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安徳台遺跡群2024年10月14日 20:03

安徳台遺跡群(あんとくだいいせきぐん)は弥生時代中期の奴国の拠点集落遺跡である。

概要

安徳台は福岡市の最奥にある阿蘇山の火砕流で形成された広さ15万m2の台地である。本遺跡は弥生時代中期の集落及び墓域の変遷を把握できる貴重な遺跡で、弥生時代の階層や社会構造を検証し、弥生時代の歴史を解明するうえで重要な遺跡である。

発掘調査

平成12年調査

9 箇所約3,900 ㎡を調査した。弥生時代中期の住居跡 28 軒を確認した。古代の大型の建物跡、中世の墓地を1棟検出した。

平成15年度

甕棺墓群の約 200 ㎡を調査した。合計10 基の甕棺墓を確認し、内8基を調査した。2基からゴホウラ貝製腕輪、ガラス製品(管玉、勾玉、塞杆状製品)等の貴重な副葬品が出土した。

全体的総括

奴国では比恵・那珂遺跡群と須玖岡本遺跡一帯は王都として認識されている。大陸や半島色のある出土遺物、甕棺墓と豪華な副葬品は本遺跡が奴国の中でも有力な人物が治めていた拠点的集落であることを示す。 弥生中期から後期初頭までの集落遺跡が確認された。直径15mを超える日本最大級の竪穴住居や、青銅器の鋳型などの鋳造関連遺物や舶来してきた鉄斧を再利用した道具が出土した竪穴住居跡がみつかった。検出した竪穴住居は130軒ほどであった。竪穴住居跡から鋳型、勾玉、天河石製の玉、漢式鏃、鉄器などが出土した。2号甕棺墓の被葬者は男性で、上甕には黒色顔料が塗られていた。副葬品として、鉄剣、鉄戈、ガラス製の勾玉、ゴホウラを使用した釧、管玉、ガラス器が見つかった。釧は43個あり、うち23個を右腕に装着し、残りは横に積み重ねている。棺の外から鉄剣、鉄戈が出土した。5号甕棺墓の被葬者は女性で、朱が甕棺内に全面にまかれ、遺骸部分に丹が厚く堆積する。

人骨のDNA分析

5基の甕棺に人骨が残存していた。安徳台5号人骨は紀元前1世紀の女性人骨である。ミトコンドリアDNA 配列は現代日本人の範囲に入るゲノムであったが、ハプログループはB5b であった。弥生系渡来人であるものの、現代日本人に比べると縄文的な要素が強いことが判明した。在来の縄文人と混血が進んでいたことを示す。

遺構

  • 住居25以上(円形1)
  • 土坑10以上
  • 土坑溝
  • 掘立柱建物+
  • 地下式横穴
  • 立柱建物
  • 甕棺墓
  • 祭祀遺構
  • 木棺墓

遺物

  • 高杯
  • 石剣
  • 砥石
  • 石庖丁
  • 石剣
  • 作業台
  • 弥生土器(壺+甕+高杯+鉢+蓋)
  • 器台
  • 鉄戈
  • 鉄剣
  • 鉄斧
  • 漢式鏃
  • 鋳型
  • 貝輪
  • 勾玉
  • 管玉
  • 小玉
  • 塞杆状製品
  • 石剣
  • 石庖丁
  • 砥石
  • 石斧
  • 台石
  • 須恵器甕
  • 土師器(皿+杯+ミニチュア土器)

指定

  • 平成31年2月26日 国史跡・安徳台遺跡

展示

アクセス等

  • 名称:安徳台遺跡
  • 所在地:福岡県那珂川市大字安徳 416 番 2
  • 交通:

参考文献

  1. 文化庁(2004)『発掘された日本列島 2004』朝日新聞社
  2. 篠田謙一(2020)「福岡県那珂川市安徳台遺跡出土_弥生中期人骨のDNA分析」国立歴史民俗博物館研究報告 第219号

