吉野ヶ里遺跡 ― 2024年08月31日 00:33
吉野ケ里遺跡よしのがりいせき,Yoshinogari Ruins)は佐賀県神埼市と同吉野ヶ里町にある全長2.5kmの壕に囲まれた日本最大規模の弥生時代の環壕集落跡である。弥生時代前期から後期にわたる集落の変遷過程や集落と一体的に変遷する墳墓の形成過程等が明らかになっている。
概要
志波屋・古野ヶ里段丘は、背振山地南麓から平野部へ広がる段丘であり、山麓部には旧石器時代・縄文時代から埋蔵文化財が多い場所である。 吉野ケ里遺跡からは弥生時代の多数の住居跡、高床倉庫群跡、3,000基を超える甕棺墓、弥生時代中期の王の墓と考えられる墳丘墓などが出土している。1992年に国営公園「吉野ヶ里歴史公園」として閣議決定し、1995年に着工され、2001年に一部開園した。遺跡から、紀元前1世紀の段階で、すでに北部九州の弥生社会では多様な身分や階層による社会組織が形成されていたことが分かっている。古墳時代の初めとなる紀元3世紀後期~4世紀前期に吉野ヶ里は消滅した。古墳時代に入ると、吉野ヶ里は急速に廃れ、人々は離散したと考えられている。背景には、稲作の普及や大和政権の勢力拡大による戦乱の終結などにより、山上に集落を構えるメリットがなくなったことがあると推測されている。
邪馬台国との関係
吉野ヶ里遺跡の最盛期は弥生中期の遺跡であり、邪馬台国時代は弥生時代後期または古墳時代初期であるから時代が合わない。さらに甕棺等墳墓の数から見て吉野ヶ里のある時点での人口は1,000人位と見積もられている。邪馬台国にしては人口が少なすぎると見られている。権力者の威厳を示す遺物(鏡、剣等)が少ない点や、吉野ヶ里の位置が魏志倭人伝の旅程記事と合致しないことから、邪馬台国とは関係ないと見られている。
時代区分
約700年間に渡り維持された弥生集落である。
弥生時代前期
縄文時代晩期の水田農耕が伝来した頃、周辺の小規模農村の上に立つ環壕を巡らせた吉野ヶ里の草分け的な集落が形成された。弥生時代前期の環壕跡は、直径は約20mと小形である。
弥生時代中期
弥生時代中期には南部の丘陵を囲む推定20ha以上の環壕集落が形成された。居住域と倉庫域が分かれていた。環壕跡内部からは、大量の土器や石器が出土し、低地からは外洋航行船を模したと思われる船形木製品等が出土した。
弥生時代後期
北方に規模を拡大し、40haを超す国内最大規模の環壕集落となる。大型の祭殿をもつ首長の居住や祭祀の場と考えられる北内郭がある。環壕、城柵、物見櫓等の防御施設で守られたところに人々が住む。後期後半から終末期には望楼(物見櫓)を備えた環壕によって囲まれた特別な空間(北内郭・南内郭)となっている。多数の掘立柱建物跡は、その規模や構造から「市」の存在が推定されている。
終焉
3世紀後半頃に吉野ヶ里遺跡全体を取り囲む環壕は、ほぼ埋没し、北内郭、南内郭とともにその機能を失った。
調査
1986年から佐賀県教育委員会によって発掘調査が開始された。 検出した遺構は、弥生時代の甕棺墓313基、弥生時代・古墳時代・奈良時代の竪穴建物跡105棟、弥生時代・古墳時代・古代の掘立柱建物跡11棟、写真:調査区の遠景弥生時代~古代の土坑146基、弥生時代の石棺墓1基、弥生時代~中世の土坑墓36基、古墳時代~古代の溝跡、性格不明遺構、小穴などである。墳丘墓から高度な技術を要する有柄銅剣やガラス製の管玉などが出土し、中国大陸や朝鮮半島との交流が想定できる。
竪穴住居跡
縄文時代に一般的な円形の竪穴住居とは異なり、弥生後期の長方形の住居跡である。
青銅器工房跡
青銅を作る原料、高温で溶かしたことを物語る焼けこげた土などがまとまって見つかったことから、青銅を作る専用の工房跡と想定される。
高床倉庫群
多くの高床倉庫群が発見された。掘立柱建物の殆どは、高床倉庫と考えられ、1間×2間規模の建物跡以外は、1間×1間規模である。集落域の建物比率は、竪穴建物3に対して掘立柱建物(高床建物)1の割合である。
防御施設
逆茂木
門の両側一帯には敵の侵入を防ぐための特別な仕掛けである逆茂木があったと考えられている。のり面に存在する柱穴は外に向かって斜めに穿たれたものが多く、敵の侵入を防ぐための乱杭があったようである。
物見やぐら
楼観跡と推定される物見やぐら跡が発見されている。 外からの侵略者を監視する見張り台と想定され床高6.5m、高さは12m。
入口防護
