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類聚国史2024年08月06日 00:15

類聚国史(るいじゅうこくし)は菅原道真が六国史の記事を分類編集し、事項別とした文献である。

概要

道真は宇多天皇から編纂の命を受けて類聚国史の編纂を開始した。中国の会要、類書にならって『日本書紀』から始まる「六国史」記事を、内容毎に分類、つまり「類聚」したものである。892年(寛平4年)に完成したとされる。古代史の重要史料の一つである。 『類聚国史』は本文200巻、目録2巻、帝王系図3巻から成っていたが、現存する写本は写本61巻と逸文が伝わるのみである。六国史本文の校訂や『日本後紀』の欠逸部分の復原に資するところが大きいと評価される。

弘仁地震

818年の赤城山の地震は『類聚国史』の弘仁九年七月と八月(818 年 8 月~10 月)の条に書かれる。元は『日本後紀』巻二七に記載されていたが,それは散逸している。

秋田地方地震

天長七年(830)1月3日の秋田地方の地震は『類聚国史』に記載される。

  • 今日辰刻、大地震動、響如雷霆、登時城郭官舎并四天王寺丈六仏像、
  • 四王堂等、皆悉顛倒、城内屋仆、撃死百姓十五人、支体折損類一百
  • 余人也、歴代以来未曾有聞、地之割辟、或処卅許丈、或処廿許丈、
  • 無処不辟、又城辺大河云秋田河、其水涸尽、流細如溝、
  • 疑是河底辟分、水漏通海歟、吏民騒動、未熟尋見、添河・覇別河、
  • 両岸各崩塞、其水汎濫、近側百姓懼当暴流、競陟山崗

蝦夷進出戦の終了

802年(延暦21)4月15日、阿弖利為(あてるい)は母礼500人余を率いて降伏した記事は『類聚国史』に書かれる。奥州市水沢地域付近で生活していた蝦夷のリーダーである。阿弖利為は坂上田村麻呂に降伏し、144年間に渡る蝦夷進出戦争が終わった。

陸奥国俘囚の授位

835年(承和二年)6月27日、俘囚に授位した記事が『類聚国史』に書かれる。。陸奥国奥地の俘囚、内紛、警備に兵士差発。同月二十七日、さらに援兵を請う。また陸奥国に賑給、出羽国俘囚に授位。藤原清衡、俘囚之上頭を自称する。

写本

  1. 類聚国史 巻第廿五 国宝(書跡・典籍)仙台市青葉区 東北大学蔵 狩野亨吉旧蔵本
  2. 尊経閣文庫 鎌倉時代書写本四巻(巻百六十五・百七十一・百七十七・百七十九)国宝 前田育徳会
  3. 類聚国史 石清水八幡宮 所蔵本(巻一・五) 重要文化財
  4. 類聚国史 明応九年(1500年)書写の一五冊本
  5. 大永年間(16世紀前半)に三条西公条らが書写した四冊本

参考文献

  1. 黒板 勝美・国史大系編修会(1965)『類聚国史 前篇』東京 吉川弘文館
  2. 黒板 勝美・国史大系編修会(1965)『類聚国史 後篇』東京 吉川弘文館
  3. 早川由紀夫(2002)「『類聚国史』に書かれた818年の地震被害と赤城山の南斜面に残る9 世紀の地変跡」歴史地震 (18),pp.34-41
  4. 赤羽目 匡由(2017)「『類聚国史』所載の所謂「渤海沿革記事」の史料的性格について」東洋史研究 76 (2),pp.232-267

漢書2024年08月07日 00:27

漢書(かんじょ)は前漢の歴史を記述した歴史書である。高祖から王莽の滅亡までを記述した前漢の正史である。 『前漢書』ともいう。

概要

漢書の構成は本紀(皇帝の伝記)12巻,表(人物、位階)8巻,志(事物)10巻,列伝70巻からなる。合わせて100巻。紀伝体で書かれる。 後漢の班固による撰であるが、班固が宮中の政争に巻き込まれて獄死したため、班固の死後は妹の班昭が八表と天文志を執筆した。 それでも欠けていた個所は弟子の馬続に続纂(ぞくさん)させたとされる。 詔や上奏文を忠実に引用しているため、正確さで『史記』に優れる。

倭人

『漢書』「志」の地理志には、「夫(そ)れ楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国を為す。歳時を以て来たり献見すと云う」とあり、紀元前1世紀の日本に関する正確な記録となる。

