八丁鎧塚古墳 ― 2025年10月01日 00:26
八丁鎧塚古墳(はっちょうよろいづかこふん)は長野県須坂市にある積石塚である。 「須坂鎧塚1号墳」ともいう、
概要
1957年の発掘調査で渡来文化と関わる古墳と指摘された。八丁鎧塚と称される古墳は1号墳と2号墳である。1957年の調査は大場磐雄国学院大学教授のもと1号墳と2号墳が発掘され、墳丘に土砂を含まない純粋の積石塚であることが明確になった。過去の盗掘により埋葬施設の痕跡はないが、1号墳では方格規矩四神鏡片、石釧、貝釧、管玉、ガラス小玉などの装身具、鉄鏃、鉄鉾、鉄刀片、鉄製品、埴輪、土師器などが出土した。
調査
1957年と1994年に発掘調査された。
規模
1号墳
- 形状 円墳(積石塚)
- 規模 径25.5m、高3.5m
2号墳
- 形状 円墳(積石塚)
- 規模 推定径25m、高5m
埴輪
- 円筒埴輪 円筒埴輪あり 1号、2号とも
遺構
遺物
1号墳
- 方格規矩鏡 鏡片(2面分)
- 甲冑
- 刀剣
- 鉄鏃
- 刀子
- 石釧
- 勾玉
- 管玉
- ガラス小玉
- 貝釧
- 土師器
- 埴輪
- 碧玉製石釧・
- 貝釧
- 勾玉・
- 管玉
- 滑石製勾玉
- ガラス製小玉
- 鉄刀
- 刀子
- 鉄鉾
- 鉄鏃
- 挂甲小札様
2号墳
- 獣面付金銅製帯金具3
- ガラス小玉
- 鉄刀
- 鉄鏃
- 鈴付杏葉
- 轡
- 挂甲小札様の鉄片
- 帯金具
- 甲冑
- 鉄剣
- 鉄斧
- 土師器
- 須恵器
- 円筒埴輪
- 朝顔形埴輪
- 形象埴輪
築造時期
- 4世紀後半(1号墳)
- 5世紀後半(2号墳)
展示
考察
指定
- 1924年9月13日 長野県指定史跡
- 1965年2月25日 長野県指定史跡
アクセス等
- 名称 :八丁鎧塚古墳
- 所在地 :長野県須坂市大字八町285・287番地
- 交 通 :長野電鉄須坂駅から車で10分
参考文献
- 國學院大學学術資料センター(2015)『須坂市埋蔵文化財発掘調査報告21:長野県史跡八丁鎧塚』須坂市教育委員会
津古生掛古墳 ― 2025年10月02日 00:32
津古生掛古墳(つこしょうがけこふん)は福岡県小郡市にある古墳時代前期の古墳である。
概要
福岡県の中で最古の纏向形前方後円墳である。円形部28mに対して、方形部は5mと短い。標高51mの古墳の周辺に方形周溝墓、円形周溝墓や土壙墓などが多数造られている。いずれも古墳より新しい。地方の有力者とその近親者を埋葬した墓と見られる。胴の部分が中空の鶏形二重口縁壺形土器が3体見つかった。方格規矩鳥文鏡は、中国で作られて日本に持ち込まれた舶載品である。ガラス小玉57個は、分析の結果、近畿地方で発見されるものと類似していることが判明した。そのほか周辺から二重口縁壺20個体以上、ガラス製小玉58+鉄剣1(切先のみ)、鉄鏃35、胡禄に付属する鉄器片、袋状斧1、短冊形鉄斧1、ヤリガンナ1+鑿1が出土した。主体部から方格規矩鳥文鏡、ガラス製小玉58個、鉄剣1(切先のみ)、鉄鏃35、胡禄に付属する鉄器片、袋状斧1、短冊形鉄斧1、ヤリガンナ1、鑿1が出土した。 方格規矩鳥文鏡1面 鉄剣1振 ガラス小玉57個 鉄鏃31本 鶏形土製品3個体が小郡市指定文化財として指定された。、
調査
内部主体と遺物の出土位置等は主体部内、1号方形周溝墓主体部内、円形周溝墓主体部内に遺物があった。墳裾を巡るように方形周溝墓6・円形周溝墓1・木棺墓3を検出した。1985・1986年、市教育委員会が発掘調査した。古墳は昭和60年の団地造成で消滅した。周濠は深さ0.5m・幅6mである。木棺は組合式木棺(直葬)である。木棺の推定長は2.1mから2.3m・幅0.7から0.8mである。
