大刀 ― 2025年02月16日 21:11
大刀(たち)は古代に作られた反りのない直刀をいう。
概要
刀身がまっすぐで両刃または片刃の大刀があり、突く、刺すための武器である。 弥生時代初期には中国から朝鮮半島を経由して銅剣が日本に伝わり、中期からは鉄剣が伝わった。弥生時代から奈良時代頃までの大半の刀は、後代のいわゆる日本刀とは違い、 まっすぐに作られた直刀である。 長い二等辺三角形をなす。古墳時代には背から刃にかけて薄く、身の断面が細平造りと呼ばれる形が一般的である。奈良時代後半からは、刀身に反りのある蕨手刀が作られ始めたが、直刀は南北時代まで使われた。正倉院の「直刀 無銘(水龍剣)」と「金銀鈿荘唐大刀」は直刀である。後者は外装に豪華な装飾が施されており、儀式用である。
装飾付大刀
素環頭太刀は国や朝鮮半島で盛んに作られ、日本では弥生時代中期から後期にかけての墳墓、古墳時代前期の古墳に副葬品として出土する。 装飾付大刀は金や銀などで飾られた大刀であり、豪族の権威を象徴する。 装飾付大刀(飾り大刀)は武器として使用するものではなく、生前は儀式などに用いられた。 古墳時代後期の装飾大刀は、ヤマト王権との関係を示す証として限定的に有力者だけが所有したものとされる。
出土例
- 銀象嵌銘大刀 江田船山古墳、熊本県和水町、古墳時代・5~6世紀、
- 金銅装円頭大刀 宮口古墳群第11号墳、新潟県上越市牧区宮口、古墳時代(約1400年前)
- 鉄刀 宮内第1遺跡、鳥取県東伯郡東郷町、弥生時代
参考文献
田租 ― 2025年02月14日 22:32
田租(でんそ)は律令制において田地に課された租税である。
概要
班田収授法により、人民に口分田を与え、そこで収穫した稲の3~5%を納める税である。701年に制定された大宝律令にも継承され、律令制の根幹原則となる。口分田を支給された者は租として、収穫の3%から5%のイネを納めなければならない。税は稲の物納であつた。 田租は男女、年齢(6歳以上)、位階、良賤によらず一律に口分田を耕作するものに「戸」を単位に課税された。田の収量を考慮せず、一律に課税されたため、収穫量の少ない田では厳しい税率となった。
養老律令
「田は、長さ30歩、広さ12歩を段とする。10段を町とする。段の租は稲2束2把とする」「田は、長さ30歩、広さ12歩を段とすること。10段を町とすること。」「段の租は稲2束2把である。」支給される面積は六歳以上の男子が2段(約2,400㎡)で、女子はその3分の2である。田租は、国土の収穫がある早晩に準じて、9月中旬から輸納を始める、11月30日以前に納入を終えることとされていた。
参考文献
- 久武綾子(1985)「古代の家族経営」
槍 ― 2025年02月13日 23:52
槍(やり)は長い柄の先に刀剣を取り付けた武器をいう。
概要
旧石器時代に狩猟の道具として槍が登場する。旧石器時代末期から縄文時代の当時の素材は石槍であった。大きなマンモス、ヘラジカなどの大型動物の捕獲に使用する。尖頭器は、槍の柄の先につけた狩猟用の道具である。柄は木材を使うので、朽ちるため出土しない。 形状により柳葉形、木ノ葉形、三稜形の3種類がある。素材の多くは黒曜石が使われた。原料の黒曜石は関東地方では産出しないので、神津島や信州の黒曜石原産地まで出向き、入手したとみられる。 対人間の戦の武器として使用されるのは、鎌倉時代中期以降とされる。
出土例
- 槍先形尖頭器 埼玉県鶴ヶ島市高倉出土、旧石器時代(後期)・前18000年
- 石槍 上林遺跡、栃木県佐野市 、旧石器時代
横穴式石室 ― 2025年01月03日 00:30
横穴式石室(よこあなしきせきしつ)は、古墳の墳丘に横穴をあけ、羨道と玄室を石を積んで築造した墓である。
概要
横穴式石室は朝鮮半島北部で発達し、古墳時代の後半に日本列島でも行われた。完成後も石室の開閉が可能であるため、追葬、合葬ができる埋葬施設である。古墳時代の前期・中期は竪穴式石室が主流であったが、古墳時代後期からは横穴式石室が主流となった。
事例
鋤崎古墳(福岡県福岡市)は北部九州型の横穴式石室の祖型で、 4世紀末から5世紀初頭の前方後円墳であり、日本最古の横穴式石室とされる。 宮山塚古墳の横穴式石室は近畿で最古級のもので5世紀後半~末頃に築造された。新沢千塚221号墳(新沢千塚古墳群)は5世紀後半頃で近畿地方における初期の横穴式石室の例である。