写本

  1. 漢書楊雄伝第五十七 京都国立博物館 国宝 現存最古の写本 
  2. 宋版後漢書〈慶元刊本) 南宋 23巻 天理大学図書館 重要文化財

参考文献

唐堀遺跡2024年08月08日 00:08

唐堀遺跡(からほりいせき)は群馬県東吾妻市にある縄文時代後期から晩期の遺跡である。

概要

関東北西部の標高400mの山間部で、吾妻川中流域の段丘に位置する。 約4100年から2500年前の縄文時代後期から晩期に営まれた遺跡である。 縄文人の生活、食生活、精神文化、地域間交流を知ることができる貴重な遺跡である。

調査

上信自動車道の建設に伴い2015年(平成27年)から2018年(平成30年)まで発掘され、縄文時代の水場遺構や遮光器土偶が発見された。彫刻のある木柱は水路の石組の下から出土したもので、祭祀の時に埋めたモノとみられる。集石は、遺物包含層の下位から検出されている。集石は、礫を主体に土器や石器などの遺物を人為的に集積した遺構である。埋甕は、ピット状の掘り込みをつくり、その掘り込み中に土器を埋設した遺構である。遺物集中は、土器や石器などの遺物が平面的にまとまって分布した遺構である。屋外炉は、竪穴建物の屋内に構築された炉ではなく、屋外に構築された炉と判断された遺構である。

石鏃

石器の総計は191,394点・5,687,411gであった。内訳は、石器類16,579点・5,048,913g(約5050㎏、約5.1t)、剥片類174,815点・638,498g(約640㎏、約0.6t)である。総重量5.7tの大部分を占めているのが、台石や石皿、磨石、敲石、凹石などの大型で重量のある礫石器である。 石鏃は総計約6000点を超え、石鏃製作に伴って生じた調整剥片が大量に出土している。出土した石器の器種の中で最も多かったのは石鏃である。

年代測定

  • 横木の年代測定結果は「貯水場・横木(水場2O38№2)以下の通り。
    • 3348-3176 cal BP(2σ)、
    • 3263cal BP(中央値)
    • 最終形成年輪部分の木材であり、数値年代は伐採(枯死)年代を示しているであろう。貯水場の構築年代を直接示しているものではないが、作業場出土の木材の数値年代と比較しても整合する。
  • 彫刻のある木柱の年代測定/PLD-38099
    • 14C年代を暦年代に較正した年代範囲 2σ暦年代範囲
    • 3339-3286 cal BP (32.82%)
    • 3270-3168 cal BP (62.63%)

水場遺構

約3400年から3150年前頃にトチノ実を水にさらしてアク抜きに利用された水場遺構があった。200年以上使用されていた。水場遺構の規模は、東西約20m、南北20mの範囲である。、貯水場、作業場、水路、弧状石組み、廃棄場と機能別に構成されている。廃棄場はトチの実を捨てた場所である。作業場は1.6mの大きく平らな礫を敷いている。水場遺構は水場遺構本体、水場遺構付帯部、水場遺構出土遺物 から構成される。しかもそれらの全容を発掘できた全国的にも数少ない遺跡の一つである。 水場遺構に利用した湧水点の場所は調査では明らかにできなかった。

彫刻文様

クリの丸木を角柱状に4面に加工し、その1面に連続U字形文様を彫刻する。 彫刻部分は長さ87cm、幅23cmで、陽刻でU字形文様は立体的に浮かび上げさせ、陰影が強調されている。

遺構

  • 水場遺構
  • 竪穴建物
  • 土坑
  • 配石
  • 集石、
  • 列石

遺物

  • 岩版
  • 漆塗り木製品、
  • 耳飾り、
  • 石棒、
  • 軽石製ミニチュア製品
  • 石製
  • 土製の玉類
  • 耳飾り、
  • 石棒の破片、
  • 石鏃
  • 土製円板
  • 屋外炉・
  • 石囲い・
  • 立石

指定

展示

アクセス

  • 名称:唐堀遺跡
  • 所在地:群馬県吾妻郡東吾妻町大字三島字唐堀地内
  • 交 通:

参考文献

  1. 文化庁(2024)『発掘された日本列島 2024』共同通信社
  2. 公益財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団(2022)『群馬県埋蔵文化財調査事業団調査報告書707:唐堀遺跡』公益財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団

播磨町郷土資料館2024年08月09日 00:22

播磨町郷土資料館(はりまちょうきょうどしりょうかん)は大中遺跡の出土品、歴史資料などを展示し、火おこし体験や古代語を聞ける資料館である。

概要

1985年11月1日に開館した。1962年6月24日、大中遺跡が発見され、その資料を展示する資料館である。1967年6月22日、大中遺跡は国史跡に指定された。 大中遺跡は、1962年に地元の中学生により土器が発見された事が発端となった。遺跡を守る地元の運動の後押しなどがあり、国の史跡として整備された。周辺では竪穴住居跡だけしか発見されていない。 2005年9月に播磨町郷土資料館開館20周年記念特別展「心に生きる別府鉄道」を開催した。復元された茅葺きの竪穴住居が9棟ある。