朝貢2024年10月14日 22:20

''朝貢'(ちょうこう)は古代の東アジアにおいて、中国皇帝に対して周辺諸国の首長が貢物を献上し、皇帝はその恩恵として下賜(返礼品)を与えて帰国させることである。

概要

孫薇(2003)は、「朝貢とは定期的に皇帝に貢品を捧げ、天子に謁見するために朝廷にあがることである」と定義した。そこで「貢」は天子に捧げる地元の産品(方物)であり、「朝」は諸侯が臣として禮を尽くし、朝廷に集めることである。 三国時代や唐において、朝貢が行われ、宋・元・明・清でも継続した。朝貢は周辺諸国の首長の使節が相手国への物品の贈与を通じてお互いの関係を確認しあうことであり、外交儀礼・政治的行為であり、本来は経済取引ではない。 直轄支配する土地では内臣であり、朝貢国は外臣である。

方物

貢品は方物という。『魏志倭人伝』に「方物」と書かれる。1373年、朝鮮国王が馬を五十匹、貢物として使者を派遣した。しかし途中で二匹の馬が死んだため、使者は普通の馬を購入して補充した。皇帝は補充した馬を却下した。朝鮮でとれない馬は「私馬」としてそれを捧げることは「不誠」であるとした。すなわち地元の産品でなければ、方物ではないとした。

倭国の朝貢

倭国からの最初の朝貢は57年である。倭の奴国王が光武帝に使いを送り朝貢し、「漢委奴国王」の印綬を授けられた。239年卑弥呼は魏に使者を送り、生口(奴隷)として男4名、婢6名、班布(まだら織の布)2匹2丈を献上した。いささか貧弱な貢物であったが、すべて倭国の産品であった。班布は紵麻(チョマ)と呼ばれる麻の布であったとされる。2丈(約4.7m)の布を2反贈ったと理解できる。それに対する皇帝の下賜品は豪華であった。「親魏倭王」の称号や銅鏡などを授かったとされる。 倭の五王時代には上表文を提出し、称号を求めている。これらから、当時の倭国は冊封体制に組み込まれていたと考えられる。

古琉球の朝貢使

尚巴志(しょうはし)の時代(在位:1422年 - 1439年)、進貢使(朝貢使)は総勢300人、ほぼ2年に1度の頻度で派遣されていた。献上品は、馬や硫黄、貝類、芭蕉布など沖縄の特産品をはじめ、日本の工芸品や東南アジアの珍品などであった。皇帝からは、国王への文書と高級な品物が下賜された。

参考文献

  1. 西嶋定生『秦漢帝国』講談社
  2. 西嶋定生(1962)「六-八世紀の東アジア」『岩波講座日本歴史 第2巻』岩波書店
  3. 西嶋定生(1962)『冊封体制論』
  4. 西嶋定生(2002)『西嶋定生東アジア史論集〈第3巻〉』岩波書店
  5. 山尾幸久(1989)『古代の日朝関係』塙書房
  6. 孫薇(2003)『「貢品」と「下賜品」 に見る中琉関係』

下本山岩陰遺跡2024年10月15日 00:12

下本山岩陰遺跡(しももとやまいわかげいせき)は縄文時代から弥生時代の遺跡である。

概要

下本山岩陰遺跡は、相浦川河口近くの標高16mの砂岩露頭に位置し、縄文文化を特徴づける洞穴遺跡の中で、縄文時代前期において拠点的に利用された洞穴遺跡のひとつであり、拠点的遺跡であった。

発掘調査

1970年に発掘調査が行われ、縄文時代前期、弥生時代の遺物が出土した。相浦川河口近くの標高16mの砂岩露頭である。縄文前期では猪、鹿等の哺乳類、鳥類、大量の貝殻や魚の骨、川蟹の殻さらには釣針等の漁労具が出土した。

人骨の出土

海部陽介,坂上和弘,河野礼子(2017)によれば、縄文時代前期に属する比較的保存のよい2体の人骨(4号と6号)と,弥生時代に属する合葬された男女2体(2号と3号),その他の人骨が確認された。縄文時代前期人骨のうち少なくともほぼ完全な1体には縄文時代人的な形態特徴が色濃く出ている。弥生時代人骨は北部九州弥生時代人より縄文時代人に類似しており、縄文人に共通する低顔,凹凸のある鼻根の周辺形態,四角い眼窩などの特徴がみられた。

