白鳳時代 ― 2024年10月12日 18:40
白鳳時代(はくほうじだい)は飛鳥時代に関する美術史の時代区分の一つである。
概要
白鳳時代は645年(大化元年)から710年(和銅三年)の平城京遷都までの55年間とされる。 仏像としては、法隆寺の阿弥陀三尊像、薬師寺の薬師三尊像、興福寺仏頭などふくらみのある顔立ちで、北斉・北周など大陸の影響を受けた様式から、日本独自の和風化が見られるが、隋・唐の影響も残る。肉体表現は写実性がまし、動きも見られるようになる。 飛鳥時代は仏像の材料が「銅像」、「木彫像」に限られていたが、白鳳時代になると、「銅像」だけでなく、「塑像」「脱活乾漆像」「押出仏」「塼仏」も作られるようになる。
白鳳時代前期の仏像(645年から660年頃)
- 法隆寺の金銅菩薩立像、金銅菩薩半跏像、河内観心寺の観音菩薩立像、広隆寺の弥勒菩薩
白鳳時代後期の仏像(661年から709年)
大阪・野中寺の弥勒菩薩半思維像、興福寺の仏頭、東京深大寺の釈迦如来倚像、法隆寺の金銅阿弥陀三尊像、当麻寺の弥勒仏座像
参考文献
桜井茶臼山古墳 ― 2024年10月12日 23:35
桜井茶臼山古墳(さくらいちゃうすやまこふん)は奈良県桜井市に所在する前方後円墳である。
概要
全長200mの初期ヤマト政権の大王クラスの前方後円墳である。鳥見山の北山麓の小尾根の先端にあり、纏向遺跡から4knほど南である。 古事記や日本書紀に伝承がまったくなく、宮内庁の陵墓にも指定されていない。 被葬者は日本書紀に記されない初期ヤマト政権の大王と考えられる。鏡の副葬枚数は国内最大であり、また鏡は精緻で種類が多いことは、当時において強大な権力を持っていた王と思われる。
調査
1949年に最初の発掘調査が行われた。1949年(昭和24年)の秋と翌25年の夏に発掘調査が行われ、尾根の末端を切断して築造された古墳と判明した。墳丘は、後円部3段、前方部2段に築造されている。埴輪は使用されていないが、後円部頂には方形段を取り巻く土師器壷列がある。
出土
石室の中はすべて、天井石に至るまで、多量の朱で塗られていた。加えて、出土品は玉杖・玉葉・勾玉・五輪形石製品等、相当数にのぼる。土器列は、一重で、北辺で東西10.6m、西辺で南北13m、壷は北辺で24~25個、西辺で29~30個が並べられていた。後円部の中央に長さ6.75m、幅は北小口で約1.28m、南小口で約1m、高さ平均1.60mの竪穴式石室がある。床面は、全面板石で粘土床は無く、敷石上に直接置かれた木棺は現存長5.19m、床板の厚さは22cmあり「巨大な石室に相応しい巨大な木棺」である。材質は「トガの巨木」と鑑定されている。石室内は盗掘にあっており、副葬品はいずれも断片であった。
- 土器壺 後円部から出土した壷は「茶臼山型二重口縁壷と呼ばれる。頸部が直立して筒状となる事。体部がほぼ球状で底部に穿孔を持つ事等が特徴である。現在全体の形状が分かるものは3固体ある。いずれも、底部には径7~7.8cmの円孔が焼成前にあけられている。丸底を切り取ったような形になっている。
- 木棺 奈良県立橿原考古学研究所が2009年の発掘調査で竪穴式石室から取り出した木棺が、保存処理を終え、県立橿原考古学研究所で2019年9月に初めて公開された。木棺は原形は失っているが、遺存していた底部分は長さ4.89m、幅75㎝、最大厚27㎝であった。
- 銅鏡 鏡は主に周辺の棺内と棺外小口部に置かれていた。奈良県立橿原考古学研究所による2023年9月7日の発表によれば、3次元計測により石室内に銅鏡103面以上が置かれていたこことが判明した。徹底的な盗掘により鏡は385点の破片しか残っていないが、破片だけみても、きわめて精緻な中国鏡であることを確認できた。三角縁神獣鏡26面、画文帯神獣鏡19面、内行花文鏡12面がある。「正始元年」(240年)と書かれた鏡と同じ鋳型で作られた鏡もあった。けた違いの数の副葬鏡である。辻田淳一郎・九州大大学院准教授は古墳時代前期前半では最上位クラスの数と質であり、被葬者の格の高さを示すものとした。
