久宝寺遺跡 ― 2024年11月22日 00:02
久宝寺遺跡(きゅうほうじいせき)は大阪府八尾市にある縄文時代晩期から弥生・古墳時代、中世、近世の集落・河川・生産遺跡を含む複合遺跡である。
概要
久宝寺遺跡は八尾市の北西部を中心とする大阪市、東大阪市にもまたがる縄文から近世までの複合遺跡である。範囲は南北1.6km、東西1.7kmに及ぶ。久宝寺遺跡は河内平野にあり、東は生駒山地、西は上町台地、南を河内大地に囲まれる。河内平野の平地は、低湿地、湖沼、三角州により形成される。 久宝寺遺跡は、物部氏の本拠地の一つであった可能性が高い。また南九州の隼人が居住したと記録される萱振保(八尾市萱振付近と推定)に近いことから、成川式土器は南九州から近畿への移住を示すものと推定されている。古墳時代後期から飛鳥時代の遺構は、掘立柱建物6棟・土坑7基・溝8条・小穴 158 個などで、調査地の西側で行われた第 68 次調査を含めて、古墳時代後期(6世紀)を中心とする建物群が集中している。
調査
昭和10年に久宝寺5丁目で実施された道路工事中に、弥生土器や土師器・須恵器、そして丸木舟の残片が出上したことが発見の契機となった。第66次調査では古墳時代前期の居住域の存在が明らかになった。 八尾市文化財調査研究会が1998年、1999年に調査した資料のうち、古墳時代中期(5世紀)中ころの住居跡から出土した高杯・壺などの土器は形や胎土の特色から、南九州で製作した成川式土器であることが明らかにされている。古墳時代後期から飛鳥時代の遺構は、掘立柱建物6棟・土坑7基・溝8条・小穴 158 個などで、 調査地の西側で行われた第 68 次調査を含めて、古墳時代後期(6C)を中心とした建物群が集中している。 平成23年から平成26年の調査で古墳時代前期に属する水田畦畔を発見した。古墳時代前期には、この周辺で広く水田耕作を行っていたことが明らかになっている。また古墳時代前期の水田は、その後の洪水による土砂の氾濫によって堆積した厚い砂に覆われている。 発掘調査では古墳時代の準構造船や韓式系土器が出土しており、古代の運搬や交易の様子が明らかにされた。 第67次調査では現地表下2~ 3m付近の層から古墳時代初頭~前期に比定される土器・木製品がコンテナ1箱程度出上した。第67次調査5層からは古墳時代初頭(庄内式期)の遺物が出土した。
発掘成果
1999年調査、2002年調査
- 1区、2区の3-1層(弥生時代)ははほぼ水田であり、人の足跡が見られる。畔は幅50cm、高さ5から10cm、長辺6-10m、短辺4-6mである。希に偶蹄目の足跡も見られる。牛の可能性がある。
- 5層(古墳時代)からは直口壺、複合口縁壺、庄内式甕が出土した。また方形周溝墓(久宝寺2号墓)を検出した。
物部氏
物部氏は古代の有力氏族の一つで、大和政権の軍事と祭司を担当していた。物部氏は奈良盆地東部が本拠地であるが、海外との通行が必要であることから、河内平野にも拠点を置いた。 古代にあった河内湖南岸の久宝寺遺跡付近が中河内における物部氏の本拠地と考えられる。 久宝寺遺跡には古墳時代後期の大型掘立柱建物群があり、建物の存続時期から物部氏の居館と考えられている。この時期の物部氏は全国に勢力を拡大しており、渡来人や他地域からの移住者を統括していた。 蘇我馬子などの崇仏派と物部守屋と中臣鎌子を中心とした排仏派との宗教対立があった。戦闘の際に物部守屋は「渋川の家」にいたと日本書紀に記録されるが、その場所は久宝寺遺跡とそこから近い渋川廃寺付近と推定されている。
宗教対立か
物部氏の本拠の渋川に寺の跡(渋川廃寺)が残っているため、物部氏は廃仏派ではなかったとする説がある。 山本昭(1986)は、廃寺跡から出土した瓦を豊浦寺の瓦と比べて、推古11年(603年)頃に当たるとした。このあたりは四天王寺領となっている土地が多いため、物部守屋の管轄下にある田や奴の一部が渋川寺建立にあてられたと推定している。つまり、山本昭(1986)は渋川廃寺を物部本家の滅亡前に建てられたと判定し、物部氏は廃仏派ではなかったと考えている。つまり宗教対立はなかった根拠になるとする。
遺構
- 堰 - 古墳時代中期頃に比定される
- 土坑
- 溝
- 護岸施設
- 周溝墓 - 古墳前期
- 水田 飛鳥以前
- 土器棺墓
- 木製品 古墳後期
- 石製品 古墳後期
- 畝間溝群 弥生末から古墳初頭
- 水路 弥生末から古墳初頭
- 竪穴建物 古墳初
- 方形周溝墓 古墳初
- 堰の部材 古墳中期
出土
- 土師器
