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突帯文土器2024年11月01日 06:50

突帯文土器(とったいもんどき)は土器の口縁部の外面に突帯をつけ、突帯に刻み目で、連続した文様を付けた土器である。

概要

直口縁をもつ煮沸用土器の口縁部や胴部に突帯を貼り付けて めぐらせる文様を主文様とする土器である。山崎純男(1980)は「夜臼Ⅰ式→夜臼Ⅱ式a →夜臼Ⅱ式b」の編年案を提示した。泉拓良(1990)は「滋賀里Ⅲ→凸帯文1期→凸帯文2期(前半、後半)→凸帯文3期」の編年を提案した。

炭素14年代

藤尾 慎一郎、坂本 稔、東和幸(2013)は炭素 14 年代値を測定したところ、2500から2400 14C BP 台であった。九州北部の夜臼Ⅱb 式から板付Ⅱa 式併行の値であった。海洋リザーバー効果の影響は認められなかつた。立地からしてもその影響はないと見られる。2500年台の土器は夜臼Ⅱb式併行の年代,2400年代の土器は板付Ⅱa式併行の高橋Ⅰ式の年代を示しており,較正年代は前者を前8世紀,後者を前7世紀に比定できるとした。

出土例

  • 突帯文土器 池島・福万寺遺跡、大阪府東大阪市、縄文~弥生時代
  • 突帯文土器 斉藤山遺跡、熊本県玉名郡、縄文晩期から弥生前期

考察

参考文献

  1. 山崎純男(1980)「弥生文化成立期における土器の編年的研究」『鍵山猛先生古希記念 古文化論攷』鏡山猛先生古稀記念論文集刊行会
  2. 泉拓良(1990)「西日本凸帯文土器の編年」文化財学報 (8), pp.55-79
  3. 藤尾 慎一郎、坂本 稔、東和幸(2013)「志布志市稲荷迫遺跡出土弥生前期突帯文土器の年代学的調査」『縄文の森から』 研究紀要、鹿児島県立埋蔵文化財センター 編 (6),pp. 1-12

車輪石2024年11月03日 23:59

車輪石/乳岡古墳/堺市博物館

車輪石(しゃりんせき)は石で貝の形状を模造した車輪に似た形状の腕輪形の石製品である。

概要

楕円形の形状で放射状の帯が付けられる。古墳の副葬品として収められる。 放射状の帯を配しているところから名付けられた。 カサガイやオオツタノハなどの笠形をした貝の頂部に孔をあけてつくられた腕輪を石材で模したものである。表面にある放射状の文様は、貝の表面の放射肋とよばれる筋を模倣したものである。実用的なものではなく、非実用品であった可能性が高い。 緑色凝灰岩で作られる場合が多い。 古墳時代には、特別な貝輪は緑色凝灰岩や碧玉とよばれる緑色をした石材でつくられた。

材質・形状

当初はカサガイ等の南海産二枚貝製貝輪が有力視されていた(高橋(1913))。三木・小林(1959)は平面卵形のものから順次円形に変化していくという説を唱た。その後、オオツタノハが祖形と指摘された(三島・橋口(1977))。河村(1989)は卵形と、銅釧を祖形とする円形は当初から併存していたと指摘した。

出土例

  • 車輪石 - 島の山古墳出土、奈良県磯城郡川西町、古墳時代前期
  • 車輪石 - 東之宮古墳、愛知県犬山市、古墳時代、京都国立博物館
  • 車輪石 - 17号遺跡出土、沖ノ島、福岡県宗像市、4~5世紀、国宝

考察

腕にはめる部分は平面になっているが、これを腕に装着すると日常動作に支障を来すのではないかと思われる。その意味では使用されたとしても、儀式の場などで、権威を示す必要のあるときに使用されたと思われる。円形のものもあるが楕円形も多い。楕円形にする意味は何であろうか。

