聖徳太子 ― 2026年02月06日 00:16
''聖徳太子'(しょうとくたいし,574年-622年)飛鳥時代の皇族で、推古朝の政治・外交・仏教政策に深く関与したと伝えられる人物である。
概要
「聖徳太子」は後世の尊称であり、『日本書紀』・『古事記』には「聖徳太子」とは書かれない。 つまり、「聖徳太子」は後世に成立した尊称であり、同時代史料では主に「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」などの名で記される。
その実像をめぐっては、近年、史料批判に基づく再検討が進められている。 史料に見える主な呼称は以下の通りである。
- 『日本書紀』- 厩戸皇子、豊聡耳聖徳、豊聡耳法大王、法主王
- 『上宮聖徳法王帝説』 - 厩戸豊聡耳聖徳法王、上宮王、東宮聖徳王、上宮聖徳法王 など
- 『古事記』 - 上宮之厩戸豊聡耳命
事績
聖徳太子の事績については、後世の史料に基づくものが多く、史実と創作の区別をめぐって研究上の論点が存在する。 文献史料上、厩戸皇子の事績として記録されているものには、次のようなものがある。
- 物部守屋との戦いにおいて仏教に帰依し勝利したとされる(『日本書紀』)
- 四天王寺の建立(同)
- 冠位十二階の制定(603年、『日本書紀』)
- 十七条憲法の制定(604年、『日本書紀』)
- 遣隋使の派遣
- 『天皇記』『国記』の編纂
- 『三経義疏』の著述
ただし、これらのうちどこまでが同時代の史実であるかについては研究者の間で見解が分かれている。
聖徳太子実在論・非実在論
聖徳太子をめぐっては、大きく実在論と非実在論の二つの立場がある。
非実在論は、現在知られる「聖徳太子像」は後世の編纂・創作によって形成されたものであるとする立場である。ただし、この立場においても、厩戸皇子という人物自体の実在を否定するものではない。
非実在論を体系的に提示した研究者として大山誠一が知られ、同氏は、確実な史実として認められる事績を①冠位十二階の制定、②遣隋使の派遣 に限定すべきであるとした。
憲法十七条については、津田左右吉以来、その成立年代を疑問視する研究がある。 津田は、国司制度や中央集権的政治理念、中国古典の高度な理解を前提とする内容が、推古12年(604年)の状況とは整合しないと指摘した。
現在の研究では、厩戸皇子という人物の実在は広く認められている一方で、聖徳太子像の多くは奈良時代以降の史料編纂の中で形成された可能性が高いと考えられている。 聖徳太子は「実在か否か」という二分法ではなく、史料批判を通じてその歴史的役割を再構成すべき対象と位置づけられている。
聖徳太子の誕生
父母については、『日本書紀』と『上宮聖徳法王帝説』とで一致しており、父は用明天皇(橘豊日天皇)、母は穴穂部間人女王であるとされる。なお、穴穂部間人女王は用明天皇の異母妹にあたる。 生年については、『日本書紀』には記載がないが、『上宮聖徳法王帝説』にみえる甲午年をもとにすると、敏達3年(574年)と考えられている。
参考文献
- 坂本太郎,井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
- 東野治之校注(2013) 『上宮聖徳法王帝説』岩波書店
- 坂本太郎(1979)『聖徳太子』吉川弘文館
- 金沢英之(2001)『天寿国繍帳銘の成立年代について--儀鳳暦による計算結果から』国語と国文学78 (11),東京大学国語国文学会編,pp.33-42
- 大山誠一(2005)『聖徳太子と日本人』角川書店
- 大山誠一(1999)『聖徳太子の誕生』吉川弘文館
- 大山誠一編(2014)『聖徳太子の真実』平凡社
- 藤枝晃(1976)「勝鬘経義疏 解説」『日本思想大系 2』岩波書店
- 石原道博編訳(1985))『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』〈中国正史日本伝(1)〉岩波書店