- 鉄製品 鉄製品には、鉄杖と刀剣鉄鏃・工具がある。 鉄杖は鉄棒の太さ2cm現存長14.7cm。この他に太さ1.5cm最大長60cmにもなる、中空の鉄杖もある。
- 石製品 浅緑色に黄色い縞の入る石で作られた玉杖(左)と玉葉(下)がある。威儀具としての儀杖・指揮棒を象ったとみられる玉杖は4本ある。また、中国の玉製葬具の眼球に通じるとして目された玉葉は同系同大2枚と他1枚である。
- 鉄刀剣 現存長14.1cm、刃幅3.4cmで関部が明確で、柄と鞘の木質が良く残り、朱がきれいに付着している。他に刀と短刀がある。
- 工具 先端の尖った細いものを含む針状工具がある。先端の尖った細い工具を含む針状工具がある。他に断面が薄い長方形の?の柄がある。鏃においては、数多く、銅鏃は2点、鉄鏃は破片も含めて117点にもおよぶ。鉄鏃の矢柄には赤色顔料の付着が20点確認される。
規模
- 築成:前方部:2段、後円部:3段
- 墳長:207m
- 後円部 径110m 高12.6m
- 前方部 幅61m 長90m 高13m
出土品
- 【鏡】ボウ製:波文帯四神二獣鏡1片・画文帯神獣鏡1片・内行花文鏡2~5面・天王日月獣帯神獣鏡1片・天王日月四神四獣鏡2面。
- 【玉類】硬玉:勾玉1、碧玉:管玉6、ガラス:管玉1・玉類若干。
- 【装身具】石製腕飾類:碧玉製玉葉3・碧玉製石釧片1・碧玉製鍬形石片1・碧玉製車輪石2。
- 【石製模造品】器財:五輪塔形碧玉製品1、その他:用途不明石製品5。
- 【武器・刀剣類】鉄剣:剣身片3(絹帛付着)。【武器・鏃】類銅鏃:柳葉124以上(絹帛付着)、銅鏃:柳葉2。【農工具】工具:刀子1・?1・不明鉄器1。
- 【その他】玉杖・碧玉製玉杖頭1・杖身鐓1(鉄心付碧玉製)・杖身(鉄心付碧玉製管状製品5個を連接)2・鐓(碧玉製鉄心付)1・鉄心碧玉管若干・碧玉製品断片・鉄杖身7・異形石製品1組・鐓形鉄製品1・鉄製利器1・用途不明棒状品1。
指定
- 昭和26年6月 史跡指定
- 追加指定:昭和5年6月26日、昭和60年1月16日
所在地等
- 名称: 桜井茶臼山古墳
- 年代: 紀元3世紀後半~4世紀
- 被葬者: 壹与(近藤喬一説)、地元では、饒速日命あるいは長髄彦墓と伝わる。白石太一郎(2016)は「被葬者はおそらく男性の王で、大きな実権を握っていた」と語る。近藤喬一(山口大学名誉教授)は、被葬者候補として、卑弥呼の後継者の壹与を挙げている。
- 所在地: 奈良県桜井市外山
- 交通: JR 桜井駅徒歩15分
参考文献
- 大塚初重(2019)『巨大古墳の歩き方』宝島社
- 熊本県教育委員会(1986)「江田船山古墳」熊本県教育委員会
- 奈良県教育委員会(1989)『奈良県史跡名勝天然記念物調査報告』東京 吉川弘文館
- 「異常」「次元が違う」「けた違い」 桜井茶臼山古墳の銅鏡のすごさ
- 白石太一郎(2016)「書紀みえる初期の王陵と奈良盆地東南部の巨大古墳」
方形周溝墓 ― 2024年10月13日 00:14
方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ,Square tomb with Circumferential groove)は正方形や長方形の墓に周囲に溝を巡らせた墓である。
概要
