弓矢の誕生 ― 2024年10月21日 00:13

弓矢の誕生(ゆみやのたんじょう)は2024年10月19日に開催された考古学の講演会のテーマである。
概要(講演概要と要旨)
- タイトル:「弓矢の誕生 有舌尖頭器から石鏃出現の意義を考える」
- 開催日:2024年10月19日(土) 14:00-15:30
- 主催者:大田区立郷土博物館
- 会 場:大田区立郷土博物館 2階会議室
- 定 員:先着順 50名
- 講師:愛知学院大学 白石浩之 名誉教授
- 講師紹介
- 國學院大學修士課程を修了後、1971年、財団法人かながわ考古学財団入職、調査研究部調査研究部長を歴任。2000年、「石槍の研究 : 旧石器時代から縄文時代初頭期にかけて」で博士 (歴史学:國學院大學)。2000年より愛知学院大学教授、現在名誉教授。1993年に第3回岩宿文化賞を受賞。1994年12月、神奈川県研究業績賞。
講演要旨
忠実な講演の再現ではないし、記載ミス(誤解)もあり得るので、文責は筆者となる。
講演
弓矢の起源はどこまで遡れるかということであるが、定説では縄文時代からとなっている。しかし、そうではないらしい。弓矢を考える上で、自然環境の理解が大事である。古い時代の気象環境は16千年前頃の地球は氷河時代で寒かった。15千年頃前からのベーリング期では気温が急に上がった。最寒冷期には海水面が下がっており、樺太と北海道は地続きであった。対馬海峡は深いので、大陸とつながってはおらず、島が海に点々としていた。植生について東日本は氷河期・高山の植生であるが、西日本は温帯針葉樹の混交林であった。先史時代の動物相は、北海道・東北ではマンモスが陸続きの大陸から移動してきた。ナンウマンゾウは森林地帯に生息し、ヘラジカは亜寒帯針葉樹林にいた。月見野遺跡群(神奈川県大和市)の上野遺跡では16千年前の地層から、旧石器の無文土器、石鏃、細刃が出土している。15千年前の地層(第二地点)第一文化層から旧石器時代の石鏃が見つかっている。縄文時代草創期初頭では、三ノ宮・下谷戸遺跡から有舌尖頭器がみつかっている。矢尻は矢の尖頭部である。埼玉県寿能泥炭層遺跡では縄文時代後期の石鏃が出土している。弓は出ていないが、石鏃があれば矢がある。愛知県上黒岩岩陰遺跡の石器として、えぐり込みがある有舌尖頭器が出土した。後代の古墳時代になるが、埴輪では、矢で射られる鹿、猪が表現されている。 鈴木道之助(1972)は変遷「木葉形尖頭器⇒有舌尖頭器⇒石鏃」を提唱し、弓矢の出現を捕らえようとした。 石鏃はどこまで遡ることができるのか。神奈川県綾瀬市吉岡遺跡群、C区15層上部相当(約16000年前)から大型木葉形石槍に伴って石鏃が出土している。芹沢長介(1966)は有舌尖頭器が大型から小型に変化する中で、鏃が使用された可能性を指摘した。栓先形尖頭器は月やり・投げ槍、有舌尖頭器は投槍器の投げ槍、石鏃は弓矢としてそれぞれ使われた。したがって時期的な順序関係が証明されれば、芹沢長介(1966)説が支持されるであろう。 有舌尖頭器には大型、中型、小型の区別がある。寸法によって役割がそれぞれ異なる可能性がある。 おそらく自然環境変化に伴い、大型動物から小型動物への交代があり、縄文人が対応した可能性が考えられる。また有舌尖頭器を弓矢に使用した可能性もある。 長崎県百花台遺跡の台形石器は、「ナイフ形石器⇒台形石器⇒細石器」が層位順に出土した。 これは2万年前にすでに弓矢が存在していた可能性を示唆する。佐野勝宏(2012)の実験結果は、後期旧石器時代初頭の3万年から4万年前に弓矢があった可能性を示唆する。小型の有舌尖頭器は弓矢に用いていた可能性がある。すなわち石鏃が弓矢の穂先に用いられたことと、弓矢の出現の意義は異なると考えられる。
参考文献
- 「弓矢の誕生」配布資料
- 小野 昭(2019)『人類と資源環境のダイナミクスⅠ 旧石器時代』雄山閣
- 小林謙一(2009)『縄文はいつから!?-地球環境の変動と縄文文化-』新泉社
- 佐藤宏之(2019)『旧石器時代』敬文社
- 鈴木道之助(1972)「縄文時代草創期初頭の狩猟活動」考古学ジャーナル
- 芹沢長介(1966)「新潟県中林遺跡における有舌尖頭器の研究」『日本文化研究所研究報告2』東北大学文学部附属日本文化研究施設、pp.1-67
- 佐野勝宏(2012)「狩猟同定のための投射実験研究(1)」『旧石器研究』No8、pp.45-63