- 田中英道(2004)『聖徳太子虚構説を排す』PHP研究所
- 大橋一章(1995)『天寿国繡帳の研究』吉川弘文館
乙塚古墳 ― 2025年11月09日 00:04
乙塚古墳(おとづかこふん)は岐阜県土岐市にある方墳である。 「100名墳」に選出されている。
概要
土岐盆地における最大の横穴式石室をもつ方墳である。墳丘において、石室構築に合わせた各段階の盛土を検出した。乙塚古墳の墳丘から須恵器(鳥鈕蓋)が出土する。墳丘の段築や葺石は省略されている。墳丘外の周溝はない。 両袖式の石室は全長12.1m、幅2.6m、高さ2.7mである。奥壁壁は2m、羨道長6.4m、幅2.4m、高さ2.6mである。胴張形の玄室鏡石を設置し、玄門部は幅50cmの柱石を立て、その上に梁石を乗せる。側壁は3段積みとし、玄室天井に3石、羨道天井には4石を用いる。石室入り口は花崗岩の切石である。石材で最大のものは長さは約2.42m、幅は約1.2mある。 石室内の副葬品は盗掘によりほとんど失われている。鳥形のつまみ(鳥鈕蓋)の付いた装飾付須恵器が見つかっている。 石室は安土桃山時代(16世紀末)頃から江戸時代(17~18世紀)にかけて、近隣の窯の陶工たちによって工房等として再利用されていた。そのため廃棄された副葬品もあったとみられる。現在は石室内への立ち入りは制限されている。 八坂入彦命の王女・弟姫を葬ったとの伝説がある。ヤマト王権と親しく、東美濃地域を支配した豪族の墓と考えられている。
規模
- 形状 方墳
- 規模 1辺27.4m×26.1m、高6.6m
調査
2002年(平成14年)の測量調査でそれまで円墳とされていたが、方墳と確認された。
放射性炭素年代測定
乙塚古墳の炭化物は691年から877年であり、飛鳥時代から平安時代前期の範囲を示した。
葺石 なし
埴輪 なし
遺構
- 古墳(方墳)
- 横穴式石室
遺物
- 鳥鈕蓋
- 土師器、
- 須恵器
築造時期
- 7世紀前半頃築造
展示
- 土岐市美濃陶磁歴史館
考察
指定
- 1938年(昭和13年)年12月14日 国指定史跡 「乙塚古墳附段尻巻古墳」
アクセス等
- 名称 :乙塚古墳
- 所在地 :岐阜県土岐市泉町久尻1167
- 交 通 :土岐市駅 徒歩 15分(900m)
参考文献
石神遺跡 (奈良) ― 2025年09月28日 00:40
石神遺跡 (奈良)(いしがみいせき)は奈良県高市郡明日香村にある飛鳥時代の遺跡である。
概要
石神遺跡は飛鳥寺の北西、奈良県高市郡明日香村飛鳥にある7世紀の一大遺跡である。7世紀代の官営施設跡が重なる複合遺跡であり、最も新しい遺構は藤原京遷都直前の時期の施設とみられる。2024年3月、7世紀前半のものとみられる塀の跡が⾒つかり、区画の角に相当する「隅」を確認した。7世紀前半のものとみられる塀の跡は、横(東西)に長さ約4.5m、縦(南北)に同約8.5mである。柱孔は5基見つかった。斉明天皇の時代より前の時代のものとされる。藤原京の条坊と合致する官営施設の区画塀の跡が確認されており、藤原京遷都直前(7世紀後半)の施設の一部と見られている。 石神遺跡から発掘された花崗岩製の噴水石は、国の重要文化財に指定されており、奈良文化財研究所飛鳥資料館に所蔵されている。
調査
1902年(明治35年)、1903年(明治36年3)に小字石神の水田から、須弥山石と石人像が出土した。1904年(明治37年)に東京帝室博物館に寄贈された。1936年(昭和11年)の発掘調査の出土地付近で石組溝や石敷を確認し、斉明朝の饗宴場跡であると後年考えられるにいたった。出土した土師器には杯、把手付台付椀、高杯がある。把手付椀は強く内弯する口縁部に角形の把手を付した独特の器形である。軒丸瓦は飛鳥寺型式・川原寺型式、大官大寺型式のほか、川原寺型式の可能性がある瓦が出土した。軒平瓦は重弧文型式、均整唐草文型式が出土した。垂木先瓦、丸瓦、平瓦、瓦製円板が出土した。