弥生時代前期から古墳時代まで続く墳丘墓である。千葉県や堵玉県などでは弥生時代中期に比定できる遡るものが確認されている。 形状は方形に溝を巡らせて墓域を区画する。内側の平坦面に土壙を設けて埋葬する墓制である。規模は1辺5m-6mから30mを超える大型サイズまである。方形の区画内に周溝を盛り上げた土を約1m程度盛り上げるのが一般的である。溝の幅は1~5m程度である。溝が完周するものだけでなく、一隅が土橋状に外側とするもの、コ字型に溝が切れるもの、四隅が土橋になるものなど時代により変化する。周溝が完周するものは古墳時代に多い。周溝の一部が切れて外側と接続するものは弥生時代に多いとされる。 弥生時代の墓はどれだけ規模大きくとも分類上は古墳にならない。 盛り土された中央部に土壙(墓穴)を掘り埋葬する。棺の大きさや副葬品には大きな差がないことから、弥生時代前期は身分や権力の格差が小さな社会であったと考えられている。弥生時代中期の方形周溝墓では、1つの周溝墓に多くの人が埋葬されていることがある。社会階層の分化に伴い、社会的身分により墓の規模や副葬品などに差が出始める。
古墳との関係
川崎純徳は方形周溝墓と古墳の出現に時期差があり、一定期間は併存するが、方形周溝墓は古墳に代わり、古墳時代後期には円墳に引き継がれると主張した。
来歴
1963年(昭和38年)、東京都八王子市宇津木向原遺跡について大場磐雄が1964年に始めてこの名称を使用した。
地域の広がり
兵庫県・大阪府・香川県など瀬戸内海東部沿岸で弥生時代の前期中に現れる。弥生時代前期後半になると近畿地方のほぼ全域に広がる。岡山県から西の地域には普及していない。近畿地方から東において一般的な墓となる。弥生時代後期には北関東・東北南部まで普及した。
類例
弥生時代より早い時期に朝鮮半島で大量に発見されている。
参考文献
- 斉木誠(2016)「常陸地域における方形周溝墓の基礎的分析」筑波大学先史学・考古学研究 27 pp.1-23
- 川崎純徳(l972)「古墳以前一常総地方におげる古墳成立基盤について考える-」常総台地第 6号 常総台地研究会 pp.14・23頁
甲塚古墳(下野市) ― 2024年10月13日 00:15
甲塚古墳(下野市)(かぶとづかこふん)は栃木県下野市にある帆立貝形古墳である。 日本百名墳に選出されている。
概要
栃木県南部には古墳が多数点在する。そのうち大型古墳は摩利支天塚古墳(120m)・琵琶塚古墳(123m)・甲塚古墳(80m)・愛宕塚古墳(78.5m)・山王塚古墳(72m)・丸塚古墳(65m)・吾妻古墳(128m)がある。築造順は、摩利支天塚古墳→琵琶塚古墳→吾妻古墳→甲塚古墳→愛宕塚古墳→山王塚古墳→丸塚古墳とされる。 埋葬施設は凝灰岩の切石の横穴式石室である。日本初の出土例の機織形埴輪2基が検出された。栃木県南部地域に分布する後期古墳群の主墳とされる。令和5年度に須恵器の脚付長頸壺と大甕、円筒埴輪1点の修理を行った。馬形埴輪には女性が横座りする際の足置きが表現される。古墳南側周溝に食い込むように建てられてるホテルがあり、南側の範囲は確認できていない。
調査
1883年(明治16年)・1893年(明治26年)の発掘により、墳丘は十文字に破壊されていた。 下野国分寺跡の史跡整備に伴い2004年(平成16年)に発掘調査を行った。石室西側の基壇面から、埋葬に伴う儀礼時で使用した360個体以上の土器群が出土した。埴輪群に4 色(赤・白・黒・灰)の彩色が施されていた。古墳の測量・周湟トレンチ調査を行い、墳丘は第一段下端の計で78.1m、周湟外周径で94.8m、周湟底から墳頂までの高さ9.3から9.8mで、墳丘第一段の平坦部をもつ、この地域の大型円墳と判明した。玄門と羨道との間に刳り抜き玄門があると推定されている。2004年(平成16年)に埴輪の盗難事件があり、完形に近い良品の埴輪3体だけが夜中に盗まれてしまった。
規模
- 形状 前方後円墳(帆立貝形古墳)
- 築成 前方部:2段、後円部:2段
- 墳長 85m
