始祖墓 ― 2024年10月08日 00:06
始祖墓(しそぼ)は後世の人々が擬制的に同祖・同族と考える一定規模以上の古墳である。
概要
始祖墓は土生田純之が提唱した概念である。大規模な古墳の周りに、後代において古墳が連綿と築かれることである。血統のつながりはないにしても、先祖あるいは同族の人物の華かと考えて、その近くに古墳を築いたとする。土生田純之(2011)は始祖墓は先祖をたどると共通の先祖にたどり着くという同族意識があるとする。
陪塚との違い
陪塚は同時代に作られるものである。始祖墓は空間的な近接性はあるが、時間的には相当に離れている。
事例
土生田純之(2011)が挙げる始祖墓の例。
- (1)鳥屋ミサンザイ古墳⇒桝山古墳⇒新沢千塚古墳
- (2)行燈山古墳⇒渋谷向山古墳⇒龍王山古墳
- (3)室宮山古墳⇒巨瀬山古墳群
- (4)松岳山古墳⇒平尾山千塚古墳群
- (5)森将軍塚古墳⇒2号墳⇒12号墳
- (6)戸塚山古墳山頂古墳群 ⇒ 飯塚南古墳群、飯塚北古墳群、金ヶ崎古墳群
考察
始祖墓という概念があった証拠とする論証がやや薄いのではないか。大伴家持の万葉集の歌と、大規模古墳から近接した場所に後代に古墳が築かれているという事例を挙げているが、「始祖墓」概念が曖昧にみえる。
参考文献
- 土生田純之(2011)『古墳』吉川弘文館
- 土生田純之(2010)「始祖墓としての古墳」古文化談叢 65,pp.59-73
- 笹尾衛(2015)「古墳の儀礼と死者・死後観」古事記學 : 國學院大學21世紀研究教育計画委員会研究事業成果報告論集 / 國學院大學研究開発推進機構研究開発推進センター 編 (1), pp.215-274
- 中井正幸(2022)「群集墳における墓地構造」岐阜聖徳学園大学紀要62 教育学部編 pp.17-36
歴史意識の古層 ― 2024年10月08日 12:27
歴史意識の古層(れきしいしきのこそう)は思想家の丸山真男が規定した日本人の古代から続く歴史意識の基底である。
概要
丸山真男は古代の『古事記』『日本書紀』や中世の史料を用いて歴史意識の古層を概念化した。 そして歴史意識の古層を構成する基底カテゴリー(基底動詞)を、「なる」「つぎ」「いきほい」の3つに集約した。三つの原理は相互に密接に関連しあうものである。
「なる」の意味
宣長は「なる」には三つの意味があると説いた。①「無りし物の生り出る」②「此物のかはりて彼物に変化」③「作事の成終る」の三つである。①は伊耶那岐と伊耶那美の「生む」行為によって神の出現を語る前段階としては、「なる」としか表現できかった。②は「化」で変化・変身を表す。③は「成」で完成を意味する。
- 無から有が生まれる(生) be born
- 「生む」場合に「親―子」関係が生じる。
- あるものが別のものになる(変) be transformed
- ものごとが成り終わる(完成) be completed
「なる」の使用例
「生」の事例
- 原文『古事記』上巻) 天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主神。
- 釈読)天地(あめつち)初(はじめ)て發(ひら)けし之の時。於高天原(に)成れる神(の)名は、天之御中主(あめのみなかぬし)の神。
- (大意)天地が初めてできたとき、高天原に生まれた神の名前は天の御中主であった。
「変」の事例
- 原文『古事記』(上巻) 於是思奇其言、竊伺其方?者、化八尋和邇而、匍匐委蛇。
- (釈読) ここにその言を奇(あや)しと思ほして、そのまさに産みますを伺見かきまみたまへば、八尋鰐になりて、匍匐はひもこよひき。
- (大意)その言葉を不思議に思って、まさに子供を産もうとする最中に、覗きみたところ、八丈もある長い鰐になつて這いつくばっていました。
「完成」の事例
- 原文『古事記』(上巻)是時有光海依來之神、其神言「能治我前者、吾能共與相作成。若不然者、國難成。
- (釈読) この時、海を光てらして、依り來る神あり。その神の言のりたまはく「我がみ前をよく治めば、吾あれよくともどもに相作り成さむ。
- (大意)このとき海を照らしてやってくるものがいた。その神が言われることは、「わたしをよく祀れば、一緒に国を完成させましょう。
つぎの意味
国生みの最初から伊弉冉の「神避」に至るまで、「次」は47回出現する。世界を時間的連続性で語ることは、無窮性、血統的正当性を強調するものといえる。
