下寺尾西方遺跡 ― 2025年01月06日 00:29
下寺尾西方遺跡’(しもてらおにしかたいせき)は、神奈川県茅ヶ崎市にある縄文時代、弥生時代、古代に渡る複合遺跡である。
概要
下寺尾西方遺跡は神奈川県茅ケ崎市北西部の寒川町との市町境に位置する。弥生時代中期後半に繁栄した集落は、いずれも中期末に急激に衰退し、後期初頭には継続しない。これは、相模地方に共通して認められる不思議な現象である。弥生時代中期後半における環濠集落の形成から終末に至る変遷を知ることができる遺跡である。当初の環濠集落から拡張された集落への拡大は2 倍以上であり、新たな環濠を構築し集落面積を広げるための土木技術の確保や労働力の調達などを可能とする社会であった。集落建設や拡張という行為が計画的にかつ組織的に行われたと見られる。一遺跡で宮ノ台式期全般に亘るという例は少ない。また下寺尾西方遺跡は南関東(神奈川県・東京都・埼玉県・千葉県)における弥生時代中期の環濠集落として最大級の規模を有している。ここでは主として弥生時代の遺跡について、説明する。
2002年調査
竪穴住居37軒(14軒を調査)、環濠1条、溝1条、土坑1基、遺物集中1個所を確認した。弥生時代中期後葉の宮ノ台式期に当たる。出土遺物は、竪穴住居から出土した鉄斧と勾玉未成品がある。鉄器としては板状鉄斧2点と用途不明鉄製品1点が出土した。鉄斧は長さ7cmとl1cmのものが各1点ずつである。勾玉は長さ6.09 ㎝と大型で、穿孔が行われていない未成品である。南関東における拠点集落と位置付けられており、弥生時代中期社会の様相を知るうえで重要な遺跡として評価されている。弥生時代は利器が石器から鉄器へと転換する大きな画期にあたるが、南関東における鉄器導入期の実態を知ることができるという点でも重要である。**環濠 2本の環濠(大溝)が確認されている。内側の環濠は最初に掘られ、東西200m、南北250mで環濠内の面積約40,000 ㎡、幅約3m、深さ約1.5m、断面形態は「V」字状をなす。 外側の環濠は新たに掘られたもので、断面は逆台形、東西約400m、南北250mに拡大され、環濠内の面積は約84,000 ㎡に達した。2つの環濠が重複することはなく、環濠2の西側と南側の西半部分は、環濠1から約6~8m外側のところにほぼ平行して掘削された。環濠集落の規模としては、外側の環濠は南関東で最大級の規模である。弥生時代中期後葉の宮ノ台式期の集落は、環濠が台地のほぼ全域に及ぶ。環濠2の内側からは竪穴建物58 棟を確認し、なかには焼失した建物があった。
古代遺跡
古代遺跡は、大型掘立柱建物によって構成される官衙関連遺構が発見されている。「高座郡衙」と推定されている。2002年の県立茅ケ崎北陵高校のグラウンドの発掘調査によって、発掘された7世紀末から9世紀前半にかけての相模国高座郡の役所跡である。郡庁は東西幅が推定で約66mと、全国的に見ても大きな規模でと見られる。ほか寺、津、祭祀場を発見している。高床式倉庫(正倉院)が少なくとも4軒建ち並ぶ様子が発見されている。詳細は「下寺尾官衙遺跡群」を参照されたい。
遺構
縄文時代
- 竪穴住居
- 集石1基
弥生時代
- 竪穴住居37軒
- 環濠1条
- 溝1条、
- 土坑1基、
- 遺物集中1個所
遺物
弥生時代
- 鉄斧 2点
- 勾玉未成品 大型
- 用途不明鉄製品 1点
指定
- 2019年(平成31年)2月26日 史跡指定
時期
展示
アクセス
- 名称:下寺尾西方遺跡
- 所在地:神奈川県茅ヶ崎市下寺尾字西方505番2
- 交 通: JR寒川駅から徒歩約20分
参考文献
- 神奈川県考古学会(2003)「茅ヶ崎市下寺尾西方A遺跡」第27回神奈川県遺跡調査・研究発表会発表要旨
- 茅ヶ崎市・茅ヶ崎市教育委員会(2024) 「史跡 下寺尾西方遺跡 保存活用計画(案)」
コメント
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://ancient-history.asablo.jp/blog/2025/01/06/9745030/tb
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。