上総国文尼寺 ― 2023年12月28日 18:59

上総国文尼寺(かずさこくぶんにじ)は千葉県市原市にある奈良時代の尼寺跡である。
概要
奈良時代の741年(天平13年)に聖武天皇の詔によって全国に建立された国立の寺院である。金光明四天王護国之寺という僧寺と、法華滅罪之寺という尼寺が同時に建てられた。 全国60箇所余りに建てられた国立の寺院のひとつで、当時の地方の仏教や文化の中心となった。敷地面積約12万平方メートルの大規模な伽藍であった。 上総国分寺は、全国でも規模が大きく、国分尼寺は当時の国内で最大の尼寺である。 上総国分尼寺の建立はなかなか進まなかったようであった。 上総国分尼寺跡は数度の発掘調査が行われ、伽藍配置ばかりでなく、尼寺を構成するいくつもの施設の存在が判明している。寺の施設には、尼僧の日常生活にかかる大衆院、事務を執る政所院、建物の修理をする大工や金工の工房である修理院、薬草や野菜、花などを栽培した薗院、花苑院、寺の雑役などに従事した人たちの居住する賎院があった。現在までに判明している主要な建物跡は、南大門、脚門であった中門と東西の門、金堂跡、経蔵、講堂、鐘楼、経楼、尼坊、政所院、回廊、門跡、北門、金属の加工を行った工房、修理院、賤院、校倉がある。
復元
中門と回廊は奈良時代の工法を再現する形で木造復元された、96本の回廊の柱は、樹齢100年以上のヒノキ(木曽桧)を使い、材の結合部として強度を要する大斗にはケヤキ、耐水性を要する部分にはヒバを使う。回廊には直径30cmの柱が96本使用され、梁行はりゆき1間けん、桁行けた行きが25間の規模である。壁には古代の窓の連子窓を取り付ける。中門や回廊、金堂の基壇には、土の崩れを防ぐため瓦が積まれ、基壇表面には、瓦と同じ材料で正方形の甎と呼ばれる瓦の一種が敷かれる。甎は回廊で8,833枚、金堂で3,622枚が使用された。
展示
- 上総国文尼寺展示館
アクセス等
- 名称:上総国文尼寺
- 所在地:千葉県市原市国分寺台中央3-5-2
- 交通: JR内房線五井駅東口より小湊鉄道バス国分寺台行き・山倉こどもの国行き等にて「市原市役所」下車、徒歩10分
参考文献
阿倍仲麻呂 ― 2023年12月25日 00:08
阿倍仲麻呂(あべのなかまろ,701年 - 770年)は奈良時代に遣唐留学生として唐に渡り中国の皇帝に仕え、帰国を果たせず唐で没した人物である。百人一首では「阿倍仲麿」と表記する。唐名を「朝衡」(ちょうこう、晁衡)と名乗った。中国では有名な日本人である。 弟に阿倍帯麻呂がいる。
概要
阿倍仲麻呂は父の中務大輔正五位上・安倍舩守の子として生まれた。母の名は不詳である。 阿倍氏は宣下朝期に阿倍大麻呂が大夫に登用された頃からが確実な記録とされている。
生年の2説
生年に699年(文武3年)説と701年(大宝元年)説の2説がある。『古今和歌集目録』は716年(靈龜2年)8月20日に16歳(数え年齢)で、吉備真備・玄昉、井真成らとともに遣唐留学生として唐に渡った。靈龜2年から逆算すると701年(大宝元年)生まれとなる(年齢は満年齢ではなく、数え年齢であることに留意する)。 略伝によれば、770年(大暦五年)正月に73歳で亡くなったとされるので、ここから逆算すると699年(文武3年)生まれとなる。近年は701年(大宝元年)生まれ説が有力とされる。唐の太学への入学には年齢制限があり十四歳以上、十九歳以下である。(遣唐使選定時16歳、渡海時17歳、入学時18歳とすると整合性がある(参考文献1)。
古今和歌集目録
古今和歌集目録に阿倍仲麻呂の略歴が載る。阿倍仲麻呂を知るための基本資料である。聡明にして読書を好むと書かれる。
- 中務大輔正五位上船守男。靈龜二年八月廿日乙丑。
- 爲遣唐學生留學生。従四位上安倍朝臣仲麿。
- 大唐光祿大夫散騎常侍。兼御史中丞。
- 北海郡開國公。贈?州大都督朝衡。國史云。
- 本名仲麿。唐朝賜姓朝氏名衡字仲満。性聴敏。
- 好讀書。靈龜二年以選爲入唐留學問生。時年十有六。
- 十九年京兆尹崔日知薦之。不詔褒賞。超拜左補闕。
- 廿一年以親老上請歸。不許。賦詞曰。慕義名空在。
- 愉中高不全。報恩無有日。