- (原文『古事記』上巻) 高御産巣日神、神産巣日神。此三柱神者、並獨神成坐而、隱身也。
- (釈読) 次に高御産巣日神。次に神産巣日神。此の三柱の神は、並なみ独り神と成なり坐まして身を隠しき。
- (大意) 次の神樣はタカミムスビの神、次の神樣はカムムスビの神、この御三方は皆お一人で出現され、やがて姿を隠した。
「いきほひ」の意味
「いきほひ」は自然の成長・増殖・活動を魂の活動としてとらえる、古代日本人のアニミズムの観念が盛り込まれていると解釈されている。
- (原文『日本書紀』神代上) 亦曰、伊弉諾尊、功既至矣、德文大矣、於是、登天報命、仍留宅於日之少宮矣。
- (釈読) 伊弉諾尊、功(こと)既に至りぬ。德(いきほひ)また大きなり。ここに天に登りまして報(かえりこと)命(もう)したまふ。倭柯美野(ワカミヤ)にとどまりたまう。
- (大意) 伊弉諾尊の役割は完了した。その活動は勢いがあり、天に昇り報告したあとは、日のわかみやにとどまった。
現代との関係
丸山真男はリニアな歴史観であり、オプティミスティックなものと指摘する。生成増殖のリニアな継起、構造化されない終わりのないプロセスである。限りなく続く無限の連鎖過程は、目的や意味を示さない。物事の「いきほひ」に任せて生きること、それ自体が問題であるという。 丸山真男は日本人は物事の筋道や道理より、その場の勢いを重んじる傾向があると考えていた。記紀神話に見られる日本人の歴史認識が、その後の日本人の発想の基底となっていることを指摘した。丸山は記紀神話の中に宇宙創世神話は現実の人間の歴史と連続していることを強調している。こうした発想の原点を丸山は本居宣長から得ていた。 勢や次は、丸山の指摘した思想がいわば血肉化しないまま、新しい流行を次々と追っていき、その新しい流行と過去の流行とは連続しておらず、その都度その都度と器用に新しい流行を摂取していくことに現れる。京都学派は、思想的格闘の基準となるべき座標軸が欠けていた。それゆえ超近代と前近代という異質な要素を深い思考なしにつなぎ合わせてしまった。継ぎ接ぎのパッチワークにより、異質な要素を共存さえることを丸山は「雑居」とよんでいる。
考察
丸山真男は現代の思考様式は古代に源流があると考えたようだ。筋道や道理つまり論理的な思考より、「その場の空気」で意思決定する傾向が古代からあることを指摘した。それゆえ、矛盾する思想をつなぎ合わせることに矛盾を感じないのである。
参考文献
- 丸山真男(2003)「「歴史意識」の古層」『丸山真男集 第10巻』,岩波書店
校倉造 ― 2024年10月08日 12:31
校倉造(あぜくらづくり, ancient architectural style using interlocked triangular logs)は古代の日本の蔵や倉庫に使われた建築様式のひとつである。
概要
校倉造は構造体に柱を用いず、台形や三角形断面の木材を井桁に積み上げ、壁構造で建物を作る方法である。横材の平面部が内壁、稜角部が外壁となる。そのため、壁体の木口は鋸歯状になる。 校倉造は弥生時代の倉として使われているが、奈良時代から平安時代初期にかけては国府、寺院の倉の様式として各地に建築されていた。現存最古の校倉造は正倉院である。 ただしログハウスは世界の各所で見られる。日本最古のログハウスとも言われるはが、唐招提寺の経蔵の方が古いという意見もある。経蔵の前身は新田部親王の米倉だったという。移築は天平宝字3年(759年)頃といわれるから、新田部親王がなくなる735年より前の建造であろう。
校倉造の目的
富山博(1974)によれば、いくつかの説がある。
- 1. 校木収縮説 校木収縮説すなわち、湿度の低い時は木材から水分が抜けるので木材と木材の間に隙間ができ、外気を倉の中に取り込む。一方、湿度が高くなると木材が水分を吸って膨張するので木材と木材の間の隙間がつまり、湿気の侵入を防ぐという説は、現在では否定されている。
- 2.水切り説 雨水の停滞を防ぐだけなら、他の形状が家が考えられる。
- 3.耐力壁説 穀倉の断面強度を上げるとの説である。
- 4.生産条件説 甲あぜき6つ割取り説。
- 5.装飾目的説 単調な壁面を凹凸の壁面で変化をつける。
類例
唐招提寺の経蔵や宝蔵、東大寺本坊経庫も校倉造である。