参考文献

  1. 高橋健自(1913)「釧の研究」『考古学雑誌』3-7
  2. 河村好光(1989)「碧玉製腕飾類の成立」『北陸の考古学』Ⅱ 石川県考古学研究会会誌32
  3. 三島格・橋口達也(1977)「南海産貝輪に関する考古学的考察と出土地名表」『立岩遺蹟』河出書房新

大仙古墳2024年11月04日 23:03

大仙古墳
大仙古墳

大仙古墳(だいせんこふん)は大阪府堺市堺区にある前方後円墳である。「仁徳陵」「仁徳陵古墳」「仁徳天皇陵」「大仙陵」「大山陵」「大山古墳」「大山古墳」「百舌鳥耳原中陵」とも言われる。ユネスコから世界文化遺産の指定を受けた百舌鳥・古市古墳群の構成資産に含まれている。

概要


日本最大の古墳であり、世界3大墳墓と言われる。墳丘の全長約486m、後円部径約249m、高さ約35.8m、前方部幅約307m、高さ約33.9mの規模で3段築成で作られている。 後円部の中央部の最高地点に大きな石があったことが240年前の江戸時代の記録に残る。埴輪焼成は窄窯焼成であった。墳丘の周囲に三重の周濠が取り囲む。三重の濠が巡らされる巨大前方後円墳は他に類例がない。梅原末治博士の試算では、埴輪の総数は2万本を超すとされる。最終的に円筒埴輪は29000本以上が樹立されたと想定されている。古墳の築造に要した年月は、大林組の古代工法による試算では、一日最大2,000 人が従事したとして15 年8か月を要し、述べ680 万人が従事したと見積もられている。大仙古墳は堺市役所21階展望ロビーから眺めることができる。

世界3大墳墓の比較


No 名前 全長 高さ 体積
1 大仙古墳 486メートル 35.8メートル 140万立方メートル
2 クフ王のピラミッド 230メートル 146メートル 260万立方メートル
3 秦の始皇帝陵 350メートル 76メートル 300万立方メートル

規模

形状 前方後円墳
墳長 486m
後円部 径249m 高35m
前方部 幅305m 長255m 高33m
外表施設 円筒埴輪 円筒Ⅳ式
形象埴輪 馬、女子の首
葺石 あり
主体部 室・槨 ①竪穴式石槨
棺 ①長持形石棺 ②長持形石棺の可能性
【造出】あり(両側、くびれ部やや前方部寄り)。
【周濠】楯形、3重。

調査

2018年第一回発掘調査
62018年は、墳丘を囲む二つの堤のうち、墳丘に近い第1堤の南側と東側の3カ所を調査した。円筒埴輪列が見つかり、埴輪が並ぶ面に石が敷き詰められていることを確認した。 
2021年第二回発掘調査
宮内庁と堺市は2021年9月27日、3年ぶりに2回目となる共同の発掘調査を行った。調査期間は10月5日~12月上旬であった。濠の水で浸食される墳丘の保全工事をする際、通路を設けることになる堤の遺構や遺物を調べるのが目的とされた。前方後円墳を囲む堤の内側から、「円筒埴輪列」が発見された。

遺物


葺石と埴輪があり埴輪には巫女形埴輪、馬形埴輪、水鳥形埴輪、犬形埴輪人物(女子頭部)や水鳥、鹿、家などが出土する。1872年(明治5年)には、前方部で竪穴式石室に収めた長持形石棺が露出し、刀剣・甲冑・ガラス製の壺と皿が出土した。昭和30年代と最近の調査で造出しから須恵器の甕が出土した。前方後円墳の築造時には墳丘の斜面は葺石で覆われ墳頂部には円筒埴輪が並べられていた。
-長持形石棺
-埴輪
-眉庇付冑
-短甲
-ガラス壺
-【武具】鋲留短甲:横矧板(銅鍍金)、眉庇付冑:小孔鋲留式(銅鍍金)。
-他に本墳出土と伝えられる単竜鳳環頭大刀・細線式獣帯鏡(ボストン美術館所蔵)がある。