- 白石浩之(2020)「石鏃の出現に関わる諸問題」『神奈川考古』第56号,神奈川考古同人会,pp.35-54
- 大工原 豊(2014)「石鏃の出現について」岩宿博物館・岩宿フォーラム実行委員会
上東遺跡 ― 2024年10月21日 08:38
上東遺跡(じょうとういせき)は岡山県倉敷市にある弥生時代後期の遺跡である。
概要
足守川下流右岸の沖積地の微高地に展開する南北2km、東西1kmに及ぶ範囲である。
調査
1972‐1973年と1975‐1976年に発掘調査された。主要地方道箕島高松線改良工事に伴う発掘調査は平成元年度から平成10年度にかけてであった。竪穴式住居、製塩炉、波止場状遺構。波止場状遺構は地表下70cmで認められた。幅は14mから4.5mで、少なくとも長さは45m以上、高さ2mほどである。土壙、溝、井戸、袋状土壙などを検出した。井戸は29基が確認された。竪穴式住居跡2の規模は、長軸長約5.25m、短軸長4.8mで、楕円形である。居住域の南東方向で敷き粗染や粘土などを交互に突き固めた盛土と杭列を使用して構築された波止場状遺構が検出された。 遺物は貨泉卜骨、骨鏃、桃核、絵画土器。9,608個に及ぶ桃核、木器、土製品、玉類を確認した。上東式土器の標識遺跡である。『弥生式土器集成』に取り上げられた。製塩土器。遺物は古代吉備文化センターに保管する。
遺構
- 竪穴式住居跡
- 製塩炉
- 製塩土器
- 波止場状遺構
- 土坑
- 溝
- 井戸
遺物
- 貨泉卜骨
- 骨鏃
- 桃核
- 絵画土器
- 木器
- 土製品
考察
波止場状遺構や製塩炉、製塩土器があるので、弥生時代の上東遺跡は海辺であった。西谷正名誉教授が言われるとおり、上東遺跡は投馬国の国邑であった有力な証拠といえる。
アクセス
- 名称:上東遺跡
- 所在地:〒701-0111 岡山県倉敷市上東
- 交通: JR山陽本線庭瀬駅または中庄駅より車で約15分
参考文献
- 大塚初重(1996)『古墳事典』東京堂出版
- 岡山県教育委員会(2001)『上東遺跡』岡山県発掘調査報告書第158号
納所遺跡 ― 2024年10月21日 20:11
納所遺跡(のうそいせき)は、三重県津市納所町にある縄文時代晩期から古墳時代を中心とする伊勢湾沿岸の拠点集落遺跡である。
概要
安濃川が津市北西郊で蛇行して東に流れるところ,左岸一帯の標高5mから6mの自然堤防上に位置する。遺跡の範囲は東西1200m、南北600mに及ぶ。
調査
1923年、大正時代に郷土史家の鈴木敏雄によって発見された。1936年吉田富夫が櫛目式土器の出土遺跡として紹介した。昭和46年(1971年)冬、圃場整備の工事に伴い中学生たちが土器等を採集し、さらに、その遺跡の上に津市街と近畿自動車道の津インターを結ぶ道路が建設されるということで、昭和48年から3か年にわたり、本格的な発掘調査が実施された。 1973年から1975年にかけて,県道バイパス建設に先立ち1万2500m2の発掘調査を実施した結果,弥生時代前期から古墳時代前期に至る一大集落跡と判明した。 果実、種子、花粉分析により各時代の遺跡の変遷が明らかにされた。 出土品は三重県埋蔵文化財センターに保管されている。
遺構
- 竪穴住居 18棟
- 方形周溝墓 数基、小型
- 土壙墓 14基
遺物
弥生時代前期
- 農具 - 広鋤、狭鋤、泥除、一木鋤
- 鍬
- スコップ状木器
- 工具 - 斧直柄、加工斧膝柄
- 容器/食事具 - 鉢、高坏、槽、匙、縦杓子、横杓子
- 紡織具
- 精製品 – 堅櫛、琴形、鐸形
- 朱塗堅櫛 - 弥生前期
- 琴形木製品
- 鐸形木製品
弥生時代中期
- 広口壺
- 直口壺
- 細頚壺
- 短頚壺
- 無頚壺
弥生時代後期
- 広口壺
- 直口壺
- 短頚壺
- 長頚壺
- 内湾口縁壺
古墳時代
- 広口壺
- 瓢壺
- 小型器台
- 木製農工具 -各時代
- 甕
- 高坏
- 小型丸底壺
- 小型鉢
- えぶり
- 杓子
- 弓
弥生時代の琴
弥生時代の琴は、三重県内では津市の納所遺跡からのみ発掘されている。調査の結果、多量の弥生土器や鍬・鋤などに混ざって、ほかでは見られない扁平な板状のものが二点みつかりました。一つは長さが53センチの台形のもので、左右には三角形の孔がくり抜かれ、そのうちの二か所には樹皮が巻きついていた。弦又は弦をとめるものと考えられ、琴ではないかということになった。音楽史の専門家たちは、6本の弦を持つ琴と推定した。一枚板の台形琴としては、納所遺跡の琴のほかには類例がない。あと一点は細長い三角形の板琴で、長さは35センチ、尖端に小さな孔が一つ、その対辺には二つの突起があった。4本の弦が装着されていたと推定され、琴を奏でるときに擦った痕跡も見られる。この細長い三角形の琴は、静岡県登呂遺跡で発見された木の板が琴と判明して以後、数多くの出土例が確認された。
