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2023年12月02日 12:13

(あぶみ)は馬具の一種で、馬の乗り手が足をかけて体の安定を保つ部品である。

概要

「鞍」の両側に鐙を下げ、騎乗時に足を乗せる。 馬具がない時代は馬に乗るのは騎馬民族など幼少の頃から鍛錬をした者の特殊技能であった。乗馬中には乗り手の足を支える。 初期は馬の左側にだけ付いていた。やがて戦場においては両手で武器を扱いながら、馬の激しい動きに耐えて姿勢を保つために両側に鐙をつけるようになった。木製壺鐙の出土地域は、渡来文化との関係性が深いという共通点が見られる。

使い方

形状によって輪に袋を設けた壺鐙、唐風の輪鐙がある。輪鐙は古墳時代はじめに登場し、壺鐙は古墳時代末期に登場した。壺鐙の踏板を足底の半分ほどまで伸ばすため、半下鐙が考案された。武士が台頭した平安時代末期には、足底全体を乗せることができる「舌長鐙」が普及する。 材質や製作地によって木鐙、鉄鐙、七条鐙、上総鐙、那波鐙、武蔵鐙などがある。

国内最古級の壺鐙

蛭子田遺跡(滋賀県東近江市)で、5世紀後半~6世紀前半(古墳時代後期)の木製のつぼ鐙が出土したことが2011年、7月14日、滋賀県文化財保護協会から公表された。幅十四・二センチ、奥行き十六・一センチ、高さ十九・七センチの三角すい型。

出土例

  • 輪鐙 - 江田船山古墳出土、熊本県和水町、古墳時代・5~6世紀
  • 壺鐙 - 糘塚横穴墓群出土、古墳時代・6~7世紀、山口県長門市
  • 木製壺鐙 - 蛭子田遺跡、

参考文献

  1. 最古級の木製つぼ鐙が出土四国新聞、2011/07/14

朝鮮式山城2023年12月02日 23:59

朝鮮式山城(ちょうせんしきさんじょう)は7世紀の大和政権が唐・新羅連合軍から国土を防衛しようとして築造した山城である。

概要

663年(天智2年)8月の白村江の戦いで倭軍が敗北した後、唐・新羅連合軍の侵攻に備えて築かれた古代日本の山城である。日本書紀に記載されている山城を朝鮮式山城といい、記載されていないものを神籠石系山城という。構造はどちらも同じである。 標高300mから400mの急峻な地形にあることが多い。 朝鮮半島の山城との類似から関野貞が命名した。

代表的な朝鮮式山城

  • 大野城 - 福岡・佐賀両県にまたがる
  • 基肄城 - 福岡・佐賀両県
  • 金田城 - 長崎県対馬
  • 鞠智城 - 熊本県
  • 城山遺跡 - 香川県
  • 高安城 - 大和国、大阪・奈良両府県、
  • 屋島城 - 讃岐国

原文 - 日本書紀

  • (巻第廿七 天智四年)秋八月、遣達率答㶱春初、築城於長門國。遣達率憶禮福留・達率四比福夫、於筑紫國築大野及椽二城。耽羅遣使來朝。
  • (巻第廿七 天智六年)是月、築倭國高安城・讚吉國山田郡屋嶋城・對馬國金田城。

参考文献

蛇行剣2023年12月05日 00:00

蛇行剣(だこうけん)は剣身が蛇行するように屈曲している鉄剣である。

概要

古墳時代中期から後期の古墳(墳墓)から出土する。特に宮崎県や鹿児島県といった南九州からの出土が多い。海外では、韓国の一例があるが、ほかは「蛇行剣」の出土報告はない。 古墳の副葬品としてのみ確認されている。北限は新潟県、、南限は鹿児島県である。 出土事例数は2008年時点で、約70本である。富雄丸山古墳からは、全長約2・37メートル、幅約6センチとなる国内最長の蛇行剣が見つかった。

使い方

実用の武器ではなく、儀礼用の鉄剣と考えられている。

出土例

  • 蛇行剣 - 花の木古墳群、古墳時代中期前半、5世紀前葉
  • 蛇行剣 - 溝下古墳出土、鹿児島県出水、古墳時代・5~6世紀、東京国立博物館
  • 蛇行剣 - 宮崎県大萩31号地下式横穴墓出土、古墳時代・5世紀、宮崎県立西都原考古博物館蔵
  • 蛇行剣 - 入西石塚古墳、埼玉県坂戸市、古墳時代

参考文献

石錐2023年12月05日 17:39

石錐(いしきり/せきすい)は穴をあけるための道具である。

概要

縄文時代に特徴的な石器である。長さ3cm前後の一端を針状にとがらせた打製石器である。頭部を平たくしたものと全体を棒状にしたものとがある。江戸時代には石鏃の一種とされていたが、1886年に羽柴雄輔が石錐と指摘した。旧石器時代と弥生時代はすべてが打製石器 である。北部九州では石錐はまれである。朝鮮半島に類例がある。