ボストン美術館


アメリカのボストン美術館に大仙古墳出土とされる銅鏡や環頭大刀などが収蔵されている。しかし鏡や環頭大刀の同陵出土には疑いもある。岡倉覚三によって1906年(明治39年)に京都で購入された可能性が高いと推定されている。

被葬者


被葬者は学術的に未確定である。
宮内庁は大仙古墳を仁徳大王の陵に比定している。大阪市立大学文学研究科・岸本直文教授の説によれば、大仙古墳から出土した土器や馬具の研究から、大仙古墳の完成は5世紀中ごろとしている。仁徳天皇とすると、年代が合わず、年代的に見合うのは允恭大王とする。

盗掘


『全堺詳志』に「御陵は北峯にあり、石の唐櫃あり。蓋石長さ一丈五寸(318cm)、幅五尺五寸(167cm)、厚さおよそ八寸(24cm)、内には尊骸ならびに明器あるにあらず。空櫃なり。千四、五百年を経たるなれば、盗賊のあばきたるならん」と書かれる。この記述から蒲鉾形屋根の蓋石を持つ長持形石棺と見られる。『全堺詳志』に記される石棺の蓋石は、その後堺奉行所の庭の踏石にされていたという(『新井白石全集』「仁徳の鳥野の御陵はあばかれて、石棺の蓋石、堺の政所の庭の蓋石になれりという」)

未完成説


全体の形状は空から眺めると均整の取れた美しい形であるが、後世の盗掘や遊山の場所として利用されたとしても、前方部正面以外は等高線が乱れている。現在もっとも詳しい測量図は1926年(大正15年)に宮内省(当時)が測量した『仁徳天皇百舌鳥耳原中陵之図』である。後円部の北東部分、同南西部分、前方部頂の北東部分、北西部分が特に乱れている。後世の人為的な破壊や自然災害では説明がつきにくい。未完成説の難点は、下段、中段、下段に円筒埴輪が並べられている点である。通常は段の成形が終わってから、円筒埴輪を並べる。円筒埴輪と葺石が全体にあるかどうかが 、判定基準となる。報告によれば円筒埴輪と葺石は相当数が置かれていたようである。 測量図だけでは判定が難しい。『堺鑑』によれば、「諸国より来たりてこの陵を築きしに、尾州より人歩き遅れ来たり、故にその築き残しは其の儘谷となれり。今に尾張谷と言えり」と記される。少なくとも江戸時代には等高線が乱れる状況であったと考えられる。

空襲被害
1940年7月10日の堺市大空襲で、2832名以上の死傷者と18446戸の家屋焼失があった。7月の堺大空襲で罹災した面積は約22万6千坪に達し、これは市域総面積の1.4%、旧市域の62%に相当する。 このとき、大仙古墳も一部に被害を受けた。大阪府警察局(1940)によれば、被弾数焼夷弾約三00個、見張り所全焼(社務所)約二坪、哨舎全焼約一坪、船小屋全焼約一坪、松五本全焼であった。墳丘は被害なし。

築造時期
築造時期:4世紀末から5世紀頃
築造時期の推定時期の根拠は次の通り

No 時期 根拠 備考
1 4世紀後半 『日本書紀』仁徳の在位期間 313年から399年
2 5世紀前半 『古事記』仁徳の崩御時期 427年
3 5世紀前半 『宋書倭国伝』倭王讃=仁徳説 5世紀前半
4 5世紀中頃 前方部石棺 5世紀中頃から6世紀中頃
5 5世紀中頃 岸本直文教授 古墳から出土する土器や馬具頃

