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百花台遺跡2024年07月09日 09:10

百花台遺跡(ひやつかだいいせき)は長崎県雲仙市にある旧石器時代の遺跡である。

概要

島原半島北東部の標高200m~300mの緩やかな山麓地で、土黒川と栗谷川に挟まれた扇状地にある旧石器時代の遺跡である。南北約2km、東西約1kmの範囲に拡がる全体が百花台遺跡群とされる。特徴的な台形石器は「百花台型台形石器」として旧石器時代を判別する指標石器となっている。

調査

昭和30年頃に開墾により発見され、1963年8月7日~19日までの第1次調査と1965年3月22日~28日までの第2次調査の2回が行われた。考古学者の和島誠一(資源科学研究所:当時)・麻生優(國學院大學:当時)によって行われ、深さ2mの範囲に8層の土層が確認され、8層に及ぶ土層から4期の分化層が検出され、旧石器時代から縄文時代の遺物が大量に発見されて世に知られた。第6層からナイフ形石器、第4層から台形石器、第3層から細石器、第2層から縄文時代の土器石器が確認された。ナイフ形石器→台形石器→細石器の層位の変遷が初めて確認された。それまで不明確であった台形石器の時期が細石器文化に先行することが把握できた。第4層で確認された台形石器は「百花台型台形石器」と命名され、地域や時代を識別する指標となった。 昭和50年代から60年代にかけて長崎県教育委員会の発掘調査では約1万m2に及ぶ範囲から数万点の旧石器時代の石器が出土した。調査後、資料保管者である麻生優の千葉大学への就任等に伴い、資料は千葉大学へ移管されたが、平成24年に雲仙市へ譲与された、蛍XX線分析による石材産地の推定が行われている。

遺構

  • 石製遺物集中
  • 礫群2

遺物

  • ナイフ形石器 – 旧石器時代、九州のナイフ形石器の中では7cn前後と大型である。
  • 百花台型台形石器 - 旧石器時代、数個を組み合わせて使用した。
  • 細石刃 - 縄文時代
  • 細石刃核 – 縄文時代
  • 角錐状石器
  • 掻器
  • 削器
  • 細石器
  • ナイフ形石器
  • 台形石器
  • 剥片尖頭器
  • 角錐状石器
  • スクレイパー
  • 彫器
  • 敲石
  • 細石刃
  • 細石核
  • 打面再生剥片

指定

アクセス等

  • 名称:百花台遺跡
  • 所在地:〒859-1325 長崎県雲仙市国見町多比良/長崎県雲仙市国見町多比良百花台堀囲
  • 交通:島原鉄道多比良駅 から4.7km。

参考文献

  1. 文化庁(2017)『発掘された日本列島 2017』共同通信社
  2. 和島誠一、麻生優(1963)「島原半島・百花台遺跡の調査」日本考古学協会大会研究発表要旨 昭和38年度,pp.4-5

迎日冷水碑2024年07月09日 10:12

迎日冷水碑/出典:韓国金石文総合画像情報システム

迎日冷水碑(ヨンイルネスピ、영일냉수비l)は503年に建立された新羅で最古の古碑である。

概要

1989年に大韓民国慶尚北道迎日郡(現在は浦項市と合併)神光面冷水里で発見された石碑である。「道路工事現場で昔の碑石が出てきたという申告を受け、国立慶州文化財研究所に移し分析した結果、新羅古碑石であることを確認した」とされる。高さ67cm、幅72cm、厚さ25~30cmの台形状である。大韓民国の国宝第264号(迎日冷水里新羅碑)に指定されている。 花崗岩を一部加工して前面・裏面・上面に文字を刻んだ特殊な形の古碑であり、前面12列152文字、裏面7列59文字、上面5列20文字などともに231文字が陰刻でほぼ鮮明に残っている。新羅王が葛文王をはじめとする中央の貴族の合議により、冷水という土地の近くにあある財産に関する紛争を王が丸く収めたという内容である。慶尙北道浦項市北区神光面土城里にある神光面のミョンサムソ(村役場)の庭にある。