分類

形状によりA類、B類、C類がある。

  1. A類:基部に短い身部を作り出したもの。旧石器時代において特徴ある形状である。
  2. B類:膨らんだ基部から身部が細長く棒状に突出する。縄文文化に独特なもの。
  3. C類:基部がなく、全体が棒状のもの。

使い方

先が細く尖っており、獣の皮や木の皮などを縫い合わせるため、木器や皮革製品などの有機質に穴をあける道具と推察される 柄部にアスファルトによる固定痕が残るものがみられる。

出土例

  • 石錐 - 南方遺跡、岡山市北区国体町、弥生時代
  • 石錐 - 境A遺跡、富山県朝日町、縄文時代、重要文化財
  • 石錐 - 御経塚遺跡、石川県野々市市御経塚、縄文時代後期から晩期

参考文献

  1. 西谷正(1981)「朝鮮の環状様穿孔具について)」朝鮮学報99,100

2023年12月07日 19:36

(はし)は食事をするために使う木製または金属製の細い二本の棒である。

概要

倭人が箸を使い始めた時期については、様々な説がある。縄文時代説、飛鳥時代説、奈良時代説などである。 魏志倭人伝には倭人は手で食事をすると書かれていることから、弥生時代の食事は手づかみであったと考えられる。登呂遺跡、唐古・鍵遺跡出土品には木匙 や木杓子が出ているが、木の箸は現在 までのところ出土していない。

飛鳥時代説

日本で最も古いと思われる箸は655年に焼失した飛鳥板葺宮跡出土品と藤原宮跡出土品である。時代は下るものの平城宮跡、伊場遺跡にも箸と思われる出土品がみられる。板葺宮跡出土の箸の材質はひのきであり長さは約30~33cm,0.5~1.Ocmである。食事用の箸というより祭祀用との説が強い。一方では飛鳥時代に遣隋使が箸を中国から持ち帰った伝わったとの説がある。 小田裕樹は飛鳥時代の食器(特に土器)の変化から、飛鳥時代後半には箸を使う食事が始まったと考えている。古墳時代までは小型で底の丸い土器が主体であるが、飛鳥時代後半に入ると、高台が付く土器や、底が平らな土器が主体になるという食器構成に変化した。台付・平底の食器は置くと安定するため、箸・匙を使い口に運ぶ食事に適した形とされる。

奈良時代説

佐原真は飛鳥・藤原地域から箸はほとんど出土せず、平城宮では木製箸が大量に出土することなどから、箸を使う食事の普及は奈良時代からであると主張した。奈良時代の箸は両端が同じ太さであった。向井も平城京や長屋王の邸跡からも木製の箸や匙が出土していることから、箸は七世紀以降になって一般に普及したとする。箸を使う食事法は奈良時代頃には本格化したが、当時は貴族や役人が使用し、庶民はまだ使っていなかったと考えられる。

縄文時代説

三田村有純(2009)は箸は縄文時代にあったと主張する。北海道の礼文町船泊遺跡や、福井県鳥浜貝塚などの縄文時代の遺跡から、既に木や骨を削った箸状のものが出土するとしている。

弥生時代説

弥生時代末期の遺跡から一本の竹を折り曲げたピンセット状の「折箸」が見つかっている。これは祭祀や儀式用の祭器として神に配膳するために使用され、食事用の箸ではなかったとされる。

出土例

参考文献

  1. 本田総一郎(1978)『箸の本』柴田書店
  2. 一色八郎(1990)『箸の文化史 世界の箸・日本の箸』御茶の水書房
  3. 三田村有純(2009)『お箸の秘密』里文出版
  4. 向井由紀子(2001)『箸』法政大学出版局
  5. 向井由紀子・橋本慶子(1977)「わが国における食事用の二本箸の起源と割箸について」調理科学 10 (1), pp.41-46

衣蓋2023年12月07日 23:46

蓋形埴輪/林遺跡/近つ飛鳥博物館

衣蓋(きぬがさ)は貴人の頭上にさしかける絹または織物を張った長い柄をつけた傘である。 「衣笠」・「絹傘」・「蓋」とも書く。

概要

段上達雄(2012)は衣蓋は権力の象徴とする。 倭国では4~5世紀ごろの古墳などから、絹などの布を張った木製の傘、つまり「蓋(衣笠)」を象った蓋形埴輪や、蓋の上部に飾りとしてつける木製の立ち飾りが出土する。本来は雨や日差しから貴人を防護する道具である。日本では、古墳時代の下田遺跡(大阪)で、衣蓋の笠骨が出土している。 古代オリエントやエジプト、ペルシャの彫刻や絵画には、王の頭上に差しかける蓋が描かれている。中国の漢の時代の画像石や鏡などにも笠状の覆が見られる。 天皇即位儀礼の大嘗祭では、菅蓋という垂下式傘型の威儀具が用いられている、これは衣蓋と同じで、天皇の権威を表す威儀具である。