- 後円部 径径63m 高7.5m
- 前方部 幅56m 高4m
遺構
- 主体部 室・槨 - 横穴式石室(単室)
遺物
- 形象埴輪24基
- 機織形埴輪2基
- 人物埴輪17基
- 盾持ち人1基
- 馬形埴輪4基
- 土器
- 須恵器脚付長頸壺
- 須恵器大甕
築造時期
- 6 世紀後半に築造
被葬者
展示
- しもつけ風土記の丘資料館
指定
- 2017年09月15日 国 指定 有形文化財(考古・歴史資料)
考察
アクセス等
- 名称:甲塚古墳(下野市)
- 所在地 :栃木県下都賀郡岩舟町大字畳岡
- 交 通 :JR宇都宮線小金井駅から3㎞
参考文献
- (財)とちぎ未来づくり財団埋蔵文化財センタ-(2012)『栃木県埋蔵文化財調査報告343:甲塚古墳』(財)とちぎ未来づくり財団埋蔵文化財センタ-
二重構造モデル ― 2024年10月13日 14:22
二重構造モデル(にじゅうこうぞうもでる)は日本人の人類学的な集団形成の起源を説明する埴原和郎が提唱した仮説である。
概要
アイヌ、沖縄人、日本本土人の集団形成史を全体として統一的に説明するための仮説である。 縄文人は北海道から沖縄まで広く分布し、時代的・地域的に大きな差はあるが、変動幅は現代日本人と比べると小さいため、埴原和郎(1993)はほぼ均一の集団とみることができるとした。埴原和郎(1993)は縄文人は大陸とは異なる生態系や食糧資源により独特な形態に小進化したと考えた。 小山修三(1984)は、縄文時代の集落は平均24人だったが、東日本の弥生集落は57人に達し、西日本では更に大規模な佐賀県・吉野ヶ里遺跡が登場し、人口が大幅に増えたと指摘する。これらの遺跡は渡来人により営まれたものであり、渡来には気候の寒冷化や中国・朝鮮半島の動乱の影響もあったと推定している。 埴原和郎(1987)は弥生時代から7世紀までの渡来人の数を推計し、7世紀までに渡来人人口は日本人全体の70%から90%に及び、数十万人から百万人以上が渡来したと推計した。 埴原和郎(1990)は全国の大学・博物館の協力を得て、出身の明らかな現代日本人の骨標本データとして男性711個体、女性537個体を分析した。縄文系集団の特徴は、北海道、東北地方、四国、九州南部に残り、渡来系集団の特徴は北九州、本州西部に残る結果を得た。 日本人の二重構造性は弥生時代に生じたと結論づけている。
縄文人の形成
埴原和郎は縄文人が北海道から沖縄に至る日本列島の全体に分布していたと考えた。また縄文時代を通じて各集団に小進化が生じ、かなり大きな時代差とともに地域差が生じたとする。縄文人の形質は同時代の中国の集団とは大きく異なり、南アジアの旧石器時代人に共通する多くの「古代型」の特徴を示すと考えた。これは各地域の頭骨計測値の因子分析から得られた結果であった。縄文人のミトコンドリアDNA配列はマレーおよびインドネシア出身の2個体と類似したことは、縄文人の祖先集団を東南アジア系と推測した。旧石器時代から縄文時代にかけて、日本列島の住民はそれぞれの地域で小規模な社会を形成していた。
人種交代説・混血説・移行
明治・大正期には日本列島における「人種交代説」が唱えられた。つまり渡来人は縄文人と交代したと考える説であり、先住民である縄文人は新しく渡来した現代日本人の祖先集団に駆逐され,人種的交代が起きたとする。これに対して混血説は縄文人の集団が近隣の集団 (渡来人)と混血することによって現代日本人に変化したと考える。移行説は日本列島では人種の交代や混血はなく、縄文人集団自体が進化することによって現代日本人に変化したとする説である。移行説は環境要因の影響で少しずつ身体的に変化して現代本土日本人になったとする。
弥生人の到来