アクセス等
-名称:大山古墳
-所在地: 堺市堺区大仙町
-交通: JR阪和線「百舌鳥駅」下車 徒歩8分
参考文献
(1)大塚初重(2019)『巨大古墳の歩き方』宝島社
(2)森浩一(1981)「巨大古墳の世紀」岩波書店
(3)中井正弘(1992)「仁徳陵」創元社
(4)大阪府警察局(1940)「空襲被害状況に関する件」『大阪空襲に関する警察局資料Ⅰ、Ⅱ』松原市史資料集第6号、第7号
(5)衣笠一閑(1684)『堺鑑』
(6)高志芝巌(1757)『全堺詳志』
(7)新井白石(1906)『新井白石全集』第五巻「白石紳書」

くにたち郷土文化館2024年11月05日 00:18

くにたち郷土文化館(くにたちきょうどぶんかかん)は東京都国立市にある歴史文化館である。

概要

国立市の歴史や民俗・美術・自然について学べる施設である。環境への配慮から、施設の80%以上が地下にあり、展示室では、市内で唯一、考古資料として国指定重要文化財となった縄文時代の「大形石棒」や市指定有形文化財の「顔面把手付土器」等、多くの貴重な資料が展示される。

展示  

  • A:自然ゾーン(エントランスホール)
  • B:ハケゾーン
    • 摩川・武蔵野台地・河岸段丘・湧水・動植物など。貝の化石の実物資料を展示。
  • C:歴史ゾーン
    • 1.「原始・古代の国立」
    • 旧石器時代から奈良・平安時代までを市内各所で確認された遺跡の出土遺物や遺構の写真、模型などを中心に展示・解説する。
      • 石棒4本(国指定重要文化財)
      • 紡錘車(国立市指定文化財)
      • 「顔面把手付土器」(国立市指定文化財)
      • 石斧 埼玉県さいたま市岩槻区 真福寺貝塚出土の石斧

指定

  • 平成29年9月15日、 石棒 緑川東遺跡出土、国指定重要文化財

諸元

  • 名 称:くにたち郷土文化館
  • 開 設: 1994 (平成 6) 年 11月 16日
  • 休館日:毎月第2・4木曜日(祝日の場合は開館し、翌日を休館)、年末年始、
  • 開館時間:9:00~17:00(入館は16:30)
  • 観覧料:大人:無料(企画展、特別展については別途設定)
  • 所在地: 〒186-0011 国立市谷保6231
  • 交通: JR中央線 国立駅南口より4番乗り場:「国立操車場」「国立泉団地」行き ⇒「くにたち郷土文化館」下車 徒歩1分/JR南武線矢川駅から徒歩で10分

摩利支天塚古墳2024年11月06日 00:14

摩利支天塚古墳

摩利支天塚古墳(まりしてんづかこふん)は栃木県小山市にある前方後円墳である。 日本百名墳に選出されている。

概要

小山市は、関東平野の北縁部をなす県南部の平野部に位置する。鬼怒川と思川の間に広がる宝木台台地付近に広い沖積平野「栃木沖積低地」が形成されている。 思川支流の姿川が思川に合流する地点から北に約1 ㎞の、舌状台地の先端部に摩利支天塚古は所在する。摩利支天塚古墳から北西300mの場所に琵琶塚古墳が造られた。摩利支天塚古墳は栃木県内で最大級の前方後円墳である。後円部に神社・摩利支天社がまつられており、本殿は市指定文化財となっている。墳丘の東側から北側にかけて、幅約25mの空濠が認められる。

栃木県南部の古墳の立地

当地域は古墳時代中期から後期、古代にかけて有力な政治勢力が存在し続け、そのうち摩利支天塚古墳は先駆的な古墳となる。 5世紀中葉に宇都宮市南部に当時最大規模の本格的前方後円墳である笹塚古墳(100m)、塚山古墳(前方後円墳100m)が築かれ、これら勢力が衰退するとともに小山市北部に摩利支天塚古墳(前方後円墳120m)、琵琶塚古墳(前方後円墳123 m)が出現したと想定されている。古墳時代後期になると、摩利支天塚・琵琶塚古墳を築いた勢力は北へ約3 ㎞に位置する吾妻古墳に引き継がれたと考えられている。

