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岩戸山古墳2025年04月12日 00:30

岩戸山古墳(いわとやまこふん)は福岡県八女市にある北部九州最大の前方後円墳である。

概要

福岡県の南内陸部の八女丘陵上に展開する八女古墳群のひとつ。古墳は東西を主軸とし、後円部は東に向けられる2段造成である。被葬者は「磐井」といわれ、日本書紀の中で「ヤマト政権に対する反乱」とされている筑紫地方の豪族である。八女丘陵上の古墳群は磐井一族とその構成員層のものと考えられている。東北角の周庭外方に接続する一辺43mの造出があり、多数の石人・石馬があることを考えると、『筑後国風土記』が記載する筑紫君磐井の墳墓と考えて問題はない。 大塚恵治の講演「継体天皇と筑紫君磐井」では、岩戸山古墳の石人・石馬に三葉文杏葉の陽刻や振り環頭の太刀形陽刻がある。これらは継体大王との密接な関係性が推測されると述べる。-磐井は博多湾内に朝鮮半島向けの港湾施設(糟屋屯倉)を設けており、有明海・玄界灘・東シナ海に影響力があった。特に朝鮮半島南部に独自の交流網を構築していたとする。

規模

  • 形状 前方後円墳
  • 築成 前方部:2段、後円部:2段
  • 墳長 138m
  • 後円部 径88m 高13m
  • 前方部 幅98m 長50m 高13m
  • 外表施設 円筒埴輪円筒Ⅴ式
  • 葺石 あり
  • 造出なし
  • 周濠 楯形
  • 周堤 あり。

遺物

  • 形象埴輪
    • 琴・
    • 鐙・
    • 弓、
    • 家、
    • 鶏・
    • 馬、
    • 顔・
    • 足・
    • 頭部飾、

調査

  • 1808年(文化5年) 江戸後期に後円部墳頂部から二体の石製品が出土した記録がある。
  • 1924年(大正13年)大神宮造営に伴い、円筒埴輪、須恵器、石製品が出土した記録がある。
  • 昭和初期、森本六爾が墳丘部調査、後円部裾野調査で周堤から扁平石人の発見記録がある。
  • 1946年、九州考古学会により周堤で円筒埴輪列を確認した。
  • 1963年、集中豪雨による緊急調査で円筒埴輪列と4点の石製品を発見した。
  • 1969年(福岡県教育委員会)と1971年(九州大学)にかけての調査で、墳丘規模や構造が判明した。

遺構

埋葬施設は未確認である。矢野一貞が作成した『筑後将士軍談』の墳丘絵図に後円部と前方部の上段斜面にほり崩しの窪みが描かれている。「共に石窟跡」と注記され、横穴式石室があったと矢野一貞は推測した。森貞次郎はこれに批判的で、六世紀前葉に一般的なくびれ部方向に開口する横穴式石室を推測している。 1991年から1995年に九州大学工学部の水永秀樹さんを研究団長とする電気探査で埋葬施設を探索した。成果によれば、横穴式石室は後円部中央付近の「現地面からの深さ3mから7mの範囲に存在し、石室の大きさは幅3m、高さ4m、長さ10m程度」で、南西方向に向いているという。横穴式石室の深度に疑問はあるが、南側くびれ部分の一段テラスに開口する可能性が高いとされる。

遺物

  • 岩戸山古墳の石製表飾
    • 最大の特徴は種類、量、サイズである。デザイン性の高さもある。

指定

被葬者

  • 『筑後国風土記』によると筑紫君磐井の墓とされる。

築造時期

  • 6世紀前半(古墳時代後期)

展示

  • 岩戸山歴史文化交流館 いわいの郷

アクセス等

  • 名称:岩戸山古墳
  • 所在地: 福岡県八女市大字吉田字甚三谷
  • 交通: 西鉄久留米駅より八女行きバス「福島高校前」下車

参考文献

  1. 大塚初重(2019)『巨大古墳の歩き方』宝島社
  2. 大塚初重(1996)『古墳事典』東京堂出版
  3. 柳沢一男(2014)『筑紫君磐井と「磐井の乱」』新泉社

天之日矛2025年04月12日 00:32

天之日矛(あめのひぼこ)は『古事記』に登場する伝説的人物で、応神の時代に新羅から渡航した渡来人とされる。『日本書紀』は「天之日槍」と記す。

概要

『古事記』では天之日矛は応神紀に登場するが、その時期は「昔」となっている。天之日矛は新羅の国主の子と示される。渡航した由来は、天之日矛が妻を責めたとき「私はあなたの妻になるべきものではない。祖先の国に行く」として難波に逃れた。妻を追って天之日矛は難波に向かったが、海神が遮ったため入れず、但馬に着いた。そこで俣尾の娘の前津見と結婚して子を産んだ。天之日矛の子孫は神功皇后の母となった。 『日本書紀』では垂仁3年3月に天之日槍が帰化したと記載する。渡来時に、羽太の玉(一書は「葉細の玉」)、足高の玉、赤石の玉、出石の小刀、出石の鉾、日鏡、熊の神籬、胆狭浅の太刀の八神宝を持参したとする。近江国「鏡村谷」(蒲生郡竜王町)の陶人は従者となった。天之日槍は『古事記』と同じ、但馬に住んだ。 『播磨風土記』では韓国(からくに)からやってきて、住む土地がほしいと天之日槍命は葦原志挙乎と土地争いをし、志挙乎は海の中なら良いと許す。天之日槍は剣で海をかき分け出来た島に宿った。志挙乎はその霊力に畏れをなし、天日槍命より先に国を抑えるべく北上した。天之日槍命は伊和の大神と戦争をして8000の軍勢を動員したのでその地を「八千軍(やちぐさ)」という。

考察

『播磨風土記』は天之日槍命と書き、神と認識している。『古事記』『日本書紀』では「命(みこと)」は書かれないので、ただの人間扱いである。神功皇后の祖先は天之日槍とされている、すなわち新羅の出身ということになる。

参考文献

  1. 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋(1994)『日本書紀』岩波書店
  2. 倉野 憲司(1963)『古事記』岩波書店
  3. 武田祐吉(2016)『風土記』岩波書店