地球規模の寒冷化と、中国の中・北部および朝鮮半島における争乱により、弥生系渡来人の数は弥生時代から急速に増加し、大陸からの渡来は弥生時代から7世紀に至るほぼ1000年間にわたって長く続いたとする。渡来人は権力者やその一族が含まれるが、それだけでなく、多数の一般庶民や難民が含まれていたとする。埴原和郎は新石器時代から現代に至る中国北部、蒙古、東部シベリアなど多数の集団の骨格データを多変量解析法により分析し、渡来系弥生人の頭骨形態は蒙古、中国東北部および東シベリアなどで寒冷適応をとげた集団との強い類縁性を有すると判断した。 渡来人は北アジアを源流とし、中国北部や朝鮮半島やを経由して日本に到達したとする。 金関丈夫(1966)は渡来人たちが男性主体の集団であったために日本で在来集団(縄文人)の女性と結婚したと考えた。骨形態からみると弥生人の特徴は北アジア集団の遺伝的影響が西日本、とりわけ北部九州に及ぶが、一方、東日本では在来の縄文人の遺伝的連続性が認められるとした。30名以上の人類学者および解剖学者の協力を得て組織された研究班により北海道(アイヌ)から南は九州に至る諸地域を含み、調査した標本数は男性711個体, 女性537個体に及ぶ。埴原(1985)は頭骨計測値に西日本から東北地方に向かって増加または減少する明らかな勾配を認めた。
二重構造説
埴原和郎は日本人の生物学的特徴は全体として、本州南西部と九州の集団は北アジア集団に類似し、本州北東部の集団は東南アジア集団に類似すると結論づけた。 すなわち日本人集団の基底に南東アジア系集団由来の縄文人の上に、北東アジア系集団由来の弥生人が重なる二重構造をなすとした。 明治大正期には「人種交代説」が有力であったが、縄文人と現代人の差を説明する最も単純な論理であるが、西日本から東日本の形質の勾配、形質の局地的な偏り(地域性)、日本犬・野生マウス、ATLV保有者の分布を説明するには限界があり、二重構造説が提唱された。 形質の勾配とは現代日本人骨の近畿、関東、東北、北海道(アイヌ)にかけて、頭蓋骨大長、頭骨最大幅、パジオン・プレグマ高、頬骨弓幅、上顔高、鼻幅、鼻高、総合偏差値がスムーズな勾配が見られることをいう(埴原和郎(1990))。
考察
埴原和郎の説は日本人の形成をめぐる明快で分かりやすい説として広く受け入れられた。 現在では二重構造モデルはいくつかの問題点を抱える。第一に、約3万年から2万年前に日本列島に渡来した後期旧石器時代の子孫が縄文人と考えられており、弥生人は中国北部や遼寧地域系のDNAをもつ韓半島青銅器文化人が弥生系渡来人と考えられていることである(藤尾(2024))。第二に縄文人が日本列島全体で均一であるという仮定を設けている点である点が指摘されている(篠田(2024))。実際には縄文人は複雑な形成過程を経ている。第三に現在ではDNA分析の技術が発達しており、縄文人や弥生人のDNA分析により中国、韓国との集団的な比較が可能となっている。第四に二重構造モデルでは北海道のアイヌ集団と琉球集団は本土の日本人と比べると縄文系の遺伝子を持つという共通点以外には共通する要素はないとされる点である(篠田(2024))。 二重構造モデルは日本人の形成全体をうまく説明できるモデルであったが、完全に否定されるモデルというわけではなく、修正や強化すれば、使えるモデルになると言える。
参考文献
- Kazuro Hanihara(1987)”Estimation of the number of early migrants to Japan : a simulative study” Journal of the Anthropological Society of Nippon,Vol95,No3,SN
- 埴原和郎(1990)『日本人新起源論』角川書店
