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大仙古墳2024年11月04日 23:03

大仙古墳
大仙古墳

大仙古墳(だいせんこふん)は大阪府堺市堺区にある前方後円墳である。「仁徳陵」「仁徳陵古墳」「仁徳天皇陵」「大仙陵」「大山陵」「大山古墳」「大山古墳」「百舌鳥耳原中陵」とも言われる。ユネスコから世界文化遺産の指定を受けた百舌鳥・古市古墳群の構成資産に含まれている。

概要


日本最大の古墳であり、世界3大墳墓と言われる。墳丘の全長約486m、後円部径約249m、高さ約35.8m、前方部幅約307m、高さ約33.9mの規模で3段築成で作られている。 後円部の中央部の最高地点に大きな石があったことが240年前の江戸時代の記録に残る。埴輪焼成は窄窯焼成であった。墳丘の周囲に三重の周濠が取り囲む。三重の濠が巡らされる巨大前方後円墳は他に類例がない。梅原末治博士の試算では、埴輪の総数は2万本を超すとされる。最終的に円筒埴輪は29000本以上が樹立されたと想定されている。古墳の築造に要した年月は、大林組の古代工法による試算では、一日最大2,000 人が従事したとして15 年8か月を要し、述べ680 万人が従事したと見積もられている。大仙古墳は堺市役所21階展望ロビーから眺めることができる。

世界3大墳墓の比較


No 名前 全長 高さ 体積
1 大仙古墳 486メートル 35.8メートル 140万立方メートル
2 クフ王のピラミッド 230メートル 146メートル 260万立方メートル
3 秦の始皇帝陵 350メートル 76メートル 300万立方メートル

規模

形状 前方後円墳
墳長 486m
後円部 径249m 高35m
前方部 幅305m 長255m 高33m
外表施設 円筒埴輪 円筒Ⅳ式
形象埴輪 馬、女子の首
葺石 あり
主体部 室・槨 ①竪穴式石槨
棺 ①長持形石棺 ②長持形石棺の可能性
【造出】あり(両側、くびれ部やや前方部寄り)。
【周濠】楯形、3重。

調査

2018年第一回発掘調査
62018年は、墳丘を囲む二つの堤のうち、墳丘に近い第1堤の南側と東側の3カ所を調査した。円筒埴輪列が見つかり、埴輪が並ぶ面に石が敷き詰められていることを確認した。 
2021年第二回発掘調査
宮内庁と堺市は2021年9月27日、3年ぶりに2回目となる共同の発掘調査を行った。調査期間は10月5日~12月上旬であった。濠の水で浸食される墳丘の保全工事をする際、通路を設けることになる堤の遺構や遺物を調べるのが目的とされた。前方後円墳を囲む堤の内側から、「円筒埴輪列」が発見された。

遺物


葺石と埴輪があり埴輪には巫女形埴輪、馬形埴輪、水鳥形埴輪、犬形埴輪人物(女子頭部)や水鳥、鹿、家などが出土する。1872年(明治5年)には、前方部で竪穴式石室に収めた長持形石棺が露出し、刀剣・甲冑・ガラス製の壺と皿が出土した。昭和30年代と最近の調査で造出しから須恵器の甕が出土した。前方後円墳の築造時には墳丘の斜面は葺石で覆われ墳頂部には円筒埴輪が並べられていた。
-長持形石棺
-埴輪
-眉庇付冑
-短甲
-ガラス壺
-【武具】鋲留短甲:横矧板(銅鍍金)、眉庇付冑:小孔鋲留式(銅鍍金)。
-他に本墳出土と伝えられる単竜鳳環頭大刀・細線式獣帯鏡(ボストン美術館所蔵)がある。

ボストン美術館


アメリカのボストン美術館に大仙古墳出土とされる銅鏡や環頭大刀などが収蔵されている。しかし鏡や環頭大刀の同陵出土には疑いもある。岡倉覚三によって1906年(明治39年)に京都で購入された可能性が高いと推定されている。

