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壬生車塚古墳2024年11月14日 00:02

壬生車塚古墳/石室

壬生車塚古墳(みぶくるまづかこふん)は栃木県下都賀郡壬生町にある円墳である。 100名墳に選出されている。

概要

黒川左岸の台地上に築造される、直径約82m・高さ約11m、3段築成の円墳である。墳丘の大きさは、第一段の直径が82m、第二段が52m、第三段が32mである。西に牛塚古墳が隣接する。墳丘第一段の平坦面が幅広く造られており、下野地域特有の「下野型古墳」である。壇の周囲には二重の周溝と堤がめぐる。埋葬施設は南に開口する横穴式石室で現存長5.72m、羨道部と前室は滅失している。両側壁・天井はいずれも各1石古文書から、石室は江戸時代にはすでに開口していた。凝灰岩を組み合わせた横穴式石室は巨大な一枚岩を使用している。7世紀前半に造られた円墳の中では、国内最大級である。周溝では須恵器甕の破片が多数見つかっており、埴輪の代わりに須恵器の大甕が並べられていたと推定される。発掘調査で周堤の外側に二重目の周溝があることが新たに発見された。墳丘に川原石による葺石が敷かれていた。全高が1単位と4分の3の規格は千葉県の経僧塚古墳と姫塚古墳と同じである。

下野型古墳

古墳時代後期には現在の栃木県中央部の壬生地区、羽生田地区、国府地区、国分寺地区、上三川・石橋地区、薬師寺地区の6地域において「下野型古墳」が連綿と築かれた。これらの地区の有力首長は連合体を組織していたと考えられる。壬生地区には茶臼山古墳、富士山古墳、壬生愛宕塚古墳、古墳時代終末期には桃花原古墳、壬生塚古墳が築かれた。 下野型古墳は秋元陽光、大橋泰夫(1988)によって提唱された以下の3つの特徴をもつ古墳である。

  1. 墳丘一段目(基壇面)が幅広く作られる。
  2. 前方後円墳では前方部に石室を作る。
  3. 石室に凝灰岩の切石を使用する。

調査

2009年度(平成21年度)に範囲確認調査を行う。外周溝を確認(壬生町立歴史民俗資料館)した。2014年から2016年にかけて茨城大学、東京学芸大学の考古学専攻生が発掘した。すでに検出されていた二重目の周溝が全域にわたり巡ることが確認された。周堤は復元で高さ1.5m、幅4m、深さは1mある。墳丘第1段目は旧表土(鹿沼土)上に約1mの盛土をしている。1段目の平坦面は「下野型古墳」の大きな特徴で、「基壇」と呼ばれる。壬生車塚古墳では基壇の幅は約8mある。墳丘の各面は整った正円を描く。葺き石の多くは崩落しているが、葺石直下の砂利層が全体の崩落を防いでいる。平成27年9月の「関東東北豪雨」でも石室内に水が入らなかったのは、砂利層と石室内の石積が排水施設の役割を担っていたからと推定される。複室構造の横穴式石室は全長9mである。羨道部を含む石室入り口は完全に削平されている。前室の一部から赤彩(酸化第二鉄)が検出されている。石室の全面から「ハ」状に開き、推定幅16m、石室入口から墳頂部までの葺石の高さは8mに及ぶ壮大な施設と推測されている。 墳丘1段目、3段目の平坦面の落ち際からは須恵器甕の底部が原位置で確認された。埴輪消滅後、須恵器の甕を配置する祭祀は下野古墳群の大きな特徴である。 墳丘南側の造出しと見られていた部分は後世の堆積土であった。中世以降に大きな改変を受けている。

規模

  • 形状 - 円墳
  • 径  - 82m
  • 高さ - 約11m
  • 葺石 - あり

遺物

  • 須恵器甕 長胴甕約50個

築造時期

  • 7世紀初頭頃の築造。

被葬者

  • 基壇を持つ古墳は下野地域の広域的首長とされる。

展示

  • 壬生町立歴史民俗資料館

考察

指定

  • 1926年(大正15年)2月24日 - 国指定史跡
  • 1978年(昭和53年)3月14日 - 史跡範囲の追加指定(周堤部分)

