中里貝塚 ― 2025年04月13日 01:25
中里貝塚(なかざとかいづか)は東京都北区上中里にある縄文時代中期から後期初めに形成された貝塚である。「中里遺跡」の範囲内である。中里貝塚は南北100m以上,東西500m以上の範囲に最大で厚さ4.5m以上の貝層が広がる遺跡である。
概要
現況は台地の崖下に敷設されたJR東日本の京浜東北線・新幹線車両基地と尾久操車場及び宇都宮・高崎線などの線路群に挟まれており、鉄道関連施設が付近に集積している。大森貝塚の発掘から9年後の明治19年には白井光太郎によって「中里村介塚」として学界に初めて報告された。東京帝国大学で地理学教室を創設した山崎直方は、地質学科在学中の1893年(明治26 年)頃に中里貝塚を視察し、『人類学雑誌』(第96・98 号、明治27 年3月・同5月)誌上に付近の地形を記載している。 中里貝塚には最大約4.5mの厚さの貝層があり、長さ1km、幅約70~100mにわたる日本最大級の規模の貝塚である。中里遺跡内にある縄文時代中期から後期初頭にかけて当時の海岸線に形成された大型貝塚である。土坑上部から多量の材や種子が検出され、下部からは材の他に焼礫やマガキの貝ブロックが伴出した。 焼石を投入して水を沸騰させて貝のむき身を取ったと考えられる土坑や焚き火跡、木道などが確認されている。ストーンボイリングで貝を茹でていた。土坑に水を張った中にマガキを入れ、そこへ焼石を投入して沸騰させ、口を開けていた。土器を用いるより多量のマガキを一度に処理することができる。生産された大量の干貝は、遺跡で消費せず、内陸部へ供給されたものと想定されている。
発掘
昭和33年に和島誠一による調査が行われ,厚さ2m以上に及ぶハマグリとマガキからなる貝層が確かめられた。1983年(昭和58年)から1984年(昭和59年)にかけて東北新幹線田端地区建設工事に伴い実施されたのが最初の発掘調査である。当時の浜辺からムクノキ製の丸木船1艘と集石炉2基が出土した。 1986年(昭和61年)に遺跡地図上に中里遺跡が始めて示された。A地点から出土した縄文土器片は総数81 点であった。土器の形式は勝坂式土器、称名寺Ⅰ式土器、堀之内1式土器である。出土した石器は敲石10 点、砥石1点、磨石2点、石錘2点、礫器2点、剥片4点である。サメやイヌの歯も出土する。丸木舟は田端微高地上の砂層中から出土した。出土した丸木舟は、全長579cm、最大幅72cm、最大内深は中央部で42cm、船体の厚さは、舷の上端で2cm、船底部で5cmを測る。舷内部の上端がオーバーハングしている。使用された樹種は、ニレ科ムクノキである。公園建設にともなって北区教育委員会が行った平成8年の発掘調査では,厚さ4mの大規模な貝層と貝の処理施設と考えられる2基の浅い皿状の土坑が検出された、
遺構
- 貝層
- 木枠付土坑
- 杭列
- 焚き火址
- 木道
- 集石
遺物
- 縄文土器
- 土器片錘
- 丸木舟
築造時期
- 縄文時代中期から後期初め
指定
- 2000年(平成12年)9月6日 国史跡指定
展示
- 北区飛鳥山博物館 剥ぎ取り標本
アクセス等
- 名 称:中里貝塚
- 所在地 東京都北区上中里二丁目
- 交 通:
参考文献
- 東京都北区教育委員会(2018)「史跡 中里貝塚総括報告書」
- 阿部芳郎(2014)「ムラとハマの貝塚論-大森貝塚と中里貝塚-」『ハマ貝塚と縄文社会』雄山閣
支石墓 ― 2025年04月13日 17:56
支石墓(しせきぼ)は埋葬施設を囲うように支石3枚から4枚を立て、その上に平らな大石を載せた墳墓である。
概要
北朝鮮において板石を3枚から4枚立て方形石室をつくり、平らな大石をかぶせた支石墓が始まりである。 支石墓には4種類がある。
- 卓子式支石墓
- 碁盤式支石墓
- 蓋石式支石墓
- 囲石式支石墓