人骨のDNA分析

本山岩陰遺跡出土の弥生時代人骨2体(下本山2号と3号)のミトコンドリアDNAハプログループと全塩基配列を決定することができた。西北九州型弥生人と呼ばれる形態学的には縄文人の系統を引くとされていた人骨が、縄文人に多いハプログループM7aと渡来系弥生人に多いD4aを特定できた。西北九州型弥生人の中に、本州の縄文人と同じミトコンドリアDNA の系統が存在することが明らかになった。西北九州における弥生人集団の棲み分けは明確ではなく、双方の婚姻関係を伴ったものである可能性がある。玄界灘に面した佐賀県や長崎県の沿岸地域や五島列島などの離島では,従来の縄文系の形質を受け継いだ西北九州型弥生人が生活していた。今回検出されたM7a とN9b は縄文時代から存在することが明らかとなっている。M7a は縄文時代から列島全体に分布していたと推察することが可能となった。

遺構

遺物

  • 人骨
  • 猪の骨
  • 鹿の骨
  • 鳥類
  • 大量の貝殻
  • 魚の骨、
  • 川蟹の殻
  • 釣針等の漁労具

指定

  • 平成19(2007)年3月2日 長崎県指定史跡

展示

アクセス等

  • 名称:下本山岩陰遺跡
  • 所在地:〒858-0905  長崎県佐世保市下本山町147-4
  • 交通: MR松浦鉄道 本山駅 徒歩10分

参考文献

  1. 篠田謙一,神澤秀明(2017)「佐世保市岩下洞穴および下本山岩陰遺跡出土人骨のミトコンドリアDNA 分析」Anthropological Science (Japanese Series) Vol. 125(1),pp.49–63
  2. 海部陽介,坂上和弘,河野礼子(2017)「下本山岩陰遺跡(長崎県佐世保市)出土の縄文時代前期・弥生時代人骨」

四ツ野B遺跡2024年10月16日 00:08

四ツ野B遺跡(よつのビーいせき)は三重県津市にある弥生時代の遺跡である。

概要

雲出川が形成した沖積地を見下ろす段丘の南東端にある。昭和61年の工事中に高茶屋銅鐸が発見された。四ツ野B遺跡は1辺4mから6mの竪穴建物が60棟以上が密集する。ほとんどが四辺に溝を持ち、床面中央部に炉跡や焼土がある。南側に貯蔵穴とみられる穴がある。

高茶屋銅鐸

ほぼ原型をとどめている高茶屋銅鐸1号銅鐸は津市文化財となっている。「突線鈕2式六区袈裟襷文銅鐸」に分類される。鐸身は襷状に交差する横4本、縦4本(裏表)の帯で区画される。鈕に飾耳がつくのは、近畿地方の銅鐸の特徴の「近畿式銅鐸」である。。 高茶屋1号銅鐸は弥生時代後期に製作された。高さ66.3cm、重さ15.4kgである。 2号銅鐸の破片は、東京国立博物館の銅鐸の破損部分と18片が接合した。2号銅鐸は「突線鈕3式銅鐸」である。 集落内での銅鐸出土はまれである。土木工事中であったため、出土状況は分からないが、他方の内側にのみ砂土が付着することから、鰭を上下にして埋納されていたと考えられている。

遺構

  • 竪穴建物

遺物

  • 弥生土器
  • 土師器
  • 高茶屋銅鐸

指定

  • 1999年5月6日 津市文化財

展示

  • 津市文化財センター

アクセス等

  • 名称:四ツ野B遺跡
  • 所在地:三重県津市高茶屋小森町字四ツ野4
  • 交通:

参考文献

  1. 津市教育委員会(2001)『津市埋蔵文化財調査報告33:四ツ野B遺跡(第2次)・四ツ野古墳発掘調査報告』津市教育委員会

武寧王2024年10月17日 00:09

武寧王(ぶねいおう、무령왕、462年 - 523年)は百済の第25代王である。

概要

在位は501年から523年。『三国史記』百済本紀・武寧王紀では牟大王(東城王)の第二子とされている。東城王が高官に殺害された後をうけて即位したとする。40歳であった。『三国史記』百済本紀・聖王紀によれば諱を斯摩とする。武霊王が生まれたとされる島の洞窟に説話が伝わる。武寧王は中国「梁」から「寧東大将軍」の爵号を贈られ、百済の全盛期を築いた。

日本書紀記事の正確性

次の点で正確である。

  • (1)史料間で親が異なっている。『三国史記』百済本紀・武寧王紀では牟大王(東城王)の第二子とするが、武寧王陵の発掘の結果、武寧王が東城王や三斤王より年齢が高いことが明らかになっており、現在では『日本書紀』によれば蓋鹵王の子とされる。『日本書紀』の方が正しいと考えられている。
  • (2)『三国史記』百済本紀・聖王紀によれば諱を斯摩とする。諱は日本書紀の記述「嶋」と読みが一致する。
  • (3)武寧王の生年は武寧王陵墓誌から462年とされている。『日本書紀』では雄略5年(461年)6月とされており、1年違うが概ね一致しているといえる。
  • (4)523年に死亡した当時の年齢で62歳だったと記録されている。『日本書記』の生年461年(雄略5年)は1年以内の誤差となる。百済では蓋鹵王の8年である。

武寧王の生誕

  • (『日本書紀』原文 雄略五年) 六月丙戌朔、孕婦果如加須利君言、於筑紫各羅嶋産兒、仍名此兒曰嶋君。於是軍君、卽以一船送嶋君於國、是爲武寧王。
  • (大意)461年(雄略5年)6月、妊娠した婦人は、筑紫の加唐島(現佐賀県)で男子を産んだ。名付けて「嶋君」という。軍君は船を出して、百済に送った。これを武寧王とする。百済人は嶋王を「主嶋」(国主嶋)と呼んだ。

即位の事情

  • (『日本書紀』大意)百済の末多王(第24代国王、東城王)は百姓に暴虐を働いたため、百濟の国人は王を排除して、嶋王を王に立て武寧王が即位した。
  • (『日本書紀』原文 武烈) 四年夏四月、是歲、百濟末多王無道、暴虐百姓。國人遂除而立嶋王、是爲武寧王。

死去

  • 継体17年(523年)5月、百済の武寧王が死去した。継体18年(524年)1月、聖明王が即位した。
  • (『日本書紀』原文 継体)十七年夏五月、百濟國王武寧薨。十八年春正月、百濟太子明卽位。

武寧王陵

金銀で作られた多様な装身具、金銅製飾履、青銅鏡、中国製陶磁器など4,600点におよぶ多くの遺物が出土した。墓誌石の碑文から、被葬者は百済第25代国王武寧王とその王妃と特定された。三国時代の王陵の中で唯一被葬者が明らかになった墓である。公州宋山里古墳群の一つである武寧王陵は1971年7月、宋山里6号墳の排水工事の際に偶然発見された。武寧王陵と宋山里6号墳は中国南朝の影響を受けて作られた磚築墳でアーチ型の天井をなす石室と羨道を備えた構造である。塼という煉瓦を積み上げた「塼築墓」形式で、煉瓦の紋様から副葬品の種類や配置まで、中国の南朝・梁の形式を完全に踏襲している。

倭国との関り

武寧王と王妃の木棺は、コウヤマキ(高野槙)という日本の九州にしか自生しない木材で作られていた。また『日本書紀』には武寧王(斯麻王)は倭国の佐賀県唐津市加唐島で生まれたと記されている。武寧王陵の副葬品には銅鏡や環頭太刀、翡翠の勾玉など日本との交流を示す数多くの品があった。

