宝塔山古墳 ― 2025年01月01日 10:45
宝塔山古墳(ほうとうやまこふん)は群馬県前橋市にある7 世紀中葉の方墳である。 日本百名墳に選出されている。
概要
榛名山から東南方向に伸びる丘陵裾野の末端、東南方向に傾斜する台地上に位置する総社古墳群の一つである。墳丘は三段築成で、斜面には葺石が葺かれていたと考えられている。愛宕山古墳までの自然石を積み上げる石室の築造法から、宝塔山古墳では加工された切石を巧みに積み上げる「截石切組積」手法が採用された。その上に漆喰を厚く塗って石室全体を白く平らに仕上げる。宝塔山古墳は周濠を含めると一辺102mに及ぶ。7世紀中葉に築造された終末期古墳である。畿内の有力者層の古墳に用いる技術が使われていることから大和政権との関係がうかがえる。
総社古墳群の意義
前橋市西部の総社町総社を中心に5世紀後半から7世紀後半にかけて6基の大型の古墳から構成される古墳群である。現在の利根川の西岸に南北約4km に分布する古墳群である。 地域の首長の墳墓が、約200年という長期間にわたって古墳をつくり続けた意義は大きいとされる(前橋市教育委員会(2023))。総社古墳群は上毛野地域の中で突出した存在となっている。それまでの前方後円墳から大型方墳に形状を変えながら造営を継続した。これは畿内と連動した変化であり、ヤマト王権とのかかわりや、政治形態の変化があったとみてよいとされる。
総社古墳群の編年
- (5 世紀後半、480年頃)遠見山古墳 (前方後円墳)
- →(6 世紀初頭、510年頃)王山古墳 (前方後円墳)
- →(6 世紀後半、570年頃)総社二子山古墳 (前方後円墳)
- →(7 世紀前半、620年頃)総社愛宕山古墳 (方墳)
- →(7 世紀中葉、660年頃)宝塔山古墳 (方墳)
- →(7 世紀後半、690年頃)蛇穴山古墳 (方墳)
調査
宝塔山古墳の埋葬施設は中腹部に南面する両袖式の横穴式石室で、南西方向に開口し、複室構造である。玄室の中央に蓋と身の二部構成で、輝石安山岩製の刳抜式家形石棺が置かれる。 石棺の蓋部は長辺230㎝、短辺132.6㎝で、長辺に各2個、短辺に各1個の縄掛突起を造り出す。石室の全長は12.04mである。他の古墳と比較して極めて大規模な前庭が敷設されている。石天井石は落下していた。遺物は盗掘されているため残らない。1920年(大正9年)に福島武雄により、1958年(昭和31年)には群馬大学史学研究室により石室の測量調査が行われている。1979年(昭和54年)には、下水道工事に伴って本古墳南東の墳丘裾部が確認された。平成元年には墳丘及び石室の現況測量調査が行われ、墳丘長は56m以上、高さ約12mの3段築成の大型方墳であることが確認された(白石,1990)。令和4年度には、早稲田大学東アジア都城・シルクロード考古学研究所との共同調査として、本古墳石室の3次元計測調査を実施した。
格狭間
下底部に精巧な「格狭間」という台の脚のようなくりぬきがある。棺の脚部に彫り込まれた格狭間は、大阪府南河内郡太子町叡福寺古墳(現聖徳太子墓 7世紀前半から中ごろ)、 御嶺山古墳(7世紀後半)、奈良県高市郡明日香村野口王墓古墳(現天武・持統合葬陵 7世紀後半)の漆塗棺をおいた棺台に格狭間がみられるが、類例は少ない。
前面に開けられた八角系の穴の蓋石があり、当初からの造作と判断された。 「格狭間」は古墳群近くに存在する山王廃寺とのかかわりが指摘されている。
規模
- 形状 方墳
- サイズ 南北54m×東西49m、高さ12m
遺構
- 石室全長12.04m、羨道長3.56m、前室長3.9m、玄室長3.32m
- 室・槨 両袖型横穴式石室。複室構造
- 棺 家形石棺
- 羨道長 3.56m、幅1.8m
- 玄室長 3.32m、幅2.9m、高さ2m
遺物
- 土師器
- 須恵器、
- 瓦、
- 陶磁器類
築造時期
- 7世紀中葉
被葬者
- 牛池川・染谷川の流域一帯を支配した豪族
展示
- 前橋市総社歴史資料館
指定
- 1944年(昭和19年) 国指定史跡 宝塔山古墳