アクセス等 

  • 名称  :壬生車塚古墳
  • 所在地 :〒321-0214  栃木県下都賀郡壬生町壬生甲
  • 交 通 :東武宇都宮線「壬生駅」から徒歩30分/2km

参考文献

  1. 壬生町立歴史民俗資料館(2010)『壬生町埋蔵文化財調査報告書25:車塚古墳』壬生町教育委員会
  2. 沼澤豊(2000)「円墳築造の企画性」研究連絡誌 56 1-60
  3. 君島利行(2019)「栃木県壬生町 壬生車塚古墳」考古学ジャーナルNo733,2019年11月30日
  4. 秋元陽光、大橋泰夫(1988)「栃木県南部の古墳時代後期の首長墓の変遷」『栃木県考古学会誌』第11集

太田天神山古墳2024年11月14日 21:02

太田天神山古墳

太田天神山古墳 (てんじんやまこふん, Tenjinyama Tomb)は群馬県太田市にある東日本で最大規模の前方後円墳である。「男体山古墳」「天神山古墳」とも言われる。 日本100名墳に選出される。

概要

東日本で最大、全国でも26番目の規模である。太田市は、群馬県の東部の平野部に立地する。丘の周りには馬蹄形の二重の周堀(内堀・外堀)が巡り、北約345m、東西約325m にわたり墓域が形成されている。北東に天神山古墳に付属する陪塚がある。墳丘は、河原石の葺石で覆われている。墳丘上、中堤帯の一部に埴輪が立てられていた。墳丘は3段築成。周濠覆土層に榛名山二ッ岳火山灰(F.A.)が堆積する。埋葬施設は盗掘されており、長持形石棺の一部が転落していた。表面は渡良瀬川水系で採取したと思われる川原石の葺き石で覆われていた。

同名の古墳

全国に「天神山古墳」は多数あるので、地名を前に付けて区別される。

  • 古海天神山古墳 群馬県邑楽郡
  • 前橋天神山古墳 群馬県前橋市
  • 北野天神山古墳 千葉県市原市
  • 姉崎天神山古墳 千葉県市原市
  • 大和天神山古墳 奈良県天理市
  • 桂川天神山古墳 福岡県嘉穂郡桂川町
  • 牛窓天神山古墳 岡山県瀬戸内市

調査

江戸時代に棺として使われた大型の長持形石棺が発見された。凝灰質砂岩製の縄掛突起を有する長持形石棺の底石棺材が遺存する。長持形石棺は4世紀代の畿内大和政権における大王の古墳、あるいは地方の巨大前方後円墳に採用されている石棺である。1957年(昭和32年)8月、墳丘の測量調査、1965年(昭和40年)、太田市教育委員会による内堀の発掘調査が行われる。1993年(平成5年)、後円部西側中堤部における民家造成に伴う発掘調査が行われる。中堤上で円筒埴輪列を発見した。1999年、外堀の発掘調査が行われる。円筒埴輪とS字状口縁台付甕片を発見した。

規模

  • 形状 前方後円墳
  • 築成 前方部:2段、後円部:3段
  • 墳長 210m
  • 後円部径 径120m 高16.5m
  • 前方部 幅126m 長92.5m 高11.7m

外表施設

  • 円筒埴輪 円筒Ⅲ式
  • 形象埴輪 切妻造
  • 葺石 - あり(河原石)
  • 造出 - あり

遺構

遺物

  • 円筒埴輪
  • S字状口縁台付甕片
  • 家形埴輪
  • 鶏形埴輪
  • 水鳥形埴輪 - 頭部のみ
  • 石製模造品 - 家形

築造時期

  • 5世紀前半 - 埴輪の特長などから推定されている

被葬者

  • 畿内大和政権とのつながりがあり、強大な権力をもった毛野地方における首長の墓

指定

  • 1941年(昭和16年)1月27日 - 国指定史跡
  • 平成22年8月5日(追加指定)

アクセス等

  • 名称:天神山古墳
  • 入場料:立ち入り自由
  • 所在地:群馬県太田市内ヶ島町1606-1
  • 交通: 東武伊勢崎線「太田駅」から徒歩22分/1.2km

参考文献

  1. 大塚初重(2019)『巨大古墳の歩き方』宝島社
  2. 太田市教育委員会指導部文化財保護課埋蔵文化財係(1999)『天神山古墳外堀発掘調査報告書』太田市教育委員会