- 土師器(布留式など) 古墳前期
- 古式土師器 - 古墳初頭
- 須恵器
- 船材 - 久宝寺遺跡の南地区で三世紀末から四世紀初めの船材が出土した。
- 銅鏃 古墳初
- 木製品 古墳前期
- 鋤先 古墳中期
日本書紀 巻第廿一 用明二年
- (原文)秋七月、蘇我馬子宿禰大臣、勸諸皇子與群臣、謀滅物部守屋大連。泊瀬部皇子・竹田皇子・廐戸皇子・難波皇子・春日皇子・蘇我馬子宿禰大臣・紀男麻呂宿禰・巨勢臣比良夫・膳臣賀?夫・葛城臣烏那羅、倶率軍旅、進討大連。大伴連・阿倍臣人・平群臣神手・坂本臣糠手・春日臣闕名字倶率軍兵、從志紀郡到澁河家。大連、親率子弟與奴軍、築稻城而戰。於是、大連昇衣揩朴枝間、臨射如雨、其軍強盛、填家溢野。皇子等軍與群臣衆、怯弱恐怖、三却還。
- (大意)7月、蘇我馬子は物部守屋を滅ぼそうと諸皇子と群臣にはかった。馬子は泊瀬部皇子、竹田皇子、厩戸皇子などの皇子や諸豪族の軍兵を率い、志紀郡(現大阪府八尾市)から河内国(志紀郡)渋川の守屋の館へ向かった。守屋は子弟と奴軍を族を集めて稲城を築いた。物部軍は強盛で家や野にあふれた。守屋は朴の木の枝の間によじ登り、雨のように矢を射かけた。皇子らの軍兵は恐怖に怖じ気づき、三度も退却した。
指定
アクセス
- 名称:久宝寺遺跡
- 所在地:大阪市八尾市西久宝寺/八尾市久宝寺2丁目2-33(久宝寺小学校内・正門横)
- 交通:近鉄「久宝寺口」駅 徒歩約10分
参考文献
- 文化庁(2023)『発掘された日本列島2023』共同通信社
- 山本昭(1986)「河内国渋川寺について」(『帝塚山考古学』No.6
- 財団法人 八尾市文化財調査研究会(2007)「久宝寺遺跡(第64次調査」
- 財団法人 八尾市文化財調査研究会(2007)「久宝寺遺跡(第66次調査」
- 財団法人 八尾市文化財調査研究会(2007)「久宝寺遺跡(第67次調査」
- 財団法人 八尾市文化財調査研究会(2007)「久宝寺遺跡(第69次調査」
- 財団法人 八尾市文化財調査研究会(2007)「久宝寺遺跡(第72次調査」
- 大阪府文化財センター(2004)「久宝寺遺跡・竜華地区発掘調査報告書Ⅵ」大阪府文化財センター調査報告書 119集
行田市郷土博物館 ― 2024年11月22日 00:04
行田市郷土博物館(ぎょうだしきょうどはくぶつかん)は古代から現代までの行田の歴史と文化を展示する博物館である。
概要
行田市郷土博物館は忍城の本丸跡地にある。1988年(昭和63年)2月に開業した。企画展を年2回開催する。展示室は4つあり、古代の行田の歴史、中世の忍城、江戸時代の忍城と城下町の様子、足袋製造、など行田市の歴史と文化を紹介する。1988年(昭和63年)に再建された隣接する御三階櫓は、博物館から入場できる。
展示室
古代の行田
行田市は河川の自然堤防や大地の縁辺部の微高地に古代から人々が定住していた。展示室では縄文時代から平安時代までの集落から出土した土器や木製品、埴輪などが展示される。展示室の中央には国指定重要文化財の酒巻14号墳の埴輪が展示される。旗を立てた馬形埴輪は全国でもこの1点である。渡来文化の影響を受けた埴輪もある。
- 坐っている女子人物埴輪 - 酒巻14号墳
- 振り分け髪の男子人物埴輪 - 酒巻14号墳
- 力士の男子人物埴輪 - 酒巻14号墳、国指定重要文化財
- 馬形埴輪 酒巻14号墳 - 国指定重要文化財
- 鞆形埴輪 酒巻15号墳 - 県指定有形文化財
- 旗を立てた馬形埴輪 - 酒巻14号墳、 国指定重要文化財、国指定重要文化財
企画展
第37回企画展「布をまとう―古代人の衣(ころも)―」
- 期間 2024年10月12日から11月24日まで
- 木製紡錘車 1 - 山ノ花遺跡 浜松市博物館所蔵
- 石製紡錘車 1 - 小針遺跡 行田市教育委員会所蔵
- 坐っている女子人物埴輪 -
- 桛 1 小敷田遺跡 埼玉県教育委員会所蔵
- 綛かけ 1 小敷田遺跡 埼玉県教育委員会所蔵
アクセス等
- 正式名称:行田市郷土博物館
- 開館時間 : 午前9時~午後4時30分(最終入館受付午後4時まで)
- 入館料 : 大人 200円
- 休館日 : 毎週月曜日(祝日・休日は開館)、祝日の翌日、毎月第4金曜日
- 所在地 :〒361-0052 埼玉県行田市本丸17-23
- 交通 : JR行田駅東口から市内循環バス/右回り「忍城址・郷土博物館前」下車すぐ
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