諏訪前A遺跡 ― 2024年07月27日 00:04
諏訪前A遺跡(すわまええーいせき)は、神奈川県平塚市にある奈良・平安時代の遺跡である。
概要
諏訪前A遺跡は相模国府跡であり、官衙域中枢にあたる。縄文時代以降の遺物が散布されている。集落形成は古墳時代以降となる。8世紀後半から9世紀の遺構が多いのは、相模国府が成立し、成熟期を迎えて遺構が増えたと思われる。
調査
第一地点
第1地点は四之宮下郷の3・4区に該当し、313基の遺構の内、住居址65軒・掘立柱建物址9棟の住居址を確認。
第3地点
- 第3地点は掘立柱建物址8棟・住居址12軒を検出した。掘立柱建物址は8世紀と10世紀、住居址は9世紀が中心である。遺物の中で注目するものは1号掘立柱建物址から出土した墨書土器である。甲斐型の土師器坏底面に「家」の墨書の他に口縁部外面に水鳥の墨絵が対角線に描がれ、棟上げなどの慶事・祭祀に使用されたと報告される。出土状況不明であるが、地鎮の性格が想定される。また、縄文土器勝坂式の完形の深鉢が逆位で出土した。沖積低地での初の縄文完形土器の出土となり、様々の問題を提起する。
第4地点
第4地点での住居址18軒は7世紀後半から10世紀後半までのもので、比較的継続的に存続したと考えます。出土遺物の特徴を上げると、墨書土器「垂」8点、銅か3点、円面硯2点や太刀の鍔があります。一般集落ではなく、官人層の住居域と考えます。第5地点は掘立柱建物址3棟・住居址24軒を検出しました。掘立3棟は9世紀であるのに対し、住居は8世紀後半から9世紀前半のものは確認されていません。遺物は灰釉陶器碗を転用した朱墨の硯や墨書土器「西」・「井」があります。
第6地点
第6地点は掘立柱建物址2棟・住居址23軒を検出しました。掘立2棟の時期は分からない。住居は8世紀前半と9世紀後半以降のものが確認されています。遺物は透かしのある銅・巡方が出土する。
第8地点
第8地点は掘立柱建物址2棟・住居址6軒を検出し、掘立2棟は8世紀前半に対し、住居は8世紀前半と9世紀以降のものです。8世紀前半の掘立と住居は国府成立過程のものであろう。
第9地点
9地点は掘立柱建物址7棟・住居址5軒を検出され、掘立7棟の内3棟は7世紀後半、8世紀前半・後半に対し、住居は9世紀以降のものである。
第12地点
- 主として近世以降、中世、古墳時代後期~奈良・平安時代の以降・遺物を検出した。その中心は古墳時代後期から奈良・平安時代の集落跡であり、古墳時代後期(7世紀)に始まり、10世紀後半まで存続していたと推定される。
- 竪穴住居は7世紀中頃~後半が最も多く、次いで8世紀中頃にも一つのピークが認められる。本地点の東側約450mからは、相模国府庁の脇殿と推定される掘立柱建物が検出されており、本遺跡も国府推定域に含まれているが、検出した遺構は竪穴住居址が中心で、遺物も官衙的なものは少ない
第14地点
砂丘から凹地へ向かう傾斜地際であり、諏訪前A遺跡第14地点は他の調査地点と比べ国府に関連する遺構は希薄になる傾向が窺える。掘り込みの溝状遺構がL字状に認められ、その東側から南側で本時期の遺構の大半が認められた。竪穴住居跡の1/4程を確認。床面の作り替えが認められた。
第15地点
- 中原街道から近い。110号礫群では中央に窪みあり。礫集中が2区第二文化層にある。 1区では竪穴建物9軒、掘立柱建物跡3棟、竪穴状遺構30基、
遺構
- 竪穴住居址 - (古墳後期~平安)
- 掘立柱建物跡 - (古墳後期~平安)
- 竪穴状遺構- (古墳後期~平安)
- 道状遺構- (古墳後期~平安)
- 溝状遺構- (古墳後期~平安)
- 井戸址- (古墳後期~平安)
- 土坑- (古墳後期~平安)
- ピット- (古墳後期~平安)
遺物
- 須恵器(古墳後期~平安)
- 土師器(古墳後期~平安)
- 灰釉陶器(古墳後期~平安)
- 土製品(古墳後期~平安)