木製品は刀子柄や楔、横櫛、斎串などの製品とともに、加工棒、板状や円形の穿孔をもつ用途不明品、雑木が出土した。鉄製品は鉄鏃が主体を占め、ほかに鉄鎌、鉄斧、鉄鑿、鉇、刀子、鏟状鉄製品といった農工具類や、鉄製紡錘車や鉄針、鉄釘、鎹が出土した。銅製品として、鞘尻金具、鳩目金具、鉄地金銅張製品、鉸具、鉈尾、鉈尾表金具、銅管が出土した。冶金関連遺物として、鞴羽口、鋳型・坩堝、素材・銅滴・銅滓・鉄素材、鉄滓が出土した。石製品として、砥石、瑪瑙製垂飾、ガラス小玉、滑石製臼玉、滑石製管玉未製品、滑石製有孔円盤、滑石製紡錘車、勾玉、管玉、玉未製品が出土した。
遺構
斉明朝
- 掘立柱建物
- 掘立柱塀
- 溝
- 石敷
- 礫敷
遺物
- 須弥山石
- 石人像
- 軒丸瓦
- 軒平瓦
- 垂木先瓦
- 丸瓦
- 平瓦
- 瓦製円板
- 土器(土師器+須恵器+施釉陶器+黒色土器+新羅土器)
- 瓦(軒平瓦+垂木先瓦+丸瓦+平瓦)
- 金属製品(釘+鏃+斧+鎌+刀子+鎹+紡錘車など)
- 石製品(玉類+砥石+石庖丁+石鏃+石製刺突具+磨製石剣+紡錘車+剥片石器)
- 土製品(円面硯+土馬+鞴羽口+土製円盤など)
指定
考察
展示
- 奈良文化財研究所飛鳥資料館
アクセス
- 名称:石神遺跡
- 所在地:奈良県高市郡明日香村飛鳥
- 交通:
参考文献
- 奈良文化財研究所(2025)「石神遺跡発掘調査報告Ⅰ」
上岩田遺跡 ― 2025年08月09日 00:55
上岩田遺跡(かみいわたいせき)は福岡県小郡市にある縄文時代から飛鳥時代、奈良時代にかけての複合遺跡である。
概要
筑紫平野の北、宝満川の東岸台地の標高19m程度に位置する。 縄文時代では落とし穴や甕棺墓が見つかっている。弥生時代中期から後期の周溝と溝が見つかっている。 飛鳥時代では大型建物群、柵列、道、住居、井戸が見つかった。古代(飛鳥、奈良時代)では基壇建物、掘立柱建物、道路、竪穴建物、土坑、土壙墓、木棺墓、火葬墓、溝、土採穴、柵、ピットが見つかっている。計画的で規格性をもつ大型掘立柱建物群である。小郡官衙遺跡に先行する官衙または郡司の住居推定されており、国史跡に指定された。
調査
1995年から1999年にかけて発掘調査が行われ、縄文時代の落とし穴約140、弥生時代、古墳時代から奈良時代にかけての350軒、掘立柱建物200棟、土坑350基、道路上遺構を多数検出した。奈良時代では鬼板瓦、垂木先瓦、軒丸瓦、平瓦、獣脚硯、土器、墨書土器、土馬が出土した。
寺院跡
7世紀後半から8世紀前半の遺跡として、東西約18m、南北約15mの規模でに版築で土を固めた基壇が見られた。瓦葺の建物は、建物は3間、四面の金堂寺院と想定される。 礎石、根石を抜き取った孔が見つかったが、礎石は出土していない。2間×3間の4面の庇がついている。基壇とその周辺から、鬼板瓦、垂木先瓦、軒丸瓦、平瓦、丸瓦が出土したが、軒平瓦は出土しなかった。 基壇に多数の地割痕があり、建物群は地震のため倒壊したと推測される。『日本書記』天武7年(678年)条記載の筑紫大地震で建物に多大な被害が出たと考えられることから、その後、役所機能は小郡官衙遺跡へ移転されたと見られる。地震の最大震度はマグニチュード6から7と想定されており、筑後平野に大きな被害を与えた。白鳳時代に上岩田廃寺が創建され。基壇上部の縁辺や斜面には東西、南北方向に幅2cmから25cmの地割れにより、版築層がずれていた。寺の金堂は筑紫大地震によって倒壊した可能性が高い。造営から倒壊まで約30年である。
遺構
縄文時代
- 落とし穴 - 縄文早期、縄文後期
- 甕棺墓
弥生時代
- 周溝
- 溝
古墳後期から奈良時代
- 竪穴建物200+
- 井戸1
- 掘立柱建物
- 基壇建物
- 道路
- 竪穴建物
- 土坑
- 土壙墓
- 木棺墓
- 火葬墓
- 溝
- 土採穴
- 柵
- ピット
飛鳥時代
- 大型建物群
- 柵列
- 道
- 住居
- 井戸
- 基壇建物
- 掘立柱建物
- 竪穴建物
- 地震痕跡
- 製塩土器
