大神神社 ― 2025年04月03日 00:42
大神神社(おおみわじんじゃ)は、奈良県桜井市に鎮座する神社である。日本最古の神社の一つと言われる。別名は「三輪明神」「大神大物主神社」である。地元では「三輪さん」と呼ばれる。
概要
一説に日本で最古の神社とされる。三輪山を御神体としており、本殿はなく拝殿だけがあり、拝殿奥の三ツ鳥居を通して三輪山を拝む。ご利益は人間生活全般の守護神とされ、縁結びもあるとされる。拝殿・三ツ鳥居は重要文化財であり、三つ鳥居は明神鳥居3つを1つに組み合わせた特異な形式である。 祭神は大物主大神。JR三輪駅から参道が続く。
由来
ヤマト朝廷は桜井市の纒向遺跡から始まったとされており、その人々が「国魂」として祀ったのが大神神社である。三輪山の祭祀の全盛時代は3世紀から4世紀であった。5世紀になると司祭者として軍事的指導者の役割が求められるようになり、リーダーは実力制となり、大王家の内紛が続いた。6世紀になると政治安定のため、天照大神を中心とする新たな信仰が作られた。大神神社は王権から距離ができ、国神とされて、高天原の天神より下位に位置づけられた。大三輪氏は三輪山の神の祭司として、疫病の神と位置づけを変更した。古代の大和朝廷では、疫病を避ける鎮花祭と三枝祭が執り行われた。
登拝
三輪の「登山」は「登拝」という。ご神体の「三輪山」は江戸時代まで「お留山(おとめやま)」とされ一般の人は入山できなかった。登山が可能となったのは明治時代からである。現在は入山登拝禁止日以外は「午前9時から正午まで(午前中)」「登拝」を受け付ける。
社伝
社伝によれば神体山三輪山の上に奥津盤座があり、ここに大物主の神が鎮座するという。中腹の中津盤座に大己貴の神が鎮座し、下の方の辺津盤座に少彦名の神が鎮座するとされる。大己貴の神は三諸の山に鎮座するとされ、すなわち三輪の大神とされる。
万葉集
- 味酒を 三輪の祝が 忌ふ杉 手觸し罪か 君に逢ひ難き
古事記
古事記に大物主大神と活玉依毘売の神婚譚が記載される。美しい乙女の活玉依毘売のもとに夜になると麗しい若者が訪ね、恋に落ち姫は身ごもる。姫の両親は若者を怪しみ、若者が訪ねてきた時に赤土を床にまき、糸巻きの麻糸を針に通して若者の衣の裾に刺すよう教えた。翌朝には糸は鍵穴を出て、糸を辿ると三輪山に着いた。これによって若者の正体は大物主大神と判明した。
- 三嶋湟咋之女・名勢夜陀多良比賣、其容姿麗美。故、美和之大物主神見感而、其美人爲大便之時、化丹塗矢、自其爲大便之溝流下、突其美人之富登。(古事記 中-1 神武天皇記~開化天皇記)
- (原文)此天皇之御世、伇病多起、人民死爲盡。爾天皇愁歎而、坐神牀之夜、大物主大神、顯於御夢曰「是者我之御心。故以意富多多泥古而、令祭我御前者、神氣不起、國安平。」是以、驛使班 于四方、求謂意富多多泥古人之時、於河內之美努村、見得其人貢進。(崇神天皇)
日本書記
日本書記崇神紀七年二月条に三輪の神が倭迹迹日百襲姫命に憑るといい、大物主の子大田田根子に祭らせたという。タタはタタス、 すなわち神の降臨、 顕現をいう。
- (原文 巻第九 神功皇后九年秋九月)秋九月庚午朔己卯、令諸國、集船舶練兵甲、時軍卒難集、皇后曰「必神心焉。」則立大三輪社以奉刀矛矣、軍衆自聚。
- (大意)兵が集まらなかったときこれは「神の御心」として、大神神社に刀と矛を奉納したところ兵士が集まった。
そうめんの本場
三輪は日本三大そうめんのひとつである、三輪そうめんで知られる。大神神社の参道にはそうめん店が多数ある。毎年2月5日にその年の素麺相場をご神前で占う神事『卜定祭(ぼくじょうさい)』が執り行われる。
アクセス等
- 所在地:〒633-8538 奈良県桜井市三輪1422 大神神社
- 拝観料:無料 ※宝物収蔵庫は有料(大人200円 高校生以下100円)
