岩宿遺跡 ― 2024年11月19日 00:45

岩宿遺跡(いわじゅくいせき)は群馬県みどり市にある旧石器時代の遺跡である。先土器文化の研究の発端となった旧石器時代の代表的な遺跡である。
概要
岩宿遺跡は群馬県みどり市笠懸町阿左美地内の琴平山・稲荷山という小さな丘陵が接する部分に位置する。赤城山の東南方で渡良瀬川右岸地域である。 独立丘陵の鞍部を通過する村道の両側に位置し、標高は約160mである。日本文化の起源が旧石器時代にまで溯ることをはじめて立証した遺跡として知られる。岩宿遺跡の重要性は旧石器時代の遺物が平面的に広がることで、石器がブロックと呼ばれるまとまりにより、様々な種類の石器がみつかり、当時の生活の様子や石器の作り方の手がかりがつかめたこと、日本の旧石器の中でも古い石器が出土したことである。 岩宿遺跡には「B地点」岩宿ドームが作られており、そこから徒歩1、2分の場所に岩宿博物館が展示施設として作られている。
発掘調査と発見の経緯と
1946年(昭和21年)、稲荷山、琴平山の鞍部を横切る村道を歩いていた相沢忠洋(当時20歳)は丘陵の切り通しの赤土(関東ローム層)の崖で数個の石片を採取した。相沢は納豆の行商をしながら、民間で考古学を研究しており、縄文文化の起源に大きな関心を持っていた。その約3年後、黒曜石製の完全な形をした槍先形尖頭器(長さ7cm×幅3cm)を発見した。縄文時代の石器とが異なる特徴を持つこと、発見される地層は関東ローム層であることを相沢忠洋は把握した。 当時は15,000年以上前の火山灰で積もった関東ローム層の頃にはヒトが住んでいなかったと考えられていた。火山活動が激しいため人が住める環境ではないと思われていたのである。 1949年(昭和24年)7月、相沢は上京し、芹沢長介にその事実を伝えたところ、その重大さを直感し、杉原荘介(当時は明治大学助教授)に連絡した。同年1949年9月11日に明治大学考古学教室により岩宿遺跡の発掘調査が行われることになった。9月の予備調査に続き、10月に本調査が行われた。市道の北側は「A地点」、南側は「B地点」と命名された。 A地からは関東ローム層の中から石器が出土し、2つの文化層が確認された。日本列島にも旧石器時代が存在することが判明した。下層の黒色帯から発見されたものは、岩宿Ⅰ石器文化と呼ばれ、基部を加工したナイフ形石器と刃部を磨いた局部磨製石斧を含む石器群で、3万5000年前の後期旧石器時代初頭のものである。B地点からは石片が1つ確認されただけであった。A地点から100m北の「C地点」からは縄文文化の撚糸文土器群が発見され、関東ローム層からの出土はなかった。
調査
岩宿遺跡の切り通しの道部分に露出していた赤土(関東ローム層)から者により石器が採取された。さきの発見をもとに相沢と明治大学の杉原荘介と芹沢長介が岩宿遺跡の発掘調査を実施したところ、握斧2点のほか、削器、掻器、石核、握槌状石器、刃器状剥片などを発見した。また表土近く堆積の黒色土層下部に縄文早期の稲荷台式土器片などの遺物を検出した。 石材は主に頁岩が用いられている。同層から多数の自然礫やクリ材の炭化物もみられた。この暗色帯の最上部にAT火山灰がみとめられ、岩宿I文化の年代は2万年前以前に溯ると考えられる。 発掘により二つの石器文化が確認された。上層の岩宿Ⅱ石器文化は切出形ナイフ形石器などを含む後期旧石器時代後半(2万5000年前)の石器群である。 出土石器は明治大学博物館および岩宿博物館に展示される。
出土
- 黒耀石の石槍
- ナイフ形石器
- 切出形ナイフ形石器
展示施設
- 岩宿博物館
- 岩宿ドーム
指定
- 1979年(昭和54年)国史跡に指定(面積187,187.26平方メートル)
- 2017年 岩宿遺跡F地点を史跡に追加指定 合計189,225.97m2
考察
岩宿遺跡の発見は日本に旧石器時代があったことを証明するものであった。岩宿遺跡のA地点は現在見ると普通の崖にしかみえない。ここからよく石器を見つけたものであると思う。旧石器時代の人々は石と火だけですべての調理をしていたのだろうか。猪、鹿、鳥類などの野生動物の肉を生で食べたり、たき火などで蒸し焼き、石焼きで食べていたらしい。当時は寒冷化のため、森は針葉樹林が広がっていたため、狩猟生活が主にならざるを得なかった。生食もあったとすれば、寄生虫やウィルスにも悩まされたのではないか。
アクセス等
- 名称: 岩宿遺跡
- 所在地: 〒379-2311 群馬県みどり市笠懸町阿左美1790-1
- 交通: 毛線岩宿駅より岩宿遺跡・博物館まで徒歩25分
参考文献
- 杉原荘介1956)「群馬県岩宿発見の石器文化」『明治大学文学部研究報告 考古学』1
