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町田久成2025年06月28日 16:47

町田久成(まちだひさなり, 1838年1月27日 - 1897年9月15日)は、旧薩摩藩士、初代の帝国博物館(現在の東京国立博物館)館長である。

概要

薩摩の島津氏門族で薩摩国(鹿児島県)石谷城主町田久長の長男として生まれる。母は吉利郷領主小松清穆の長女・町田国子である。1856年(安政3年)19歳で江戸に出て「昌平坂学問所」で官学・国学を学ぶ。帰藩後の1863年、大目付、藩開成所掛となる。「薩英戦争」では本陣警護隊長として参戦する。部下に東郷平八郎がいる。1864年の「禁門の変」では兵士約600人の六郷隊隊長となる。1865年(慶応1年)、森有礼ら薩摩藩の留学生を率いて渡英する。約2年の滞在でロンドンをはじめ、パリ万博にも赴いた。滞欧中は大英博物館やケンジントン博物館などを見学し、博物館事業の重要性を認識しした。1867年6月に帰国する。1868年、参与職外国事務掛となる。 帰国後は1970年(明治3年)、物産局が設けられたばかりの大学南校に勤め、その後は外国官判事、外務大丞などを歴任する。1871年(明治4年)に「集古館建設の提言」を行う。古器物(文化財)の保護、複製(模写)を建議した。は「明治期における文化財保護の歴史の端緒」を開いたと評価される。久成の提言は、翌月に「古器旧物保存方」の公布として実現した。 1872年、3月湯島聖堂にて「湯島聖堂博覧会」を開催する。ウィーン万博への出品物を披露する。1872年(明治5年)、蜷川式胤、内田正雄や画家高橋由一、写真家横山松三郎らとともに、正倉院をはじめとする社寺の宝物調査のため約4か月間出張する。

1882年3月、東京帝室博物館(後の東京国立博物館)初代館長に就任した。博物局・内山下町(現・日比谷公園)の博物館時代に、東京国立博物館、国立科学博物館、東京都恩賜上野動物園の3館の基礎を作ったことで高く評価されている。1882年10月 東京帝室博物館長を辞職。1883年10月農商省博物局勤務。1885年3月元老院議官となる。この頃、町田の元に岡倉天心、フェノロサが町田の向島小梅の別送に足繁く通う。1889年、12月。元老院議官を辞職する。 1890年(明治23年)、園城寺法明院住職桜井敬徳阿闍梨によって仏門に入り、園城寺(三井寺)末光浄院の住職になった。1896年(明治29年)。病にかかり上京、寛永寺の子院である明王院(現在は廃絶)で療養していたが、翌年病が悪化し1897年9月15日に滞在先の上野公園の韻松亭で世を去る。享年60歳。

顕彰

三井寺では功績に酬いるため町田に権大僧正の僧位を贈った。1912年、東京の帝室博物館(現在の東京国立博物 館本館北側)の庭に顕彰碑として町田久成の銅像が設置される。 墓は、滋賀県大津市の園城寺(三井寺)山内の法明院と東京津梁院墓地(東京都台東区上野桜木1-14-29、明治31年9月)にある。

参考文献

  1. 奈良国立博物館(2008)『正倉院展60回の歩み』奈良国立博物館
  2. 東京国立博物館(1981)『特別展 正倉院宝物』東京国立博物館
  3. 由水常雄(2006)『天皇のものさし』、麗澤大学出版会

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