大塚遺跡 ― 2024年08月13日 00:18
大塚遺跡(おおつかいせき)は神奈川県横浜市にある弥生時代の遺跡である。
概要
大塚遺跡は早淵川(早渕川ともいう)の左岸に面する標高約50mのなだらかな台地上に位置する弥生時代の環濠集落遺跡である。大塚遺跡の南の台地の麓に早淵川が流れる。川までの距離は約400mである。 横浜市歴史博物館とは、「歴博通り」を隔てて高架橋でつながる。大塚遺跡は竪穴住居跡85軒(住居の建替え等を含めると延べ115軒)、掘立柱建物跡(高床倉庫) 10棟、新旧環濠2条、柱穴列4基、溝7条が検出されている。 土器は完形・半完形の土器が380点以上、土器片は26,000点以上出土した。 遺跡は現在「大塚・歳勝土遺跡公園」として復元整備されている。遺跡公園内に竪穴住居七棟をはじめ、高床倉庫、型取り遺構、木橋などが復元されており、復元された面積は全体の約3分の1である。
調査
大塚遺跡は1973年から4ヵ年をかけて、港北ニュータウン埋蔵文化財調査団により調査された。長軸200m、短軸13mの瓢箪型に環濠を巡らせた中に約90軒の宮ノ台期の竪穴式住居跡と後期の朝光寺原期の竪穴式住居跡が検出された。 外周に深さ2mから3m、幅4から5mの環濠が巡らされていた。濠の内側には土塁が築かれ、そのさらに内側に縦穴住居跡と掘立柱建物跡(高床式倉庫)合計10棟が検出された。
遺構
85 軒の竪穴式住居が確認されている。大型の竪穴式住居が遺跡中央部に作られており、宮ノ台期の竪穴式住居は3段階に渡ると考えられている。 竪穴住居85軒の半数近くになる39軒が火災にあっていることから、大きな争いのあったことが伺える。一方、久世辰夫(2001)は、消失住居から土器があまり見つからないことから、他の場所に移動する際に意図的に燃やしたとみている。
- 住居跡85
- 高床倉庫10
- 環壕2条
- 溝12
遺物
- 弥生土器
- 石器
- 土製品
- 石製品
- 炭化米
遺跡の意義
- 環濠集落の全体が発掘されている。環濠集落全体が発掘された例はいまだ少数である。
- 集落と墓地がセットで検出されている。集落と墓地の関係を明らかにできる。
- 同時期の遺跡群の全体が調査され、集落相互の関係や変遷を把握できる。
居住人数
同じ時期に存在した住居は20軒程度であり、1軒に5人が住んでいたとすると、集落の人口は100人程度と推測される。
高床倉庫
大塚遺跡には高床倉庫と見られる竪穴住居より小さな建物が10棟みつかっている。何を保管したかは、遺物がないため不明であるが、保存できる食料(玄米など)を保管していたと考えられる。高床倉庫を一箇所に集めず、三つに分かれた住居群のそれぞれに分散しており、数軒の住居群が一棟ないし二棟の倉庫を共有していたと見られる。
身分差の発生
竪穴住居は面積が最小5m2から最大59.2m2まであり、規模に相当の格差がある。中には40m2を超える大型建物が4棟ある。しかし建物構造や遺物はあまり違いが無いので、身分格差はすくなかったと考えられる。規模と人数から生産力はまだ大きくないので、身分差の発生の初期段階であったかもしれない。
時期の検討
時期は宮ノ台式土器の時代である。 宮ノ台式土器の時期区分は5段階とされている。大塚遺跡の土器は宮ノ台式土器3期である。これは弥生時代中期後葉とされている。 2017年の横浜市歴史博物館の特別展「横浜に稲作がやってきた!?」で土器付着物や炭化物の年代測定が行われた。測定結果は紀元前3世紀後半から2世紀代前半とされた。従来の年代感より200年ほど古くなる。
課題
港北ニュータウン開発に伴う発掘調査268個所の遺跡群のうち、70%(7割)の192遺跡で必要な調査報告書がまだ刊行されていないと報道された。横浜市の外郭団体の横浜市埋蔵文化財調査委員会は「港北ニュータウン埋蔵文化財調査団」を組織し、現在の都筑区を流れる早渕川の両岸に広がる1317haを1970年から19年かけて調査した。総経費は約18億円であった。広大な建設地域の各所で造成が同時に進行したため、調査体制を十分に編成できないまま発掘作業に追われ、遺物整理と報告書の作成が後回しになったとされる。
指定
- 1986年(昭和61年)1月31日 国史跡に指定 「大塚・歳勝土遺跡」
考察
環濠集落が防御型の施設とすることは異論もある。しかし環濠が遺跡全体を囲んでいること、川の近くの高台にあることから防御型の性格がみられる。現地は大地の下から遺跡まで上がるには、急な坂を上がる必要があり、住居が高い場所に位置することは防御に有利だったであろう。しかし、川から生活用水を汲んでくるには不便であり、住みやすさはあまりなかったのではないだろうか。住みやすさがないのに、わざわざ高い所を選んだのは、安全確保ということになろう。危険は人間だけでなく、オオカミや熊も考えられるが、古墳時代になってオオカミや熊が急にいなくなることはないのに、環濠がなくなったことはやはり社会的要因と考える方が適切であろう。 測定結果と土器編年を対応させると、宮ノ台式土器3期はBC200年前後ということになる。つまりBC200年が正しいとすれば、宮ノ台式土器3期弥生時代中期後葉ではなく、弥生時代中期中葉となる。これが正しいか決定するためには、他の遺跡データも必要となる。
アクセス等
- 名称: 大塚遺跡
- 所在地: 神奈川県横浜市都筑区大棚西1
- 交通: 横浜市営地下鉄線「センター北駅」より徒歩5分
参考文献
- 港北ニュータウン埋蔵文化財調査団(1976)『大塚遺跡調査概報』
- 久世辰夫(2001)『集落遺構からみた南関東の弥生社会』六一書房
- 高橋健(2024)『大塚・歳勝土遺跡』新泉社
- 「港北ニュータウン遺跡群 7割の192遺跡で報告書未刊行」東京新聞2022年9月30日
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