年代

碑文記載の癸未年は503年または563年であるが、碑石の官職名が561年に建てられた昌寧真興王拓境碑に出てくる官職名よりさらに古いので、503年(智證王4年)が妥当とされる。智証王の在位は500年から514年である。

新羅王

新羅王は「智証麻立干」であるが、『三国遺事』では智哲老王・智訂麻立干と記載される。新羅の第22代の王(在位:500年 - 514年)であり、姓は金、諱は智大路、または智度路、智哲老。碑文では、「至都盧葛文王」と記載される。智証王は500年に王として即位したが3年後の503年に葛文王を称している点が注目される。斯羅は当時の新羅の国名であるが、503年に「新羅」を正式な国号としたので切り替わりの時期である。至都蘆は智証の異表記である。

原文

(表面)

  • 斯羅喙斯夫智王乃智王此二王教用珍而
  • 麻村節居利爲證尓令其得財教耳
  • 癸未年九月廿五日沙喙至都盧葛文
  • 王□徳智阿干支子宿智居伐干支
  • 喙尓夫智壹干支只心智居伐干支
  • 本波頭腹智干支斯彼暮斯智干
  • 支此七王等共論教用前世二王教
  • 爲證尓取財物盡令節居利
  • 得之教耳別教節居利若先
  • 死後令其第兒斯奴得此財
  • 教耳別教末鄒斯申支
  • 此二人後莫更道此財

(裏面)

  • 若更道者教其重罪耳
  • 典事人沙喙壹夫
  • 智奈麻到盧弗須仇
  • □喙耽須道使心公
  • 喙沙夫那斯利沙喙
  • 蘇那支此七人□所白了
  • 事殺牛抜誥故記

上面

  • 村主臾支干
  • 支須支壹
  • 今智此二人世中
  • 了事
  • 故記

大意

斯羅の斯夫智王と乃智王が麻村節居利という人物の財産所有を認めた。 503年9月25日、至都盧葛文王(智証麻立干)以下中央の六部出身の高位官僚の7人(徳智阿干支、本波頭腹智干支、宿智居伐干支、喙尓夫智壹干支、只心智居伐干支、支斯彼暮斯智干支)が以前になされた二王の決定事項を再確認しながら麻村節居利が死んだ後、弟兒斯奴が財産を相続することと、末鄒・斯申支はこの財産には関与しないことを決定した。中央から派遣された官僚7人が上級官僚7人の決定事項を執行しながら牛を殺して天に報告する儀式を行い、宣告した事実を記録した。

問題点

国王だけでなく会議に出席する全メンバー7人全員を王と呼んでいることが挙げられる。当時の新羅は豪族の連合政権であった。集団のメンバーは「七王」と呼ばれており、全員が王であった。王が1名に集約される過程で何が起きたのであろうか。6世紀初めでも豪族の連合政権であったということは、倭国でも同じような状況であったことも考えられる。

参考文献

  1. 李成市(2000)『東アジア文化圏の形成』、山川出版社
  2. 武田幸男編(2000)『朝鮮史』、山川出版社
  3. 鈴木秀夫(1989)「動向と展望-最近発見の韓国の古代四碑について」『国史学』139
  4. 木村誠(1992)「朝鮮における古代国家の形成」『新版古代の日本 アジアから見た古代日本』角川書店
  5. 迎日冷水碑釈文一覧、立教大学

最後の天皇陵古墳2024年07月09日 10:15

最後の天皇陵古墳(さいごのてんのうりょうこふん)は2024年7月6日に開催された「第45回かんだい明日香まほろば講座」のテーマである。

概要(講演概要と要旨)

  • タイトル:「最後の天皇陵古墳-火葬と改葬-」
  • 主催者:明日香村、関西大学
  • 後援:朝日新聞社、津田塾大学
  • 開催日:2024年7月6日(土) 13:00-16:00
  • 会 場:有楽町朝日ホール
  • 定 員:630名(申込多数の場合、抽選)

