飛鳥寺西方遺跡 ― 2025年06月03日 00:38
飛鳥寺西方遺跡(あすかでらせいほういせき)は奈良県明日香村にある飛鳥時代の饗宴広場の遺跡である。
概要
飛鳥寺の西側で飛鳥川の右岸に位置する。遺跡の中央東よりに入鹿首塚がある。 日本書紀には7世紀中ごろ以降、寺の西側で外交使節を接待したと書かれる。明日香村教委は「供宴施設だった可能性が高い」とする。『日本書紀』巻第廿四、皇極三年春正月に「偶預中大兄於法興寺槻樹之下打毱之侶、而候皮鞋隨毱脱落、取置掌中、前跪恭奉」と書かれる。 飛鳥寺の西に「槻木の広場」があったと考えられ、飛鳥寺西方遺跡がその有力な候補である。 飛鳥時代以降の遺物も出土する。
調査
1966年に発掘が行われ、石敷帯、石組溝が確認された。石組溝は南北方向に延び、幅1.15m、深さ40cmである。側石は2段積で底石はない。底に砂礫が堆積しているため、水路として利用されていた。また1998年には飛鳥寺西門の規模や構造が明らかになった。そのほか砂利敷、土管暗渠、木樋、土坑、建物跡、掘立柱塀の遺構が確認されている。掘立柱壁は南北120m以上が確認されている。土管暗渠は南北延長185mである。遺跡は砂利敷や石敷が面的に広がり、石組溝、掘立柱塀が配置される。土管暗渠は直径約20cmの瓦製土管を連結したもので、幅1.6m、深さ約1mの掘形の底に土管を埋設していた。 2021年2月21日、「入鹿の首塚」から南へ約70mの場所で、東西19.2m以上、南北4.8mの大型建物跡が確認された。石敷の下に土管暗渠があった。
遺構
- 石敷帯
- 石組溝
- 土管暗渠
- 木樋
- 土坑
遺物
- 土師器
- 須恵器
- 黒色土器
考察
展示
指定
所在地等
- 名称: 飛鳥寺西方遺跡
- 所在地: 奈良県高市郡明日香村大字飛鳥173-1
- 交通:
参考文献
- 木下正史(1997)「飛鳥寺西辺の儀礼空間」国立歴史民俗博物館研究報告 (74),pp.207-232
- 今泉隆雄(1993)「飛鳥の須弥山と齋槻」『古代宮都の研究』吉川弘文館
飛鳥浄御原宮跡 ― 2025年05月31日 00:33
飛鳥浄御原宮跡(あすかきよみはらあと)は奈良県明日香村にある飛鳥時代の天武・持統時代の宮殿跡である。
概要
『日本書紀』に岡本宮の南に宮室(宮殿)を造ったと書かれる。この宮の名前は、後の686年(朱鳥元年)に飛鳥浄御原宮と名付けられたと『日本書紀』に記される。672年までは存続した。673年、天武天皇は飛鳥浄御原宮で即位した。673年(天武2年)2月、壇場(高御座)を設けて即位し、『日本書紀』では鸕野讚良皇女(後の持統天皇)を皇后とした。飛鳥浄御原宮は後飛鳥岡本宮を引き継ぎ、それを拡充整備した宮殿とみられている。天武天皇は飛鳥浄御原令を制定し、日本で最初の銭貨の富本銭を作ったとされる。 飛鳥浄御原令は、天武天皇の死後に施行されたと言われる。694年に藤原宮に遷都して、飛鳥浄御原宮は廃止された。
調査
飛鳥寺南方の「伝飛鳥板葺宮跡」では3層の地層の宮殿遺構が重複する。Ⅲ期の遺構が年代的に飛鳥岡本宮と飛鳥浄御原宮に相当する。かっては石神遺跡が飛鳥浄御原宮跡だとする通説があったが、石神遺跡は饗応施設や客館あるいは官衙と判明している。飛鳥寺南方の「伝飛鳥板葺宮跡」が後飛鳥岡本宮と飛鳥浄御原宮に相当することが明らかになった。 発掘調査で判明した飛鳥浄御原宮の構造は東西152mから158m、南北197mの内郭とその南東にある東南郭(東西94m、南北55m)を中核とし、広大な外郭が囲む。内郭は中核部分であり、玉石敷の空間と砂利式の空間で構成され、正殿といわれる宮殿が作られた。正殿は9間×5間であり、大極殿の可能性が高い。