規模
- 形状 前方後円墳
- 築成 後円部:1段
- 墳長 33m(平坦部を含む)
- 後円部 径径29m(平坦部を含む) 高5m
- 前方部 幅13m 長10m 高0.2m
埴輪
遺構
- 棺 組合式木棺(直葬)
遺物
- 方格規矩鳥文鏡 -中国鏡
- ガラス小玉58
- 鉄剣1(切っ先のみ)
- 鉄鏃35本
- 胡鏃に付属する鉄器片
- 斧(袋状1・短冊型1)
- 鉇1
- 鑿1
- 鉇1
- 鉇1
築造時期
- *展示
- 九州歴史資料館
考察
指定
- 2021年11月25日 小郡市指定文化財 考古資料
アクセス等
- 名称 :津古生掛古墳
- 所在地 :福岡県小郡市大字津古字生掛
- 交 通 :
参考文献
- 宮田浩之ほか(1987)『津古生掛遺跡』I-小郡市文化財調査報告書40集』
- 宮田浩之ほか(1988)『津古生掛遺跡』Ⅱ-小郡市文化財調査報告書44集』
津古1号墳 ― 2025年10月03日 00:14
津古1号墳(つこいちごうふん)は福岡県小郡市にある前方部を北側に向けた主軸長約35mの前方後円墳である。
概要
三国丘陵の先端部に位置する古墳である。 津古遺跡には古墳時代前期に属する前方後円漬2基と方墳1基からなる古墳群があり、さらに台地状の河岸段丘の弥生時代から古墳時代にかけての住居跡群を含む。周溝は無い可能性が高い。出土遺物はないが、墳丘形態から古墳時代前期と考えられる。古墳の形式により「津古2号墳(4世紀初頭)→津古生掛古墳(3世紀末頃)→津古1号墳(4世紀前半)→三国の鼻1号墳(4世紀後半)」の築造順と考えられている。 津古1号墳は古墳時代前期に関する数少ない前方後円墳として学術上の価値が高い。
調査
1968年(昭和43年)に福岡教育大学波多野教授による調査団の発掘調査が行われ、津古1号墳が確認され、他に津古2号墳・津古3号墳が発見された。当初は全て削平される予定であったが、当時の福岡県教育委員会の技師・渡辺正気氏らの努力により、津古1号墳は緑地として残された。1982年(昭和57年)に小郡考古学研究会により津古1号墳の測量調査が行われた。津古古墳群(津古2号墳、津古生掛古墳、津古1号墳、三国の鼻1号墳)」の内、現存する古墳は津古1号墳のみであった。 2016年(平成28年)11月1日から17日に測量調査、2017年(平成29年)11月6日から平成30年1月30日にかけて確認発掘調査を行った。調査により津古1号墳は全長40.6 +αm、後円部径約24.8m、前方部の長さ約15.8 +αm の規模が明らかになった。纏向型前方後円墳の規格にはそぐわず、那珂八幡型に該当する可能性がある古墳として分類される可能性が指摘された。墳形は、津古生掛古墳が帆立貝式古墳、花聳1号墳が円墳、花聳2号墳が前方後円墳の可能性も残る円墳とされた。盗掘坑は後世の削平が大きく、主体部とは断定できなかった。
規模
- 形状 前方後円墳
- 墳長 42m
- 後円部径 径24m
- 前方部 幅14m 長18m
埴輪
遺構
- 前方後円墳
遺物
- 弥生土器
築造時期
展示
- 九州歴史資料館
考察
指定
アクセス等
- 名称 :津古1号墳
- 所在地 :福岡県小郡市津古541-33
- 交 通 :
参考文献
- 小郡市教育委員会(2019)「津古1号墳」小郡市文化財調査報告書第326集
多紐細文鏡 ― 2025年10月04日 00:44
多紐細文鏡(たちゅうさいもんきょう)は複数の帯状の鈕が中心を外した位置にあり、 鏡の背面に鋸歯文様など細線の文様がある銅鏡である。
概要