内容プログラム

  • 講演1「八角墳・中尾山古墳の構造的特徴」
    • 13:10~13:55 講演1(45分)
    • 講師:米田 文孝(関西大学 名誉教授)
  • 講演2「中尾山古墳ー古墳の終焉と火葬のはじまり-」
    • 3:55~14:40 講演2(45分)
    • 吉澤 悟 (奈良国立博物館 学芸部長)
  • パネルディスカッション(65分)
    • パネリスト1:米田 文孝
    • パネリスト2:吉澤 悟
    • パネリスト3:西光 慎治
      • 明日香村教育委員会文化財課 課長補佐/関西大学 非常勤講師
    • パネリスト4:・徳田 誠志(関西大学 客員教授)
    • <進 行> 今井 邦彦(朝日新聞専門記者)

講演要旨

講演1「八角墳・中尾山古墳の構造的特徴」

中尾山古墳は江戸時代に「中尾塚・中尾石塚」とも呼ばれ、文武天皇の檜隈安古岡上陵に比定する説があった。昭和49年の発掘調査により三段築成の墳丘と三重の外周石敷を有する八角墳と判明した。高さ7m、対辺長19.5mを測る。墳丘の一段目、二段目は基壇状の石積みであり、裾部に花崗岩の根石を並べ、その上に拳サイズから人頭大の石材を小口積みとし、上部に根石と同様の石材を垂直に積み上げる。三段目は版築の盛土のみで八角系に整形する。立て並べた石は整形された積み方であり、新羅王墓などにみられる外護石的な要素が見られる。墳丘本体とその周辺には推定約480トンの大量の川原石を敷き、きれいに装飾していた。八角墳は高御座の形を意識しており、藤原宮でも政治の中心である大極殿に高御座が置かれていた。古代中国の影響である。『文武をもって古墳は終わる』と言われるが、火葬骨をおさめる石槨の石は美しく磨かれ、精緻な造りである。

講演2「中尾山古墳ー古墳の終焉と火葬のはじまり-」

6世紀末で前方後円墳が消滅し、7世紀から方墳や八角墳となった。大規模な墳丘は姿を消し、副葬品も簡素になった。 新羅の文武王(681年没)は火葬陵を採用した。以後は新羅で火葬陵が主流となる。 日本では700年の道昭が火葬となった。仏教界の偉人である道昭の火葬は影響が大きかった。火葬は薄葬の理念にも合致している。古墳の消滅は薄葬令と火葬が挙げられているが、火葬が古墳を駆逐したとする説は正しいとは言えない。この時点ですでに古墳築造の理念は薄れており、葬送儀礼にも変化が生じている。持統天皇が火葬になったのは、道昭の火葬から3年後である。持統天皇は葬送儀礼は勤めて倹約せよと遺勅を発している。火葬の採用は持統天皇の指示であったであろう。持統天皇の豪胆な性格と道昭の火葬の影響、文武王の火葬の情報などから火葬に踏み切ったのであろう。

パネルディスカッション

  • 西光 慎治(明日香村教育委員会文化財課 課長補佐)
    • 飛鳥時代から王墓の「改葬」が行われるようになる。「古墳」は政治的であり地上に安置されて公的な要素がみられるが、「墓」は地下に埋葬され、私的な要素が強くなり、それぞれが特徴ある埋葬施設になる。同一埋葬施設に「改葬」または「合葬」される場合は、「天皇+天皇」「天皇+皇后・皇太后・太皇太后」が基本である。合葬は次の例がある。
  1. 安閑天皇+皇后春日山田皇女+神前皇女
  2. 宣下天皇+皇后橘皇女+孺子
  3. 斉明天皇+娘の間人皇女

改葬は次の例がある。

  1. 用明天皇 - 磐余池上陵 ⇒ 河内磯長陵
  2. 堅塩媛 -  ?⇒ 檜隈大陵

前方後円墳はヤマト王権の象徴であり。八角墳は大王家の象徴である。 墓の構造は王権の二重構造を表している。

  • 徳田 誠志(関西大学 客員教授)
    • 文武天皇の陵が檜隈安古岡上陵に比定されるにあたり、『阿不幾乃山陵記』が発見されて谷森善臣の説がクローズアップされた。谷森善臣は『山稜考』で文武天皇陵は檜隈安古岡上陵と主張した。

参考文献

  1. 第45回かんだい明日香まほろば講座(2024)『最後の天皇陵古墳』