- 土製品
- 土馬
- 鉄製遺物
奈良
- 基壇
- 土坑
遺物
- 須恵器、
- 土師器、
- 瓦、
- 石帯、
- 硯、
- 墨書土器、
- 刻書土器
- 鬼板瓦
- 垂木先瓦
- 軒丸瓦
- 平瓦
- 獣脚硯
- 土器
- 墨書土器
- 土馬
指定
- 1971年 国指定 史跡名勝天然記念物 小郡官衙遺跡
- 2000年 追加指定 史跡名勝天然記念物 上岩田遺跡 小郡官衙遺跡群
展示
- 小郡市埋蔵文化財調査センター 一部を展示
アクセス
- 名称:上岩田遺跡
- 所在地:〒838-0121 福岡県小郡市上岩田1082
- 交 通: 甘木鉄道 松崎駅 徒歩6分。
参考文献
- 小郡市教育委員会(2018)「上岩田遺跡15」小郡市文化財調査報告書
飛鳥時代 ― 2025年08月03日 00:01
飛鳥時代 (あすかじだい)は、奈良県の飛鳥(明日香)に都があった時代を指す。日本史の時代区分のひとつである。推古大王(天皇)が即位し、飛鳥の豊浦宮に遷宮した592年から、平城京に遷都した710年までの118年間をいう。
概要
飛鳥時代はもとは美術または建築史の時代区分であった。建築史の関野貞や美術史の岡倉天心が提唱した区分である。古墳は8世紀初頭まで営造されたが、飛鳥時代は古墳文化が仏教文化に切り替わる時代であった。豪族の連合政権から、中央集権体制国家へ、天皇制に基づく律令制国家に社会が変化した時代である。
| 西暦年 |
和暦 |
出来事 |
| 592年 | 推古1年 | 崇峻大王、殺害される,推古大王(天皇)即位、豊浦宮に遷宮 |
| 600年 | 推古8年 | 第一次遣隋使派遣 |
| 603年 | 推古11年 | 冠位12階制定、小墾田宮に遷宮 |
| 604年 | 推古12年 | 十七条憲法の制定 |
| 607年 | 推古15年 | 第二次遣隋使派遣 小野妹子 |
| 608年 | 推古16年 | 小野妹子、隋使裴世清らとともに帰国 |
| 610年 | 推古18年 | 第4回遣隋使を派遣 |
| 622年 | 推古30年 | 厩戸皇子が斑鳩宮で没する |
| 626年 | 推古34年 | 蘇我馬子が没す |
| 629年 | 舒明1年 | 舒明天皇が即位 |
| 630年 | 舒明2年 | 岡本宮に遷都/飛鳥岡(雷丘) |
| 640年 | 舒明12年 | 厩坂宮に遷都 |
| 642年 | 皇極1年 | 宝皇女が皇極として即位 |
| 643年 | 皇極2年 | 山背大兄王殺害される |
| 645年 | 大化1年 | 乙巳の変 |
| 646年 | 大化2年 | 薄葬令 |
| 652年 | 白雉3年 | 班田収授法 |
| 663年 | 天智2年 | 白村江の戦い、唐・新羅の連合軍に大敗 |
| 666年 | 天智5年 | 百済の男女2000余人を東国に置く |
| 667年 | 天智6年 | 近江国の大津へ遷都 |
| 669年 | 天智8年 | 藤原鎌足が没 |
| 670年 | 大宝9年 | 法隆寺焼失? |
| 672年 | 天智7年 | 天智天皇が崩御,第39代弘文天皇(大友皇子)が即位? |
| 672年 | 天武1年 | 天智天皇没す、壬申の乱。飛鳥浄御原宮に遷宮 |
| 673年 | 天武2年 | 大海人皇子が即位し天武天皇として即位 |
| 686年 | 朱鳥1年 | 天武天皇が崩御 |
| 690年 | 持統4年 | 持統天皇が即位 |
| 694年 | 持統8年 | 藤原京へ遷都 |
| 697年 | 文武1年 | 持統天皇、草壁皇子の子の軽皇子へ譲位 |
| 701年 | 大宝1年 | 大宝律令の完成 |
| 702年 | 大宝2年 | 第7回遣唐使派遣 |
| 710年 | 和銅3年 | 平城京へ遷都 |
参考文献
1. 近藤義郎(1995)『前方後円墳と弥生墳丘墓』青木書店
渡来人 ― 2025年07月19日 00:10