鏡の裏面に紐を通す鈕が2、3個あり(多鈕)、細い線で鋸歯文などの幾何学紋様(文)を施した銅鏡である。紀元前6世紀頃中国で登場した。鈕が複数あるため多鈕細文鏡と呼ばれる。 朝鮮半島から蒙古・中国東北地方を中心として数多く発見される。日本では弥生時代の墳墓から出土する。日本ではこれまでに福岡・佐賀・長崎・山口・大阪・奈良・長野の11遺跡12面の出土例のみである。朝鮮半島では29面以上が知られている。 東京国立博物館には伝韓国慶尚南道出土の面径14.3cmの重要美術品となっている多紐細文鏡がある。2015年に福岡県・須玖タカウタ遺跡で弥生時代中期の多鈕細文鏡鋳型が出土したと報道された。従来は朝鮮半島製とされてきたが、この出土により国内生産の可能性も出ている。出土した鋳型は長さ5.1cm、幅2.5cm、厚さ2.36cm、重さ39gの滑石製である。、「重弧文」は日本の弥生土器や銅鐸に現れる文様であるから、渡来人より倭製鋳型の可能性がある。
出土(日本国内)
- 多紐細文鏡 - 奈良県御所市名柄出土、弥生時代、前4~前1世紀、東京国立博物館
- 銅鐸と多鈕細文鏡がはじめて共伴した例としてきわめて重要である。
- 直径15.6cm、縁高0.6-0.8cm、縁は断面蒲鉾形
- 1955年2月2日、国指定重要文化財、指定名「双鈕細線鋸歯文鏡」
- 多紐細文鏡 - 梶栗浜遺跡出土、山口県下関市、弥生時代(中期)・前2~前1世紀
- 直径8.95cm、縁厚0.55cm、重量115g、三紐、東京国立博物館
- 多鈕細文鏡は銅剣や銅矛と共伴する
- 多紐細文鏡 - 若山遺跡土坑出土、福岡県小郡市、弥生時代中期から後期
- 1998年10月16日 国指定重要文化財、「福岡県小郡若山遺跡土坑出土品」
- 福岡県小郡市埋蔵文化財調査センター蔵、2面出土
- 1号鏡は直径15.3cm、厚さ約2mm、重さ43g、完形
- 2号鏡は直径16.0cm、厚さ約2mm、重さ407g、腐食のため欠損あり
- 多紐細文鏡 - 吉武高木遺跡、福岡市西区早良平野、弥生前期末から中期初頭
- 重要文化財
- 多紐細文鏡 -大県遺跡、大阪府柏原市、東京国立博物館蔵
- 割れあり、直径21.6cm、縁高0.8cm、面厚0.3cm、重量937g
- 多紐細文鏡 - 本村籠遺跡、佐賀市大和町大字池ノ上、
- 面径10.5cm、ほぼ完形で鋳上がり良好、割れあり、蒲鉾状縁
- 平成5年3月31日 佐賀県 重要文化財
- 多紐細文鏡 - 宇木汲田遺跡、佐賀県唐津市宇木、弥生早期~後期
- 多紐細文鏡 - 増田遺跡、佐賀県佐賀市鍋島町、弥生中期初頭、県指定重要文化財
- 甕棺に細片として出土、面径10.5cm
- 多紐細文鏡 - 原の辻遺跡、長崎県壱岐市
- 破片
- 多紐細文鏡 - 里田原遺跡出土、長崎県平戸市田平町、平戸市立里田原歴史民俗資料館
- 三つの鈕をもった完形品であり、径8.9cmの小形の部類に属する。
- 有形文化財(長崎県指定)
- 多紐細文鏡 - 社宮司遺跡、長野県佐久市野沢地区
参考文献
小山田古墳 ― 2025年10月04日 08:50
小山田古墳(こやまだこふん)は奈良県高市郡明日香村にある飛鳥時代の方墳である。
概要
小山田古墳の墳丘の上部構造はほぼ削平されている。従来は飛鳥時代で最大とされていた千葉県の岩屋古墳(約78m)を上回る飛鳥時代最大の方墳である。北辺は約72mで、南辺は約80mとなり、台形をしている。室生安山岩などの石材が大量に出土し、西側斜面は北側と同じく石材で覆われている。横穴式石室の羨道長は計8.7メートル以上あり、石舞台古墳(11.7m)に並ぶ大型の石室であった。巨石を抜き取った穴が左右4カ所ずつ、計8カ所確認されている。羨道は石舞台古墳と同じ幅の約2.6メートルで、中央に排錐溝が⾒つかっている。