- 石製品(古墳後期~平安)
- 鉄製品(古墳後期~平安)
指定
アクセス
- 名称:諏訪前A遺跡
- 所在地:神奈川県平塚市東真土二丁目地内
- 交 通:
参考文献
- 神奈川県教育委員会(2024)「神奈川県発掘調査成果発表会」資料
私度僧 ― 2024年06月18日 00:18
私度僧(しどそう)は律令国家において、官の許可を得ずに僧となったものをいう。 自度僧ともいう。
概要
官の許可をえて得度したものを官度僧(官僧)という。私度は官度を経由することなく、私的に得度することをいう。 律令制においては官許を得ずに出家する私度を認めず、また僧尼が呪術を介して民衆に接触することを警戒した。養老年間(717-724)頃には僧俗の秩序を乱す行為として、僧尼令などによる弾圧の対象となった。かつ民衆教化を禁じ、山林修行や乞食にも届出を義務化した。行基らの民間伝道は仏教統制に対する批判的な運動であった。律令制下では僧尼は租税免除や刑罰軽減などの特権をもっていた。奈良時代の日本では税の負担を逃れるためなどの理由から、出家を希望する者が続出し、勝手に僧尼となってしまう私度僧が増えた。私度僧が増えると税収が減り、ひいては国家財政の基盤を揺るがすことになる。 平安時代には官度制が弛緩し、私度禁止政策は放棄された。
著名な私度僧
『日本霊異記』の編纂者である景戒(平安前期、生没年不明)は当初、私度僧であったとさる。空海も当初は私度僧であった。15歳で郡司の子弟として、大学の明経科に入学した。その後、大学を退学し、私度僧になり、山林修行に入った。31歳で東大寺の戒壇院で受戒し、官度僧になった。『三業指帰』は私度僧のときに執筆した。
私度僧の社会的意義
松本信道(1973)は私度僧の民衆社会における活動を評価し、律令社会の変質を通じて、私度僧の意義と歴史的役割を論じた。国家仏教においては、国家権力を背景として仏教を興隆させ、反面では仏教統制を行った。仏教興隆の具体例としては、大官大寺や薬師寺などの造寺、寺院・僧尼の保護優遇策、宮廷における仏事法会などがある。仏教統制としては寺名の統一、僧尼の威儀、法服の色の規定、寺院内における居住制限、私度僧の禁止、生活の制限、民衆(衆生)教化の禁止などがある。私度僧が文献で登場したのは、養老元年(717年)4月の勅であった。社会的背景としては、平城遷都に伴う過重な苦役がある。平城京造営のため諸国から役民を徴発し、逃亡者が続出した。天災や飢饉の頻発や出挙制度による税金負担の増大などから農民の再生産は困難を極めた。律令制度の矛盾と私度僧の増加は結びついていた。ほかに宗教的な理由があった。社会不安や律令制度の混乱により民衆社会において、現世利益的な僧尼の屈請(僧を招請すること)が盛行した。官僧を呼ぶには重病に限定されており、事実上は上流階級に限られ、手続きも複雑であった。私度僧を屈請する必要性は、親の追善供養、病者看病のため、放生、先罪悔過などにあった。
僧尼令
- 2条卜相吉凶条
- 僧尼が、吉凶を占い、また、まじないや巫術によって病を癒したならば、皆、還俗とする。
- 5条 非寺院条
- 僧尼が、寺の院に所在せずに、別に道場を立てて、衆を集めて教化し、併せて、妄りに罪福を説き、また、長宿を殴撃したならば、皆、還俗とする。
- 7条 飲酒条
- 僧尼が、酒を飲み、肉を食い、五辛を服したならば、30日苦使する。
- 22 私度条
- 私度、及び、他人になりすまして官度を受け、すでに還俗の判決を受けてなお、法服を着用したならば、律に依って科断すること。
- 23 (教化条)
- 僧尼は、俗人に経像を授け、門ごとに歴訪して教化したならば、100日苦使する。
考察