- 皈國定何年。至于天寶十二載。與我朝使参議
- 藤原清河同船溥歸。任風掣曳。漂泊安南。屬祿山構逆羣盗蜂起。
- 而夷撩放横。刧殺衆類。
- 同舟遇害者。一百七十餘人。僅遣十餘人。
- 以大暦五年正月薨。時年七十三。贈?州大都督。
- 明達律師傳云。有夢松尾明神。
- 天王寺借住僧等之靈驗也。各委不記可見本傳也。
- 追至公卿。
安倍家
阿部氏は大和盆地東南部を本拠とする中央氏族である。孝元天皇の皇子大彦命を祖とする。 阿部仲麻呂の父安倍舩守は中務大輔正五位上である。和銅四年(711年)四月の従五位上から正五位下、養老七年正月に正五位上に昇叙された(;続日本紀)。中務大輔は中務省の次官である。
遣唐留学生
阿部仲麻呂は716年(靈龜二年)8月、16歳で遣唐留学生に選ばれた。そのときの遣唐使は総勢557人。主要メンバーは押使(長官)に従四位下・多治比真人県守、大使に従五位下・大伴宿禰山守、副使に正六位下・藤原朝臣馬養(;宇合)である。留学僧に玄昉、留学生に阿部朝臣仲麻呂(16歳)、下道朝臣真備(22歳)、井真成(18歳)。養老元年(717年)10月、入唐し、長安に到着した。
唐での活動
阿部仲麻呂は718年(養老2年)に18歳で唐の太学に入る。721年、東宮司経局校書になる。727年頃に結婚した可能性がある。天平六年(734年)玄宗皇帝は仲麻呂の帰国を不許可とした。 中国側史料の『楊文公談苑』の記載に「開元中、朝衡なるもの有りて、太学に隷きて挙に応じ、仕えて補闕に至る。国に帰らんことを求む。検校秘書監を授けて放ち帰す。王維及び当時の名輩、皆詩序ありて別を送る。後去くを果たさず。官を歴て、右常侍・安南都督に至る」と書かれている。太学に入学したことは、王維の送別の詩文にも書かれている。 阿部仲麻呂は唐では朝衡と名乗っている。東宮司経局校書は正九品下相当、「校書」は書物の誤りを訂正する校正担当である。古典を知っていなければ務まらない役職である(参考文献1)。
帰国の不許可
天平度の遣唐使が来日したとき仲麻呂は老いた父母に孝養をつくしたいからと帰国願を提出したが、玄宗皇帝の許可は得られなかった。略伝に「慕義名空在。愉忠孝不全。報恩無有日。帰國定何年」(義を慕いて名は空しく在り。忠を愉しむも、孝は全からず。報恩は日あることなし。帰國が定まるは何年ならん)とある。皇帝への忠と、親への孝のはざまで苦しむ姿がある。当初の留学計画では帰国の予定であった。
帰国の試み
753年(天宝12年、仲麻呂 53 歳)には「秘書監」(従三品。秘書省の長官、文筆の官としては最高位)に昇進していた。 753年(天平勝宝5年)、藤原清河を大使とする遣唐使の帰国に同乗して帰国することが許可された。第1船は藤原清河・阿倍仲麻呂、第2船に大伴古麻呂・鑑真、第3船に二度目の渡唐をした吉備真備、第4船には布勢人主らが乗船した。53歳になった仲麻呂としては、最後のチャンスと考えた。第1船は最も安全とされていたが、第1船は日本方面まで来たものの漂流し、安南(ベトナム)に漂着したため、帰国することはできなかった。清河と仲麻呂らは755年に長安に帰還し、その後は唐に仕えた。第2船は11月21日に阿児奈波島(沖縄島)に漂着し、12月7日に益救島(屋久島)、20日に薩摩国阿多郡秋津屋浦に上陸した(唐大和上東征伝(779年))。第3船は20日に阿児奈波島(沖縄島)に漂着した。益救島(屋久島)を経て、紀伊国太地に漂着した。第4船は途上で船が火災に遭ったが、舵取の川部酒麻呂などの奮闘により鎮火に成功した。754年4月、薩摩国石籬浦(現鹿児島県揖宿郡頴娃町石垣)に漂着し、帰国できた(参考文献1)。
古今和歌集
『古今和歌集』羇旅歌 406首目に収録されている阿部仲麻呂の和歌は有名である。
- あまの原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも
詞書に「唐土(もろこし)にて月を見て、よみける 安倍仲麿」と記載される。 また注に「この歌は、むかし仲麻呂を唐土にもの習わしに遣わしたりけるに、あまたの年を経てえ帰りまうで来ざりけるを、この国より又使まかりいたりけるにたぐひて、まうできなむとて出で立ちけるに、めいしうといふ所の海辺にてかの国の人餞別(むまのはなむけ)しけり、夜になりて月のいと面白くさしいでたりけるを見て詠めるとなむ語り伝ふる」 とある。平城京から東方を眺めると、標高498メートルの春日山に隠れて三笠山を見ることはできない。遣唐使の航海安全祈願のための神祭を実施した三笠の山の麓から月をみることになる。『続日本紀』に「遣唐使、神祇を蓋山(みかさやま)の南に祠る(養老元年〔717年〕2月条)と書かれていることがこれを示す。その思い出を歌に込めたのであろう。 唐の明州での送別の宴の際に詠まれた歌で、望郷の想いが語られる。送別の開催は753年(天平勝宝5年)11月15日のことで、この夜は満月であったという。
仲麻呂の影響力
玄宗皇帝は、宮殿の府庫(図書館)を遣唐使の日本使(750年(天平勝宝二年)九月任命)に許可した。案内者は朝衡(仲麻呂)であった。朝衡が玄宗皇帝に願い出て許可を得たと考えられている。君主教殿、老君之経堂、釈典殿宇などくまなく見せ、さらに大使(藤原朝臣清河)、副使(大伴古麻呂)の肖像画を書かせ、送らせた(宮田俊彦1961)『吉備真備』吉川弘文館。これは他の遣唐使にはなかったことであり、相当に異例の厚遇といえる。仲麻呂の皇帝への影響力によるものと考えられる。
阿倍仲麻呂の記念碑
護国寺
東京文京区大塚の護国寺の正式名称は「神齢山悉地院大聖護国寺」である。仲麿塚碑がある。銘文に次が記載される。
-此碑旧在大和国安倍村久没 -蒿莱無人剥蘚者大正十三年 -甲子仲秋移植斯地題詩于其陰 -箒庵逸人
「此の碑、旧は大和国安倍邸に在り。久しく蒿莱(こうらい)に没し、人の蘚を剥ぐ者無し。大正十三年甲子仲秋、斯の地に移し置き、詩を其の陰に題す。箒庵逸人(高橋義雄)」
高橋義雄は実業家で俳人であり数寄者として知られる。箒庵逸人は俳号。著書『箒のあと』下(秋豊園出版部、1836年)で、経緯を書いている。奈良の骨董商の店先で石碑を見つけ購入したという。碑面の文字は温秀高雅で、藤原時代の名家の筆蹟と見た。安倍村は、安倍一族の発祥の地のため、仲麻呂が物故したのち、招魂碑としてこの地に建てたと推測される。東野浩之教授は考古学的見地から7~8百年前のものとは思えず、江戸時代ではないかとする。江戸時代本居宣長が安永三年(1772年)のこの地を訪れたとき、田の中に「あべの仲まろのつか」があることを記している(『菅傘日記』)。18世紀後半には存在していたと推定される(参考文献1)。
国陝西省西安市
興慶宮は陝西省西安市にあり、玄宗皇帝の兄弟五人の王子たちの御殿として造営された。728年に興慶宮で公式の政務を執りはじめ、大明宮に代わる唐代の政治の中心地となった。現在の興慶宮には勤政務本楼の遺跡や沈香亭、花萼相輝楼、長慶軒、湖などがある。阿倍仲麻呂記念碑は唐の柱に似せてつくられた漢白玉製の記念碑で、高さ3.6メートル、市内の興慶宮公園の東南隅にある。西安と奈良は、昔はそれぞれの国の首都であったところから、1974年に友好都市となり、奈良市長の提案で、西安と奈良に阿倍仲麻呂記念碑が建立された。西安の記念碑は1979年7月1日に立てられている。
科挙に合格したか
科挙に合格したという明確な根拠はない。しかし合格説では、高位高官に出世した事実をもって説明する。しかし科挙が出世に決定的に重要であったのは、宋代以降という理解もあるため、唐代における科挙の位置づけが問題となろう。
Wikipedia日本語版の誤り
Wikipedia日本語版にいくつかの誤りがある。
- 生年月日を「文武天皇2年〈698年〉」の生まれとしているが、これは誤りである。上野誠説(参考文献)に依拠したと思われるが、数え年齢と満年齢とを混同している点で、誤りである。
- 733年(天平五年)の遣唐使の帰国に同行しなかった理由を「唐での官途を追求するため帰国しなかった」と書いているが、仲麻呂の意思で帰国しなかったわけではない。皇帝の許可がでなかったため帰国できなかったのである。
参考文献
- 森公章(2019)『阿倍仲麻呂』吉川弘文館
- 上野誠(2013)『遣唐使 阿倍仲麻呂の夢』角川書店
唐招提寺 ― 2023年11月25日 23:29