貼石、敷石および板石積みで構成される掘り割りを検出している。飛鳥付近の石英閃緑岩を用いており、基底部には40㎝大の石を使う。上部にいくにつれて徐々に石材が小さくなる。これは古墳の葺石の特長である。貼石にともなう造成土から6世紀後半代の土器類、掘り割り埋没時に北側から流入した堆積土の上層からは7世紀後半代の土器が出土する。 器が出土する。板石積みに用いられた室生安山岩や結晶片岩は、7世紀中頃の寺院や古墳に 多用されているため、築造年代は7世紀中頃と見られる。ちょうど乙巳の変の頃である。前園教授は「遺構を建設した時期は、七世紀前半から中頃で、その機能を終えたのは、比較的早い七世紀後半」であるとする。
調査
2014年、養護学校の校舎建て替えに伴い、橿原考古学研究所が発掘調査し、想定外の巨大な石張りの掘割が出土した。2016年度の第8次調査で墳丘盛土と横穴式石室の羨道部の痕跡が検出されそれまで小山田遺跡といわれていたものが古墳である事が確定した。2017年度の第9次調査で石室の一部に羨道跡が新たに確認された。幅は2.6m、長さ8.7mである。2018年度の第10次調査でそれまでの調査で約70mと推定されていた墳丘の東西幅は、80mを超える事が判明した。
被葬者像
研究者の間では、舒明の初葬墓とする説(今尾説)と、乙巳の変で滅ぼされた豪族‧蘇我蝦夷の墓とする説(前園説)の二説がある。白石太⼀郎は小山田古墳は榛原石とよばれる板石を積み上げて墳丘を化粧していた。この形状は舒明天皇陵と考えられている段ノ塚古墳に使用されている板石と共通している。当時は土師氏と呼ばれる墳墓の造営集団が古墳を作っていた。同じ集団なので、技法や同石材と思われるとする。段ノ塚古墳は日本で最初に作られた八角墳であり、小山田古墳とは形状がことなる。白石太⼀郎は改葬したあと時間を置かずに、大王の墓の石室を壊して濠を埋める徹底的な破壊を行うのは当時の常識から考えられないとして、舒明の初葬墓ではあり得ないとした。『日本書紀』巻第廿四皇極元年十一月条に「生前に双墓を今来につくり、大陵を蝦夷の墓とし、小陵を入鹿の墓とした」(「預造雙墓於今來。一曰大陵、爲大臣墓。一曰小陵、爲入鹿臣墓」)と書かれる。大陵を小山田古墳にあて、小陵を付近の菖蒲池古墳とできるなら、辻褄があう。前園教授は「菖蒲池古墳 と小山田遺跡の規模は一辺で一対二の割合になり、大陵と小陵の記述にも合致する」と指摘する。小澤毅は「蘇我系の(陵)墓域と、非蘇我系を中心とする天皇・皇族の陵墓域は基本的に分離」されているとし、「大野岡(甘樫岡)周辺は明らかに蘇我氏の勢力圏」であるから、「小山田古墳の被葬者は、近隣に邸宅を構えた蘇我氏の有力者と考えるのがもっとも自然」とする。
規模
- 形状 方墳
埴輪
遺構
遺物
築造時期
展示
考察
蘇我蝦夷の墓と考えるのが最も合理的である。その理由は①蘇我氏の墓はすべて方墳であること、②場所は蘇我氏の領域であった、③早い段階で徹底的に破壊されていること、④『日本書紀』の記述と一致すること、などである。③についてであるが、小山田古墳は(孝徳政権の)蘇我氏への敵意から、当時は徹底的に破壊しなければならない対象であった。おそらく、蘇我氏を認めることは、自らの政権の正当性を失わせるものであったのであろう。石舞台古墳を破壊したと同じ理由である。
指定
アクセス等
- 名称 :小山田古墳
- 所在地 :奈良県高市郡明日香村川原410
- 交 通 :近鉄 岡寺駅 徒歩約25分(1.7km)/近鉄吉野線飛鳥駅「橿原神宮前駅東口」行きのバスに乗り、野口バス停で下車。
参考文献
鷺山古墳 ― 2025年10月05日 00:01
鷺山古墳(さぎやまこふん)は埼玉県本庄市にある古墳時代の前方後方墳である。