外壕に7カ所、南北内郭に3ヶ所の入口が確認されている。入口で兵士たちが厳重に警備していたと考えられる。
環濠
幅2.5~3.0m、深さ2mが一般的であり、最大の部分は幅6.5m、深さ3mである。断面の形態は南西部低地で逆台形となっている以外はV字形である。
遺体
首のない遺体、矢や槍の刺さった遺体は戦乱のあったことが推測される。長身で、のっぺりとした面長の顔つきの「渡来系弥生人」と判明している。
謎のエリア
北墳丘墓の西側、日吉神社の境内であった場所は長らく未調査のため「謎のエリア」と呼ばれていた。2023年5月3日から7日まで特別公開された。2022年度にエリアの北側から弥生時代の甕棺墓列が出土し、円形の竪穴住居跡が検出された。南側では2023年4月末に表土を掘削すると、丘陵頂部から石ぶたの墓が発見された。 2023年5月29日、「謎のエリア」で弥生時代後期の石棺墓が見つかったと発表された。石棺墓に石の蓋が4枚並べられており、全長約2.3m、幅は最大0.65。表面に「×」などの線刻が多数みられる。石棺墓の周囲の 墓坑 は全長約3.2m、幅約1.7m見晴らしの良い丘陵の頂部にあり、他の墓坑より規模が大きいため、有力者の墓である可能性があるとされる。2023年6月5日以降に石棺墓の蓋を開け、副葬品を調べるという。貴重なものが見つかれば、一部の吉野ケ里遺跡=邪馬台国説が再燃する可能性がある。
「権(けん)」発見
2022年11月11日、吉野ケ里遺跡で奈良時代と推定される青銅製の重り「権(けん)」が発見された。高さ2・9センチ、最大径3・4センチ、重さ約82・5グラム。頂部に秤にぶら下げるためのひもを通す輪があるが、欠けている。佐賀県文化財保護室白木原宜室長は「吉野ケ里町付近に肥前国の神埼郡衙があったと推定されていたが、これを裏付けるもの、と語る。
遺構
- 竪穴建物
- 掘立柱建物
- 環壕
- 溝
- 甕棺墓
- 井戸
- 土壙墓
- 水田の水路
- 青銅器鋳造遺構
- 環濠
- 門
- 方形周溝墓
- 古墳(前方後方墳) <立地>段丘上。標高20.5m、西側水田からの比高13m
- 総長21.5m、墳長20.2m、後方辺14.6m、前方幅6.2m・長6.2m、くびれ幅5.5m、
- 墳丘は完全に削平され、墳丘立面形・葺石については不明。
遺物
- 弥生小型倭製鏡(内行花文鏡)(銘文なし、欠損6.6cm)、
- 鏡式不明(内行花文鏡か)(銘文不明、破片22.2cm)、
- 鏡式不明(銘文不明、破片)、
- 伴出、巴形銅器鋳型+
- 不明青銅器鋳型
- 銅剣片
- 土器
- 巴形銅器鋳型
- 在地系土器
- 外来系土器
- 鉄器
- 銭貨(貨泉)
- 銅鐸
- 箱式石棺 蓋石2、両側石各1、妻石各1、床石1、小児棺
- 石棺(ほぼ東西、東側攪乱、蓋石1、南側石5、北側石2残、妻石西側1、床石なし)
- 石庖丁
- 磨製石剣
- 石庖丁
- 土製鏡
- 骨角器
- 青銅器鋳型
- 鉄製農耕具
- 銅鏃
- 細形銅剣
- ガラス小玉
- 鉄製鋤先
規模
- 南北 約4・5キロ
- 東西 約600メートル
- 面積 約40ヘクタール
指定
- 1991年(平成3年) 国の特別史跡に指定。
吉野ヶ里歴史公園
- 名称:吉野ヶ里歴史公園
- 休館日: 12月31日、1月の第3月曜日及びその翌日
- 利用時間:9:00~17:00(GW、6月~8月は9:00~18:00)
- 入館料:大人(15歳以上)460円、シルバー(65歳以上)200円、団体割引あり※
- 所在地:佐賀県神埼郡吉野ヶ里町田手1843
- 交通:JR長崎本線吉野ヶ里公園駅または神埼駅から徒歩15分
参考文献
- 「「謎のエリア」興味津々 吉野ケ里遺跡、特別公開始まる佐賀新聞,2023年5月4日
- 「吉野ケ里遺跡発掘調査現場を一般公開:吉野ケ里遺跡発掘調査現場を一般公開」朝日新聞,2023年5月3日
- 「吉野ケ里遺跡で奈良時代ごろの重りが出土:吉野ケ里遺跡で奈良時代ごろの重りが出土」朝日新聞,2022年11月12日
- 「神社があったので未発掘、吉野ヶ里遺跡の謎エリアで石棺墓を発見」読売新聞、2023年05月29日
- 「神社があったので未発掘、吉野ヶ里遺跡の謎エリアで石棺墓を発見」読売新聞、2023年5月29日
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