被葬者


被葬者は学術的に未確定である。
宮内庁は大仙古墳を仁徳大王の陵に比定している。大阪市立大学文学研究科・岸本直文教授の説によれば、大仙古墳から出土した土器や馬具の研究から、大仙古墳の完成は5世紀中ごろとしている。仁徳天皇とすると、年代が合わず、年代的に見合うのは允恭大王とする。

盗掘


『全堺詳志』に「御陵は北峯にあり、石の唐櫃あり。蓋石長さ一丈五寸(318cm)、幅五尺五寸(167cm)、厚さおよそ八寸(24cm)、内には尊骸ならびに明器あるにあらず。空櫃なり。千四、五百年を経たるなれば、盗賊のあばきたるならん」と書かれる。この記述から蒲鉾形屋根の蓋石を持つ長持形石棺と見られる。『全堺詳志』に記される石棺の蓋石は、その後堺奉行所の庭の踏石にされていたという(『新井白石全集』「仁徳の鳥野の御陵はあばかれて、石棺の蓋石、堺の政所の庭の蓋石になれりという」)

未完成説


全体の形状は空から眺めると均整の取れた美しい形であるが、後世の盗掘や遊山の場所として利用されたとしても、前方部正面以外は等高線が乱れている。現在もっとも詳しい測量図は1926年(大正15年)に宮内省(当時)が測量した『仁徳天皇百舌鳥耳原中陵之図』である。後円部の北東部分、同南西部分、前方部頂の北東部分、北西部分が特に乱れている。後世の人為的な破壊や自然災害では説明がつきにくい。未完成説の難点は、下段、中段、下段に円筒埴輪が並べられている点である。通常は段の成形が終わってから、円筒埴輪を並べる。円筒埴輪と葺石が全体にあるかどうかが 、判定基準となる。報告によれば円筒埴輪と葺石は相当数が置かれていたようである。 測量図だけでは判定が難しい。『堺鑑』によれば、「諸国より来たりてこの陵を築きしに、尾州より人歩き遅れ来たり、故にその築き残しは其の儘谷となれり。今に尾張谷と言えり」と記される。少なくとも江戸時代には等高線が乱れる状況であったと考えられる。

空襲被害
1940年7月10日の堺市大空襲で、2832名以上の死傷者と18446戸の家屋焼失があった。7月の堺大空襲で罹災した面積は約22万6千坪に達し、これは市域総面積の1.4%、旧市域の62%に相当する。 このとき、大仙古墳も一部に被害を受けた。大阪府警察局(1940)によれば、被弾数焼夷弾約三00個、見張り所全焼(社務所)約二坪、哨舎全焼約一坪、船小屋全焼約一坪、松五本全焼であった。墳丘は被害なし。

築造時期
築造時期:4世紀末から5世紀頃
築造時期の推定時期の根拠は次の通り

No 時期 根拠 備考
1 4世紀後半 『日本書紀』仁徳の在位期間 313年から399年
2 5世紀前半 『古事記』仁徳の崩御時期 427年
3 5世紀前半 『宋書倭国伝』倭王讃=仁徳説 5世紀前半
4 5世紀中頃 前方部石棺 5世紀中頃から6世紀中頃
5 5世紀中頃 岸本直文教授 古墳から出土する土器や馬具頃

アクセス等
-名称:大山古墳
-所在地: 堺市堺区大仙町
-交通: JR阪和線「百舌鳥駅」下車 徒歩8分
参考文献
(1)大塚初重(2019)『巨大古墳の歩き方』宝島社
(2)森浩一(1981)「巨大古墳の世紀」岩波書店
(3)中井正弘(1992)「仁徳陵」創元社
(4)大阪府警察局(1940)「空襲被害状況に関する件」『大阪空襲に関する警察局資料Ⅰ、Ⅱ』松原市史資料集第6号、第7号
(5)衣笠一閑(1684)『堺鑑』
(6)高志芝巌(1757)『全堺詳志』
(7)新井白石(1906)『新井白石全集』第五巻「白石紳書」

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