概要
埼玉県の調査で全長60メートル、後方部幅37メートル、後方部高5.4メートル、前方部幅30メートルの規模の前方後方墳と判明した。古式古墳とされ、埼玉県内最古級の古墳である。古墳の周囲には周壕があり、壕の中から底部に穿孔をもつ壺形土器や椀形土器などが出土した。周溝はほぼ全周すると考えられ、幅は4.3m、深さ1mである。壺形土器は朱塗りで、胴部表面の器面調整が省略され、底部以外に口縁部に2個1対の穿孔がある。焼成前底部穿孔の二重口縁壺である。口縁部直径25cm、口縁部下端18cm、胴部の最大径が28.5cm、器高34cmで焼成後に赤彩されている。直径約1.8cmの円形の透かし孔が6対計12個開けられる。そのほか完形品の碗型土器、二重口縁壺の口縁部破片、S字状口縁台付甕の胴部と脚部をつなぐ部分の出土など初期古墳の特色を示す遺物が出土した。
調査
規模
- 形状 前方後方墳
- 墳長 60m
- 後円部 径1辺37m 高5.4m
- 前方部 幅30m 長23m
埴輪
遺構
遺物
- 二重口縁壺 壺形土器
- 碗型土器
- S字状口縁台付甕
築造時期
- 4世紀前半
展示
- 本庄早稲田の杜ミュージアム
考察
指定
アクセス等
- 名称 :鷺山古墳
- 所在地 :埼玉県本庄市下浅見鷺山
- 交 通 :本庄早稲田駅から徒歩36分/2.6km
参考文献
櫨山古墳 ― 2025年10月06日 00:10
櫨山古墳(はぜやまこふん/ろざんこふん)は福岡県飯塚市にある古墳時代の横穴墓である。
概要
穂波川と嘉麻川の合流地点の西側の丘陵群中の勝盛山塊に所在する。大正10年、宅地造成中に発見された。福岡県から報告が宮内庁へ提出され、遺物は重要資料として、一括して東京帝室博物館(現東京国立博物館)の収蔵品となった。出土遺物は金銅製帯金具、ゴホウラ製貝輪、鉄鏃、不明鉄器、鉄刀、鉄鑿、鉄鎌、鉄U字形鋤先、鉄斧、鉄鑿、鉄刀子、鉄地金銅製楕円形鏡板付轡、鉄地金銅製剣菱形杏葉、砥石、棘楕円形鏡板付轡一対・剣菱形杏葉2・金銅製帯金具具・垂飾付装飾板、貝輪である。首長級古墳と同程度の内容を有する横穴墓と評価される。帯金具は葉文透彫の銙板に単圏の心葉形垂飾が組み合わさったものである。形態から朝鮮半島の新羅からもたらされた。築造時期は古墳時代中期末から後期前半と考えられている。古墳は完全に消滅しており、「史跡櫨山古墳」の碑だけがある。
調査
嶋田光一(1991)によれば、櫨山古墳の被葬者については朝鮮半島からの「亡命者」や「集団移住者」との見解もあるとされる。高田貫太(2025)は飾り帯は金銅製で三葉文がつくもので、当時の倭ではほかになく、新羅王権との政治的なつながりを示す政治性の高いアクセサリーであるという。
規模
- 不明
埴輪 なし
遺構
遺物
- 鉄鎌
- 帯金具
- 鏡板付轡
- 金銅製帯金具
- ゴホウラ製貝輪
- 鉄鏃
- 不明鉄器
- 鉄刀
- 鉄鑿、
- 鉄U字形鋤先
- 鉄斧
- 鉄鑿、
- 鉄刀子
- 鉄地金銅製楕円形鏡板付轡
- 鉄地金銅製剣菱形杏葉、
- 砥石
- 棘楕円形鏡板付轡一対
- 剣菱形杏葉2
- 金銅製帯金具
- 垂飾付装飾板
- 貝輪
築造時期
展示
- 東京国立博物館
考察
指定
アクセス等
- 名称 :櫨山古墳
- 所在地 :
- 交 通 :
参考文献
- 高田貫太(2025)『渡来人とは何か』筑摩書房
- 嶋田光一(1991)「福岡県櫨山古墳の再検討」『古文化談叢 児島隆人先生喜寿記念論集』児島隆人先生喜寿記念事業会,pp.507-557
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