遺構
- 石敷広場
- 大井戸跡
遺物
- 文銀銭
- 海老錠
- 柱根
- 土器
- 飛鳥宮跡出土木簡
考察
展示
指定
所在地等
- 名称: 飛鳥浄御原宮跡
- 所在地:奈良県高市郡明日香村飛鳥
- 交通: 橿原神宮前駅からバス10分(飛鳥下車)
参考文献
- 林部均(2008)『飛鳥の宮と藤原京』吉川弘文館
- 小澤毅(2003)『日本古代宮都の研究』青木書店
飛鳥岡本宮跡 ― 2025年05月28日 00:30
飛鳥岡本宮跡(あすかおかもとみやあと)は奈良県明日香村にある飛鳥時代の舒明時代の宮である。
概要
岡本宮の名称は飛鳥岡のほとり(本)に作られたことによるとされる。『日本書紀』によれば、飛鳥岡本宮は636年に火災で焼失したため、田中宮に移転した。 飛鳥岡本宮の所在地は「飛鳥板葺宮」と同地とする『扶桑略記』の記載がある。飛鳥岡は岡寺が建つ山域に比定できる。その西麓の「伝飛鳥板葺宮」で層が重なる宮殿遺構が検出されている。飛鳥宮跡は、飛鳥川東側の盆地中央部で3つの時期の宮殿が同じ場所に築かれている。時期が古い順に、(1)飛鳥岡本宮、(2)飛鳥板蓋宮、(3)後飛鳥岡本宮、(4)飛鳥浄御原宮の遺構が重なるため発掘が難しい。
調査
2023年11月に飛鳥宮跡で10基以上の柱穴が確認され、柱間の寸法は約2・7メートルと推定された。飛鳥岡本宮の遺構であり、今回のように長大な規模のものが検出されたのは初めてであった。 2024年3月にに奈良県立橿原考古学研究所の発掘で7世紀前半の舒明大王の「飛鳥岡本宮」の内部を区切るとみられる大型の溝が見つかった。溝は南西から北東へ長さ20mわたり直線に延び、幅約1m、深さ50cmが確認された。溝の中や塀の柱穴から赤く変色した土や炭が見つかった。これは火災で焼けた跡とみられ、630年に築かれ636年に火災で焼失したとする『日本書紀』の記述を裏付ける。 木下正史・東京学芸大名誉教授(考古学)は「本格的な溝であり、宮殿内に塀と溝を組み合わせた区画施設が存在したことが明らかになった。飛鳥岡本宮はかなり立派な宮であった」と語る。
遺構
- 溝
- 柱穴
遺物
考察
展示
指定
所在地等
- 名称: 飛鳥岡本宮跡
- 所在地:奈良県高市郡明日香村岡
- 交通: 近鉄 橿原神宮前駅又は飛鳥駅より 明日香周遊バス「岡天理教前」下車 徒歩5分
参考文献
- 「190回目の発掘で大規模遺構発見」、産経新聞、2024年、3月14日
- 「謎」多い飛鳥岡本宮の塀か、朝日新聞、2023年11月22日
飛鳥水落遺跡 ― 2025年05月27日 00:57
飛鳥水落遺跡(あすかみずおちいせき)は奈良県明日香村にある飛鳥時代の日本初の漏刻遺跡である。
概要
飛鳥盆地の南北の中央にあり、飛鳥川の右岸の川岸で、石神遺跡の南に位置する。基壇外装、地下工法をもつ礎石建物の内部に水利用の施設を埋設した他に類例のない遺構である。漏刻とは水時計である。建物基壇は一辺約22.5メートル、高さ約1メートルの方形である。 楼状建物は1辺11mの四間四方の正方形建物である。日本書紀660年に中大兄皇子が日本で最初に造った漏刻台の遺跡と見られる。
調査
