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上牧久渡古墳群2025年11月12日 00:06

上牧久渡古墳群(かみまきくどこふんぐん)は奈良県にある古墳群である。

概要

奈良盆地の西部、馬見丘陵の中西部の標高約70メートルに造営された古墳群である。少なくとも9つの古墳がある。前方後円墳は1号墳だけで、残りは円墳と方墳である。3世紀中頃の3号墳から飛鳥時代(7世紀中頃)の2号墳まで約400年という長期に渡り築かれた古墳群である。

調査

第一次調査は平成23年11月7日~平成24年3月21日、第二次調査は平成24年5月28日~8月11日、第三次調査は平成24年12月17日~平成25年3月18日、第四次調査は平成25年8月21日~平成26年3月27日、第五次調査は平成26年5月19日~10月14日に行われた。 第一次調査では3号墳と4号墳の埋葬施設が確認された。一号墳から甕の口縁部・底部片、刀子片、土師器の破片が出土した。*1号墳 1号墳はこれまでの踏査によって前方後円墳の可能性があるとされた。『奈良県遺跡地図』では径20mの円墳と書かれている。平成23年の踏査では「前方後円墳の可能性が高くなった」と報告され、全長は約60mとされた。上牧町教育委員会(2017)では「古墳群中で最高所に位置し、全長約60mの前方後円墳と考えられる」と、前方後円墳と特定した。 周溝の規模は上幅約3.5m、深さ約1.8mで底部の平坦面は幅約50㎝である。1号墳築造前には弥生・庄内期の遺跡が存在した。サヌカイト製の凹基無茎石鏃が出土したが、墳丘下の遺跡の遺物と見られる。

2号墳

2号墳は丘陵南斜面に築造された飛鳥時代中頃の径約16mの円墳である。2号墳の墳丘東側の墳丘土内中ほどで箱式石棺が検出された。2号墳の埋葬施設は南に開口する両袖式の横穴式石室で、すべて輝石安山岩の自然石である。石室は中世に開口され、再利用されたと見られる。

3号墳

墳丘は一辺約15mの方墳であり、埋葬施設は組合せ式木棺が3基確認されている。3号墳の第1トレンチの掘削排土中から画文帯環状乳神獣鏡1面と鉄槍片、土器片が出土した。3号墳の第1埋葬施設より鉄鏃と鉄槍・甕形土器が出土した。4号墳から古墳時代後期の須恵器が出土し、古墳築造時期が判明した。第四次調査では、琥珀製棗玉が出土した。出土遺物から古墳時代前期初頭の築造と考えられている。

4号墳

3号墳の一部を削り、重ねて作られた径約18mの古墳後期の円墳である。

5号墳

径約18mの古墳後期の円墳である。埋葬施設は2基確認されている。

6号墳

尾根上に築かれた径15m前後の円墳である。墳頂部に盗掘の跡がある。

7号墳

丘陵の西南角付近に位置する古墳である。未調査のため、詳細は不明である。

古墳の破壊

2025年11月4日、奈良県上牧町は文化庁の許可を受けずに無許可で古墳の斜面を削って造成し、未確認の古墳を破壊したと発表した。奈良県文化財課の指摘により、破壊したのは未確認の9基目の古墳と判明した。上牧町教育委員会の吉川信一郎社会教育課長は担当者の認識が甘かったと述べた。奈良県上牧町は調査した上で埋め戻す方針とされた。

規模

1号墳

  • 形状  円墳または前方後円墳
  • 規模
    • 長径約33m、短径約28m(前方後円墳とすれば墳長約60m)

2号墳

  • 形状 円墳
  • 規模 径16m、推定高4m以上

3号墳

  • 形状 方墳
  • 規模 1辺15m

4号墳

  • 形状 円墳
  • 規模 長径約20m

5号墳

  • 形状 円墳

6号墳

  • 形状 円墳
  • 規模 径16m

7号墳

  • 形状 円墳墳
  • 規模 径17m

調査

葺石 なし

埴輪 なし

遺構

  • 古墳(方墳)
  • 横穴式石室

遺物

2号墳

  • 琥珀製棗玉1
  • <鉄刀>大刀
  • <鉄鏃>破片2
  • 刀装具(責金具)2
  • 茎片2
  • サヌカイト製削り器
  • サヌカイト製火打石
  • <土師器>坏・蓋
  • <須恵器>高杯・甕・杯。
  • 甕・ 羨道部より
  • 杯蓋・羨道部より
  • 高杯 羨道部より
  • 鉄釘片1・羨道部より
  • 不明鉄器3。羨道部より
  • 中世の瓦器片