考察

韓国資料(日本では未刊行)では東城王は466年以降の生誕であるという。百済の反乱を平定した後、政権を握った勢力によって東城王が擁立されたという。

『日本書紀』では479年(雄略23年)4月、文斤王(三斤王)が急死したが、昆支王の5人の子の中で2番目の末多王は幼いが聡明であるため、兵500名を付けて百済に送ったとある。これが東城王となる。日本書紀の記述は真実を語っていない可能性があるが、東城王が幼かったことは事実であろう。

武寧王が昆支王の長子だったとすれば、東城王が第2子となるから整合性はありそうだ。文斤王も13歳で即位したので、東城王が13歳くらいで即位したとしても不思議ではない。百済内部の派閥争いで、東城王が擁立されたのか、または両者は母親が違うので、東城王は正妻の子であったから優先された可能性もある。百済でも正妻(王妃)の子と妾の子とでは格差があったかもしれない。『日本書紀』の「蓋鹵王の子」が正しいとすれば、東城王と武寧とは父親も母親も違うことになりそうだ。いずれにしても、この時代については『日本書紀』も『三国史記』も百済王族の親子関係の記述が混乱しているので、正確には判断しにくい。

参考文献

  1. 太田亮(1942)『姓氏家系大辞典』磯部甲陽堂
  2. 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
  3. 金 富軾, 井上秀雄訳(1980)『三国史記』平凡社

保美貝塚2024年10月17日 00:15

保美貝塚(ほびかいづか)は愛知県田原市にある縄文時代晩期の貝塚である。

概要

渥美の三大貝塚として知られている。三河湾と太平洋に囲まれた地域で、福江湾内部の沖積平野する。渥美半島の福江湾を臨む洪積台地上にある。石器・石鏃が数多く発見されており、弓矢の利用が見られる。 動物遺体の分析により、陸上では主としてシカ、イノシシを食料とし、海ではクロダイ、マダイ、スズキ、サメを捕獲していた。渥美半島は列島で有数の貝輪生産地であり、海岸に打ち上がるベンケイガイ、サトウガイを素材として、貝輪を製作していた。他地域との交易では重要な特産物であった。

調査

1903年(明治36年)に大野延太郎が、初めて学会に報告し、その後数多くの考古学者が発掘して有名になった。出土した遺物・縄文人骨は、黎明期の日本の考古 学・人類学の発展に大きく貢献した。近年の調査により東海地方初めての環状木柱列の発見、国 立歴史民俗博物館研究チーム調査による盤状集骨葬例の発見があった。縄文犬の骨が出土している。環状木柱列はそれまで縄文時代晩期の北陸地方で出土していた。円形にに巨木柱を配置した縄文時代の祭祀施設らしい遺構である。盤状集骨葬は三河湾周辺の縄文時代の貝塚で多く見つかる埋葬の状態である。

盤状集骨

水嶋崇一郎(2004)らは盤状集積人骨群の全標本について再鑑定を行ない、最小個体数,部位構成,年齢構成を求めた。また両盤状集積で最も多く保存されている大腿骨を用いて性構成を推定した。大腿骨骨幹中央部の断面積が性別判定の有力な指標となり得ることが判明した。1号集積に14個体以上(成人男性4体,成人女性6体,成人性別不明1体,幼若年3体),B集積には6個体以上(成人男性3体,成人女性2体,幼若年1体)の人骨が含まれていた。意図的な再発掘と再葬が行われていた。

遺構

  • 貝塚
  • 埋葬遺構
  • 犬埋葬
  • 環状木柱列
  • 土坑
  • ピット

遺物

  • 縄文土器
  • 土偶
  • 土製品
  • 石器
  • 石製品
  • 骨角器
  • 貝製品
  • 貝輪
  • 動物遺存体(イヌ)

指定

アクセス

  • 名称:保美貝塚
  • 所在地:愛知県田原市保美町平城
  • 交通:豊鉄渥美線三河田原駅から 豊鉄バス伊良湖本線「保美」バス停(19.4km)
*参考文献
  1. 株式会社二友組(2011)『保美貝塚発掘調査概要報告書』社会福祉法人福寿園
  2. 田原市教育委員会(2017)『田原市埋蔵文化財調査報告書11:保美貝塚』田原市教育委員会
  3. 水嶋崇一郎(2004)『保美貝塚 (縄文時代晩期) の盤状集積人骨―骨構成と形態特徴の視点から―』Antropogical Science (Japanese Series)112 (2),pp.113-125
  4. 文化庁(2018)『発掘された日本列島 2018』共同通信社

