亀ケ森古墳 ― 2024年07月18日 00:24
亀ケ森古墳(かめがもりこふん)は福島県河沼郡会津坂下町にある前方後円墳である。
概要
福島県西部の会津地方、旧宮川(鶴沼川)東岸の段丘縁に築造された大型前方後円墳である。全長127mの前方後円墳で、亀ヶ森古墳は宮城県の雷神山古墳につぐ東北地方第二の規模である。前方部は墓地により一部削平されている。後円部は三段築成で、葺石があった。くびれ部には造り出しが見られる。亀ヶ森古墳では馬蹄形に周濠の跡が水田等となって残っている。 赤彩された埴輪がみつかり、亀ケ森古墳は、古墳時代前期後半(4世紀後半)に造られたものと考えられている。亀ケ森古墳では中世城館の築城が知られるほか、後円部上に稲荷神社・観音堂が立地する。墳丘外表では河原石の葺石および埴輪(壺形埴輪・円筒埴輪・朝顔形埴輪)が検出されている。宇内青津古墳群の一つである。
鎮守森古墳
南の近隣にほぼ同じ方向を向いた鎮守森古墳がある。鎮守森古墳は、相似形の周溝を持つ古墳である。出土した遺物から亀ケ森古墳とほぼ同時代に造られたと考えられている。
発掘調査
1806年(文化6年)の『新編会津風土記』に「大亀甲舘」として記述される。 1920年(大正9年)、井関敬嗣は青津集落西側の丘陵を古墳と考え、測量調査を行った。1957年(昭和32年)、山口弥一郎は測量調査を行い、「大亀甲古墳」と命名した。
規模
- 形状 前方後円墳
- 墳長 127m
- 後円部 径径66.8m 高10m
- 前方部 幅60m 長60.5m 高5.8m
遺物
- 埴輪(壺形埴輪・円筒埴輪・朝顔形埴輪)
築造時期
- 古墳時代前期後半(4世紀後半または4世紀半ば)
被葬者
展示
指定
- 昭和51年5月6日 国の史跡指定「亀ケ森・鎮守森古墳」
アクセス等
- 名称 :亀ケ森古墳
- 所在地 :福島県河沼郡会津坂下町大字青津字舘の越
- 交 通 :JR只見線「会津坂下駅」よりバスで10分
参考文献
- 大塚初重(1982)『古墳辞典』東京堂
- 会津坂下町教育委員会(2016)「亀ヶ森古墳. 4」会津坂下町文化財調査報告書 ; 第73集
- 会津坂下町教育委員会(2012)「亀ヶ森古墳. 3」会津坂下町文化財調査報告書 ; 第68集
- 会津坂下町教育委員会(2009)「亀ヶ森古墳. 2」会津坂下町文化財調査報告書 ; 第62集
- 会津坂下町教育委員会(1993)「亀ケ森古墳 : 国指定史跡亀ケ森古墳試掘調査報告書」会津坂下町文化財調査報告書 ;第37集
崩年干支 ― 2024年07月18日 19:09
崩年干支 (ほうねんかんし)は、『古事記』最古の写本である真福寺本に記載される歴代天皇のうち、第十代崇神天皇から第三十三代推古天皇に至る二十四代のうち十五代の天皇の崩御年が干支により記されていることをいう。
概要
『古事記』真福寺本には第十代崇神大王(天皇)から第三十三代推古大王(天皇)に至る二十四代のうち十五代の天皇の崩御年が記載されている。下記の表で西暦は戦後の歴史学が推定する年代比定である。
すべての天皇(大王)に干支が書かれているわけではないが、日本書紀には書かれていない干支が記載されているので、実年代の推定に使えるとする意見もある。
西暦84年から329年までの干支は、中国・韓国でも倭国と同様に使用しており、西暦年への換算に信頼できると考えられる。
かといって古事記記載の干支が正しいという保証はない。干支が書かれているというだけで、その天皇(大王)が実在していると主張することはできない。
崩年干支表
No | 代数 | 大王名 | 古事記崩年干支 | 西暦 | 宝算 | 日本書紀崩年干支 | 日本書紀西暦 |
1 | 10 | 崇神 | 戊寅 | 318 | 168 | 辛卯 | BC30 |
2 | 11 | 垂仁 | - | - | 153 | 庚午 | AD70 |
3 | 12 | 景行 | - | - | 137 | 庚午 | AD130 |
4 | 13 | 成務 | 乙卯 | 355 | 95 | 庚午 | AD190 |
5 | 14 | 仲哀 | 壬戌 | 362 | 52 | 庚辰 | AD200 |
6 | - | 神功 | - | - | 100 | 己丑 | AD269 |
7 | 15 | 応神 | 甲午 | 394 | 130 | 己丑 | AD269 |
8 | 16 | 仁徳 | 丁卯 | 427 | 83 | 庚午 | AD399 |