1972年(昭和47年)の民家の新築に伴う調査(第1次調査)で、貼石遺構を持つ大規模な建物基壇が見つかった。史跡指定に伴い、1981年から全面発掘が行われ、遺跡の構造、創建年代、特徴、用途が判明した。発見した遺構は正方形の基壇を持つ大形楼状建物で、基壇と化粧、楼状建物と一体で作られた水利用の諸施設、周囲に建築された四棟以上の掘立柱建物、掘立柱の塀、建物周囲の石敷き、建物の周囲は四方を隅部が角楼となった長廊状建物が囲むなど飛鳥の宮殿施設であり、その規模と内容は特筆すべきものである。
漏刻遺跡
建物の中心には花崗岩切石の台石の上に2つの黒漆塗りの水槽が据えられる。小型水槽は内法37cm四方で、建物の北寄り中央に位置する。深さ1mで、建物内に口を開ける。水槽の東に貼石溝の下を抜けて建物中央に水を導く木樋と暗渠があり、その水をせき止める桝、木樋ないの水をくみ上げる銅管がある。小型水槽は時刻目盛を刻んだ箭を浮かべる受水槽である。楼状建物は二階建てで、下層に漏刻、上階に鐘や鼓を設置して飛鳥に時を知らせたと思われる。時刻、天文、暦、占いの仕事を担当する律令制の陰陽寮に当たる役所と見られる。
遺構
- 礎石遺物 1
- 掘立柱建物 3
- 塀 1
- 漆塗木箱 2
- 木樋暗渠 8
- 枡状遺構 1
- 小銅管 1
- 堀込地業 1
- 地中梁 1
遺物
- 土師器
- 須恵器
- 鉄製品(鉄釘、六花形飾金具など)
- 銅製品(銅釘、小銅管、大銅管など)
- 木樋
- 鋳造関係品
考察
展示
指定
- 1976年(昭和51年)2月20日 - 国指定史跡
所在地等
- 名称: 飛鳥水落遺跡
- 所在地:奈良県高市郡明日香村大字飛鳥
- 交通: 近鉄「橿原神宮前」駅東口または「飛鳥」駅より奈良交通明日香周遊バス乗車。「飛鳥」下車3分。
参考文献
- 独立行政法人国立文化財機構奈良文化財研究(1982)「史跡飛鳥水落遺跡」
飛鳥板蓋宮 ― 2025年05月24日 20:32
飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきみや)は奈良県高市郡明日香村岡にある7世紀半ばの皇極天皇の宮殿である。
概要
中大兄皇子(天智天皇)らのクーデターにより蘇我入鹿が暗殺された乙巳の変の舞台となった宮殿である。 642年、春正月、舒明天皇が逝去した翌年に天豐財重日重日足姫は即位して皇極天皇となった。642年9月、皇極は9月から12月にかけて宮殿を作りたい、国々から木材を集めたい。東は遠江、西は安芸から宮を作る丁を挑発するとの詔を発した(『日本書紀』)。飛鳥宮Ⅱ期遺構が飛鳥板蓋宮である。
遺構
飛鳥宮Ⅱ期遺構はⅢ期遺構の下にあるため、詳細は明らかではない。正方位をとる二重の方形区画が検出されている。 飛鳥宮跡は、調査により飛鳥板蓋宮(皇極天皇)だけでなく、飛鳥岡本宮(舒明天皇)や、飛鳥浄御原宮(天武・持統両天皇)など、複数の宮が断続的に置かれたことが判明している。平成28年に、名称は伝飛鳥板蓋宮跡から「飛鳥宮跡」に改められた。
飛鳥板蓋宮