卓子式支石墓は板石で構築した埋葬主体部が地上に露出している型式である。漢江以北から中国遼寧地方に集中して分布することから北方式と呼ばれる。 碁盤式支石墓は板石を立てたり割石、自然石を積みあげた埋葬主体部を地下に構築して、その周囲に支石を4個から8個設置し、その上に大きな上石を載せたものである。南方式支石墓と言われる。 蓋石式支石墓は埋葬主体部を上石が直接覆うことから無支石式、蓋式、大石蓋墓とも呼ばれる。遼東半島、韓半島、日本の九州地域に広く分布しており、支石墓の形態の中でも最も普遍的な墓である。 囲石式支石墓は埋葬主体部が地上に露出するが、数枚の板石が上石の下端に沿って立てられた形態である。済州式支石墓と言われ、済州龍潭竜洞4号支石墓が代表的である。 日本には縄文時代晩期に農耕技術とともに西北九州地域に伝来した。 九州北部を中心として現存する国内の支石墓は、碁盤式支石墓と蓋石式支石墓が混在するが、卓子式支石墓はない。 北九州に遺される支石墓は、朝鮮半島南部との関係を立証するものである。 地下に土壙、石棺、石室、甕棺などが設けられる。
分布
中国、朝鮮半島、日本に広く分布する巨石墳墓の一つの形態である。 1910年代に鳥居龍蔵により朝鮮で調査が行われ、埋葬跡と確認された。朝鮮半島では海岸沿い、河川沿いで支石墓が見られる。大同江流域の石泉山、江東、中和、祥原などに大規模な支石墓群がある。礼成江、臨津江、漢江、錦江、洛東江などの大河の河口から上流に支石墓群がある。日本でも10個所以上の支石墓群がある。福岡県糸島郡、筑紫郡、浮羽郡、佐賀県東松浦郡、長崎県南高来郡、熊本県玉名郡と大分県の一部に限られる。南朝鮮の碁盤式支石墓の下部に近く、源流は朝鮮にあることを示す。
名称
名称は朝鮮の支石(コヒンドル)に由来する。板石を4枚立て方形の石室を作り、上に平らな大石を置き、蓋とした卓子型の構造を朝鮮では支石または擋石という。中国東北では石棚という。
出土例
- 新町支石墓群 福岡県糸島市 史跡名勝天然記念物
- 大野台支石墓群 長崎県佐世保市鹿町町
- 原山支石墓群 長崎県南島原 国史跡
参考文献
- 藤田亮策(1938)「大邱大鵬町支石墓調査」古跡調査報告
- 九州大学文学部考古学研究室(1997)「東アジアにおける支石墓の総合的研究」科学研究費補助金(基盤研究(A)(2))研究成果報告書
条痕文系土器 ― 2025年04月13日 21:52
条痕文系土器(じょうこんもんけいどき)は縄文時代早期の土器の外面や内面全体に平行な細い筋が無数に認められる土器である。
概要
縄文時代早期の西日本、甲信越、関東、東北に広く見られる土器である。1000年以上にわたり使われた土器形式である。縄文時代晩期後半の土器は、突帯文系土器から条痕文系土器へ変遷する。条痕文系土器の最初の段階は「樫王式」(標識遺跡は豊川市樫王遺跡である)とされる。縄文時代前期、後期を中心とするが、弥生時代にも見られる。縁がギザギザじている二枚貝を粘土の表面に当てて横に引くと、多数の平行線を同時に描くことができる。
特徴
土器の内面、外面に条痕が見られ、後円部に二列ないし三列に並列される文様がある。 土に植物繊維を混ぜる特徴がある。条痕文系土器には植物繊維が混入しているため、土器の断面が黒くなっているのが特徴である。底部の形は以前の尖底から平底に変化する。尖底から平底に変化する過程で、単純な胴形状から屈曲がされるようになる。 命名として型式名を示したのは久永春男であった (久永(1953))。
文様
文様は木の板(ヘラ)や二枚貝の縁辺部、絡条帯(棒状の芯に縄を巻き付ける)などを用いて刺突文、沈線文、圧痕などにより土器面を整える。条痕文を下地として胴上半部に表される。線を規則正しい方向に調整して、装飾効果を得ている。単純で原始的な方法で文様を造る。
出土例
- 貝殻条痕文系土器 小の原遺跡・粕畑式土器、岐阜市、揖斐郡揖斐川町戸入、縄文時代