- 埴原和郎(1994)「二重構造モデル:日本人集団の形成に関わる一仮説」AnthropologicalScience 102 (5),pp.455-477
- 埴原和郎(1993)「日本人集団の形成」『日本人と日本文化の形成』朝倉書店,pp.258-279
- Kazuro Hanihara(1994)"Dual Structure Model for the Formation of the Japanese Population"Anthropological Science/Volume 102,Issue 5
- 藤尾慎一郎(2024)『弥生人はどこから来たのか』吉川弘文館
- 篠田健一(2024)「DNA分析と二重構造モデル」季刊考古学No166、雄山閣
- KEIICHI OMOTO(1997)"Genetic Origins of the Japanese: A Partial Support for the Dual Structure Hypothesis"AMERICAN JOURNAL OF PHYSICAL ANTHROPOLOGY 102:pp.437-446
- 小山修三(1984)「縄文時代-コンピュータ考古学による復元」中央公論社
- 溝口優司(1994)「「混血説」と「二重構造モデル」,そして今後の日本人形成論」
- 金関丈夫(1966)「形質人類学から観た日本人の起源の問題」民族學研究 30 (4),pp.274-276
綿貫観音山古墳 ― 2024年10月14日 17:12
綿貫観音山古墳(わたぬきかんのんやまこふん)は群馬県高崎市綿貫町にある古墳時代の前方後円墳である。日本百名墳に選出されている。
概要
群馬県高崎市を流れる一級河川である烏川に合流する井野川との合流点から約2.0km遡った右岸の河崖縁寄りに立地する。標高は約73m、ほとんど起伏の見られない平坦地である。副葬品の内容が特に充実する6世紀後半を代表する東日本の古墳である。。副葬品から朝鮮半島南部の百済・新羅・加耶地域との深い関係性が想定され、高い制作技術で作られた優品が収められている。石室の石材は6世紀第2四半期の榛名山噴火で噴出した角閃石安山岩を主要石材とする。石室からは二神六獣鏡、獣帯鏡、金銅製鈴付大帯・金環、金銅装頭椎大刀・鉄地銀張素環捩環頭大刀、小刀・刀子・衝角付変形冑・挂甲などの武器や武具,轡・鞍・鐙・雲珠などの馬具,須恵器の大甕・壺・坏,土師器の壺・高杯,銅製の水瓶など500点以上の副葬品が出土している。玄室は全長8.2m、幅3.8m、国内最大級のサイズである。 埴輪は巫女や弦楽器を爪弾く三人童女、正装貴人、挂甲武人、農夫、盾持人などの人物埴輪などが原位置を留めた状態で発見された。金銅大帯は綿貫観音山古墳のほかには、奈良県の藤ノ木古墳と群馬県の山王金冠塚古墳でみつかっているが、鈴付の金銅大帯は綿貫観音山だけである。 天井石が崩落していたため副葬品が盗掘されずに残っていたと考えられる。
調査
周辺の開発計画が立案され、群馬県立博物館学芸員の梅澤重昭氏が計画を見直すよう要望する。しかし観音山古墳の保存に対する地元関係農家の総意は、当面する稚蚕共同飼育用桑園を確保するためには、観音山古墳に桑園を造成することは止むなしという立場であり、保存にたいして否定的であった。地元関係農家は、桑園造成のために墳丘部にブルトザーを入れて、開墾に着手しようとしていた。1965年(昭和40年)土砂採取のため破壊、削平された前方部墳丘の測量調査を群馬県立博物館(現県立歴史博物館の前身)が行い、200分のl縮尺の墳丘実測図を作成した。 1667年(昭和43年)3月4日から17日にかけて第1次調査が行われた。現場作業の責任者には、群馬県立博物館学芸員梅澤重昭、発掘調査員として明治大学考古学研究室から派遣された学生13名および、県内出身の考古学専攻学生3名をもって構成する調査団が編成された。