金井東裏遺跡2024年10月18日 00:13

金井東裏遺跡(かないひがしうらいせき)は群馬県にある古墳時代の遺跡である。

概要

金井東裏遺跡は渋川市中心部から北西3.3kmにある。榛名山北東山麓で吾妻川南岸に形成された段丘面上に位置する。古墳時代中期後半にムラが始まり、20棟以上の建物が建てられた。畠の痕跡もあり、竪穴系の埋葬主体部をもつ古墳が築かれた。6世紀の榛名山の噴火で大打撃を受けた。Hr-FA年代については火山灰層の埋没木の炭素14ウイグルマッチング年代に基づき、「西暦497+3/-6年」と同定されている(早川ほか2015)。榛名山の噴火は3回あり、特に6世紀の2 回の噴火は規模が大 きく、大量の降下火砕物や火砕流が生じた。「榛名-有馬火山灰噴火」は西暦400年から500年、「榛名-渋川噴火」は西暦489年から498年、「榛名-伊香保噴火」は525年から550年の間とされている。金井東裏遺跡を壊滅させた噴火は「榛名-渋川噴火」と見られる。

甲冑

火山噴火で被災した成人男性(1号人骨)が鎧を着た状態で出土したことは特筆される。甲冑は埴輪の形で示され、人が装着した状態で甲冑が見つかったのは初めてであった。 鎧は1800枚の小札を組紐でつなぎ合わせたもので、腰に鹿角装刀子、砥石を下げていた。 顔を守る頬当て、首を守る錣もそのまま残る。「甲を着た古墳人」として知られる。

人骨

合計4名の人骨が発見された。40歳代男性、30歳代女性、5歳前後の幼児、乳児である。 1号人骨は鎧を着たうつぶせの状態で出土した。3号人骨は身長143㎝前後の成人女性であった。3号人骨の頸部付近には碧玉製管玉12点とガラス小玉(破片を含む)70点が出土している。また、左腰部には臼玉27点が集中して出土した。身に着けていた可能性が高い。4号人骨は頭部を東方に向け両手と両足を広げた状態の伏臥位で倒れていた。4号人骨は歯の状態から5歳前後の幼児と推定される。 人骨の頭蓋骨の形質分析では男性は顔と鼻が細い渡来系であり、女性はあごが水平で鼻が広く、がっしりした顔つきの在地系(縄文系)であった。女性は出産経験があるとみられる。 歯のスロロンチウム含有量から、両者は同じ地質の地域で幼少期を過ごしたことが分かっている。

遺構

  • 竪穴建物33
  • 平地建物10
  • 掘立柱建物1
  • 古墳2
  • 祭祀遺構5
  • 畠14
  • 道19
  • ヒト足跡852
  • 馬蹄跡952

遺物

  • 小札甲2
  • 衝角付冑1
  • 鹿角製小札50
  • 銀・鹿角併用鉾1
  • 鹿角装鏃25
  • 須恵器、土師器
  • 玉類
  • 鉄製品

指定

展示

  • 渋川市埋蔵文化財センター
  • 群馬県立歴史博物館

考察

金井東裏遺の埋没時期は、「榛名-渋川噴火」の地質的な噴火時期推定の西暦489年から498年と埋没木の炭素14ウイグルマッチング年代がほぼ一致しているので、497年頃と考えても問題ないであろう。公益財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団の報告書では、「5世紀末という年代については確定的とは言えず、保留としておきたい。」と慎重であるが、噴火時期は限られるので、保留にする必要はなかった。報告書は慎重に過ぎたと考える。

アクセス等

  • 名称:金井東裏遺跡
  • 所在地:群馬県渋川市金井
  • 交通:

参考文献

  1. 公益財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団(2019)『金井東裏遺跡』公益財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団調査報告書 第652集