- 条痕文系土器 伏見遺跡、鹿嶋市大字宮中字伏、旧石器|縄文|弥生|古墳
- 条痕文系土器の土器棺 安城市安城町・古井町・桜井町、弥生時代前期中頃
- 条痕文土器 西浦遺跡出土、愛知県丹羽郡大口町、弥生時代前期
考察
突帯文系土器から条痕文系土器に変わったのはなぜであろうか。当時の美意識として、平行線の美しさと実用性(表面の摩擦係数が大きいので、滑りにくい)が考えられる。 検証されたわけではないが、仮説的には、突帯文は制作時に貼り付けているので、暖めると温度により伸縮差が顕在化して帯が取れやすかったことが想定できる。 弥生時代にも条痕文系土器が出土することは、その時点で縄文系弥生人がいたことを表す。
参考文献
- 久永春男(1953)「解説三河の縄文土器」『豊橋市公民館郷土資料目録』解説 三河の縄文土器,pp.13-14
- 久永春男(1966)「弥生文化の発展と地域性 中部 東海」『日本の考古学』III 弥生時代,pp.162-18,河出書房新社。
- 永井宏幸(2003)「条痕紋系土器研究の現状と課題」『条痕文系土器の原体をめぐって』( 第 1 回三河考古学談話会研究集会資料集),pp.43-48,三河考古学談話会。
- 永井宏幸(2007)「条痕紋系土器様式の研究」研究紀要 8,公益財団法人愛知県教育・スポーツ振興財団愛知県埋蔵文化財センター,pp.23-32
- 佐藤 由紀男(2006)「条痕紋系土器分布圏における稲作をどの様に考えるか」考古学論究 / 立正大学考古学会 編 (11), 145-172
遠賀川系土器 ― 2025年04月13日 22:10
遠賀川系土器(おんががわけいどき)は弥生時代前期から現れる水田稲作と関連した土器である。
概要
1931年(昭和6年)に遠賀川下流の立屋敷遺跡(遠賀川郡水巻町)の川底から 、アマチュアの考古学研究者、名和洋一郎によって発見された。弥生時代前期に遠賀川式土器が西日本一円に広がり、稲作の範囲を示すものと考えられている。最終的に東北まで及んでいる。弥生時代前期の土器型式「板付式土器」から派生し、木製の農耕具や石包丁・太形蛤刃石斧・柱状片刃石斧といった木工具を使用し、土器は朝鮮半島の影響を受けている。 弥生時代前期に遠賀川式土器が西日本一円に広がり、稲作の範囲を示すものと考えられている。初期の水田稲作の西から東への伝播の指標と考えられている。
形状
弥生時代の最初の土器となる。器種は壺・甕・鉢・高坏などがあり、縄文時代とは異なる特徴のある形を示す。縄文時代は深鉢型の土器が主体であるが、甕、壷、高杯、鉢などの器種が現れる。器台は縄文時代にはない器種である。
文様壺
遠賀川式土器の文様には、羽状文、鋸歯文、弧線文などがある。胴上半部に文様を付ける。甕は口に刻みがあり、その下に線が作られる。壺はヘラや貝殻で模様が付けられる。口辺が発達し,胴が著しく張りだした器形となる。
出土例
- 遠賀川式土器 白石遺跡、愛知県豊橋市、弥生時代前期
- 遠賀川式土器 月縄手遺跡、愛知県名古屋市西区比良、弥生時代
考察
遠賀川系土器は文様が少なく、シンプルである。おそらく稲作民の影響の元に遠賀川系土器が広がったのであろう。
参考文献
- 藤尾慎一郎(2003)「近畿における遠賀川系甕の成立過程」国立歴史民俗博物館研究報告 108,pp.45-66
- 「遠賀川系土器の黒色物質の脂質分析と塗布方法の考察」
- 岡安雅彦・宮田佳樹(2021)「遠賀川系土器の黒色物質の脂質分析と塗布方法の考察」研究紀要 22,pp.17-28
- 永井宏幸(2016)「尾張平野における縄文文化より弥生文化への移行過程」愛知県埋蔵文化財センター研究紀要 第17号,pp.31-38
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