展示

  • 大中遺跡出土品
  • 愛宕塚古墳出土品
  • 土こう
  • 弥生時代土器
  • 石鏃
  • 石斧
  • 砥石
  • 機織り
  • イイダコツボ
  • 土錘
  • 内行花文鏡片

アクセス等

  • 名称:播磨町郷土資料館
  • 所在地:〒020-0102 兵庫県加古郡播磨町大中1-1-2
  • 休館日: 月曜日(祝日にあたるときは翌日)
  • 開館時間:4月~9月 9時30分~18時/10月~3月 9時30分~17時
  • 入館料: 無料
  • 交通: 土山駅から徒歩で15分

参考文献

真福寺貝塚2024年08月10日 00:21

真福寺貝塚(しんぷくじかいづか)は埼玉県さいたま市にある縄文時代の遺跡である。

概要

埼玉県東部の岩槻丘陵上に位置する繩文時代後期から晩期に営まれた集落跡である。径約150mの環状貝塚の中心から、台地西側に入りこんだ綾瀬川の小支谷の沖積低湿地に及ぶ。泥炭層遺跡が形成された谷と谷際の緩斜面に形成された包含層・遺構群とで構成される。東西160m、南北180mの範囲に貝塚や居住域が分布する。馬蹄形形状が盛り上げっているが、内側はすり鉢型の窪みとなる「環状盛土遺構」を形成する。窪地の一部は墓域や遺物の集積場として使用していた。隣接する谷には遺存状態のよい遺物を伴う泥炭層が広がる。貝塚の貝は縄文時代後期前葉では、マガキとウネナシトマヤ貝が大部分であり、泥質干潟を主体とする貝が大半を占める。縄文時代後期後葉ではヤマトシジミが90%以上で、はまぐりが僅かながら占める。周辺の水環境は汽水域に変化した可能性がある。 縄文時代晩期の編年研究でも重要な遺跡である。

調査

泥炭層遺跡の発掘調査で約3千年前の木材が発見された。1940年(昭和15年)東京大学が貝塚を発掘調査し、検出された建物跡は一辺10メートルの大型建物跡であるとした。

重要文化財「みみずく土偶」

ほぼ完形の「みみずく土偶」は重要文化財に指定されている。 大正時代に耕作中に発見された。顔がミミズクに似ており、一部に欠けがあるものの、全身がそろう。土偶の身体表現は縄文時代の風俗をうかがわせる素材となる。耳に丸い耳飾りをつけ、頭部の突起は髪型を表す。。目・口・耳には円板を貼りつける。関東地方を中心に千葉・茨城・埼玉の3県で見られる。高20.5cm、重量639g。東京国立博物館蔵。縄文時代後期後半から晩期前半にかけて製作された

「みみずく土偶」土偶1

土偶2より40cm下の層から出土した。目と口は円形に貼り付けた周囲に刻み線を放射状に施す。重要文化財に比べると装飾が減る。目、耳、口が規格化されている。縄文時代後期末葉の制作(約3000年前)。

「みみずく土偶」土偶2

重要文化財に比べ、胴部が簡略化される。目、口を表す丸い貼付の周囲に刻みを施す。全面に赤彩を施した痕跡がある。縄文時代晩期初頭の制作(約2900年前)。

遺構

  • 貝塚
  • 竪穴建物
  • 土坑
  • ピット
  • 包含層

遺物

  • みみずく土偶
  • 遮光器土偶
  • 縄文土器(後期+晩期)
  • 縄文土器(堀之内1式から安行式)
  • 縄文土器(堀之内2式から安行3c式+大洞式系
  • 縄文土器(加曽利E4式から安行3c式)
  • 動物遺存体(獣(骨))
  • 旧石器
  • ナイフ形石器

指定

  • 1975年7月19日(昭和50年07月19日) 国の史跡指定

展示

アクセス

  • 名称:真福寺貝塚
  • 所在地:埼玉県さいたま市岩槻区城南3
  • 交 通:

参考文献

  1. 文化庁(2024)『発掘された日本列島 2024』共同通信社
  2. 日本旧石器学会(2010)『日本列島の旧石器時代遺跡』
  3. さいたま市教育委員会(2020)『真福寺貝塚』史跡整備に伴う発掘調査概報

