Bing
PVアクセスランキング にほんブログ村

私度僧2024年06月18日 00:18

私度僧(しどそう)は律令国家において、官の許可を得ずに僧となったものをいう。 自度僧ともいう。

概要

官の許可をえて得度したものを官度僧(官僧)という。私度は官度を経由することなく、私的に得度することをいう。 律令制においては官許を得ずに出家する私度を認めず、また僧尼が呪術を介して民衆に接触することを警戒した。養老年間(717-724)頃には僧俗の秩序を乱す行為として、僧尼令などによる弾圧の対象となった。かつ民衆教化を禁じ、山林修行や乞食にも届出を義務化した。行基らの民間伝道は仏教統制に対する批判的な運動であった。律令制下では僧尼は租税免除や刑罰軽減などの特権をもっていた。奈良時代の日本では税の負担を逃れるためなどの理由から、出家を希望する者が続出し、勝手に僧尼となってしまう私度僧が増えた。私度僧が増えると税収が減り、ひいては国家財政の基盤を揺るがすことになる。 平安時代には官度制が弛緩し、私度禁止政策は放棄された。

著名な私度僧

『日本霊異記』の編纂者である景戒(平安前期、生没年不明)は当初、私度僧であったとさる。空海も当初は私度僧であった。15歳で郡司の子弟として、大学の明経科に入学した。その後、大学を退学し、私度僧になり、山林修行に入った。31歳で東大寺の戒壇院で受戒し、官度僧になった。『三業指帰』は私度僧のときに執筆した。

私度僧の社会的意義

松本信道(1973)は私度僧の民衆社会における活動を評価し、律令社会の変質を通じて、私度僧の意義と歴史的役割を論じた。国家仏教においては、国家権力を背景として仏教を興隆させ、反面では仏教統制を行った。仏教興隆の具体例としては、大官大寺や薬師寺などの造寺、寺院・僧尼の保護優遇策、宮廷における仏事法会などがある。仏教統制としては寺名の統一、僧尼の威儀、法服の色の規定、寺院内における居住制限、私度僧の禁止、生活の制限、民衆(衆生)教化の禁止などがある。私度僧が文献で登場したのは、養老元年(717年)4月の勅であった。社会的背景としては、平城遷都に伴う過重な苦役がある。平城京造営のため諸国から役民を徴発し、逃亡者が続出した。天災や飢饉の頻発や出挙制度による税金負担の増大などから農民の再生産は困難を極めた。律令制度の矛盾と私度僧の増加は結びついていた。ほかに宗教的な理由があった。社会不安や律令制度の混乱により民衆社会において、現世利益的な僧尼の屈請(僧を招請すること)が盛行した。官僧を呼ぶには重病に限定されており、事実上は上流階級に限られ、手続きも複雑であった。私度僧を屈請する必要性は、親の追善供養、病者看病のため、放生、先罪悔過などにあった。

僧尼令

  • 2条卜相吉凶条
    • 僧尼が、吉凶を占い、また、まじないや巫術によって病を癒したならば、皆、還俗とする。
  • 5条 非寺院条
    • 僧尼が、寺の院に所在せずに、別に道場を立てて、衆を集めて教化し、併せて、妄りに罪福を説き、また、長宿を殴撃したならば、皆、還俗とする。
  • 7条 飲酒条
    • 僧尼が、酒を飲み、肉を食い、五辛を服したならば、30日苦使する。
  • 22 私度条
    • 私度、及び、他人になりすまして官度を受け、すでに還俗の判決を受けてなお、法服を着用したならば、律に依って科断すること。
  • 23 (教化条)
    • 僧尼は、俗人に経像を授け、門ごとに歴訪して教化したならば、100日苦使する。

考察

私度僧の増大により律令制度の根幹が変質していった。しかし、それは律令制度では、仏教の役割を国家の為に役立つことだけを求めていたことに問題の原因があった。すなわち仏教に対して、本来の宗教的役割を無視して、国家のため、あるいは一握りの上流階級のために仏教を利用したことから起きたことである。当時の為政者は仏教興隆のために官僧だけを優遇し、私度僧の社会的な役割に対する洞察が不十分であった。それゆえ行基、空也、親鸞などが登場する必然性があったのである。

参考文献

  1. 松本信道(1973)「奈良時代の私度僧に関する歴史的考察」駒澤史学 20 62-
  2. 黒木賢一(2018)「私度僧空海」大阪経大論集 68 (6),pp.9-24