当時は宮殿と言えども板蓋の屋根は珍しかったと推定されている。それ以前の宮は草葺であったと考えられる。豪華な厚い板で宮殿の屋根を葺いたと見られる。643年(皇極二年)4月に權宮(かりみや)から移り、新築された飛鳥板葺宮に移った(「自權宮移幸飛鳥板蓋新宮」)。『日本書紀』に書かれる「大極殿」「十二通門」は実際にはなかった。 655年冬に飛鳥板蓋宮が焼失したため、斉明天皇は一時的に飛鳥川原宮に遷った。その後、新たな宮(飛鳥岡本宮)を造営した(「是冬、災飛鳥板蓋宮、故遷居飛鳥川原宮。」)。 飛鳥板蓋宮に比定されるのは、飛鳥宮のⅡ期遺構である。大規模の土地造成を行うことにより、広さのある平坦地を作り出した。しかしⅡ期遺構の検出例は少ない。Ⅱ期遺構はⅢ期遺構と重なり、発掘調査でⅡ期遺構を調べようとすると、Ⅲ期遺構が破壊されるからである(参考文献2)。現在復元されている石敷広場や大井戸跡は上層の飛鳥浄御原宮のものである。 645年に難波に遷都した際でも、飛鳥板蓋宮は維持されたようである。653年に中大兄皇子が皇祖母尊(皇極)、間人皇后らとともに飛鳥に戻り、孝徳天皇の崩御後は皇極は飛鳥板蓋宮で即位(重祚)し、斉明天皇となった。その年に飛鳥板蓋宮は火災に遭い、飛鳥川原宮に移転する。 656年、新宮殿が完成すると斉明天皇は飛鳥川原宮から後飛鳥岡本宮に移った。後飛鳥岡本宮は飛鳥板蓋宮と同じ場所に建てられた。
斉明天皇
654年(斉明天皇元年)に「元年春正月壬申朔甲戌、皇?母尊、?天皇位於飛鳥板蓋宮」(日本書記)、すなわち斉明天皇(皇極天皇の重祚)は飛鳥板蓋宮で即位した。645年に都が難波に移転したが、飛鳥板蓋宮はそのまま維持されたとされる。*重層的遺構 現在では岡本宮、板蓋宮、後岡本宮、浄御原宮の4つの宮殿はほぼ同じ場所で断続的に営まれたとみられている(参考文献3)。建物はすべて掘立柱建物で、瓦葺きの建物ではない。
調査
1959年(昭和34年)に発掘調査が始まり、奈良県立橿原考古学研究所が主体となって2016年度(平成28年度)までに約180次におよぶ調査が実施されている。 「川原寺(高市郡明日香村大字川原)の南を東に進み、飛鳥川を渡って明日香村大字岡の飛鳥川東岸地域にはいる。この東岸地域は、東西と南を飛鳥川の曲流と丘陵で限られ、北に一段低く飛鳥寺を望む平坦な台地である」と飛鳥板蓋宮の推定値を記載する(参考文献1)。 昭和34年4月13日から5月31日にかけて発掘調査が行われた。「約5.5mの間隔をお いて東西に走る玉石積の2条の溝で南北両側を限られ、その中央に1列の掘立柱が並んだ建物」を検出した。南方遺構の溝中から発見された土器類は、現在の土器の編年的研究からすると、板蓋宮のものとするにはやや新しく、7世紀後とされた(参考文献2)。
出土
宮殿中枢部を囲むと推定される柱列穴が検出された。南側は1本柱列と石組み溝で東は二本の柱列で、西を三本の柱列で、東西193メートル、南北198メートルの範囲で囲んでいる。塀の柱抜き取り穴には炭や焼土が混ざっていることから、火災にあったと判明している。Ⅱ期遺構は、造営方位が南北を向くもので、Ⅰ期遺構を覆う形で土地造成を行った上で造営されている。全体像は不明だが、中枢部を囲むと想定されている区画塀などが検出されている。登り窯で焼いた灰色の須恵器が出土した。橙色の土器は素焼きである。
指定
- 2003年(平成15年)に国の史跡・名勝に指定。複数の宮殿遺構が重なっており、現在復元されている石敷広場や大井戸跡は上層の飛鳥浄御原宮である。
日本書紀
- (原文)辛未、天皇詔大臣曰、起是月限十二月以來、欲營宮室。可於國國取殿屋材。然東限遠江、西限安藝、發造宮丁。
所在地等
- 名称: 飛鳥宮跡(伝 飛鳥板蓋宮跡)
- 所在地:〒634-0111 高市郡明日香村岡