下野型古墳

大橋・鈴木が規定した下野型古墳の特徴は、以下の通りである。

  1. 古墳の墳丘に幅広い第一段平坦面(基壇)をもつ。
  2. 前方部に石室をもつ。
  3. 古墳は凝灰岩切石を組み合わせた大型切石で構成される横穴式石室をもつ。大型の切石一枚で各壁を構成し、刳り抜き玄門を構築する。
  4. 複数の首長墓系譜が、約 14km 四方の限られた空間に1つの大きな墓域を形成し、6~7世紀にかけて集中的に前方後円墳や円墳を造る。

発掘調査

調査実施状況:第1次調査から3 次調査(S55・S56・S57)、第 4・5 次調査(H8・H9) 1980年から1982年にかけて発掘調査が行われた。盾形の二重周溝をもつこと、立地や出土埴輪の年代観から琵琶塚古墳に先行することが明らかになった。摩利支天塚古墳の年代観は5世紀末ないし6世紀初め、西暦500 年前後と想定された(鈴木一男(1983))。前方部前面の墳裾ラインは、西側ほど下段斜面が狭く、東側に行くほど広くなる。前方部は西隅角部分が突出する左右非対称な構造となっており、中段テラスも西隅角部分が広い平坦面である。前方部前面のテラス面と墳裾が平行ではないため、発掘の際に「剣菱形」と誤認した可能性が高いとされている(早稲田大学東アジア都城・シルクロード考古学研究所(2020))。埋葬施設は未確認である。レーダー探査でも不明であった。墳丘上には少なくとも 2 段に埴輪が巡り、埴輪群像は前方部テラスに想定される。

副葬品

規模

  • 形状 前方後円墳
  • 墳長 120.55m
  • 後円部 径71.088m 高10.9m 2段築成
  • 前方部 幅82.5m 長44.367m 高7.9m
  • くびれ幅 34.5m
  • くびれ高 5.4m

主体部 - 不明

外表施設

  • 円筒埴輪 円筒・朝顔形Ⅴ式 筒型円筒埴輪
  • 葺石 なし

遺物

  • 人物埴輪、
  • 馬形埴輪等

築造時期

  • 5世紀末~6世紀初頭

被葬者

  • 古代下毛野国の中心地が思川周辺に移動した時の、初代首長のお墓

展示

  • 国史跡 摩利支天塚・琵琶塚古墳資料館

考察

指定

  • 1978年(昭和53年)7月21日 国指定史跡
  • 2002年(平成14年)9月20日 追加指定

アクセス等 

  • 名称  :摩利支天塚古墳
  • 所在地 :〒323-0017  栃木県小山市飯塚362
  • 交 通 :小山駅から車で20分

参考文献

  1. 鈴木一男(1983)『摩利支天塚古墳』栃木県小山市教育委員会
  2. 早稲田大学東アジア都城・シルクロード考古学研究所(2020)「摩利支天塚古墳の測量・GPR 調査」早稲田大学東アジア都城・シルクロード考古学研究所 デジタル調査概報 第1冊