3号墳

  • 画文帯環状乳神獣鏡1 中国鏡(最大の木棺から)
  • 鉄剣・
  • 鉄槍・
  • 鉄鏃
  • 甕 土師器

4号墳

  • 玉類
  • 須恵器

6号墳

  • 土師器
  • 平瓦

築造時期

1号墳

  • 古墳時代前期か

2号墳

  • 7世紀中頃、飛鳥時代

3号墳

  • 3世紀中頃

4号墳

  • 6世紀後半

5号墳

  • 6世紀末から7世紀初頭

6号墳

  • 7世紀中頃、飛鳥時代

展示

考察

指定

アクセス等 

  • 名称  :上牧久渡古墳群
  • 所在地 :奈良県北葛城郡上牧町上牧
  • 交 通 :

参考文献

  1. 国史跡の整備で未発見の古墳を破壊、朝日新聞、2025年11月5日
  2. 国史跡内の土地を無許可で造成、古墳損壊し石室の一部出土、読売新聞、2025/11/05
  3. 上牧町教育委員会(2015)『上牧久渡古墳群発掘調査報告書』上牧町文化財調査報告第2集
  4. 上牧町教育委員会(2017)『上牧久渡古墳群発掘調査報告書Ⅱ』上牧町文化財調査報告第4集

九条塚古墳2025年11月06日 00:09

九条塚古墳(くじょうづかこふん)は千葉県富津市にある古墳時代の前方後円墳である。

概要

内裏塚古墳群の古墳の一つで、内裏塚古墳の南600mにある。墳丘周囲の地割は盾型周溝の形跡をとどめる。盾形の2重周溝を含めた全長は150mに達する。墳丘には円筒埴輪が確認されている。墳丘裾部で円筒埴輪列が検出されている。 墳丘の形状と内部施設は古式と認められるが、須恵器と埴輪では新しい要素も認められる。 現段階では6世紀中葉と考えられている。

規模

  • 総長164m、
  • 墳長105m、
  • 後円部 径59m・高7m、
  • 前方部 幅69m・長51m・高7.9m、
  • くびれ部 幅46m、
  • 後前高差 +0.9m

調査

1911年(明治45年)、柴田常恵と小熊吉蔵による発掘調査により後円部中央で古墳主軸と直交する石室を検出した。しかし正式の報告書はなく、「上総国飯野国発掘の金銅丸玉」(『考古学雑誌』第 1巻第11号)、『君津郡郡誌』(1927)の記事、國學院大学所蔵の『柴田常恵野帳』等によって概略を知るだけである。 1983年度、県教委が墳丘測量を行う。君津郡市文化財センターが、1989年に1月周濠を確認調査する。1991年5月から6月にかけて西側周溝の一部調査を行う。1992年東側周濠の確認調査。1996年10月、君津郡市文化財センターが後円部北西側周溝部を確認調査を行う。

葺石

埴輪 

  • 円筒埴輪V式、円筒埴輪以外は未確認

遺構

  • 前方後円墳
  • 横穴式石室 
  • 古墳周溝

遺物

  • 円筒埴輪
  • 直刀
  • 金銅製空丸玉
    • 銅心銀張耳環
  • 銀製空玉
  • 水晶製切子玉
  • ガラス製小玉
  • 銀製空丸玉
  • 銀製紡錘形空玉
  • 金銅製空丸玉
  • 土師器
  • 人骨
  • 須恵器(杯+高杯+ハソウ+脚付直口壺+提瓶+平瓶)
  • 金銅装大刀
  • 直刀
  • 両関細身式三角形鉄鏃
  • 無関片刃箭細身式鉄鏃
  • 斧箭式長柳葉形鉄鏃
  • 鉄地金銅張胡禄金具 - 金銅製馬具
  • 十字文楕円形鏡板付轡
  • 雲珠
  • 貝芯辻金具
  • 金銅板破片

築造時期

  • 6世紀中葉 と推定

展示

  • 金銅製空丸玉は東京博物館蔵、
  • 富津市飯野小学校所蔵

考察

指定

  • 1973年7月6日 富津市指定史跡
  • 2025年(令和7年) - 国指定史跡(内裏塚古墳群)

アクセス等 

  • 名称  :九条塚古墳
  • 所在地 :千葉県富津市下飯野字達磨716
  • 交 通 :JR内房線「青堀駅」より徒歩

参考文献

  1. 千葉県文化財センター(1994)「研究紀要15」
  2. 小沢洋(1991)「九条塚古墳の再検討」r研究紀要W』君津郡市文化財センター
  3. 小沢洋(1992)「上総南西部における古墳終末期の様相」国立歴史民俗博物館研究報告 第44集