- 交 通:JR桜井線(万葉まほろば線)三輪駅から徒歩5分
- リンク: 大神神社
参考文献
- 江上波夫(1993)『日本古代史辞典』大和書房
- 八田幸雄(1991)「室生、長谷、大神神社の神仏習合の源流」智山学報40 (0), pp.53-67
- 『日本書紀』(日本古典文学大系67)岩波書店,p.239
五斗長垣内遺跡 ― 2025年04月03日 00:44
五斗長垣内遺跡(ごっさかいといせき)は弥生時代後期に鉄器づくりを行っていた集落遺跡である。
概要
淡路島北部の西側斜面、海岸より3km、標高200mの丘陵上に位置する。弥生時代後期(1世紀から2世紀)の鍛冶遺跡が中心となる遺跡である。発掘調査では竪穴建物が23棟みつかり、うち12棟で鍛冶炉が確認されている。 五斗長垣内遺跡は弥生時代後期初頭に突然出現した遺跡である。当初は石器作りを行っていたが、1世紀後半に直径約10mの大型竪穴建物が作られ、その中で鉄器生産が始められた。炉で熱した鉄素材を台石に載せ、敲石で伸ばし、裁断を行い、先を砥石で仕上げて鉄鏃などを作った。 大型竪穴建物に複数の炉が作られ、周囲に細かい炭が広がる。台石や敲石(幅8.1cm)などの鍛冶道具が出土した。台石や敲石は使用により表面が潰れた状態でみつかった。高温の熱にさらされて(熱した鉄を叩いた)煤がついて変色しており、鍛冶に使われたことを証明する。弥生時代の掘立柱建物は4棟が見つかった。いずれも梁行1間、桁行2間のSB-204は2.76m×2.49mの規模である。SB-203は梁行1間、桁行4間で、2.77m×5.21mの規模である。柱穴は小規模で直径平均25cm、深さ33cmである。
調査
2007年度から2008年度、水田整備に伴う発掘で計23棟の建物跡が⾒つかった。うち12棟で鉄鍛冶の炉跡や台石、敲石などの道具類、鉄の矢尻、鉄の破片といった遺構や遺物を発見した。大きな板状鉄斧は朝鮮半島から持ち込まれた(輸入した)物とみられ、折れた鉄斧の刃先と共に、大型竪穴建物の壁付近で発見された。SH-302竪穴建物は円形の竪穴建物跡で、少なくとも3回程度の建て直しがあるが、10本柱の時期は直径10.5mである。炉跡は中央付近に10個所ある。鉄製品は19点が出土した。
遺構
- 竪穴建物跡23棟
- 掘立柱建物4
- 溝
- 土坑
- 鍛冶関連遺跡
遺物
- 弥生土器(壺+甕+鉢+高杯+器台+絵画土器+小型土器)
- 石器(敲石+砥石+台石+サヌカイト製石鏃)
- 鉄器(板状鉄斧+鉄鏃+板状鉄+棒状鉄)
- 鉄製品
- 敲石、
- 砥石
- 敲石 ベンガラが付着する
指定
- 平成24年9月19日 国史跡
展示
- 五斗長垣内遺跡活用拠点施設
考察
邪馬台国畿内説では弥生時代末期の近畿で鉄器が出土しないことが難点とされてきたが、五斗長垣内遺跡の発見により難点ではなくなった。淡路島では五斗長垣内遺跡や舟木遺跡などの鉄器生産工房跡が発見されており、弥生時代後期の近畿圏の鉄器生産基地であったと見られる。淡路島が西日本屈指の鉄器生産地であったことが明らかになった。 同じ弥生時代の鉄器生産は舟木遺跡(淡路市)でも行われていた。 五斗長垣内遺跡のあったのは倭国乱の時期である。五斗長垣内遺跡で作られた鉄鏃は倭国乱の戦いでも使われたかもしれない。
指定
- 平成24年9月19日 国指定 史跡名勝天然記念物
所在地等
名称:五斗長垣内遺跡
- 所在地:兵庫県淡路市黒谷1395-3
- 交通: JR神戸線快速「舞子」から(高速バス淡路交通・舞子・福良線「福良行」50分)「北淡IC」下車から徒歩45分
参考文献
- 淡路市教育委員会(2011)「五斗長垣内遺跡発掘調査報告」
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