指定
アクセス
- 名称:納所遺跡
- 所在地:〒514-0051 三重県津市納所町
- 交 通:津駅から徒歩10分
参考文献
- 三重県埋蔵文化財センター(2012)『納所遺跡Ⅰ 遺構・土器・木製品編』 三重県埋蔵文化財センター
- 三重県教育委員会(1980)『納所遺跡 遺構と遺物』 三重県教育委員会
- 伊藤久嗣(1989)「弥生の琴と櫛」『三重県風土記』旺文社
- 「津市納所遺跡から弥生時代の琴」三重県、 県史あれこれ
- 大塚初重(1995)『日本古代遺跡辞典』吉川弘文館
纒向石塚古墳 ― 2024年10月21日 21:30
纒向石塚古墳(まきむくいしづかこふん)は奈良県桜井市にある前方後円墳発生期の古墳である。
概要
纏向遺跡は桜井市北西部の標高60mから90mの扇状地に位置する。遺跡の規模は現時点で東西2km、南北1.5kmである。太田北微高地の中央西より、標高89mの扇状地に位置する。 付近には3世紀勝山古墳、矢塚古墳、東田大塚古墳ならがある。 日本列島内で最古の古墳として、注目された。東西方向に張り出し部がある。 第3次調査で前方後円墳として確認された。第4次調査で墳丘は全長93m、後円部は偏楕円形の最大径64mである。前方部は長さ32m、くびれ部幅15mから16mである。 墳頂部は太平洋戦争末期に削平され、そこに高射砲か対空機銃の砲台の基礎部分の跡が検出された。その際、埋葬施設の検出や遺物の出土がなかったとされる。出土した弧紋円盤は吉備系の祭祀用遺物である。纏向形前方後円墳として、矢塚古墳、ホケノヤマ古墳と並び重要な位置にある。
調査
1971年の発掘調査で周濠から出土した多くの遺物の年代観から、3世紀初頭の築造とされ、最古の古墳として当時注目を浴びた。周濠より弥生時代後期最終末期から古墳時代初頭の土器が出土し、古墳時代前期初頭の築造と考えられる。
特徴
円部は円形ではなく、不整形円形であり、くびれ部が細く、前方部の発達度が低いこと、区画溝的な全面周濠など箸墓古墳などの前方後円墳が定型化する以前の古墳である。 後円部径:前方部長の比率が3:2:1の比率を有しているのが特徴である。後前方部は大きく三味線の撥形に開く。最下層の黒粘2から「纏向Ⅰ式」を想定する土器群が出土した。
年輪年代分析
第4次調査で出土した木製品の板材の年輪年代分析が行われた。周濠内から杭、柱、農具、組物、削屑などが出土した。その中から板材長さ30cm、幅60cm、厚さ2cmを選定した。 材種はヒノキで、辺材である。ヒノキの暦年標準パターンと照合した結果、試料の年代は177年と判明した。平均的な辺材幅は3cmである。すると外側に1cmあったと想定できる。年輪層は36層。年輪幅は0.58mmであるから、18年輪が形成される。195年となる。西暦200年頃に伐採されたものと考えられる。
規模
- 形状 前方後円墳
- 墳長 93m
- 後円部 径62m
- 前方部 幅30m 長30m
外表施設
- 葺石 あり
遺構
- 【周濠】あり(幅19~24m、最大38m)
遺物
- 鳥形木製品・
- 鋤・
- 弧文円板
- 杖状木製品・
- 柱(以上木製品)、
- 纏向Ⅰ~Ⅲ式併行の土器群。
築造時期
- 3世紀前半から後半
- 石槍 – サヌカイト製
考察
AD200年頃の木製品が出土していることは、「倭国乱」の頃に纒向石塚古墳が作られていることになる。伐採年と古墳築造時期が異なるとしても、AD200年代前半は動かないであろう。最も古い土器は纏向Ⅰ式であり、AD200と矛盾しない。纏向遺跡がAD200年頃にあった証拠となる。
指定
アクセス等
- 名称:纒向石塚古墳
- 所在地:奈良県桜井市太田字石塚
- 交通:JR巻向駅から徒歩15分
参考文献
- 江上波夫(1993)『日本古代史辞典』大和書房
- 大塚初重(1982)『古墳辞典』東京堂
- 桜井市教育委員会(2021)『纒向石塚古墳 発掘調査報告書 第38集』
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