染地遺跡2025年11月04日 00:15

染地遺跡(そめじいせき)は東京都調布市にある縄文時代から古墳時代、近世に至る複合遺跡である。

概要

多摩川中流部左岸の沖積低地に広がる遺跡である。昭和41年以降に複数の地点で調査され、大規模な遺跡と判明している。調布市染地2丁目から3丁目にかけて約360,000㎡の広大な面積の遺跡である。

調査

第128地点

令和元年8月から令和3年2月まで発掘調査を行った。第128地点は広大な染地遺跡の東端に当たる。弥生時代後期から古墳時代後期の竪穴住居跡が74軒検出された。隅丸方形は弥生時代、四角の住居は古墳時代の住居跡である。弥生土器・土師器・須恵器などの土器のほか、石製模造品の勾玉・管玉・臼玉や、ガラス製小玉が検出された。希少な小銅鐸が出土した。調査区北東端で検出された土坑2基は、土壙墓の覆土中から副葬品とみられる臼玉が数十点出土した。

小銅鐸

谷状の窪地で出土した青銅製の小銅鐸である。小銅鐸は全国で60例、都内では3例目である。赤銅色を保つ状態で出土した。大きさは総高3.8センチで小型である。鰭はない。裏面の大半はなくなっている。染地遺跡は低湿地にあり、泥土に厚く覆われていたため残った。

遺構

遺物

展示

  • 調布市郷土博物館

考察

指定

  • 令和6年3月29日 調布市指定有形文化財

アクセス等 

  • 名称  :染地遺跡
  • 所在地 :東京都調布市染地3丁目1-815
  • 交 通 :

参考文献

正福寺遺跡 (葛飾区)2025年11月02日 00:11

正福寺遺跡 (葛飾区)(しょうふくじ いせき)は東京都葛飾区にある古代から近世の複合遺跡である。

概要

正福寺は、東京都葛飾区にある真言宗豊山派の寺院であるが、その正福寺の近くにある遺跡である。これまで4回の発掘調査が行われた。6世紀から7世紀にかけて土地開発が行われた。土器は坏、甕が主体である。8世紀には掘立柱建物が建てられる。土器は土師器のほか須恵器も出土する。須恵器は湖西産、茨城県新治窯跡群産がみられる。9世紀には掘立柱建物がなくなり、土器生産の場となったと推測される。

調査

最初は1987年(昭和62年)の東京都下水道工事に伴う調査で発見された。遺構は古代の土坑、溝、遺物は土師器、須恵器、馬の歯が見つかった。第2回調査は1988年(昭和63年)で中世と近世の遺物が検出された。第3回は平成10年の発掘調査で、遺構は古代の溝、土坑、小穴が検出された。遺物は土師器、須恵器、墨書土器、馬の歯、曲物底板が検出された。

第4回調査

平成14年10月8日から11月22日まで行われた。遺構は古墳時代後期から奈良平安時代井戸、土坑、土器焼成遺構、掘立柱建物跡、ピットである。1号土坑は長軸1.2m、短軸0.92mである。土師器、須恵器が出土した。2号土坑から4号土坑までほぼ同じである。掘立柱建物跡は8世紀のもので、桁行3間、梁行2間である。柱材は検出されなかった。 木製品は農具の竪杵が5号土坑から完全に近い形で出土した。長さ92cm、握り部径3.5cmである。

