下原洞窟遺跡 ― 2024年08月12日 00:50
下原洞窟遺跡(したばるどうくついせき)は鹿児島県奄美大島の西部に位置する縄文時代の遺跡である。
概要
下原洞穴遺跡は、徳之島西岸の同町西阿木名集落から海岸から500mの琉球石灰岩の段丘崖下の標高90m地点に位置する。琉球列島の先史時代の「空白の1万年間を埋める発見」として注目された。洞穴の入口は幅27m、高さ1mから5m、奥行は約3m~20mと比較的浅い。 西阿木名集落の県道から西(海岸)方向に約1km、小字名「加万答」の琉球石灰岩層の洞穴として、「崖葬墓」的聖地の一つである。洞穴の前面に洞窟の天井が崩落してできるドリーネと呼ばれる直径30mほどの窪地が広がっている。
調査
琉球列島の先史時代の約2万年から7千年前にわたる1万年以上の期間は、人が暮らした痕跡が発見されない「空白の1万年間」とされてきた。これまで奄美群島最古とされた南島爪形文土器(約7千~6千年前)の地層の下から、「波状条線文土器」を施す深鉢形土器が出土し、さらに古い約1万3千年前の地層からは「隆起線文土器」を施す深鉢形土器や壺形土器が出土した。奄美の土器文化が1万年以上前まで遡ることが示された。本州と同じ時期に土器が使用されたことが判明した。 それより古い地層からは遺物は発見されていないが、放射性炭素分析では2万5千年前であった。
重要な発見
- 3,300~3,800年前の葬られた人骨が3体以上みつかった。
- 約6,000年前の地層から石を研磨して作られた矢尻を製作していた痕跡を検出した。
- 徳之島でそれまで最古の土器である南島爪形文土器より古い地層から、新しいタイプの土器が発見された。
人骨
人骨は二つの墓から出土した。1号墓の洞穴の奥に男性人骨と女性人骨が一体ずつ並んでいた。これらの人骨は、地表面から深さ約5cの浅い地点にあり、遺体を洞窟の奥に安置し、少量の土砂をかけて葬られたと考えらる。2号墓は、洞穴の奥の壁に接して「コ」字状に石を並べ、その中に遺体を安置して葬った。人骨のなかから、焼けた人骨が見つかっている。洞穴の奥に安置された人骨が白骨化した後に、その一部を火にかけた。当時の死者の葬り方を考えるうえで貴重である。
石器制作の痕跡
第6回調査(19年度から22年度まで3年間)で「隆起線文土器(細隆線文土器)」が出土した「Ⅳ層」(地下約130㌢~150㌢)から、焼土と灰層を伴う「炉跡」2カ所(約14000前と、17000年~76800年前=炭化物年代測定)を初検出した。炉跡の中からは、黒ウサギの骨を含む小型哺乳類の動物の骨を検出した。その多くは火を受けて黒色化していた。磨製石鏃作成など奄美群島初の「石器製作所跡」を示す道具がセットで出土している。当時すでに「再葬」が存在した可能性も示す石囲い埋葬墓の人骨にも群島初(琉球列島2例目)の「焼骨」が含まれていた。
旧石器から縄文時代の解明
下原洞穴遺跡からは多くの磨製石鏃が発見された。製作道具と見られる石錘や砥石、作業台が出土していることから、磨製石鏃はこの場所で作られた証拠である。下原洞穴遺跡で暮らした人々は、遺跡近くの海岸でとれる粘板岩を遺跡に持ち帰り、そこで石鏃の製作を行っていた。遺跡からイノシシやアマミノクロウサギの骨が数多く出土している。下原洞穴遺跡の住人はこれらの石鏃を用いる狩猟人と考えられる。
遺構
- 埋葬址
- 焼土
- 廃棄土坑
遺物
- 南島爪形文土器
- 波状条線文土器
- 細隆線文土器
- 磨製石鏃
- 貝製鏃
- 魚骨製装飾品
指定
展示
アクセス
- 名称:下原洞窟遺跡
- 所在地:鹿児島県大島郡天城町大字西阿木名字加万答139・140
- 交 通:
参考文献
- 文化庁(2021)『発掘された日本列島 2021』共同通信社
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