上野原遺跡2024年08月10日 10:39

上野原遺跡(うえのはらいせき)は鹿児島県国分市にある縄文時代早期前葉から弥生時代の複合遺跡である。

概要

鹿児島県のほぼ中央部、標高約260mのシラス台地上にある。縄文時代早期から中世にかけての複合遺跡である。約10,600年前に定住したムラとなり、約8,600年前に儀式を行う場ができ、約7,200年前に住居跡はなくなり、狩り場となった。約3,200年前に再び定住し、竪穴住居跡や掘立柱建物跡がみつかる。「国内最古で最大級の定住化した集落跡」といわれる。日本列島における縄文時代の始まりの様相を示す遺跡として重要である。

調査

1996年度の調査で桜島のP-13火山灰層の下から、竪穴住居跡52基、集石39基、連穴土坑16基、土坑約260基、道跡2条が検出された。初期縄文の安定した長期定住生活がうかがえる。P-13火山灰は約10,600年前の爆発と考えられる。なお鹿児島大学理学部の小林哲夫助教授は「噴火年代は9200~9400年前(14C年代)、暦年代では約1万300~1万600年前」と書かれている(小林哲夫、溜池俊彦(2002))。 遺跡の南側から約8,600年前(縄文時代早期後半)の壷形土器を含む土器や多種類の石器,土偶,滑車形耳飾など多彩な遺物が出土した。うち767点が縄文時代早期の文化を示すものとして、重要文化財に指定された。 。上坑は,単体で検出したものも含め約270基あり,平面形状から円形・楕円形・方形・長方形の4つに分類できた。縄文時代早期の集石は 2・3地点で100基,4地点で32基,7地点で8基が検出された。

竪穴建物

第4工区においては縄文時代早期の遺構は,竪穴住居跡・連穴土坑・土坑・集石・道跡が2・3地点で,集石のみが4·7 地点において検出された。縄文時代早期は,土器型式などから前葉.中葉・後葉と大きく分かれている。しかし各地点共に土器型式の混在などから時期の特定は困難な状況であった。竪穴住居跡の形状は,隅丸方形・隅丸長方形・釣り鐘形の3つに分類された。それぞれ竪穴内部に柱穴ないし柱穴状遺構を有するもの・竪穴外部に柱穴ないし柱穴状遺構を有するもの・竪穴内外部に柱穴ないし柱穴状遺構を有するもの・柱穴を打しないものの4つに分けられた。集落の変遷は竪穴住居跡を中心にまとめ,少なくとも1型式内4段階の集落の集合が見られる

土器

1類土器は,単純な円筒形の器形に貝殻条痕文を胴部に施すもので,前平式土器に比定された。 2類土器は胴部に貝殻条痕文を地文としその上に貝殻条痕文を主に重ねるもので,円筒形と角筒形の2種類の器形がある。 3類土器は,竪穴住居跡や連穴土坑などの追構を構成する当遺跡の縄文時代早期前葉を代表する土器である。器形には,円筒形・角筒形のほかに口縁部の上面観がレモン形を見するものとがある。 4類土器は,胴部に貝殻押引文を施すもので吉田式上指の範疇に収まる。 5類土器は,口緑部が外反し胴部に貝殻条痕文を施す特徴から倉園B式土器に比定される。 6類土器は,胴部に貝殻条痕による綾杉文を施すことから石坂式土器に比定される。 7類土器は,器面に貝殻刺突文を施すものである。口縁部が内側に湾曲するものや口唇部が肥厚するものなどがある。

遺構

  • 竪穴建物52
  • 集石39 ,集石140
  • 連穴土坑16
  • 土器埋納土坑12
  • 石斧埋納6
  • 磨石集積3
  • 落とし穴79
  • 掘込369
  • 土坑270
  • 道路2

遺物

  • 縄文土器(平栫式(深鉢+壺)
  • 塞ノ神式土器
  • 山ノ口式土器
  • 前平式
  • 加栗山式
  • 吉田式
  • 石坂式
  • 下剥峯式
  • 桑の丸式
  • 押型文
  • 中原式
  • 平拵式
  • 塞ノ神式
  • 土偶
  • 耳飾
  • 土製品
  • 石斧
  • 石鏃
  • 石皿
  • 深鉢形土器
  • 壷形土器、
  • 鉢形土器、
  • 石器、
  • 耳飾

