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狗奴国2025年04月06日 18:49

狗奴国(くなこく、くぬこく)は『魏志倭人伝』に登場する国のひとつで、3世紀に邪馬台国と戦ったとされる国である。

概要

『魏志倭人伝』記載の「其の南」とは邪馬台国の南(に狗奴国がある)と解釈される。ただし、『魏志倭人伝』の方角はあまりあてにならない(水野祐(1982)、p.262)とされる。「狗(ク)」は水野祐(1982)によれば、南ツングース語の「大きい」という意味であるという。また「奴(ナ)」は国の意味とする(水野祐(1982)p.191)。両者合わせれば、「大国」の意味になる。 『魏志倭人伝』における狗奴国の説明は「其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王」だけと解釈するのが、多数説である。しかし水野祐(1982)は「其南有狗奴國」、から「耳・朱崖同」までを狗奴国の説明とする(水野祐(1982)p.251)。これは一つの解釈であるが、この解釈では「黥面文身」は狗奴国だけという解釈になる。しかし、狗奴国の説明のすぐ後に、「自郡至女王國、萬二千餘里」の記載がある。これは狗奴国の説明ではないから、水野祐(1982)の解釈は不自然にみえる。やはり「男子、無大小皆黥面文身」以下の記述は、倭国の説明ではなかろうか。

狗奴国の位置論

『魏志倭人伝』では「その南に狗奴国あり」(其南有狗奴國、男子爲王。其官有狗古智卑狗、不屬女王。)と書くが、『後漢書』では「女王国より東、海を渡ること千余里、狗奴国に至る」(自女王國東度海千餘里至拘奴國,雖皆倭種,而不屬女王。)と書く。ここで、2点が注目される。1点目は方角である。『後漢書』は邪馬台国の東とするが、『魏志倭人伝』では邪馬台国の南とするので、方角が異なる。2点目は『後漢書』は邪馬台国と狗奴国の間に海があるとするが、『魏志倭人伝』には海の存在は書かれていない。 安藤正直(1927)は『後漢書』楽浪郡吏の報告をもとにし、『魏志倭人伝』は帯方郡吏の報告がもとにしていると指摘する。もとの報告『後漢書』では『魏志倭人伝』の記載の誤りを訂正したとみることができる。水野祐(1982)は邪馬台国と狗奴国は地続きとするが、そうすると『後漢書』の記載と反している。 海が間にあるとすれば邪馬台国九州説に不利な点になり得る。近畿説を取るなら、間の海は伊勢湾を指すと解釈できるし、九州説をとるなら、狗奴国は四国にあり、間の海は瀬戸内海と解釈できる。いずれも想定している邪馬台国の東にある。

狗奴国の位置比定の各説

これまで狗奴国の比定は様々に言われてきた。諸説を検討する。

九州南部説

狗奴国は、熊本県など九州南部に比定するとした説は、江戸時代の新井白石以後、白鳥庫吉、内藤湖南、井上光貞、小林行雄などが唱えている。白鳥庫吉は狗奴国を、「熊襲の国」とし、喜田貞吉は「球磨」とする。最近では山鹿市方保田東原遺跡や高森町・南阿蘇村の幅・都留遺跡のベンガラ生産遺跡の発掘成果が見られる。しかしその比定根拠は薄く、『魏志倭人伝』の記述に関連するとみられる地名の「くま」と「くくち」の両方が見られるのは「肥後の国(熊本県)」とする。地名の読みが同じだからというのはいかにも根拠が薄い。地続きでないとすれば、九州南部では地続きなので都合が悪い。王墓、王都に有力候補がないことも問題である。邪馬台国九州説の難点は考古学の成果を見ずに、もっぱら『魏志倭人伝』の解釈だけに依拠していることである。

四国説

本居宣長の四国伊予国河野郷説である。現在の松山市北条付近である。間に海はあるのは好条件であるが、難波奥谷古墳は円墳で古墳時代の後期の築造であるし、善応寺古墳は7世紀頃である。3世紀の有力な遺跡も見当たらない。 