渡来人(とらいじん)は古墳時代から飛鳥時代にかけての古代に中国や朝鮮半島から倭国(日本)に移り住んだ人々を言う。
概要
時期的には4世紀末から7世紀後半からの移住者を渡来人と呼ぶ。かっては「帰化人」と呼んでいたが、帰化は、国家の存在を前提とした概念であり、国家のない時代に到来した人々を帰化人というカテゴリーに含めることは適切ではない。上田正昭が「渡来人」の呼称を提唱し、学界の主流となった。
概要
渡来人は時期から3種類にわけて考えられている。
- 古い渡来人
- 新しい渡来人
- 百済亡命渡来人
古い渡来人
5世紀前半頃の渡来人を「古い渡来人」と呼んでいる。しかし、5世紀以前に渡来人が無かったわけではない。日本書紀巻第十四、雄略二年冬「天下誹謗言「太惡天皇也。」唯所愛寵、史部身狹村主靑・檜隈民使博德等」に登場する史部や村主は渡来人の氏族である。日本書紀巻巻第十、應神廿年秋九月「倭漢直祖阿知使主・其子都加使主、並率己之黨類十七縣而來歸焉」(漢直の先祖の阿知使主とその子の都加使主は郎党を率いて来日し、大和国高市郡檜隈鄕の土地を与えられた)と書かれる。東漢氏は古い渡来人の代表的な存在である。東漢氏は土木技術を伝え、灌漑用溜池などを作り、水田稲作を普及させ、見瀬、軽、檜隈を開発した。
新しい渡来人
5世紀後半以降に百済から新たに渡来した人々は新しい渡来人である、「今来才伎」「今来漢人」と呼ぶ。百済人でも漢人と呼んでいた。日本書紀巻第十四、雄略七年八月「天皇詔大伴大連室屋、命東漢直掬、以新漢陶部高貴・鞍部堅貴・畫部因斯羅我・錦部定安那錦・譯語卯安那等、遷居于上桃原・下桃原・眞神原三所」(東漢直掬、以新漢陶部高貴・鞍部堅貴・畫部因斯羅我・錦部定安那錦・譯語卯安那らが渡来し、彼らを上桃原・下桃原・眞神原の3個所に置き、東漢直掬に管理させた)。新しい渡来人を東漢の指揮下に置き、陶部、鞍部、画部、錦部、金作、甲作、鞍作、弓削、矢作などに従事させた。
百済亡命渡来人
百済の滅亡後、亡命百済人が多数渡来した。日本書紀第廿七天智二年九月「辛酉發途於牟弖、癸亥至弖禮。甲戌、日本船師及佐平余自信・達率木素貴子・谷那晉首・憶禮福留、並國民等至於弖禮城。明日、發船始向日本」。来日したのは余自信、沙宅紹明、鬼室集斯、許卒母、谷那晋首、木曽貴子、憶礼福留、答火本(1字)春初、憶仁、徳自珍、鬼室集信、吉大尚、僧法蔵、角福牟、僧行信、僧道蔵、沙宅万首などがいる。当時の百済の知識人や技術者が含まれており、奈良時代の日本の知識レベルを大きく引き上げることになった。
考察
参考文献
飛鳥・藤原の宮都の世界遺産登録 ― 2025年07月18日 00:09
飛鳥・藤原の宮都の世界遺産登録 (あすかふじわらのみやのせかいいさんとうろく)は、2025年における飛鳥・藤原の宮都の飛鳥・藤原の宮都の世界遺産登活動である。
概要 「飛鳥・藤原の宮都」は、奈良県明日香村と橿原市、桜井市に所在する6世紀から8世紀にかけての飛鳥時代の文化財である。高松塚古墳、藤原宮跡など19の文化財が構成遺産となっている。中国・朝鮮半島諸国と倭国(日本)との間での政治的・文化的交流を示す。
世界遺産とは 世界遺産条約(正式名は「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」)は1972年にユネスコ総会で採択された。文化遺産や自然遺産を人類共通の遺産として保護し、保存していくための国際的な協力体制を構築するための国際条約である。日本は1992年に条約を締結した。世界遺産リストに登録された物件は、人類共通の財産として国際的な保護を受ける。 登録には以下の3つの要件がある。 ①評価基準 ②完全性・真正性 ③保護・管理 「宮殿跡」「宮都・官衙跡」「仏教寺院跡」「墳墓」を過不足無く含み、かつ、それらが良好な状態で維持されていることが必要とされる。