正倉院の中倉は校倉造ではなく、厚板を柱の溝に沿って落とし込んだ「落し板倉構法」である。
参考文献
- 富山博(1974)「正倉建築の構造と変遷」日本建築学会論文報告集
終末期古墳 ― 2024年10月10日 00:13
終末期古墳(しゅうまつきこふん)は前方後円墳が見られなくなる古墳時代末期から飛鳥時代にかけて築造された古墳である。
概要
6世紀末から7世紀になると前方後円墳の築造がされなくなり、その後の7世紀に作られた古墳を終末期古墳という。形状は円墳(円形)、方墳(四角形)、六角墳(六角形)、八角墳(八角形)と多様化する。、彩色壁画のあるキトラ古墳と高松塚古墳が特に有名である。
事例
- 二子14号墳 方墳、岡山県、7世紀中葉の古墳、
- マルコ山古墳 奈良県明日香村、円墳/六角墳、7世紀末~8世紀初頭
- 石のカラト古墳 奈良県奈良市、上円下方墳、7世紀末~8世紀初頭
- キトラ古墳 奈良県明日香村、円墳、7世紀末~8世紀初頭
- 高松塚古墳 奈良県明日香村、二段式の円墳、7世紀末から8世紀初頭
- 龍角寺岩屋古墳 千葉県印旛郡栄町龍角寺、方墳、7世紀前半~中頃
- 駄ノ塚古墳 方墳、千葉県山武市、西暦610年代の造営
考察
参考文献
ヒメヒコ制 ― 2024年10月11日 13:43
ヒメヒコ制(ひめひこせい)は古代日本におけるヒメとヒコによる二重主権の政体である。
概要
古代の政治は軍事と内政を担当する男性首長(ヒコ)と祭政に関わる女性首長(ヒメ)の二重主権が言われていた。高群逸枝(1938)は「姫彦統治制度にあつては、姫神が神事を、彦神が政事を分掌するが、この二神が一体となって即ちここに祭政一体の統治が行われる」と指摘する。「姬彦統治制度にあつては、姬神が神事を、彦神が政事を分掌するが、この二神が一體となつて卽ちここに祭政一體の統治が行はれるから、或時は姬神が表面に立ち、また他の時は彦神が立つてすべてを執行する」(高群逸枝(1938))とヒメとヒコが一体的に行動することが示されている。
副葬品にみる女性首長墓
今井(1982)は、女性の首長墓に男性被葬者と同様に武器・祭器・農工具が副葬されている事実から、祭祀だけでなく軍事・生産にも女性が関わっていたと主張する。 関口裕子は、「男女の役割分担は流動的・相互移動的であり、男女が軍事指揮権に対等に関わった時期があったが、5~6世紀にはヒメ・ヒコ制が男性優位なものに変化する下で、軍事指揮権の男女対等が失われたと指摘する。 川西宏幸・辻村純代や清家章(1998)などは、特定の種類の武器・武具は女性被葬者には副葬されないことを見いだした。一部の例外をのぞき、女性被葬者には甲胃と鎌は伴わず、女性被葬者に伴う武器は万・剣・槍などの刺突武器だけであった。女性被葬者には甲胃と、武器の主力の一つである鏃、すなわち弓矢が副葬されないとされていた。しかし前期古墳を調査すると、女性被葬者にも刀・剣が副葬されていた。それでも、女性被葬者の副葬された刀・剣は全長20cm未満のきわめて短いものであった。女性被葬者に対する葬送儀礼は男性に対するそれよりも箪事色は強くなかったと判断できる(清家章(1998))。田中良之の研究にでは、古墳時代後半期からは初葬者は男性優勢になるとされる。岸本直文(2021)は前方後円墳の形状からみた丘築造規格の検討をつうじて、一貫して政祭が分離しており、王権構造が聖王と執政王という二系列が古墳時代中期まで続いたとすることは、清家章(1998)の研究と一致する結果である。
二重主権
鳥越(2020)は、倭国古代の統治体制は、第一次統治権者として祭事権をもつ姉(または妹)と第二次統治権者として軍事権・政治権をもつ弟(または兄)との祭政二重主権であったとする。これは『魏志倭人伝』に書かれる卑弥呼と男弟との統治形態に当てはまる。 4世紀頃までは姉の女首長のもとで弟が補佐して統治する形態が地方の国々に見られると指摘した(鳥越憲三郎(2020)、p.68)。隅田八幡宮の「人物画像鏡」には、大王と男弟王が記されており、兄と弟の二重主権が見られる。
事例
- イザナギとイザナミ(『古事記』)
- イナダネ(伊那陀禰、建稲種命)とイナダヒメ(『古事記』)
- ウサツヒコとウサツヒメ(『日本書紀』神武天皇即位前記甲寅年条)
考察
古い時代の古墳の被葬者に女性が半数程度あったことは、古墳時代中期まで女首長が一般的であったことが証明できる。推古と厩戸皇子との関係も二重主権と評価することができる。