私度僧の増大により律令制度の根幹が変質していった。しかし、それは律令制度では、仏教の役割を国家の為に役立つことだけを求めていたことに問題の原因があった。すなわち仏教に対して、本来の宗教的役割を無視して、国家のため、あるいは一握りの上流階級のために仏教を利用したことから起きたことである。当時の為政者は仏教興隆のために官僧だけを優遇し、私度僧の社会的な役割に対する洞察が不十分であった。それゆえ行基、空也、親鸞などが登場する必然性があったのである。
参考文献
- 松本信道(1973)「奈良時代の私度僧に関する歴史的考察」駒澤史学 20 62-
- 黒木賢一(2018)「私度僧空海」大阪経大論集 68 (6),pp.9-24
北島遺跡 ― 2024年06月16日 00:32
北島遺跡(きたじまいせき)は埼玉県熊谷市にある弥生時代から平安時代にかけての大規模な集落遺跡である。
概要
北島遺跡は古代では武蔵国幡羅郡に属し、郡家の正倉群が確認された遺跡である。北島遺跡は現在の熊谷市街から北東に約3km、市内を南東に流れる星川左岸の沖積低地にある自然堤防上に位置する。弥生時代の水田、埴輪を並べた古墳、古代の豪族「館」などは、重要な発見となった。
調査
検出された住居跡は合計70軒で、調査区北側よりにまとまっていた。住居跡の形態は隅丸方形ものと小判形のものとがあり、規模は4mから10m前後である。 水路は堰から分水するために南東方向にほぼ直線的に開削した溝で北西方向と南東方向に開析する自然の谷地形を利用して作られた。検出された溝は全長90m、上幅約7m,下幅約3mの逆台形を呈しており、深さ約2mである。 第17地点で住居跡が15軒検出された。時期についは、少ない遺物ではあるが、台付甕(S字甕を含む)や、小型器台などの器種がそ ろっていることと、器面調整の特徴から判断すれば、古墳時代前期の五領式期の住居跡と見られる。古墳時代になると今まで(弥生時代に)長方形であった平面形が方形に変わったと判断された。住居跡から、吉ヶ谷系、樽系の弥生上器の系譜を引く土器が出土している。水田区画の面積は、最大で29.8m2、最小で7.04m2、平均15.7m2である。平均面積では、群馬県の浅間C火山灰下から検出された浜川高田遺跡の13.731m2に近い。水田跡に馬もしくは 牛の足跡などは検出されていないので牛馬耕が行なわれていたという証拠はない。
考察
遺構
- 竪穴建物
- 掘立柱建物
- ピット列
- 土坑
- 池
- 溝
- 道路
- 河川
- 集石
- 土器集中
遺物
- 土師器
- 須恵器
- 木製品
- 土製品
- 石製品
- 鉄製品
- 木簡
- 墨書土器
- 木製品
- 井戸枠
- 牛馬骨
- 帯金具
- 線刻紡錘車
指定
展示
アクセス
- 名 称:北島遺跡
- 所在地:埼玉県熊谷市上川上777番地他
- 交 通: JR高崎線熊谷駅北口から国際バス3番乗り場から「くまがやドーム行き」で「ラグビー場入口」下車徒歩2分
参考文献
- 吉田稔(2002)「埼玉県熊谷市北島遺跡の調査」日本考古学 9 (13),pp.105-112
- 財団法人埼玉県埋蔵文化財調査事業団(2005)「北島遺跡XIV」
- 財団法人埼玉県埋蔵文化財調査事業団(2005)「北島遺跡X」埼玉県埋蔵文化財調査事業団報告書第302 集
幡羅遺跡 ― 2024年06月15日 00:23
幡羅遺跡(はらいせき)は埼玉県深谷市にある古代の郡役所跡である。 「幡羅官衙遺跡群」ともいう。
概要
幡羅遺跡は深谷市の北東部で熊谷市との境に位置する。幡羅遺跡の官衙施設は北西部が正倉域、南東部が実務官衙域である。官衙は7世紀後半から11世紀前半まで機能していた、古代幡羅郡家(郡役所)跡である。現時点では郡庁は確認されていない。 遺跡の中央を走る道路跡がある。道路跡は両側に側溝を持ち、路面幅約6~8メートルと大規模なものである。道路跡は遺跡の南西端から北東方向に伸びる。7世紀後半から末頃の竪穴建物跡と重なり、それを壊していることから、道路は7世紀末頃に造られたものと推定される。築地や柵列で建物群を方形に区画している。区画の周囲に多数の竪穴住居跡が認められた。 正倉院は南北2箇所で確認されている。正倉院(北)は南北約135m、東西約80mの規模と見られる。正倉院(南)の範囲は、南北約90m、東西約220mと見られる。正倉は7世紀末頃に成立し、10世紀前半~中頃に廃絶したと考えられる。、国司が巡回する際に宿泊施設となった「館」とみられる四面庇建物が検出されている。 鉄生産が行われており、鉄製品が多数出土する。牛馬の骨が多数出土する。