唐招提寺(とうしょうだいじ)は唐の高僧の鑑真和上により奈良時代中期に創建された南都六宗の一つである律宗の総本山である。
概要
1998年(平成10年)、世界遺産のひとつとして登録された。 鑑真大和上は、東大寺で5年を過ごした後、新田部親王の旧宅地(現在の奈良市五条町)を下賜され、159年(天平宝字3年)に戒律を学ぶ人たちのための修行の道場として開いた。 当初は講堂や新田部親王の旧宅を改造した経蔵、宝蔵だけであった。 唐では官寺でない寺を「招提」と称しており、四方から僧が集まり居住する所を意味した。平安末期には興福寺の末寺となった。1900年(明治33年)に興福寺から独立して律宗総本山となる。
金堂
- 国宝 奈良時代(8世紀後半)
- 奈良時代建立の寺院金堂としては現存唯一のものである。
- 外観は、正面間口七間、奥行き四間の寄棟造
講堂
- 国宝 奈良時代(8世紀後半)
- 平城宮の東朝集殿を移築・改造したもの
宝蔵
- 国宝 奈良時代(8世紀)
- 唐招提寺創建にあわせて建立されたといわれ、経蔵より一回り大きい。
鼓楼
- 国宝 鎌倉時代 仁治元年(1240)
経蔵
- 国宝 奈良時代(8世紀)
- 高床式の校倉
- 唐招提寺創建以前の新田部親王邸の米倉を改造したものといわれる。
- 唐招提寺で最も古い建造物
礼堂
- 重要文化財 鎌倉時代
- 礼堂は、隣の鼓楼に安置された仏舎利を礼拝するための堂である。
基本事項
- 名称:唐招提寺
- 本尊:盧舎那仏
- 宗派:律宗
- 拝観時間:8:30~17:00(受付は16:30まで)
- 拝観料 大人・大学生 1000円
- 国宝 鑑真和上坐像 特別公開 1000円
- 所在地:〒630-8032 奈良県奈良市五条町13-46
- 交通:近鉄西ノ京駅徒歩10分/ 奈良交通バス「唐招提寺」「唐招提寺東口」
参考文献
太安麻呂 ― 2023年11月23日 00:23
太安麻呂(おおのやすまろ、? - 723年)は奈良時代前期の官人である。現存最古の歴史書とされる『古事記』の編纂者である。太安万侶とも記す。
概要
712年(和銅5年)に完成した日本最古の歴史書の『古事記』を撰録した者として知られる。 豪族多氏の出身で田原本の多の地に生まれ育った。『続日本紀』によれば,704年(慶雲1年)従五位下、711年(和銅4年)正五位上,715年(霊亀1年)従四位下に叙せられた。716年、太氏(多氏)の氏長となった。没した723年には民部卿であった。『和州五郡神社神名帳大略註解』によると、壬申の乱の功臣である多品治(「太」と「多」は通じる)の子とされる。『古事記』の序に安万侶が勲五等の勲等を得たと書かれる。
雅楽の家系
多氏は雅楽の祖としても知られている。多氏(おおうじ)は,平安朝以降,宮廷神事の歌舞音楽である雅楽をつかさどっている。9世紀中ごろに活躍した多臣自然麻呂(おおのおみじねんまろ)は舞楽・神楽の元祖といわれている。一族に音楽に関係する人物が多く、宮中の雅楽をつかさどってきた。
古事記編纂
711年9月、元明天皇の詔に従い『古事記』の撰録に着手し,翌年1月に献上した。稗田阿礼が暗唱する資料としての帝紀・旧辞を再整理し、筆録した。『古事記』の筆録では漢字の音のみを用いる音仮名と、意味をとる訓字を混用して変体漢文体を用いた。口誦文化としての神話を文字に定着させるための工夫であった。日本書紀の編纂にもあたったとされる。
墓誌
太安萬侶の墓は、奈良県庁から東南へ約7㎞離れた奈良市此瀬町にあり、1979年(昭和54)1月に、丘陵の南斜面にある茶畑の改植作業中に発見された。墓の構造や墓誌の出土状況が明確にされた貴重な例であった。太安万侶墓誌には太安萬侶の名前のほか、位階・勲位、生前の住所、亡くなった日付などが刻まれている。それまでは架空の人物説もあったが、墓誌により太安萬侶が奈良時代に実在したことを証明された。平城京左京四条四坊に住んでいたことが墓誌から分かる。
参考文献
光明皇后 ― 2023年11月18日 23:33
光明皇后(ふじわらのうまかい、701年- 760年)は奈良時代の聖武天皇皇の皇后で孝謙天皇の生母である。出家して光明子となる。諱は安宿媛。