蓋形埴輪

貴人にさしかける日傘をかたどった埴輪である。名のとおり傘の部分に絹をはり、傘上部には羽のような立飾りがある。建物に衣蓋がかかるのは、貴人の住まいを表しているからであろう。

法隆寺

東京国立博物館の法隆寺宝物館に収蔵されている「太子絹笠」は、聖徳太子が斑鳩宮から、推古天皇の宮であった小治田宮への参内の際に用いた差し傘の蓋布と伝わる。山辺知行によると、『斑鳩古事便覧』に「御指傘、 太子自斑鳩宮、推古天皇宮所小治田宮江御往来時用」と記されている。法隆寺の古い目録に「蜀紅太子御絹笠」と載せられる。

大宝律令

飛鳥時代に制定された『大宝律令』には、儀式に使用する蓋の色が、身分ごとに決められていた。一位は深緑色、三位以上は は紺色、四位は縹色。裏は朱色で、総は同色を用いると記されている。 弥生時代からすでに身分差が生じているが、飛鳥時代には色で外形的に身分を表す段階に到達している。

  • (原文)「凡蓋、皇太子、紫表、蘇方裏、頂及び四角、覆錦、垂総。親王、紫大纈。一位深緑。三位以上、紺。四位縹。四品以上、及一位、頂角覆錦、垂総。謂唯得覆錦、不可垂総、其大納言以上者、兼用錦総也。唯大納言以上、垂総。並朱裏総用同色。謂総者、聚束也。同色者與表同色」

万葉集

  • (原文)240 久方の天ゆく月を網に刺し わご大王は蓋にせり
    • 大意 空を行く月を網でとらえて わが大王は衣蓋にした 
    • 空の月を捕まえて衣蓋にしたという単純な意味であるが、空の月すらも権威を表しているというところであろうか。

出土例

  • 衣蓋埴輪 誉田白鳥埴輪製作遺跡、大阪府羽曳野市誉田5世紀後半から6世紀前半

参考文献

  1. 段上達雄(2012)「きぬがさ2―古代王権と蓋―」 - 別府大学大学院紀要

蛇行状鉄器2023年12月08日 20:36

蛇行状鉄器(だこうじょうてっき)は蛇のように湾曲した鉄棒の先に筒がついている馬具の部品である。

概要

蛇行状鉄器は国内で8遺跡 11 例の出土事例がある。将軍山古墳以外は西日本に分布する。韓国では5世紀末から6世紀末にかけて、9遺跡 13 例のほかに4例の伝世品が知られている(金井塚(2004))。慶尚南道の伽耶地域に多く分布する。 行田市酒巻14号墳出土の馬形埴輪の一つに旗指物を付ける金具が表現されており、その形状が蛇行状鉄器と類似する。蛇行状鉄器の使い方が示されている唯一の例である。蛇行状鉄器は馬冑と組み合わせて使われたものと考えられる。 飛鳥寺の塔心礎から蛇行状鉄器が出土している。 石橋茂登・木村結香(2018)によれば、蛇行状鉄器のU字部で鞍の後輪に取り付け、袋部に布や羽根などを挿入し、馬の尻部を飾るものである。蛇行部のU字部との連結部分は谷部分より薄く幅広く作られている。馬の歩行に伴い、飾りが揺れる仕組みになっている。 蛇行剣とは、用途が異なる。

出土例

  • 蛇行状鉄器 - 将軍山古墳墳出土、埼玉県行田市、古墳時代
  • 蛇行状鉄器 - 飯綱社古墳、長野県長野市篠ノ井、古墳時代
  • 蛇行状鉄器 - 団栗山古墳、奈良県磯城郡田原本町、古墳時代後期
  • 蛇行状鉄器 - 船原古墳、古賀市谷山、6世紀末~7世紀初頭

参考文献

  1. 石橋茂登・木村結香(2018)「飛鳥寺塔心礎出土蛇行状鉄器の復元的研究」奈良文化財研究所紀要2018、pp.52-53
  2. 東潮(1990)「馬具の系譜―歩揺付雲珠形飾り金具と馬装」『斑鳩藤ノ木古墳 第一次調査報告書』奈良県立橿原考古学研究所、pp.397-425
  3. 金井塚良一(2004)「蛇行状鉄器再考」『考古学研究』51-1、考古学研究会、pp.55-75