構造
遺体を安置する玄室と玄室への通路となる羨道がある。玄室の入口部では玄室の幅が狭くなり、羨道との接続部を袖石という。
九州型と畿内型
横穴式石室は「九州型」と「畿内型」に大別される。「九州型」は初期横穴式石室と呼ばれ、4世紀末頃から福岡・佐賀県沿岸部を中心に前方後円墳の埋葬施設として築造され、その後5世紀に九州各地へ拡がる。玄室の閉塞には板石を用いる。当初のものは前庭部、羨道、玄室の境界に段差があり、徐々に降下する。 普及する過程で「肥後型(熊本県)」や「地下式横穴(宮崎県)」などに変化し、地域色がみられる。「畿内型」は5世紀終わり頃に出現するが、6世紀はじめに前方後円墳に採用された。畿内型の特徴は(1)玄室平面は矩形であり、平天状である、(2)立柱石を立てるが壁体に組み込まれて、せり出すことはない、(3)鴨居石を置かず、両袖式または片袖式に羨道を接続させる、(4)閉塞石に板石を使わない、(5)極端に狭い羨道はない、(6)石材は大型化の傾向がある。(7)玄室の隅角は丈夫まで保たれる。
袖
両袖型は玄室との境界の両側に袖があるものをいう。片袖型は片側だけに袖があるものをいう。玄室と羨道との間に袖がないものを無袖型という。
百濟
百済の最初の王都の漢城(現ソウル市)周辺に位置する、ソウル市可楽洞・芳イ洞古墳群でみつかった横穴式石室は、百済の初期横穴式石室とされる。
参考文献
黒色土器 ― 2024年12月30日 01:20
黒色土器(こくしょくどき)は土師器系の土器で、器面をへらで磨き、炭素を吸着して黒変させた土器である。内黒土器ともいう。
概要
黒色土器には内側だけを黒化させた黒色土器A類と全体を黒化させた黒色土器B類とがある。後身の瓦器とは異なり、窯を用いないで焼き上げる。椀や皿などの食膳用が多いが、壺や煮炊き用の甕も見られる。素焼きの土器は、表面に細かいすきまがあるため、水分が土器にしみこんで水などの液体が漏れる。黒色土器は、土器の内側をていねいにへらで磨き、黒い物質ですきまを埋めることで水分がしみこまないように工夫している。 須恵器は窯を使って高温で焼くため、水がしみこまない。しかし灰釉陶器は役所や寺などで使われる高級品であるため、一般庶民は使えない。須恵器の代用品として黒色土器が伝わったと考えられる。
伝搬過程
黒色土器A類から黒色土器B類へ変化したとされている。A類は6世紀に東日本で現れ、8世紀に畿内と九州に広がり、9世紀以後はそれ以外の地域に普及したとする。須恵器生産が盛んであった東海地方以外の、信州・北関東・東北地方南部に特に多くみられ、杯・碗・高杯、鉢などの器種がある。奈良時代末では黒色土器Aが圧倒的に多いが、平安時代に入ると黒色土B類も多くなる。 畿内および西日本で須恵器が食器として普及したが、東日本の黒色土器は須恵器に代わるものとして出現して一般化したとする。
別の見解
逆の見解もある。九州で土器の表裏に煤(煙)を付着・吸収させて仕上げた黒色磨研土器(黒色土器B類)が先行し、祭祀や儀礼で使用されたとみる。8世紀後半に畿内を中心として、黒色土器(内黒土器、黒色土器A類)と呼ばれる器の内側だけを黒く燻した高台のない杯が定量生産されるようになるとの学説である。
使用地域の重要性
古代から中世への土器生産の移行過程を検討する上で重要である。
出土例
- 黒色土器 - 百々遺跡、山梨県南アルプス市、平安時代
- 黒色土器 - 五社遺跡、富山県小矢部市、平安時代
参考文献
屈葬 ― 2024年12月01日 21:40
屈葬(くっそう)は遺体の埋葬時に手足を折り曲げて埋葬する方法である。
概要
遺体の下肢を股あるいは膝で折り曲げ、膝を右または左に傾け、手足を胸の上まで曲げて体積を減らして埋葬する方法である。縄文時代では土壙墓や甕棺に埋葬していた。 これに対して遺体を折り曲げない方法を伸展葬という。 日本の縄文時代に多く見られるが、弥生時代でも見られる。縄文時代は住居の近くの場所に埋葬していたが、弥生時代には集落からは遠い場所に埋葬する様になった。弥生時代になると主流は伸展葬となった。
甕棺墓