尾張説

最有力候補とされる。1960年代に田辺省三が提唱し、赤塚次郎(2009)が補強した。朝日遺跡に前方後方墳の原型が弥生時代中期に登場したとし、西上免古墳(愛知県一宮市)を最古の前方後方墳とした(赤塚次郎(2009))。そのほか、伊勢湾岸部から出土するS字甕(S字状口縁台付甕)をあげる。これは庄内式の甕と同じ厚みの薄い甕で、邪馬台国時代の甕とみられる。九州には弥生時代の厚みのある「厚甕」だけであり、このような薄い甕は見られない。王都の候補地は巨大弥生集落の萩原遺跡群(一宮市)、八王子遺跡、廻間(はざま)遺跡(愛知県清須市)が揚げられている。王墓は東之宮古墳が指摘され、築造年代は3世紀後半とする(赤塚次郎(2009))。

関東説

西谷正(2009)は狗奴国をのちの毛野国に比定する(西谷正(2009)、p,368-371)。根拠は『国造本紀』に毛野国が現れること、狗奴(クナ)が仁徳の時代に毛野(ケヌ)に変わったとする。王墓(古墳)では芝崎蟹沢古墳(高崎市)に注目している。この古墳から正始元年銘の鏡(三角縁重列式神獣鏡、正始元年銘、東京国立博物館蔵)が出土していることを挙げる。王都は言及がないので、弱点がある。

考察

狗奴国と認定される条件はいくつかある。(1)邪馬台国に対抗する強大な武力をもつこと、(2)人口規模がそれなりにあること、(3)弥生時代から続く集落であること(必須ではない)、(4)王都と王墓があること、(5)土器に広がりがあること、(6)邪馬台国からの経路に海があること(『後漢書』)、(7)独自の文化があること、などであろう。

  • (1)について:後代の出来事になるが、壬申の乱においても尾張(尾張連)は重要な役割を果たしているから、弥生時代から強大な武力を持っていたと解釈できる。朝日遺跡や見晴台遺跡などに環濠集落が作られていることは、弥生時代の当時にも争乱があったことを示唆する。
  • (2)について、は弥生時代には朝日遺跡、見晴台遺跡など大規模な遺跡があり、尾張地方の人口規模は弥生時代でも大きかったと推定される。
  • (3)について、尾張地方には弥生時代から現代まで続く集落がある。
  • (4)について、狗奴国の王都は八王子遺跡( 愛知県一宮市)が想定され、王墓は西上免遺跡(愛知県西尾市)、東之宮古墳などの前方後方墳が想定される。西上免遺跡には日本列島最古の前方後方墳がある。象鼻山古墳群( 岐阜県養老町)は2世紀前半から続く遺跡である。
  • (5)について、尾張の土器は「パレススタイル土器」「S字甕」S字甕は、2世紀前半に登場し、短期間に伊勢湾沿岸部に広がった。
  • (6)について、邪馬台国からの経路にある海は伊勢湾の可能性がある。弥生時代の尾張は海が入り込んでおり、現在の内陸まで海だった。「尾張太古之図」(養老元年〔717 年〕)によれば、古代の海岸は現在の桑名、大垣、岐阜、犬山、小牧、名古屋市緑区を結んだ位置にあり、名古屋市をはじめ現在の濃尾平野の大部分は海にであった。 古代の官道はこの区間は海を通っていた。
  • (7)について、見晴台遺跡、朝日遺跡、西上免遺跡では「パレススタイル土器」「S字甕」「前方後方墳」に示されるように、邪馬台国とは異なる独自の文化をもっている。 これらのことを考えれば、狗奴国の尾張比定説は最も可能性が高いと考える。

参考文献

  1. 石原道博編訳(1951)『新訂魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝』岩波書店
  2. 藤堂明保他(2010)『倭国伝』講談社
  3. 水野祐(1982)『評釈 魏志倭人伝』雄山閣
  4. 藤堂明保他(2010)『倭国伝』講談社
  5. 佐伯 有清(1981)『邪馬台国基本論文集 (1) 卑弥呼考』創元社
  6. 西谷正(2010)「邪馬台国最新事情」『石油技術協会誌』第75巻,第4号
  7. 西谷正(2009)『邪馬台国の考古学』学生社
  8. 赤塚次郎(2009)『幻の王国、狗奴国を旅する』風媒社
  9. 安藤正直(1927)「邪馬台国は福岡県山門郡に非ず」『歴史教育』2-5,6,7
  10. 山田孝雄(1922)「狗奴国考」『考古学雑誌』第12巻8号、10号、11号、12号

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