調査
遺跡は平成13年に2棟の正倉跡と正倉院区画溝が確認された。平成20年度の第32・34次調査で、建物跡4棟、竪穴建物跡8棟、溝5条、土坑24基である。L字に並ぶ長大な建物跡が確認された。
塀
二重溝の内側に同じ方位で南北に構築された塀が検出された。塀の柱は直径50 ~ 80cmの円形が基本である。柱穴の深さは、確認面から30 ~ 50cmである。柱は柱痕跡を残すものと抜き取ったものがある。柱痕跡から、柱の径は20 ~ 30cmと推定される。
遺跡の変遷
7世紀後半
古墳が造られていた台地の先端部に、竪穴建物が散在する中に小規模な倉庫などの掘立柱建物が建てられた。7世紀末頃になると竪穴建物は遺跡の南部、西部に集約され、郡家域や集落域が分離する。郡家域には正倉・館・厨家・曹司・道路などが整備された。遺跡の中央に路面幅約8メートルの道路が斜めに走り、その北西に正倉院、南東に官衙施設が造られる。正倉Ⅰ期では正倉跡は5棟確認されており、全て掘立柱建物跡である。
8世紀
正倉院は8世紀末頃に礎石建物への建て替えられ、敷地の拡張が行われた。正倉Ⅱ期では正倉跡は2棟確認されており、全て掘立柱建物跡である。桁行は距離から5間程度と推定されている。 ある。
9世紀
9世紀後半になると、建物ブロックが複数あった実務官衙域に二重溝と土塁による区画施設が造られ、郡家の構造が大きく変化した。9世紀以降になると、集落は分散化する傾向がみられ小規模な集落が数多く認められる。正倉跡は4棟確認された。推定される規模はいずれも50㎡前後と、以前より大規模である。
10世紀
10世紀前半或いは中頃に廃絶し、10世紀後半には集落となった。
重要性
地方官衙の構成や立地を知るために重要な遺跡である。古代幡羅郡家及び祭祀場等からなり、正倉をはじめとする多数の建物群や区画施設、鍛冶工房、祭祀場などの郡家の諸施設が検出されており、郡家の全体像を把握できる。7世紀後半の成立から11世紀前半の廃絶までの300年以上の変遷を確認できる遺跡として重要である。
考察
正倉院は税を保管するための倉庫群である。郡衙の正倉には租税が納められており、税金 として徴収した米や稗、粟などの穀物を収蔵した公的な倉庫である。正倉院があるので、幡羅遺跡は古代の郡役所であることは明らかである。災害や飢饉などのときはそのイネが人々に支給されるなど、社会保障・扶助機能があった。9世紀以降は本来地方で消費されるはずであったイネは中央で財源化されてしまう。律令国家が弱体化していく過程である。倉庫の規定である「倉庫令」に、稲穀は保存年限を9年とする規定があるので、この年限で更新される。豪族の居宅や集落のクラの床面積は5坪程度であるため、そ 10 坪以上の床面積をもつ正倉院は国家の威信を表すものであった。
遺構
- 溝
- 竪穴建物
- 土坑
- 区画溝
- 掘立柱建物
- 掘立柱塀
- 円形周溝
遺物
- 土師器
- ロクロ土師器
- 棒状鉄製品
- 鉄釘
- 須恵器
- 銅製品
- 埴輪
- ロクロ土師器
指定
- 2018年(平成30年)2月13日 - 国史跡指定
- 指定面積 102,110.98 平方メートル
- 深谷市では初の国史跡となる
展示
- 幡羅公民館 遺物のミニ展示コーナー
アクセス
- 名 称:幡羅遺跡
- 所在地:埼玉県深谷市東方字森吉他/埼玉県熊谷市西別府字西方他