考察

火山灰の痕跡から縄文時代早期は約10,600年前、すなわちBC8600年頃であることが判明した、これは縄文時代早期の定点となる。縄文時代の始まりは約13000年前なので、そこからすでに2400年が経過したことになる。この頃は温暖化が進み、、海水面が上昇し、地形や植生が代わり、定住生活が始まるようになる。

指定

  • 1998年(平成10年)6月30日 - 国指定重要文化財、鹿児島県上野原遺跡出土品
  • 1999年(平成11年)1月14日 - 国指定史跡、上野原遺跡

展示

  • 鹿児島県上野原縄文の森展示館
  • 鹿児島県立 埋蔵文化財センター

アクセス

  • 名 称:上野原遺跡
  • 所在地:〒899-4318 鹿児島県霧島市国分上野原縄文の森1-1
  • 交 通:JR国分寺駅 車20分、(8.7km)/最寄バス停はないようである

参考文献

  1. 小林哲夫、溜池俊彦(2002)「桜島火山の噴火史と火山災害の歴史」第四紀研究41(4),pp.269-278
  2. 鹿児島県立埋蔵文化財センター(2022)『上野原遺跡』鹿児島県立埋蔵文化財センタ一発掘調査報告書(41)

下ヶ戸貝塚2024年08月11日 00:28

下ヶ戸貝塚(さげとかいづか)は千葉県我孫子市にある縄文時代後期から晩期に至る貝塚が作られた遺跡である。

概要

千葉県我孫子市の中央付近、北に利根川を見下ろす標高18m前後の台地の縁辺に位置する。北方向に開口する半円状の貝塚と竪穴22棟が確認された。貝塚はヤマトシジミを主体とし、縄文時代には利根川に海水が入り、汽水域となっていたことが分かる。 異形台付土器やミニュチュア土器、土偶、耳飾、石剣、石棒、骨角器など当時の多様な祭祀具から高度な精神文化がうかがえる。 チャートや黒曜石など一部のものを除くと、原石や未製品が検出されないため、下ヶ戸貝塚は石器・石製品の産地ではなく、消費地であったと考えられる。

調査

1981年(昭和56年)から2015年(平成27年)にかけて11次の発掘調査が行われた。縄文時代後期の堀之内1式期から晩期安行3c式期にかけての住居跡20軒、同時期と認められる土坑31基が検出された。第6・7次調査では、遺構外から翡翠製の勾玉1点と臼玉1点の成品のほか、臼玉や小玉の未成品あるいは攻玉途中での破損未成品7点が出土した。

縄文時代後期の気候変動

縄文時代晩期は気候の寒冷化に伴い遺跡数が減少する。関東地方ではこの傾向が著しいため、我孫子市域でこの時期に集落が確認されるのは、この下ヶ戸貝塚のみである。下ヶ戸貝塚出土品の特徴はこの祭祀や儀礼にかかわる道具や装飾品といった精神文化にかかわる道具類が豊富なことである。

土製耳飾

竪穴住居がみつかった宮前遺跡地区からは469点の土製耳飾りが見つかっている。耳飾りは異形台付土器やミニュチュア土器とともに見つかっており、居住空間での使用が想定される。透かし彫りを施したものや中空部分に橋掛状の細工を施したモノは集落内の制作ではなく、外部から移入されたと考えられる。

遺構

  • 貝塚
  • 集落

遺物

  • 縄文土器(阿玉台式+堀之内式+加曽利B式+安行式)
  • 土偶
  • 土板
  • 耳飾
  • 動物遺存体(貝(ツメタガイ+イシガイ+サルボウ)
  • 魚(骨)
  • 縄文土器(称明寺式+堀之内式+加曽利B式+安行1式から安行3b式+前浦式+大洞式)
  • 縄文土器(堀之内、安行)
  • 石器
  • 土製品
  • 深鉢
  • 鉢 安行2式
  • 深鉢 安行2式
  • 注口土器 安行2式
  • 浅鉢 安行3a式
  • 深鉢 安行3b式
  • ミミズク土偶 - 安行式
  • 有孔土製円盤
  • 耳飾
  • 人面土版1
  • 石鏃
  • 打製石斧
  • 磨製石斧
  • 石錘・土錘
  • 石棒・石剣・独鈷石
  • 貝製品
  • 骨角器
  • 垂飾品

指定

  • 令和5年8月31日 我孫子市指定文化財 240点

展示

アクセス

  • 名称:下ヶ戸貝塚
  • 所在地:千葉県我孫子市下ヶ戸702
  • 交 通:東我孫子駅から徒歩14分/1km

参考文献

  1. 文化庁(2021)『発掘された日本列島 2021』共同通信社
  2. 千葉県史料研究財団編(2000)『千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)』(平成12年発行)