寺野東遺跡2024年11月08日 00:12

寺野東遺跡/水場遺構

寺野東遺跡(てらのひがしいせき)は栃木県小山市にある縄文時代の遺跡である。

概要

宇都宮市、下野市を流れ、同県小山市で田川放水路を経て鬼怒川に合流する一級河川である田川右岸の宝木台地の東端の標高43mに寺野東遺跡は位置する。台地の東側は沖積地が広がり、南東には筑波山が見え、北西に白根山、赤城山、高原山を見る。 縄文時代中期前半から後半に東側台地に径190mの大きな集落が営まれはじめた。竪穴住居74軒と袋状土坑が作られた。遺跡の中央を北から南に流れる谷の下流を挟んで東西の台地上に、地床炉をもつ5mほどの隅丸方形や円形の竪穴住居跡が作られる。中期後半になると集落は大規模になり、谷の東側平坦地上に密集して環状に竪穴住居跡と土坑が分布する。竪穴住居は、石囲い炉がありほとんどが円形から長楕円形で、径4mから5mのものが多い。縄文時代後期初頭になるとムラの規模は小さくなり、小規模な集落となる。木の実のあく抜きを目的とする水場遺構が集落の南の谷の東側斜面に作られた。水場は谷に向かって開く幅約12m、奥行き17mの範囲で平坦なU字形である。斜面上部に板塀を立てたと推定される幅30cm、深さ25cm前後の溝が作られた。谷には土器・石器・礫とクルミなどの種子類が多量に出土した。縄文時代後期前半から後半にムラは谷の東西に広がり、東側に環状遺構が作られる。木組遺構は縄文時代後期後半から晩期に作られた。小川の中に大きな木組み遺構が作られる。

調査

1990年から1994年にかけて工業団地造成のための発掘調査が行われ、旧石器時代の後期に属する石器、縄文時代中期から晩期の集落跡、古墳時代前期の集落跡、同中期末から後期の群集墳、奈良・平安時代の集落跡が発見された。 縄文時代後期前半から晩期中葉に、環状盛土を含む集落内の谷の中に、湧水利用遺構を集中的に構築している様子が確認された。能城修一・佐々木由香(2014)によれば、縄文時代後・晩期の土木材の組成はクリが50~80%であった。縄文時代の人々が低湿地に構造物をつくる際に,単に水湿に強いクリ材を選択した結果とする。土木材に直径10 cm 前後のクリの木材を用い、構造材には直径20~70 cm の木材を割って用いるという。

盛土遺構の形成過程の要因

高梨俊夫(2009)は盛土の形成過程の要因とその性格の解釈に問題があるとしている。「中央窪地型集落」は最終形態の曖昧な概念であり、集落の内容を規定した上でなければ、追跡の本質を表現できないとする。周辺集落から集まった人々が、中央窪地で執り行われる祭祀に参加し、ここで、遠隔地からの石材や貝などの品々の分配を受けることが環状盛土遺構を有する遺跡の姿であるとする。

遺構

  • 水場1
  • 環状盛土1
  • 竪穴建物18
  • 縄文時代土坑1009
  • 木組15
  • 杭8
  • その他の谷部の遺構(水場)7
  • 土坑1128+16
  • 内袋状土坑136
  • 落とし穴7
  • 住居153
  • ピット
  • 掘立柱建物17+6
  • 集配石21

遺物

  • 埋設土器10
  • 縄文土器
  • 石器
  • 土製品
  • 石製品
  • 骨角器
  • 漆製品
  • 編物

指定

  • 1995年11月8日 国指定史跡

考察

現地の配置には環状盛土遺構の高まりがあり、その外側に水の流れる低い部分がある。環濠集落に見えるかもしれないが、集落全体を環濠がめぐっているわけではなさそうだ。環状盛土遺構は防御施設との意見もある。 縄文時代には戦いが無かったとされ、縄文時代には環濠集落はないとされるが、なぜ盛土遺構を環状にしたかは、そこで行われた祭祀のあり方とも関係する。広場を取り囲むことに意味があったのではないだろうか。

アクセス

  • 名称:寺野東遺跡
  • 所在地:栃木県小山市大字梁愛宕
  • 交通:

参考文献

  1. 能城修一・佐々木由香(2014)「遺跡出土植物遺体からみた 縄文時代の森林資源利用」国立歴史民俗博物館研究報告 第187 集
  2. 高梨俊夫(2009)「環状盛土遺構を有する遺跡の解釈」千葉県立中央博物館研究報告. 人文科学 11-1(22) 51-65