遺構

  • 土坑
  • 井戸2
  • 土坑5
  • 土器焼成2
  • 掘立柱建物1
  • ピット

遺物

  • 土師器
  • 須恵器
  • 土器3499
  • 陶器61
  • 磁器9
  • 土製品144
  • 木製品25
  • 土錘

展示

考察

指定

アクセス等 

  • 名称  :正福寺遺跡
  • 所在地 :東京都葛飾区東新小岩4-7
  • 交 通 :新小岩駅から北東1.1km

参考文献

  1. 葛飾区遺跡調査会(2005)『正福寺遺跡 Ⅲ』葛飾区遺跡調査会調査報告第55集

野中アリ山古墳2025年11月01日 00:51

野中アリ山古墳(のなかありやまこふん)は大阪市藤井寺市にあった方墳である。 「アリ山古墳」とも言われる。

概要

誉田御廟山古墳の外堤西狽1に存在した方墳である。古市古墳群のなかで、出土資料が質・量ともにもっとも充実した古墳である。 誉田御廟山古墳の周濠外濠から40mの距離にあり、陪塚とも見られる。墳丘の形状は二段築成の方墳であり、辺長45メートル、高さ4.5メートルの規模である。墳丘は全壊している。主墳に対してそれほどの時期差を持たない。円筒埴輪はIV式である。特定物品の埋納を主眼とした陪塚と見られる。アリ山古墳では墳頂部で3基の施設が検出され、そのうちの1基の埋納施設からは2700点以上もの鉄製品が出土した。アリ山古墳では刀剣は85 以上が出土した。刀77、・剣 8である。調査以前に(盗掘により)抜き取られたとされる刀剣の量は、調査時の出土量に匹敵、あるいはこれを越えるものであった可能性が示されている。鉄鏃の数量は野中古墳で約740である。刀は野中アリ山古墳で103.3㎝である。

調査

1961年に実施された発掘調査では、墳頂に3基の施設の存在を確認している。甲冑形埴輪、 草摺形埴輪、蓋形埴輪等の破片の出土が報告された。東西方向に一直線に樹立された円筒埴輪列が発見されている。主体部は箱形木棺直葬で、鉄器埋納施設がある。 う装飾品 2008年10月30日~11月19日に発掘調査を行った。トレンチ中央部で溝を検出した。包含層から円筒埴輪、形象埴輪、蓋形埴輪、盾形埴輪、土師器、須恵器、瓦器、瓦が出土した。

規模

  • 形状 方墳
  • 築成
  • 規模

葺石

埴輪 

遺構

  • 方墳
  • 葺石
  • 埴輪列

遺物

  • 円筒埴輪
  • 形象埴輪
    • 甲冑形埴輪
    • 草摺形埴輪
    • 蓋形埴輪
    • 盾形埴輪、
  • 土師器
  • 須恵器
  • 瓦器

築造時期

  • 5世紀前半

展示

考察

指定

アクセス等 

  • 名称  :野中アリ山古墳
  • 所在地 :大阪府藤井寺市野中2丁目121
  • 交 通 :近畿日本鉄道 古市駅から徒歩16分

参考文献

  1. 藤井寺市教育委員会(2009)「藤井寺市教育委員会第1号」

塚ノ本古墳2025年10月31日 00:05

塚ノ本古墳(つかのもとこふん)は大阪市平野区にあった古墳時代の古墳である。 「長原1号墳」ともいう。

概要

長原古墳群の一つである。長原古墳群は平野区の長原遺跡に含まれる埋没古墳群である。 河内台地から北に張り出す瓜破台地の東縁部で瘤状に東に突き出した地形に位置する。 古長原川の埋没谷を望む1mほどの崖状地形の上に築造されていた。塚ノ本古墳は東側の一群で長原古墳群の最初の盟主となった在地首長級の有力者の墓と考えられている。発掘時に盛土は最大0.6mしか遺存していないため、詳細は不明である。墳丘に葺石は認められなかった。1段目テラスとされる部分の内側から、円筒埴輪列が部分的であるが、原位置を保ったまま出土した。周溝を含めると(円墳としても)直径は86mとなる。東側に未調査区域が残っているため、造出部か前方部が埋没している可能性がある。 古墳周溝の外で円筒棺や土壙墓が確認されている。

調査

1973年(昭和48年)、大阪市営地下鉄谷町線延長計画に伴う長原遺跡の発掘調査により円筒埴輪が出土した。小規模古墳の痕跡がみつかった。さらに直径50m、残存部が2段となる墳丘が検出され、地名から塚ノ本古墳と名付けられた。

NG93-8次調査

北区は塚ノ本古墳の周濠内、南区は墳丘上となる。切削深度との関係で、墳丘、上端、下端、を検出できなかった。1978年調査(NG1)では、東西の外堤上に埴輪円筒棺を発見した。墳丘の東西に原位置の円筒埴輪を検出した。墳丘に西裾、西周濠を検出した。調査者は東南面の前方後円墳を想定した。古墳の東側は古長原川が流れる谷底地形である。

墳形

直径55mの円墳と考えられているが、一方では前方後円墳説もある。近藤義郎(2020)は「幅20mの壕を巡らすこと、付近に墳長25mの前方後円墳を従える点から墳長100mの前方後円墳と見るべきであろう」とする。その後の、1992年の大阪市文化財協会による調査(NG84-70)(③)、1997年の大阪市文化財協会による調査(NG85-6)(④)、1990年の大阪市文化財協会による調査(NG88-18)(⑦)では東、北、北東に周濠が検出された。1993年の大阪市文化財協会による調査(NG86-58)東側の南北道路(C)、1993年の大阪市文化財協会による調査(NG86-58)東側の南北道路(D)南側の東西道路のいずれでも、周濠または前方部は発見されなかった。前方部が東または南南東方向に着いているとすれば、(C)、(D)のいずれかで周濠または前方部がみつかるはずであるから、一応、前方後円墳説は否定された。しかし、近接地は未調査のため、短小な前方部をもつホタテ貝形前方後円墳である可能性は消えていない。