- 交 通: JR高崎線深谷駅から車で約20分/JR高崎線籠原駅から車で約15分
参考文献
- 深谷市教育委員会(2009)「幡羅遺跡 Ⅴ」埼玉県深谷市埋蔵文化財発掘調査報告書 第109集
- 深谷市教育委員会(2007)「幡羅遺跡 Ⅱ」埼玉県深谷市埋蔵文化財発掘調査報告書 第88集
- 深谷市教育委員会(2011)「幡羅遺跡Ⅶ」埼玉県深谷市埋蔵文化財発掘調査報告書 第123集
調銭 ― 2024年06月13日 00:19
調銭(ちょうせん)は税金である調を物品ではなく、銭で納めた銭をいう。
概要
租庸調は飛鳥時代から奈良時代に施行された税制度である。 調は布や各地の特産物(絹・糸、紙・工芸品など)を税として物納するものである。 708年(慶雲5年)正月、武蔵国から銅がとれたとの報告がなされた。政府は「和銅」と改元し、5月に銀の和同開珎、八月には銅による銭(和同開珎)を発行した。鋳銭司で銭を作っていた。 律令の規定では、調は物品で納めると規定されているが、銭の流通を図るため、調銭が新設された。709年には銀銭の流通を禁止し、銅銭だけを流通貨幣とした。 711年(和銅4年)には貴族の給料の一部を銭とした。712年(和銅5年)には、平城京造営の日当に一文(和同開珎一枚)が支払わた。 畿内近辺で税の調庸を銭で納めさせることにより銭を流通させる仕組みを作ったものである。当初、銭納は畿内だけであったが、722年(養老6年)には、伊賀、伊勢、丹波、播磨、紀伊などに広げた。
平安時代
平安時代には銭の流通を京と畿内だけに限定されたようである。「延喜式」では、左右京、山城、大和、河内、摂津、和泉の調銭が規定された。銭を都とその周辺に集中させるような政策をとったのである。銭の流通、畜銭が進んだため、都近辺では銭が不足し、また9世紀に入ると原料の銅が不足するようになったためと推測される。
考察
参考文献
- 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
千年伊勢山台遺跡 ― 2024年05月21日 00:04

千年伊勢山台遺跡(ちとせいせやまだいいせき)は神奈川県川崎市高津区にある奈良・平安時代の武蔵国橘樹郡の役所跡である。
概要
伊勢山台と呼ばれる多摩丘陵の標高40~42mの平坦な丘陵上に位置する。西側に古代の寺院跡である影向寺遺跡がある。7世紀後葉には、3間×3間の平面形式で大規模な総柱式の掘立柱建物が整然と配置されていた。古代の地方官衙の成立からの流れを知る上で重要であるといわれ、7世紀後半の地方行政組織である評の役所の成立や構造、その後の廃絶 に至るまでの過程を知ることができる希有な例とされている。古代橘樹郡の役所にかかわる遺跡を「千年伊勢山台遺跡[橘樹郡家跡]」という。郡家(ぐうけ)とは、古代の律令制度下でおかれた郡において、郡司(ぐんじ)以下の官人が政務をとった役所である。郡庁は郡の政務をとる庁舎、正倉は税として納められた頴稲(えいとう=穂首刈りをした稲穂)などを納める倉庫群で、溝や塀で区画された場合は正倉院と呼ぶ。館は宿泊施設、厨家は郡家で行われる給食や饗宴のための厨房で、その他に手工業生産のための工房や祭祀場などがある。 緑地の北東隅に「橘樹郡衙跡」と刻まれた石碑が建てられる。
調査
1996年(平成8年)に行われた宅地造成に伴う発掘調査で東西にならぶ倉庫群が検出された。その後の継続的な発掘調査で郡家の主要施設である正倉院の規模がほぼ明らかになった。館(宿泊施設)、厨屋(厨房施設)もほぼその位置が推定されている。
遺構
- 掘立柱建物
- 区画塀
- 掘立柱建物の一部と考えられる柱穴群
- 側柱建物
遺物
- 土師器
- 須恵器
- 円面硯
- 鉄製刀子
- 釘
橘樹歴史公園
