天満・宮西遺跡 ― 2024年11月24日 01:01
天満・宮西遺跡(てんまみやにしいせき)は香川県高松市にある弥生時代から古墳時代前期の集落遺跡である。
概要
天満・宮西遺跡は現在の海岸線から3km内陸側にある。高松平野の拠点集落であり、弥生時代後期に最盛期を迎えた遺跡である。弥生時代後期前葉を中心として、近畿地方をはじめとする他地域で作られた土器が多数持ち込まれており、古・高松湾に面する集落として、交易の拠点であったことが推測されている。遺跡の自然流路の西側に竪穴建物や掘立柱建物を検出している。しかし東側の銅鐸出土地点周辺には建物の痕跡は見当たらない。銅鐸は集落の外れに捨てられたものと考えられる。 天満・宮西遺跡の弥生時代前期は環濠集落であった。環濠は一重、直径約65mを測る平面円形である。弥生時代終末期に集落は最盛期となる。竪穴住居は全て周溝を有する。古墳時代前期初頭に集落は終わりを告げた。
銅鐸片
2016年(平成28年)3月23日に、天満・宮西遺跡の試掘調査を行った際に銅鐸片が出土した(高松市教育委員会(2017))。銅鐸の裾部であり、高さ約49.5 ㎝、幅約34.5 ㎝、重量4.1 ㎏の近畿式銅鐸であった。破片の大きさは、高さ約49.5cm、幅34.5cm、厚さ4mm、重量4.1kgで大型の破片である。破片から推定される全長は1mを越えており、近畿式銅鐸で最終段階に属するものである。裾に鹿あるいは鳥の絵画を鋳出している。銅鐸絵画が盛行するのは外縁付鈕2式までで、扁平鈕式古段階以後は絵画を鋳出す例が激減するとされる。近畿式銅鐸と製作時期が重なる三遠式銅鐸には近畿式銅鐸より絵画を鋳出している例が多い。今回出土の銅鐸は「突線鈕5Ⅱ式」とされる。銅鐸は破片状態で出土するものが多いが、これらは意図的に破砕されたと考えられている。今回出土した破片は重量が4.1 ㎏で、通常の全高42 ㎝ほどの扁平鈕式新段階の六区袈裟襷文銅鐸1個より重い。香川県内では21例目、高松市内では2例目の銅鐸である。
科学分析
高松市教育委員会(2017)でのICP分析によれば、天満・宮西遺跡出土の近畿式銅鐸の破片は、錫濃度2.22%、鉛濃度3.47%であった。ヒ素とアンチモンの濃度はそれぞれ0.394%、0.458%で、鉛同位体比分析(鉛同位体分析で中国華北産の鉛と判定)の結果や銀などの他の微量元素の濃度を総合すれば、前漢鏡と共通する原料金属で作られたと考えられる。つまり銅鐸の材料は中国からもたらされたものである。
遺構
弥生前期
- 環濠
- 土坑
弥生後期から古墳前期初
- 竪穴建物
- 井戸
- 溝
- 土坑
遺物
弥生前期
- 弥生土器
- 石器
弥生後期から古墳前期初
- 弥生土器
- 木器
- 銅鐸破片
展示施設
- 高松市埋蔵文化財センター
指定
- 平成31年3月15日 市指定有形文化財
考察
古墳時代になって銅鐸がなくなった理由はなんであろうか。 古墳時代において「外部勢力(渡来人)による征服」説もあるが、その明確な証拠はない。 渡来人の大量渡航はDNA分析から、弥生時代と古墳時代にあったことは事実と考えられるが、古墳時代に新たな弥生人とそれまでに定住した弥生人との戦争は考えにくい。 銅鐸は弥生時代の祭祀の道具であったが、むしろ祭祀の方法や考え方が古墳時代になって変化したことが要因として考えられる。弥生時代に鏡・剣・勾玉などを使った祭祀はあったが、それは地域ごとの首長が祭祀の主催者であった。古墳時代には地域間ネットワークが強まり、「共立された」広域連合体の王が登場し、政治体制が変化して、地域の首長を統合していった。古墳時代には王は旧来の銅鐸祭祀を否定し、新しい祭祀を提唱し、弥生時代の祭祀を抑圧した、というストーリが見えてくる。「共立された」王は前方後円墳を全国的に作らせるだけの影響力があったことが、そのひとつの証拠として提示できる。これは、もちろん「仮説」であるからさらなる証拠は必要である。
アクセス等
- 名称: 天満・宮西遺跡
- 所在地: 香川県高松市松縄町295番地1
- 交通: 琴平電鉄 三条駅から徒歩18分
参考文献
- 高松市教育委員会(2002)「天満・宮西遺跡」高松市埋蔵文化財調査報告第60集
- 高松市教育委員会(2017)「高松市内遺跡発掘調査概報」
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