漢委奴国王印 ― 2024年09月09日 00:00

漢委奴国王印(かんのわのなこくおういん)は江戸時代の1784年(天明四年)に筑前国那珂郡志賀島(現福岡県福岡市東区)で出土した「漢委奴国王」の印文が刻まれた弥生時代の金印である。
概要
1784年(天明4年)の2月13日、志賀島で「漢委奴國王」の金印が見つかった。 出土地は志賀島(現・福岡県福岡市東区)の島内であった。発見直後に医者・儒学者で学問所・甘棠館の祭酒(学長)の亀井南冥は『後漢書』東夷伝「建武中元二年倭奴國奉貢朝賀・・・光武賜以印綬」の印と指摘し、金印の由来を説明し、鑑定書として『金印弁』を著して金印についての研究を行った。亀井南冥の見解は現在も定説となっている。
発見の経緯
金印を掘り出したのは百姓甚兵衛説と甚兵衛の作人であった秀治,喜平の二人,秀治発見説の三説がある。甚兵衛の口上書には、私(甚兵衛)の所有地、叶の崎の、田の境の溝の水はけが悪かったので、先月23日、溝を修理しようと岸を切り落としていたところ、小さい石がだんだん出て来て、そのうち2人持ちほどの石にぶつかりました。この石をかなてこで取りのぞくと、石の間に光るものがあり、取り上げて水で洗うと金の印判のようなものでした。見たこともないようなものでした。甚兵衛の兄喜兵衛は元奉公先の主人福岡の米屋才蔵に見てもらった。甚兵衛は大切な物だと言われたので手元に置いていた。3月15日、庄屋武蔵から役所に提出するように言われ、甚兵衛は出土経緯を語った。3月16日、金印と村役の署名を添えた「口上書」を郡役所に提出したと書かれている。黒田藩の家老達は金印を甚兵衛より白銀5枚で買い取り、藩の宝物庫に保管した。
口上書
「天明四年 志賀島村百姓甚兵衛金印堀出候付口上書」 那珂郡志賀嶋村百姓甚兵衛申上る口上之覚 一、私抱田地叶の崎と申所、田境之中溝水行悪敷御座候に付、先月廿三日右之溝形を仕直し可申迚、岸を切落し居申候処、小き石段々出候内、弐人持程之石有之、かな手子にて堀り除け申候処、石之間に光り候物有之に付、取上水にてすすぎ上げ、見申候処、金之印判之様成物にて御座候、私共見申たる儀も、無御座品に御座候間、私兄喜兵衛、以前奉公仕居申候福岡町家衆之方へ持ち参り、喜兵衛より見せ申候へば、大切成品之由被申候に付、其儘直し置候処、昨十五日、庄屋殿より右之品早速御役所江差出候様被申付候間、則差出申上候、何れ宜敷被仰付可被為下候、奉願上候、以上 志賀嶋村百生 甚兵衛(印) 天明四年三月十六日 津田源次郎様 御役所 右甚兵衛申上候通、少も相違無御座候、右体之品堀出候はば 不差置、速に可申出儀に御座候処うかと奉存、市中風説も御座候迄指出不申上候段、不念千万可申上様も無御座奉恐入候、何分共宜様被仰付可被為下候、奉願上候、以上
発見の経緯を述べた口上書から甚兵衛が発見者とされてきたが、その後の研究により、田地の所有者は甚兵衛であるが、金印の発見者は小作人の秀治と喜平の二人であるとの説が登場した。大谷光男氏によれば、博多聖福寺・仙厓和尚の『志賀島小幅』(鍋島家所蔵)に「志賀島農民秀治・喜平自叶崎掘出」と記され、金印の発見者は甚兵衛ではなく、農民の秀治と喜平が掘り出したとの一文が書かれていた。
さらに志賀島の阿曇家所蔵『万暦家内年鑑』(志賀神社)には「天明4年2月23日、志賀島小路町秀治田を墾(ひらき)し大石ノ下ヨリ金印を掘出 方七歩八厘 高三歩 漢委奴国王」とあり、金印の発見者は秀治とされている。
形状寸法
方形で一辺平均2.347cm、高さ0.887cm,総高は2.236cm、重さは108.729g、密度17.94、比重17.94である(岡崎敬(1968))。印文は「漢委奴国王」の五字を小篆の書体で三行にわけて薬研彫り形に陰刻されている。
所有者