埴輪等の配置状況を明らかにすることを第一の目的とし、主体部の種類とその位置確認を第2の目的とした。後円部墳頂部で家・鶏・盾形埴輪等が確認された。主体部横穴式石室が確認されたため、保護対策を進める必要から主体部石室を開口し、石室内部の調査にあたった。しかし玄室右壁中央部を中心に石室は崩壊しており、天井石は玄室中央位の第2石が左側壁を支えながら落下していた。古墳は盗掘等の被害を受けておらず、きわめて良好に保たれていたことが判明した。全体調査を次年度事業とした。 第2次調査は、国の補正予算180万円を得て、1667年(昭和43年)7月26日から8月16日の期間で、主体部横穴式石室の全体調査、墳丘頂部および、中段平坦面に配置されている埴輪類の配列状態の解明、周堀囲続状態及兆域範囲の確認を行った。 第3次調査は同年11月20日から12月6日までの16日間とし、調査員に明治大学文学部史学地理学科考古学専攻の学生30名(例言参照)が参加した。併行して石室内出土遺物類の保存科学調査を行う。東京国立文化財研究所保存科学部、千葉大学理学部が協力した。県立博物館に収蔵された遺物類のなかで、埴輪類男子胡坐像(親)と女子膝坐像(巫女)、女子立像(御食持ち)の3体のほか、三人童女像・盛装男子像・桂甲武人像・農夫像(馬子)等を完全復元することができた。
規模
- 形状 前方後円墳
- 築成 前方部:2段、後円部:2段
- 墳長 97m
- 後円部 径径61m 高9.6m
- 前方部 幅64m 長49.4m 高9.4
遺構
- 外表施設
- 円筒埴輪 円筒・朝顔形
- 葺石 なし
- 主体部
- 室・槨 横穴式石室(両袖型)
遺物
- 【鏡】
- >獣帯鏡 - 中国鏡
- 二神六獣鏡 - 仿製鏡
- 【装身具】
- 金環9
- 銀環4
- 金銅製鈴付大帯・
- 金銅製ボタン形飾り
- 【玉類】
- ガラス丸玉
- ガラス小玉
- 金製中空丸玉
- 【武器】
- 金銅装頭椎大刀
- 鉄地銀張素環捩環頭大刀
- 三累環頭大刀
- 刀身
- 鉄鉾身石突
- 鉄鏃
- 【武具】
- 衝角付変形冑
- 挂甲
- 臑当
- 籠手
- 胸当
- 【農工具等】
- 鑿
- 鉄鑷子
- 鉇
- 銀装刀子
- 刀子
- 鹿角把刀子
- 【馬具】
- 金銅製馬具(花弁付雲珠・歩揺飾雲珠・素環状鏡板付轡・鞍・鉸具)・
- 轡 ?
- 三環鈴
- 鉄製鉸具
- 鉄辻金具
- 鉄板飾壺鐙など
- 【土器】
- 土師器
- 須恵器(TK43)
- 【その他】
- ハマグリ
- 銅製水瓶
築造時期
- 6世紀後半
被葬者
- 6世紀の高崎市を中心とした地域を支配した豪族。
展示
- 群馬県立歴史博物館 - 日本国(文化庁)所有
指定
- 2020年(令和2年)9月30日、国宝に指定
- 1973年(昭和48年)4月14日 国の史跡指定
考察
6世紀の高崎付近の有力者としては、『先代旧事本紀』に記される上毛野国造に任命されとされる彦狭島命や武蔵国造の反乱時に当事者となった上毛野地方の豪族上毛野君小熊などが浮かび出る。『新撰姓氏録』に記される韓矢田部造は朝鮮半島と関係するものかもしれない。日本書紀に上毛野氏は朝鮮交渉に従事したとの伝承があり、出土品との関係がうかがえる。
アクセス等
- 名称:綿貫観音山古墳
- 所在地 :群馬県高崎市綿貫町字観音山
- 交 通 :
参考文献
- 群馬県教育委員会(1998)『綿貰観音山古墳』(財)群馬県埋蔵文化財調査事業団発掘調杏報告書第242号 墳丘・埴輪編
- 群馬県教育委員会(1999)『綿貰観音山古墳』(財)群馬県埋蔵文化財調査事業団発掘調杏報告書第255号 石室・遺物編
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