- 交通:近鉄「橿原神宮前」駅東口または近鉄吉野線「飛鳥駅」より奈良交通明日香周遊バス乗車。「岡橋本」下車徒歩3分。
参考文献
- 奈良国立文化財研究所(1961)『奈良国立文化財研究所年報』,pp.14-18
- 鶴見泰寿(2015)『古代国家形成の舞台 飛鳥宮』新泉社
- 竹内義治「宮殿遺跡 45年目の改称」日本経済新聞, 2016年12月2日
- 佐藤信編(2020)『古代史講義 宮都編』筑摩書房
天皇木簡 ― 2025年04月26日 17:38

天皇木簡(てんのうもっかん)は「天皇」の文字が書かれている古代の木簡である。
概要
最古の「天皇」の文字が書かれた木簡は飛鳥池工房遺跡出土のものである。1998(平成10年)3月2日、奈良国立文化財研究所が出土を発表した。 同時に出土した土器の特徴や木簡2点に677年(天武6年)を示すとみられる「丁丑年」の年号の記載があることから、7世紀後半の天武・持統朝につくられたものと判定された。 「天皇」称号の使用開始時期には諸説あるものの、少なくとも天武朝で「天皇」の称号が使われていたことが証明された。
天皇号の使用開始時期
天皇号の使用開始時期は3説があり、学界では長らく議論がされている。
- 天武・持統朝説
- 推古朝説(6世紀末~7世紀初め)、
- 天智朝(660年代)説
木簡作成の時期
この木簡は飛鳥池工房遺跡の北地区の、持統朝を下限とする溝のさらに下層から出土している。遺構から伴出した木簡の「サト」表記は、すべて「五十戸」であった。飛鳥から出土した多量の荷札木簡により「サト」が「五十戸」から「里」に切り替わったのは、681年から683年頃の間と判明している。これらから「天皇」の語が墨書きされた木簡は、683年(天武12年)以前に書かれたものと推定できる。「天皇」木簡が出土した同じ遺構から「庚午」天智9年(670年)、「丙子」天武5年(676年)、「丁丑」天武6年(677年)の紀年木簡が伴出している。このことから「天皇」号の表記は677年(天武6年)から676年(天武5年)頃の時点では使用されていたといえる。
木簡の意味
木簡には、「天皇聚露弘□□」(□は確認できない文字)と記されている。「天皇が露を集めて広く…」と読めるが、文字は文章の一部である全体の文意は分からない。 同じ南北の溝から見つかった木簡に「丁丑年12月三野国刀支評次米」と書かれている。「丁丑年」は677年(天武6年)年に当たるので、新嘗祭に用いる次米(すきのこめ)が、刀支評から上納された際の荷札木簡と考えられている。木簡は天武天皇の祭祀に関わる新米とも考えられる。
考察
推古朝説は法隆寺金堂の薬師如来像の光背銘や、日本最古の刺繍とされる天寿国繍帳(中宮寺蔵)の銘文が根拠であるが、大山誠一は天寿国繍帳を光明皇后の命による製作としている。 一方、東野治之は古い要素のある原本の繍帳を改めて天武朝から持統朝頃にかけて成立したとする。近藤有宜(2009)は繍帳の銘文に蘇我稲目の娘を「大后」と称していることから、天皇号の使用開始時期を蘇我馬子の全盛時代とする。 天智朝成立説は野中寺弥勒像銘などを根拠としているが、この銘文は天武・持統朝と見られるようになり、天智朝説は後退した。推古朝説は消えていないが、天寿国繍帳と光背銘は後からの一部造作(改変)も可能であるから、確実な根拠とするには弱い面がある。福山敏雄は法隆寺金堂の薬師如来像について、確実に推古朝に遡る他の遺例がないことから、薬師信仰は天武朝から日本に入ったと見られることから、天武朝以降と判断している。 天皇号の最古の確実な証拠は天武朝であることは動かない。推古朝にしても、天武・持統朝にしても飛鳥時代であることは同じである。