福岡藩主黒田家に伝えられたものとして明治維新後に黒田家が東京へ移った際に東京国立博物館に寄託された。1974年(昭和49年)からは福岡市立歴史資料館で展示される。1978年(昭和53年)に黒田茂子(黒田長礼元侯爵夫人)から福岡市に寄贈され、1979年(昭和54年)からは福岡市美術館、1990年(平成2年)から福岡市博物館で保管・展示されている。
後漢書
『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」に次の記載がある。
- (原文)建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
- (読み下し)「建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南の界なり、光武帝は印綬を賜った。」
真贋論争
弥生時代の遺跡はない田の中から、農作業中の農夫がこの金印を見つけたので、来歴に不審をいだかれ、偽物説が浮上した。 江戸時代の国学者松浦道輔は「漢倭奴国王金印偽作辨」を表し、贋作説を唱えた。論点は
- 1.印文の最後に印・爾・章などがない、
- 2.印の多くは鋳物であるが金印は鋳物ではない、
- 3.漢が下賜するのにわざわざ「漢」の文字を入れるのは通例に反する、
- 4.神武紀元にあてはめると垂仁86年になり仲哀紀にみえる伊都県主はまだいないはずである]。
松浦道輔の贋作説には次の反論がなされている。
- 1.三宅米吉は、蛮夷印には爾・章は不要であるとした。漢代の封泥に用いられた印は「蛮夷里長」「漢夷邑長」など印・爾がないものがある。
- 2.鉄製の印は鋳物であるが、金印は鋳物では作られないのが通例である。
- 3.漢がつく印には多数の実例がある。薬研彫は「広陵王爾」(58年)の実例がある。
- 4.神武紀元にあてはめて論じるのは『記紀』の記載をそのまま歴史的事実として判断することになるため、問題にならない反論である。 1966年に金印の精密測定がなされ、印面一辺が平均2.347cmであることが確認された。これは、後漢時代の墓で見つかった物差しの一寸と同サイズであり、当時の印は一寸四方で作られることから、この金印は後漢時代のものであると、認められるようになった。
鈴木勉
NPO工芸文化研究所の鈴木勉理事長は、金印に残る彫り痕の特徴は古代中国で作られたとされる印と大きく異なっていると指摘している。金印は、文字の中心線を彫ったあと、別の角度から「たがね」を打ち込んで輪郭を整える「さらい彫り」という技法で作られている。「広陵王璽」印は、たがねで文字を一気に彫り進める「線彫り」と呼ばれる高度な技法で製作されている。前漢から後漢の印の多くは1つの線がほぼ均一の太さで彫られているが、志賀島の金印は中央から端に向かって太くなる特徴があり、印面に対する文字の部分の面積が他の印と比べて突出して大きいから、江戸時代の印ではないかとする。
三浦佑之説
- 奴国に関する遺構のない所で発見された
- 発見時の記録にあいまいな点が多い
- 江戸時代の技術と知識で岩作は作れる
- 滇王之印に比べて稚拙である。 ことから、三浦佑之(2006)は亀井南冥が商人と結託して偽作したとする。
高倉洋彰説
高倉洋彰(2007)は次の主張をした。
- 江戸時代以前に漢代の一寸の実長を知ることは困難である。
- 漢代の一寸の実長は『漢旧儀』で知られようが、そこに蛇鈕は載っていない。
- 偽作するなら『後漢書』の記述に従って「委」を「倭」にする方が自然である。 江戸時代及びそれ以前では知識の水準と量が不足しており、偽作は不可能であるとした。
形状の疑問説