口の狭い甕を二個使い口縁部を合して内に遺体を入れる方法である。鏡山猛(1939)によれば屈葬とするのは「死体を恐怖する観念」は原始民族に限らず、現代人に於てもある程度の通有性を有するとされる。
屈葬とする理由
屈葬とする理由は諸説が提案されている。
- 埋葬する穴を掘る労力の節約説
- 怨霊忌避説 - 死者の霊のよみがえりを避け生者への災いを防止する。
- 胎児の姿勢で再生を期待する説
- 安楽な休息姿勢で死者を楽にさせる説 - 平静時の座位と同じ
考察
屈葬とする理由は怨霊忌避説が有力とされている。弥生時代には少なくなったとされるものの、弥生時代でも吉野ヶ里遺跡の甕棺では屈葬が主流となっている。甕棺では格納スペースの問題から採用されたのではないか。怨霊忌避説では、古墳時代に見られなくなった理由を合理的に説明できない。 なぜ屈葬するかについては、縄文時代で甕棺を使わない場合は、穴を掘る労力を少なくする説も説得力がある。
出土例
- 小竹貝塚 縄文時代、富山県富山市、縄文時代 国内最多の前期縄文人骨
- 加曽利貝塚 縄文時代後期、千葉県千葉市
参考文献
- 長谷部言人(1927)「石器時代の蹲葬の起源について」『先史学研究』
- 大島直行(2017)『縄文人はなぜ死者を穴に埋めたのか : 墓と子宮の考古学』国書刊行会
- 鏡山猛(1939)「我が古代社会に於ける甕棺葬」史淵. 21,pp.83-123,
玦状耳飾 ― 2024年11月30日 22:34

玦状耳飾(けつじょうみみかざり)は扁平な円形または楕円形で中央に円孔があり、一端に切れ目がある耳飾りである。
概要
縄文時代早期末から出土し始め、縄文時代前期に前期末から中期始め頃までに北海道から九州まで広がり、この時期の一般的な装飾品として用いられるようになった。滑石、蛇紋岩など軟質の石製品が多い。 日本の製品は縄文時代早期に環状のC字形のものがあり、前期には扁平化して平面形が縦円状や三角形状となり、孔が小型化し、切り込みが長くなる。中期に入り横長化や縦長化が進行する。
名前の由来
1917年大阪の古府遺跡で埋葬人骨の耳の位置で出土し、耳たぶに装着する耳飾りと推定された。古代中国の玉器の玦と形状が似ていることから、名がついた。その後、墓壙内の頭部推定位置で2個一対で出土する事例が増えている。
材料
材質は磨って薄く成形した板状の石(蛇紋岩・滑石ほか)が多いが、少数ながら土製や 骨角製(鹿の角)もある。滑石など滑沢のある石材で作られる。
使い方
ピアスの一種として、耳たぶに穴をあけ、その穴に飾りの切れ目の部分から通し、全体を半回転させることで切れ目の部分が下にくるようにして装着させていたと考えられる。 一般的な装飾品であるが、誰もが着用していたわけではなく、栃木県の根古屋遺跡では179体の人骨のうち玦状耳飾を伴っていた人骨は、2体だけであった。すなわち玦状耳飾は特定の階層の人しか装着することができなかったと見られる。個人的な趣味による装着ではなく、縄文社会のルールにしたがってつけていたと考えられる。
起源論争
同形の耳飾は、東アジア一帯で出土し、中国から各地へ伝わったと考える説もある。中国の玦を起源とする説もあるが、紀元前5000年以前には遡らないため、日本で独自で生成発展した可能性も推定できる。
研究史
大阪府藤井寺市国府遺跡で出土し、鈴木文太郎は京都帝国大学(1917)で「石製玦状の耳輪を耳辺に存するもの」と説明した。1918年の報告では「玦状耳飾」と説明する。 1933年には樋口清之が「玦状耳飾考」を発表した。
出土例
- 玦状耳飾 宿戸遺跡、岩手県九戸郡洋野町、縄文時代早期中葉
- 玦状耳飾 桑野遺跡、福井県あわら市、縄文時代
参考文献
- 藤田不二夫(1995)「玦状耳飾」(加藤晋平編『縄文文化の研究 7 道具と技術』第2版)雄山閣出版
- 京都帝国大学(1917)「河内国府石器時代遺跡発掘報告」京都帝国大学文科大学考古学研究報告
- 京都帝国大学(1918)「河内国府石器時代遺跡第二回発掘報告」京都帝国大学文科大学考古学研究報告
- 樋口清之(1933)「玦状耳飾考」考古学雑誌 23(1)
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