参考文献
- 清家章(1998)「女性首長と軍事権」待兼山論叢. 史学篇 32,pp.25-47
- 高群逸枝(1979)『母系制の研究』講談社
- オリジナルは高群逸枝(1938)『母系制の研究』理論社
- 今井発(1982)「古墳時代前期における女性の地位j『歴史評論』歴史科学協議会編(383), pp2-24
- 関口裕子(1987)「卑弥呼から女帝へ」脇田晴子ほか編『日本女性史』古川弘文館
- 鳥越憲三郎(2020)『倭人・倭国伝全釈』角川書店
- 田中良之(1995)『古墳時代親族構造の研究』柏書房
- 田中良之(1993)「古墳被葬者とその変化」『九州文化史研究所紀要』第38号。
- 岸本直文(2021)『倭王権と前方後円墳』塙書房
石皿 ― 2024年10月11日 20:30
'石皿(いしざら)は扁平な礫を平らに浅く窪ませた石器である。
概要
石皿は縄文時代に多く見られる石製の皿である。径20cmから40cmの円形または楕円形が多い。 石材は安山岩が多いが、花崗岩、綠泥片岩、砂岩、玄武岩もある。 旧石器時代にも少数例が見られるが、多くは局部磨製石器である。 縄文時代前期になると窪みのある石皿が登場し、中部地方以東に波及する。 西日本では縄文時代後期以降に石皿は多くなる。
研究史
坪井正五郎は石皿を穀類加工用の石器と紹介した。後藤守一の堅果加工具説から、縄文時代の植物食を支える重要な道具とされてきた。有光教一は「鞍型のすりうす」と呼び、穀類の調理器具としての用途を重視した。 上條信彦(2014)は縄文時代の加工技術の解明は狩猟・採集社会の実態を知るうえでも重要であるとした。凹部を形成するものを石皿とし、凹部がないものを台石とした。石と下石の組み合わせを示唆する最も古い例は、種子島に所在する三角山Ⅰ遺跡とする。福島県田地ヶ岡遺跡では、1つの下石に対して、上石を使い分けた少なくとも2 種類の作業があったとする。磨石と石皿として単純化されていた上石と下石について、使用痕の違いによって大きく三つの組み合わせが存在するとし、上石と下石の対応関係に一定の規則性がることを指摘した。
用途
磨石や凹石を上石とし、食品その他の打ち割り、粉砕、磨り潰しなどに用いた。 石皿と磨石を道具として使い、クリ、クルミ、ドングリなどの木の実を粉にする。 岩野原遺跡(新潟)では、石皿の窪みの中に塊となった炭化物が詰まった小型品がみつかり、団子ないしクッキー状の食物の加工台となっていた。
デンプン質分析
渋谷綾子(2007)は佃遺跡10点、更良岡山遺跡3点の石皿の付着物からマイクロピペットと精製水を用いて石皿表面の残留物を回収した。その結果佃遺跡では10点すべてでデンプン質を検出した。警備鏡で核にすると、その大きさは5μmから20μmであった。三宅西遺跡の石皿からもデンプン質を検出した。形態からサトイモ、ヤマノイモ、ハシバミ、ヒガンバナのデンプンではなかったが、同定はできなかった。
世界の事例
ガンダーラに化粧皿(Toilet Tray)」と呼ばれる紀元前1世紀~紀元1世紀の石皿がある。皿を区分し、間に凹面に浮彫装飾を施す。シリア・ルメイラ遺跡では磨石を台石の上で 前後に動かしムギを挽いた。古代エジプト統一王朝では石材を加工して器を作る技術が発達し、石製皿も作られた。韓半島では磨石と石皿がセットで出土している。磨石と石皿は、新石器時代の初期から、ドングリなどの堅果類に石皿は用いられていたが、農耕が普及してからは穀物にも用いられた。
日本の事例
- 石皿 - 原遺跡、岡山市北区御津宇垣、縄文時代後期~晩期
- 石皿 - 地蔵田遺跡、秋田県秋田市、縄文時代
- 石皿 - 丸尾遺跡、広島県呉市蒲刈町大浦、縄文時代後期
参考文献
- 田中琢・佐原信(2011)『日本考古学事典』三省堂
- 安達厚三(1983)「石皿」『縄文文化の研究』7,道具と技術、雄山閣出版
- 有光教一(1953)「朝鮮石器時代の磨臼」『史林』35-4、
- 上條信彦(2014)「縄文時代石皿・台石類、磨石・敲石類の検討」人文社会論叢. 人文科学篇(31)、pp.15-39
- 渋谷綾子(2007)「佃遺跡・更良岡山遺跡の石皿および三宅西遺跡の土器付着物における残存デンプン」古代文化 59 (2),pp.116-126
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