部は裾開きとなり安定する。 土師器では小型のものも見られる。

形の変化

形状は鼓形器台、筒形器台、大型器台、特殊器台などに変化した。特殊器台は埴輪の原型とされる。特殊な大型の形状をした櫛目文、並列三角文が施される特殊器台がある。

出土例

  • 大型器台 - 土壇原北遺跡、愛媛県松山市、弥生時代/2世紀
  • 須恵器 器台 - 具同中山遺跡群、高知県四万十市具同、古墳時代
  • 筒形器台 - 大園遺跡、大阪府高石市、和泉市、泉大津市、五世紀前半
  • 器台 - 南摺ヶ浜遺跡、鹿児島県指宿市十二町、古墳時代
  • 須恵器器台 - 具同中山遺跡群、高知県四万十市具同、古墳時代

関連資料

  • 特殊器台

参考文献

  1. 熊野正也(1980)「特殊な器台形土器について」『史館』(12)、史館同人
  2. 栃木英道(1983)「器台形土器の形態について」『北陸の考古学』