規模

  • 形状 円墳 または 前方後円墳
  • 墳長 (円墳)50m 、(前方後円墳)100m

葺石 

埴輪 円筒埴輪

遺構

遺物

築造時期

  • 4世紀末築造と推定

展示

考察

指定

アクセス等 

  • 名称  :塚ノ本古墳
  • 所在地 :大阪府大阪市平野区長吉長原
  • 交 通 :

参考文献

  1. 長原遺跡調査会(1978)『長原遺跡発掘調査報告』1982改訂
  2. 大阪市文化協会(1999)『大阪市平野区長原・瓜破遺跡発掘調査報告』
  3. 近藤義郎(2020)『前方後円墳の時代』岩波書店
  4. 大阪歴史博物館編(2019)『はにわ大行進 : 長原古墳群と長原遺跡』大阪歴史博物館

岡田山1号墳2025年10月30日 00:15

岡田山1号墳(おかだやまいちごうふん)は島根県松江市にある古墳時代の前方後方墳である。

概要

松江市の南、意宇平野西縁の低丘陵裾部に位置する。主軸を南北にとる墳長21.5mの小規模な前方後方墳であるが、前方部の前面に前方部の前面にはいびつな形の造出しがある。標高25m、水田からの比高12mである。後円部高さは前方部高さより50cm高い。墳丘斜面に貼石の葺石が置かれる。墳丘斜面から墳裾にかけて多数の円筒埴輪片と須恵器子持壺片が出土する。内部主体は後方部中央から西側に開口する全長5.6mの横穴式石室である。主軸に沿って凝灰岩製の組合式石棺が置かれる。 石室内から「長宜子孫」の銘文が刻まれた内行花文鏡(後漢に比定される内行花文鏡である)、大刀、鉄鏃、刀子、耳環、金銅丸玉、須恵器や大形の馬具および馬鈴等の馬装具などが出土した。副葬品全体の組み合わせは山陰地方での後期古墳の代表的な特徴を備える。

円頭大刀

出土した円頭大刀のうち一口の刀身に「額田部臣(ぬかたべおみ)□□□素□□大利□」の銀象嵌銘文がある。把円頭に精緻な双鳳亀甲繋文の象嵌が施される。古代の部民制や氏姓制度6世紀に成立していたことを解明する資料である。出土品は重要文化財となる。大刀銘文に記されている「額田部臣」は職名+臣である。

調査

岡田山古墳群が発見されたのは1915年であった。当時の土地所有者が1号墳の後方部を発掘し、石室の天井石を動かし、副葬品を取り上げた。本格的な発掘調査は1970年に八雲立つ風土記の丘の整備の一環として行われた。

規模

  • 形状 前方後方墳
  • 築成 前方部:2段、後方部:2段
  • 墳長 21.5m
  • 後円部 径1辺11.5m 高3m
  • 前方部 幅11.5m 長10m 高2.5m

葺石 あり

埴輪 

  • 円筒埴輪 円筒Ⅴ式

葺石 あり (下段のみ

遺構

  • 室・槨 横穴式石室
  • 棺 組合式家形石棺

遺物

  • 長冝子孫内行花文鏡 中国鏡
  • 銀環2
  • 金銅丸玉18
  • 鉄刀4(
    • 三葉環頭大刀1・
    • 円頭大刀1・
    • 圭頭大刀1、
    • 円頭大刀 「額田部臣」銘
  • 鉄鏃多数
  • 刀子3
  • 鏡板1対
  • 鞍金具1具分
  • 雲珠6
  • 辻金具4
  • 鉄環2
  • 鈴6(虎頭鈴)
  • 蓋付壺
  • はそう
  • 高杯
  • 提瓶
  • 横瓶(山本編年Ⅲ期)

築造時期

  • 6世紀後半

展示

  • 八雲立つ風土記の丘展示学習館

考察

指定

  • 1985年6月6日 国指定 重要文化財(美術品)

アクセス等 

  • 名称  :岡田山1号墳
  • 所在地 :島根県松江市大草町岡田
  • 交 通 :

参考文献

  1. 島根県教育委員会(1987)『出雲岡田山古墳』