概要
父は藤原不比等、母は県犬養橘三千代である。 両親、特に三千代の影響から仏教に深く帰依した。東大寺大仏造立や国分寺建立は光明子の勧めにより実施されたとされる。716年に同い年の首皇子(のちの聖武天皇)の妃となり、聖武天皇の即位後の727年に基王を生んだ。729年に皇后となる。749年(天平勝宝1年)7月聖武天皇が譲位すると、皇太后となり紫微中台を設置し、甥の藤原仲麻呂を長官に登用し、娘の孝謙天皇に代わって実質的なトップとなった。藤原仲麻呂の専権がピークとなった760年6月に没した。60歳没,大和国添上郡佐保山(諸陵式 佐保山東陵)に葬られた。
政治活動
施薬院を置き諸国の薬草を集めて貧しい病人に施すとともに、貧窮者や孤児を救済するために悲田院を設置した。法華寺の十一面観音がその姿を写したものと伝えられる(「七大寺巡礼記」)。 756年に聖武太上天皇が没したあと遺愛の品々を東大寺に献納したことにより正倉院宝物が始まった。
人物
聖武天皇の在位中、娘の孝謙女帝の時代にも、事実上の権力者は光明皇后であったとする説がある。『国家珍宝帳』の願文には「生前聖武の好んだ品々をみるにつけ、ありし日が思い出されて泣き崩れてしまう」と書かれる。
参考文献
藤原宇合 ― 2023年11月18日 23:06
藤原宇合(ふじわらのうまかい、694年- 737年)は奈良時代前期の政治家である。 初名は馬養。
概要
父は藤原不比等(第三子)、母は蘇我娼子(蘇我連子の娘)である。 717年(養老元年)遣唐使の副使として入唐し、10月に長安に到着した。719年(養老3年)1月に帰国する。任命時に位階は正六位下から二階昇進して従五位下となった。遣唐副使の功により正五位下から正五位上に昇叙する。養老3 (719) 年には正五位上、常陸守に任官される。藤原不比等がなくなると、721年(養老5年)正月、宇合は4階進んで正四位上に叙された。724年(神亀元年)式部卿となり、文官の人事考課、礼式、及び選叙(叙位及び任官)、行賞を司り、役人養成機関である大学寮を統括する式部省の長官になる。同年3月の海道の蝦夷の反乱を4月に天皇から節刀を授けられる持節大将軍として鎮圧した。この功により従三位・勲二等の叙位・叙勲を受ける。729年(神亀6年)の長屋王の変では、長屋王邸を包囲するなど活躍した。731年(天平3 年)に参議となり、この時点で藤原不比等の四兄弟が全員議政官となり藤原四子政権が確立した。734年(天平6年)正月17日、正三位となる。天平9年(737年)8月5日、44歳で疫病のため死去した。
参考文献
三世一身法 ― 2023年11月18日 21:59
三世一身法(さんぜいっしんのほう)は奈良時代前期における墾田に関する法令である。
概要
723年(養老7年)4月に発令された農地開墾奨励法である。
従前の制度と問題点
大化の改新で定められた班田収授法では、戸籍に基づき6歳以上の男女に「口分田」と呼ばれる田が貸し出された。貸与される面積は男子が2段(約2,400㎡)で、女子はその3分の2とされていた。 土地が貸与されるのは一代だけで、土地の売買はできず、死後は国に返さなければならなかった。田地の集中を防ぎ、公民制を維持し、国家の租税収入確保を目的としていた。 しかし、土地が国のものになると、農地を新たに増やす努力をしなくなった。墾田に対する開墾者の権利が定められていなかった。そこで国力を増すために百万町歩の開墾計画を始めたが、うまくいかなかった。
新制度
三世一身法を制定し、自力で新たに開墾した土地は三代の間所有してかまわないとした。 農民の士気を高め、税収を安定させようとしたのであるが、開墾しても土地を所有できるのは限られた期間のみであり、最終的には国に取り上げられてしまうため、農民の開墾の士気は上がらなかった。三世一身法はわずか20年で崩壊した。
推進者
当時の天皇は第44代元正天皇であったが、実際に三世一身法を推進したのは、朝廷で当時の実権を握っていた左大臣の長屋王であった。
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