寺野東遺跡 ― 2024年11月08日 00:12

寺野東遺跡(てらのひがしいせき)は栃木県小山市にある縄文時代の遺跡である。
概要
宇都宮市、下野市を流れ、同県小山市で田川放水路を経て鬼怒川に合流する一級河川である田川右岸の宝木台地の東端の標高43mに寺野東遺跡は位置する。台地の東側は沖積地が広がり、南東には筑波山が見え、北西に白根山、赤城山、高原山を見る。 縄文時代中期前半から後半に東側台地に径190mの大きな集落が営まれはじめた。竪穴住居74軒と袋状土坑が作られた。遺跡の中央を北から南に流れる谷の下流を挟んで東西の台地上に、地床炉をもつ5mほどの隅丸方形や円形の竪穴住居跡が作られる。中期後半になると集落は大規模になり、谷の東側平坦地上に密集して環状に竪穴住居跡と土坑が分布する。竪穴住居は、石囲い炉がありほとんどが円形から長楕円形で、径4mから5mのものが多い。縄文時代後期初頭になるとムラの規模は小さくなり、小規模な集落となる。木の実のあく抜きを目的とする水場遺構が集落の南の谷の東側斜面に作られた。水場は谷に向かって開く幅約12m、奥行き17mの範囲で平坦なU字形である。斜面上部に板塀を立てたと推定される幅30cm、深さ25cm前後の溝が作られた。谷には土器・石器・礫とクルミなどの種子類が多量に出土した。縄文時代後期前半から後半にムラは谷の東西に広がり、東側に環状遺構が作られる。木組遺構は縄文時代後期後半から晩期に作られた。小川の中に大きな木組み遺構が作られる。
調査
1990年から1994年にかけて工業団地造成のための発掘調査が行われ、旧石器時代の後期に属する石器、縄文時代中期から晩期の集落跡、古墳時代前期の集落跡、同中期末から後期の群集墳、奈良・平安時代の集落跡が発見された。 縄文時代後期前半から晩期中葉に、環状盛土を含む集落内の谷の中に、湧水利用遺構を集中的に構築している様子が確認された。能城修一・佐々木由香(2014)によれば、縄文時代後・晩期の土木材の組成はクリが50~80%であった。縄文時代の人々が低湿地に構造物をつくる際に,単に水湿に強いクリ材を選択した結果とする。土木材に直径10 cm 前後のクリの木材を用い、構造材には直径20~70 cm の木材を割って用いるという。
盛土遺構の形成過程の要因
高梨俊夫(2009)は盛土の形成過程の要因とその性格の解釈に問題があるとしている。「中央窪地型集落」は最終形態の曖昧な概念であり、集落の内容を規定した上でなければ、追跡の本質を表現できないとする。周辺集落から集まった人々が、中央窪地で執り行われる祭祀に参加し、ここで、遠隔地からの石材や貝などの品々の分配を受けることが環状盛土遺構を有する遺跡の姿であるとする。
遺構
- 水場1
- 環状盛土1
- 竪穴建物18
- 縄文時代土坑1009
- 木組15
- 杭8
- その他の谷部の遺構(水場)7
- 土坑1128+16
- 内袋状土坑136
- 落とし穴7
- 住居153
- ピット
- 掘立柱建物17+6
- 集配石21
遺物
- 埋設土器10
- 縄文土器
- 石器
- 土製品
- 石製品
- 骨角器
- 漆製品
- 編物
指定
- 1995年11月8日 国指定史跡
考察
現地の配置には環状盛土遺構の高まりがあり、その外側に水の流れる低い部分がある。環濠集落に見えるかもしれないが、集落全体を環濠がめぐっているわけではなさそうだ。環状盛土遺構は防御施設との意見もある。 縄文時代には戦いが無かったとされ、縄文時代には環濠集落はないとされるが、なぜ盛土遺構を環状にしたかは、そこで行われた祭祀のあり方とも関係する。広場を取り囲むことに意味があったのではないだろうか。
アクセス
- 名称:寺野東遺跡
- 所在地:栃木県小山市大字梁愛宕
- 交通:
参考文献
- 能城修一・佐々木由香(2014)「遺跡出土植物遺体からみた 縄文時代の森林資源利用」国立歴史民俗博物館研究報告 第187 集
- 高梨俊夫(2009)「環状盛土遺構を有する遺跡の解釈」千葉県立中央博物館研究報告. 人文科学 11-1(22) 51-65
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