9 | 17 | 履中 | 壬申 | 432 | 64 | 庚午 | AD399 |
10 | 18 | 反正 | 丁丑 | 437 | 60 | 庚戌 | AD399 |
11 | 19 | 允恭 | 甲午 | 454 | 78 | 癸巳 | AD399 |
12 | 20 | 安康 | - | - | 56 | 丙申 | AD456 |
13 | 21 | 雄略 | 己巳 | 489 | 124 | 己未 | AD479 |
14 | 22 | 清寧 | - | - | - | 甲子 | AD484 |
15 | 23 | 顕宗 | - | - | 38 | 丁卯 | AD487 |
16 | 24 | 仁賢 | - | - | - | 丁卯 | AD487 |
17 | 25 | 武烈 | - | - | - | 丙戌 | AD506 |
18 | 26 | 継体 | 丁未 | 527 | 43 | 辛亥 | AD531 |
19 | 27 | 安閑 | 乙卯 | 535 | - | 乙卯 | AD535 |
20 | 28 | 宣化 | - | - | - | 己未 | AD539 |
21 | 29 | 欽明 | - | - | - | 辛卯 | AD571 |
22 | 30 | 敏達 | 甲辰 | 584 | - | 乙巳 | AD585 |
23 | 31 | 用明 | 丁未 | 587 | - | 丁未 | AD587 |
24 | 32 | 崇峻 | 壬子 | 592 | - | 壬子 | AD592 |
25 | 33 | 推古 | 戊子 | 628 | - | 戊子 | AD628 |
崩年干支から西暦への換算
『日本書紀』からは西暦年に換算するのは容易である。干支を新しい方から順に遡れば一意に決まる。しかしながら、『日本書紀』は120年の意図的な繰り上げがあるため、日本書紀の干支の信頼性は低い。日本書紀の紀年と実年代とが120年(干支2運)ずれていることは多くの研究者が指摘している。『日本書紀』巻9(神功紀)に見られる年代の不整合とは、例として神功皇后55年に百済の肖古王(近肖古王(375年死亡)が死亡した記事がある。『三国史記』『東国通鑑』の近肖古王の記事から近肖古王はAD375年に亡くなっている(『三国史記』に「近肖古王三十年(乙亥年(375年)の冬十一月王薨)」と書かれている)。
しかし『日本書紀』の紀年では、神功摂政元年はAD201年(神武即位を紀元前660年とする紀年)であり、神功皇后没は己丑であるから269年とされる。そうすれば、神功皇后55年は書紀紀年でAD255年となるから、ちょうど120年の繰り上げが証明される。応神紀においても、「(十六年(乙巳:AD285年))是歳、百濟阿花王薨」と書かれている。『三国史記』では百濟阿莘王十四年(乙巳:AD405年)条に「秋九月、王薨」と書かれる。干支は同じであるが、年代は120年の差がある。
このように『日本書紀』の干支は矛盾があるので、『古事記』が着目された。末末保和は、推古崩年の西暦年は628年であり日本書紀とも一致する。これを起点として、そこから古事記崩年干支が記載されている天皇について順次遡上し、 1運( 6 0年)以内で対応する西暦年を当てはめていく。継体天皇の丁未年から6 0年以内で算定すれば、「崩年の己巳年」は38年前になる。これをもとに、雄略天皇の西暦崩年を算出して、489年となる。間の清寧、顕宗 、仁賢、武烈は架空とする。こうして崇神の318年が導き出される。それ以前の大王は崩年干支がないため、算出はできない。
紀年延長の疑問
『古事記』『日本書紀』において、記事が全く書かれない年次が極めて多い。崇神の在位年数は68年とされるが、事績が書かれている年数は17年だけである。仁徳も87年の在位の内、事績が記述されるのは29年だけである。中国の史書では、『漢書』『後漢書』『魏志』など帝王本紀は元年から崩年まで年ごとに何らかの記事が書かれている。中国の史書の原則ともいえる。事績のない年次を在位から除外する考え方もある。
参考文献
倉西裕子(2003)『日本書紀の真実』講談社
荊木美行(2006)「古事記」崩年干支と年代論」(上田正昭編『古事記の新研究』)学生社
高城修三(2000)『紀年を解読する 古事記・日本書紀の真実』ミネルヴァ書房
末松保和(1963)『日本上代史管見』笠井出版印刷社
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