玳瑁 ― 2024年11月19日 13:30
玳瑁(たいまい,tortoiseshell)はウミガメ科に分類される亀である。玳瑁の甲羅からつくった装身具や装飾品も玳瑁という。
概要
玳瑁の甲羅は透明の黄色地に黒褐色の斑が入った模様が特徴となる。 ほかの亀に比べて模様が美しく、熱をかければ細工ができる。玳瑁の背甲は「鼈甲細工」「べっこう」の材料として古来から珍重されており、装身具・美術工芸品の材料として使われた。中国ではこの玳瑁細工の工芸品が6世紀末頃にはすでに作られており、8世紀の唐時代に盛んに制作されている。ワシントン条約の発効により、日本への輸入は停止されている。国内においても、玳瑁の全形を保持した物や原材料の甲羅を取引する事業者には経済産業省の「特定国際種事業者」届け出が必要となる。日本の法律では、ベッコウ製品の国内取引は、剥製や全形の甲羅など一部を除いて、規制がされていない。、製造業者の手に渡った密輸由来のタイマイの甲羅は、製品へと姿を変えると、合法なものとして市場に流通することになる。
生息地
南方の海域やカリブ海、インド洋の海域に生息するウミガメである。昭和56年1月の長崎県発行のべっ甲製品についての調査書によれば、次の産地がある。
- カリブ海産 - キューバ、パナマ、ケイマン諸島、その他十六カ国
- 太平洋産 - インドネシア、マレーシア、フィリッピンなどその他八カ国
- インド洋産 - ケニヤ、タンザニヤ、などその他十二カ国
日本での使用
日本でのべっ甲の歴史は、飛鳥・奈良時代に始まる。聖徳太子は小野妹子を隋に遣わし玳瑁をもたらしたという伝説がある。 1975年にワシントン条約が発効し、日本への輸入は現在、停止されている。
鼈甲の由来
1841年(天保12年)、十二代将軍徳川家慶の時、老中首座の水野忠邦は天保の改革により贅沢を制限する奢侈禁止令を出した。華美な祭礼や贅沢・奢侈はことごとく禁止された。 そこである藩主が婚礼に際し「是非ともタイマイ製品は必要である」と考え、幕府に対して「玳瑁は唐より渡来した高価品であるが、わが日本内地の亀の甲で作る品は差し支えなきや」と苦肉の上申を行い、「鼈甲(すっぽんのこう)で作る品ならば一向に差し支えなし」と許可を得た。以来玳瑁の名称は鼈甲(べっこう)と改称されたという説がある。別説として、徳川幕府は贅沢禁止令で玳瑁の甲羅の細工物を禁じたため、商人はこれを「鼈(すっぽん)の甲」と称して売った。ここから「たいまい」を「べっこう」とも言うことになったとされる。
正倉院宝物
- 玳瑁螺鈿八角箱 第19号
- 玳瑁竹形如意 第1号
- 沈香把玳瑁鞘金銀荘刀子 第17号
- 螺鈿紫檀五弦琵琶
- 「正倉院珍宝帳」に「亀甲鈿 捍撥。 納 紫綾袋 浅緑﨟纈裏」と書かれる。
- 金銀亀甲盒
- 長方形の箱に玳瑁が貼り付けられる。金銀箔の上に玳瑁のうすい板を亀甲型に成形しはりつける。
参考文献
七道駅路 ― 2024年11月19日 14:20
七道駅路(しちどうえきろ)は古代の官道である。
概要
七道は北陸道・東山道・東海道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の7つである。 それぞれの国府を最短距離で結んだ道路である。七道駅路の幅員は、初期は12m、その後は9mまたは6mと変更された。幅員が広い道路である。見通しの良い2点を結んで直線的に敷設されており、最短距離をとるため少ない勾配はあまり気にしない。 古代律令制で駅使が通行する官道を定めた。
駅家
駅家は、いまで言う「駅」に相当する。中央もしくは国府が発給した駅鈴を携行する駅使のみが駅馬(やくか)を用いることができた。 七道の各幹線道路に沿って駅家を30里(約16キロメートル)ごとに設置することを基本としていた。険しい山岳地帯や馬の食事となる牧草がないところは16キロメートルごととされた。京と地方を往還する急使では、駅ごとに馬を乗り換え、食料の提供を受けていた。
七道駅路制定の目的
迅速な伝令の必要性から作られた道路網である。中央政府の命令・地方国司の報告・緊急事態の文書連絡など、駅使は七道を用いて駅馬を乗り継ぎ文書を運んでいた。軍団の移動が千人から数万人の規模で行われるなど大量移動の必要性があった。
幅員縮小
797年の胆沢城設置により、大規模な征夷はほぼ集結した。維持管理のやりやすさから、適切な幅員に再編成された。
参考文献
- 木下良他(2018)「古代の道と考古学 (季刊考古学」雄山閣
- 武部 健一,他(2004)『完全踏査 古代の道』 吉川弘文館
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