評価基準(抜粋) 以下のような評価基準がしめされており、いずれかの登録基準を満たす必要がある。 歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本であること。現存するか消滅しているかにかかわらず、ある文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在(少なくとも希有な存在)であること。歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本であること。
完全性・真正性 完全性とは顕著な普遍的価値を構成するために必要な要素がすべてあるか(過不足がないか)という基準である。遺産の顕著な普遍的価値を構成する要素が全て含まれていること、長期的な保護を図る体制や制度が備わっているかを証明しなければならない。項目を挙げれば次の通りである。 ①顕著な普遍的価値を構成する必要な要素が全てあること。 ②十分な面積が確保されていること。 ③開発や管理不全による負の影響がないこと。 真正性とは文化遺産が「本物」であるかどうかとという基準である。以下のような判断基準がある。 ①本来の素材や技術で作られていること(復元では元の素材や技術を尊重する)。 ②本来の形状やデザインを保つこと。 ③本来の意味や価値を失っていないこと。
暫定リストとは 世界遺産条約の締約国は、将来世界遺産リストに登録する計画のある物件を「暫定リスト」としてUNESCOに提出する。事前に暫定リストに記載されていなければ、世界遺産委員会に推薦書を提出しても審査されない。
世界遺産の構成
| No | 価値 | 構成遺産 | 意義 |
|---|---|---|---|
| 1 | 宮殿と官衙 | 飛鳥宮跡 | 律令制による宮殿の形成 |
| 2 | 宮殿と官衙 | 飛鳥京跡苑池 | 律令制による宮殿の形成 |
| 3 | 宮殿と官衙 | 飛鳥水落遺跡 | 律令制による宮殿の形成 |
| 4 | 宮殿と官衙 | 酒船石遺跡 | 律令制による宮殿の形成 |
| 5 | 宮殿と官衙 | 藤原宮跡 | 律令制による宮殿の成立 |
| 6 | 仏教寺院 | 飛鳥寺跡 | 仏教の受容 |
| 7 | 仏教寺院 | 橘寺跡 | 氏寺の成立 |
| 8 | 仏教寺院 | 山田寺跡 | 氏寺の成立 |
| 9 | 仏教寺院 | 川原寺跡 | 氏寺の成立 |
| 10 | 仏教寺院 | 檜隈寺跡 | 氏寺の成立 |
| 11 | 仏教寺院 | 大官大寺跡 | 国家寺院の成立 |
| 12 | 仏教寺院 | 本薬師寺跡 | 国家寺院の成立 |
| 13 | 墳墓(古墳) | 石舞台古墳 | 伝統的な墓制の継承と変質 |
| 14 | 墳墓(古墳) | 菖蒲池古墳 | 伝統的な墓制の継承と変質 |
| 15 | 墳墓(古墳) | 牽牛子塚古墳 | 新しい墓制への移行・展開八角墳・壁画古墳 |
| 16 | 墳墓(古墳) | 天武・持統天皇陵古墳 | 新しい墓制への移行・展開八角墳・壁画古墳 |
| 17 | 墳墓(古墳) | 中尾山古墳 | 新しい墓制への移行・展開八角墳・壁画古墳 |
| 18 | 墳墓(古墳) | キトラ古墳 | 新しい墓制への移行・展開八角墳・壁画古墳 |
| 19 | 墳墓(古墳) | 高松塚古墳 | 新しい墓制への移行・展開八角墳・壁画古墳 |
参考文献 1.雪村まゆみ(2023)「世界遺産を目指す活動が地域の文化資産の保存と活用に及ぼす影響」関西大学『社会学部紀要』第55巻第1 号,pp.23-40 2.石井佑紀(2017)「奈良県明日香村における観光の進展と住民意識の変化」立教観光学研究紀要 第19 号 3.西村幸夫(2008)「世界文化遺産の新視点」生産研究/60 巻5 号 4.文化庁(2015)「世界遺産暫定一覧表記載資産 準備状況報告書(自治体作成)」飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群
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