橘樹歴史公園は2024年5月18日にオープンした。復元された飛鳥時代(7世紀後半)の倉庫1棟は公園の中心となる建物となる。飛鳥時代に屋根をふくため使われたのは瓦、板、かやの3種類であるが、瓦は現地調査では見つかっていない。板ぶきは大王の宮である「飛鳥板蓋宮」などに限られる。遺跡群調査整備委員会の助言を踏まえ、都から遠く離れた橘樹の倉庫をかやぶきであったと推定した。税として納められた稲を保管した倉庫「正倉」一棟を復元するほか、建物を支える三棟分の掘立柱も復元する。散策できる園路、橘の木や花々が楽しめる植栽、遺跡群の説明板、休憩用のベンチなども合わせ整備する。
- 公園名称 橘樹歴史公園(たちばなれきしこうえん)
- 公園面積 3,055.69㎡
- 公園施設 倉庫1棟、倉庫3棟(柱の一部)、説明板(大小)7面、石製史跡標柱1基
- 史跡名称 史跡橘樹官衙遺跡群
- 復元倉庫
- 構造:板校倉造(いたあぜくらつくり)
- 高さ:約9.3m
- 桁行・梁行:約5.94m
- 屋根構造:切妻造、茅葺
指定
- 平成27年3月10日 国指定史跡
展示
アクセス
- 名 称:千年伊勢山台遺跡
- 所在地:高津区千年字伊勢山台423番1
- 交 通:東急溝の口駅から東急バス「千年」バス停下車徒歩15分
参考文献
- 川崎市教育委員会(2005)『千年伊勢山台遺跡 :第1-8次発掘調査報告書』川崎市教育委員会
- 川崎市教育委員会(2024)「史跡橘樹官衙遺跡群 橘樹歴史公園」
- 川崎市教育委員会(2024)「国史跡橘樹官衙遺跡群 橘樹歴史公園」川崎市遺跡リーフレット①
目梨泊遺跡 ― 2024年04月20日 00:24
目梨泊遺跡(めなしどまりいせき)は北海道枝幸町に所在するオホーツク文化期の遺跡である。
概要
海に面する丘の上に立地する。東西100m、南北300mの範囲である。 北海道大学文学部附属北方文化研究施設によって、昭和40年代に六次にわたる学術調査が行われた。 発掘調査は1990年から1992までの3年間実施された。集落を取り囲むように墓域が形成された。平成12年からは筑波大学による学術調査が3ヵ年にわたって実施された。30万点を超える膨大な量の遺物が出土している。
埋葬法
これまではオホーツク文化圏では頭を北西に向けた仰臥屈葬が一般的とみられていた。目梨泊遺跡は半数以上の頭位が西もしくは南西方向であり、墓壙の規模から伸展葬とみられる場合が多い。 一方で伝統的な被甕が使用され、多くの鉄器が副葬されるなど、従来の埋葬法と共通する要素もある。
副葬品
上記以外の副葬品では鉄器が多い。刀子を主体として、蕨手刀、剣、鉾、鎌、平柄斧、縫い針などがある。また石鏃や青銅製の帯金具や足金具、銀製の耳飾り、ガラス製小玉、琥珀玉などがある。蕨手刀は長さ73.6cm、34号土坑墓より出土した。鞘はなく、抜き身であった。 オホーツク式土器は高さ26.2cm、細かい粘土紐による貼付文で文様を付ける。
調査
遺構
- 竪穴建物4
- 獣骨集中
- 墓壙3
- 土坑253
- 集石1
- 焼土2
遺物
- 土器
- 動物遺存体(ヒグマ+アザラシ+魚)
- 曲手刀子
- 土製品
- 石鏃
- 銛先鏃
- 砥石
- 剥片
- 海獣
- クマ(四肢骨)
- 骨製銛頭
- 線刻骨製装飾品
- 黒曜石剥片
- 石錘
- 骨角器
- 蕨手刀 2
- 刀子
- 骨角器
- 人骨
指定
展示
- 二戸市埋蔵文化財センター
アクセス
- 名 称:目梨泊遺跡
- 所在地:北海道枝幸郡枝幸町目梨泊43-2
- 交 通:
参考文献
- 枝幸町教育委員会(1988)『目梨泊遺跡』枝幸町教育委員会
- 文化庁(1997)『発掘された日本列島 1997』朝日新聞社
- 石田肇(1988)「北海道枝幸町目梨泊遺跡出土のオホーツク文化期人頭骨にみられたアイヌ的特徴」人類學雜誌
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