琵琶塚古墳2024年11月09日 00:08

琵琶塚古墳

琵琶塚古墳(びわづかこふん)は栃木県小山市にある前方後円墳である。

概要

小山市は、栃木県南部の平野部に位置する。鬼怒川と思川の間に広がる宝木台台地付近に広い沖積平野「栃木沖積低地」が形成される。洪積台地上の思川と姿川の合流点付近に琵琶塚古墳は所在する。小山市街より西北方6.5 kmにある。琵琶塚古墳は栃木県内で第二位の規模である。6世紀初頭の築造とされる。

発掘調査

埋葬施設は未確認である。レーダー探査でも不明であった。琵琶塚古墳の調査は,昭和53年11 月10 日(金)から昭和54年1 月13日 (土)まで延べ51日にわたって実施した。東西に2m 帽のトレンチを後円部に4 本,くびれ部付近に1 本,前方部に6 本,前方部周自のコーナーを確認する為に1 本計12 本トレンチが設定された。どのトレンチからも埴輪片が検出された。円筒埴輪列は埴輪の出土状態から,下段築面に配列されている事が確認できた。遺物は埴輪が大半を占めるほかは,わずかに壺形土器の口縁部片が見られた。埴輪樹立の間隔は1m 内外である。朝顔形埴輪の,凸帯は5 段を有し、3 段目と4 段目の間に対向して2 つの円形透し孔が有り,その中間的位置のI 段目と2 段目の間に1つ透し孔が有り,千鳥状に計3方向に透かし孔が見られる。

不適切工事

栃木県内で2番目の大きさの国史跡の前方後円墳・琵琶塚古墳の整備事業について、国への許可申請をしていないなど不適切な手続きのまま改修工事を続けていたと、市教育委員会が2023年12月28日、発表した。整備事業は厚さ約30センチの盛土をして墳丘部を保護する計画であった。2019年から進められていた。当初は埋蔵物の保護などの観点から重機などを使わずに人力で作業する計画だったが、今年度からパワーショベルや、ダンプ車を古墳の一部に乗り入れていた。経費節約や工事日程を短縮するためだったという。 国の史跡については発掘や修復に際し、国に現状変更申請を提出、許可を受ける必要がある。市は事態を重大視して、琵琶塚古墳対策チームを発足し、担当の市教委文化振興課長を交代させた。 市は現状変更申請を怠った原因を(1)担当者の心身不調(2)属人的な業務遂行・情報共有不足(3)慢性的な業務過多(4)県への依存的体質(5)法令等調査・確認の不徹底-を挙げ、これらが複合的に作用したと結論づけている。

副葬品

規模

  • 形状 前方後円墳
  • 築成 前方部:3段、後円部:3段
  • 墳長 123m
  • 後円部 径75m 高11m
  • 前方部幅70m 長52m 高9m

主体部 - 不明

外表施設

  • 円筒埴輪 円筒・朝顔形Ⅴ式
  • 葺石 なし

遺物

  • 埴輪
  • 壺形土器片

築造時期

  • 6世紀初頭

被葬者

  • 摩利支天古墳の次となる二代目首長の墓

展示

  • 国史跡 摩利支天塚・琵琶塚古墳資料館

考察

指定

  • 1926年(大正15年)2月24日 国の史跡指定
  • 1981年12月09日(昭和56.12.09) 追加指定

アクセス等 

  • 名称  :琵琶塚古墳
  • 所在地 :栃木県小山市大字飯塚字琵琶塚
  • 交 通 :JR小金井駅より徒歩60分/JR小山駅より関東バス扶桑団地下車徒歩20分/小山駅から車で20分

参考文献

  1. 小山市教育委員会(1994)『小山市文化財調査報告書30:琵琶塚古墳発掘調査報告書』小山市教育委員会
  2. 「小山市の国史跡琵琶塚古墳で不適切な整備実施」朝日新聞、2023年12月29日
  3. 小山市教育委員会(1979)「環境整備事業に伴う琵琶塚古墳発掘調査概報」小山市文化財調査報告書第7 集