参考文献
- 近藤有宜(2009)「天寿国繍帳の制作時期について--繍帳銘文による検討--」(『美術史研究』第47冊
物部太媛 ― 2025年04月01日 00:20
物部太媛(もののべ の ふとひめ, -587年(用明2年)8月2日)は飛鳥時代の豪族の女性である。父は物部尾輿であり、母は阿佐姫。「物部布都姫」、「御井夫人」、「石上夫人」とも呼ばれる。
概要
『日本書紀』では蘇我大臣(蘇我馬子)の妻は物部守屋の妹と書かれている(崇峻即位前秋七月条)。『日本書紀』は名前を特定していないので、この記載では物部太媛が蘇我馬子の妻であったかかは分からない。 『紀氏家牒』には蘇我大臣の妻は物部守屋の妹で名は太媛と書かれている。物部守屋の滅亡後は石上神宮の斎神の頭になったとされる。当時の女性は結婚しても、姓は変わらず、「物部」を名乗っていた。 『先代旧事本紀』 巻第五 天孫本紀では、物部太媛は物部贄子の妻とする。 『先代旧事本紀』「天孫本紀」に「此の夫人、倉梯宮御宇天皇(崇峻天皇)の御世、立ちて夫人と為る。亦朝の政に参て、神宮を斎き奉る」と記され、崇峻天皇の時代に神職の重職について国政にも参画したと記される。『石上振神宮略抄』『紀氏家牒』にも蘇我蝦夷の母親は守屋の妹の「太媛」とされている。
呼び方
史料間にかなりの食い違いが見られ、『先代旧事本紀』「天孫本紀」には布都姫夫人と書かれており、配偶者は異母兄弟の物部贄子となっている。子が4名いて、一人は蘇我馬子の妻となる鎌足姫(鎌姫)大刀自であるとされている。
考察
日本書紀に蘇我馬子が妻の計略を用いて物部守屋を殺したと書かれる(崇峻年七月条)。どのような計略かは分からない。石上神宮の斎主になったり、政治にも関与したことがあるならば、同時代での評価はどうであったろうか。『日本書紀』『紀氏家牒』が蘇我馬子の妻が物部系として、太媛を示唆する。さらに『神主布留宿禰系譜』は、「蝦夷の母は物部弓削連(守屋)の妹の太姫で、蝦夷が弓削連死亡後に祭首を補佐した」と書かれる。『先代旧事本紀』の記載だけが崇峻の夫人であったと書くので、それを除けば各史料は一致する。よって、蘇我馬子の妻が物部太媛で、物部守屋の妹と解釈するのが妥当と思える。
史料
- (『日本書紀』原文) 時人相謂曰「蘇我大臣之妻、是物部守屋大連之妹也。大臣妄用妻計而殺大連矣。」
- (『紀氏家牒』原文) 馬子宿祢男、蝦夷宿祢家、葛城県豊浦里。故名曰二豊浦大臣一。亦家多貯二兵器一、俗云二武蔵大臣一。母物部守屋大連亦曰二弓削大連一。之妹、名云二太媛一也。守屋大連家亡之後、太媛為二石上神宮斎神之頭一。
- (『先代旧事本紀』「天孫本紀」)「字は御井夫人。亦は石上夫人と云ふ。此の夫人、崇峻天皇の御世、立ちて夫人と為る。亦朝の政に参て、神宮を斎き奉る。」
参考文献
- 太田亮(1942)『姓氏家系大辞典』磯部甲陽堂
- 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋(1994)『日本書紀』岩波書店
- 田中卓(1986)『田中卓著作集 2 』(日本国家の成立と諸氏族) ,国書刊行会
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