印のつまみ部分は蛇鈕であるが、実際には、蛇とはわかりにくい。、胴体をらせん状に巻き、頭を後ろに向けて振り返っている蛇の姿は相当に観察しないと分からない。そこで膝を折って座っている駱駝の胴体部分との指摘が生まれた。駱駝がデザインされた鈕であったものを、なんらかの理由で、上の部分だけ蛇の形に再加工したというのである。蛇の頭が後ろを振り返る図像は日本人にはまったく馴染みがないものの、前漢から後漢時代では、龍や虎などが振り返った表現は多い。 江戸時代に鈕を蛇形につくることは可能ではなかった。顧従徳『集古印譜』(1575) には参考となる蛇形鈕の見本は掲載されていない。
字体の問題
「漢」のさんずいは縦線の一番上が緩く弧を描き、左上の線は逆L字形である。 前漢時代は、S字を三つ並べたような形であったが、時代が下ると、徐々に伸びてきて、前漢と後漢の間の王莽の時代になると、全体の曲りは非常に緩やかになり、左上の縦線の下端が小さく飛び出す形状となる。後漢時代には曲がりのない縦の直線になる。他の4文字も同様で、「漢委奴國王」の文字はすべて、王莽から後漢初期の時代の特徴が表れている。石川(2017)は鈕と文字の2点だけで、後漢時代に作られた金印を江戸時代に再現することは、まず、不可能と断言する。
金属組成
「漢委奴國王」金印の金属組成は,蛍光X 線分析で金95.0%・銀4.5%・銅0.5%と測定されている(本田ほか(1990))。中国では前漢代・後漢代とも95~99%であるから、金印の値に矛盾はない。,金品位95%の製品を江戸時代に作れるのかという問題がある。江戸時代では後漢代の金製品が95%以上の高品位であることは知ることができない。さらに江戸時代では金座で金製品は厳重に管理されていた。江戸時代に流通する小判等は江戸時代前半で85%内外,後半56%であるから、小判を潰して作ったとしても95%以上の高品位の金を作ることはできない。
石川教授の結論
明治大学文学部の石川日出志教授は志賀島の金印は、「漢」の字の「偏」の上半分が僅かに曲がっており、「王」の真ん中の横線がやや上に寄っている点など、中国の後漢初期の文字の特徴があるとする。蛇形をした「つまみ」は、中国や周辺の各地で発見された同様の形の印と比較すると、後漢はじめごろに製作されたものが最も特徴が近いとする。金印に含まれる金の純度は90%以上であることは、古代中国の印とほぼ同じであると指摘する。「江戸時代に金の純度をまねて作ることはできない」と判断している。
指定
- 重文指定年月日:1931年12月14日
- 国宝指定年月日:1954年3月20日
参考文献
- 直木考次郎(2008)『邪馬台国と卑弥呼』吉川弘文館
- 石川日出志(2015)「金印と弥生時代研究-問題提起にかえて-」古代学研究所紀要 (23), pp.99-110
- 石川日出志(2017)「「漢委奴國王」金印の複眼的研究」第5回 西泠印社印学峰会“弧山証印”
- 石川日出志(2022)『国宝「漢委奴國王」金印の考古学』令和4年度 福島県文化財センター白河館 第3回館長講演会
- 本田光子・井上充・坂田浩(1990)「金印その他の蛍光X線分析」『研究報告』No14,福岡市立歴史資料館
- 呉朴(1959)「我村"滇王之印"的看法」『文物』1959-7
- 岡崎敬(1968)「「漢委奴國王」 金印の測定」史淵 100,pp.265-280
- 高倉洋彰(2007)「「漢の印制からみた「漢委奴國王」蛇鈕金印」」、『国華』112巻12号(通巻1341)、国華社
- 三浦佑之(2006)『金印偽造事件』幻冬舎
コメント
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://ancient-history.asablo.jp/blog/2023/08/28/9613372/tb
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。