- 2023年2月21日 総社古墳群(遠見山古墳・二子山古墳・愛宕山古墳・宝塔山古墳・蛇穴山古墳)
アクセス等
- 名称:宝塔山古墳
- 所在地:〒371-0852 群馬県前橋市総社町総社1606
- 交通:群馬総社駅 徒歩 15分
参考文献
- 前橋市埋蔵文化財発掘調査団(2010) 「蛇穴山古墳・宝塔山古墳 総社町屋敷南遺跡』前橋市埋蔵文化財発掘調査団
- 前橋市教育委員会(1968)「宝塔山古墳石室調査概報」
- 前橋市教育委員会事務局文化財保護課(2022)「東国の雄総社古墳群」
- 前橋市教育委員会(2023)「総社古墳群総括報告書」
- 白石太一郎編(1990)『関東地方における終末期古墳の研究』国立歴史民俗博物館考古研究部
- 白石太一郎(1992)「関東の後期大型前方後円墳」『国立歴史民俗博物館研究報告』44,国立歴史民俗博物館
前二子古墳 ― 2025年01月02日 00:37
前二子古墳(まえふたごこふん)は群馬県前橋市にある6世紀の前方後円墳である。 日本百名墳に選出される。
概要
前二子古墳は大室古墳群のひとつである。大室古墳群は国道50号線東大室十字路から北へ2km、県道前橋・今井線と県道伊勢崎・深津線の交差点から北東1kmに位置する。標高は、122~137mである。5世紀後半から6世紀代に入って、この地域に強大な支配者が存在したと思われ、今井神社古墳、伊勢山古墳、前二子古墳、中二子古墳、後二子古墳、荒砥村120号墳、小二子古墳の前方後円墳が築造された。前二子古墳は地域の中で、初期的な構造の横穴式石室を持つことが最大の特徴とされる。 副葬品の多くは朝鮮半島とのつながりが想定されている。鉤状金具(百済・武寧王陵)、装飾器台(須恵器小像付筒形器台)は朝鮮半島の南部のものと共通した小像(亀、鳥、蛇、蛙など)で、新羅からも出土する。石見型埴輪(光州月桂洞古墳群)は百済系であるが、奈良県からも出土する。
調査
1878年(明治11年)に石室が調査され、3月24日前二子古墳の石室を開口し、3月25日~4月1日綿密な発掘調査が行われる。石室から土器、装身具、鏡、金メッキされた馬の飾り金具などの副葬品が出土した。明治13年に英国外交官アーネスト・サトウが調査に訪れた前橋市教育委員会(2021)。 横穴式両袖型石室で羨門・羨道・扉石・玄門・梱石・楯石・玄室・床面(敷石)・天井で 構成され、内面には全面的に赤色顔料を塗彩する。全長は西壁で最大13.89m、高さは 玄室で1.8mを超える。石材は粗粒安山岩と凝灰岩の2種類を使う。床面の敷石はすべて凝灰岩製であった。形象埴輪として、蓋・盾・靱・人物・馬・家・大刀・盾持人・鉾?の9種類があった。ラス製青色丸玉130・ガラス製緑色小玉17・ガラス製黄色小玉28・水晶製丸玉14・碧玉製管玉2・滑石製管玉1・滑石製臼玉1・銀製空玉3・金製耳環1が今回出土した装身具総数であった。
現状の力学的安定性
現状での静的力学条件下では直ちに崩壊する可能性は低いと判断されている。しかしながら、潜在的に不安定な状況に至っている部分があることから、地震や人為等による外力が加わった場合、石材の脱落に伴って一部が崩壊する可能性が指摘されている(前橋市教育委員会(2005))。 墳丘にはアカマツを主体とする高木が密生し、墳丘形状が展望できない状況である。さらに、樹木の倒壊に伴う墳丘の破損や、石室への根茎の侵入など、保存上の悪影響が指摘されている(同前)。
規模
- 形状 前方後円墳
- 築成 前方部:2段、後円部:2段
- 墳長 93m
- 後円部径 径72m 高13m
- 前方部 幅62m 長33m 高12m
- 室・槨 横穴式石室 13.8メートル
遺物
- 円筒埴輪 円筒Ⅴ式
- 葺石 あり 上段墳丘下半分
- 鏡1
- 耳環1
- 青色小玉300
- 鉄鉾2
- 鉄鏃多数あり
- f字形鏡板2
- 剣菱形杏葉4
- 輪鐙1
- 鉸具
- 留金具
- 素環状鏡板付轡1
- 土師器 高杯4
- 台付壺1
- 杯2
- 須恵器 装飾器台1
- 高杯形器台2
- 提瓶2
- 直口壺1
- 高杯3
- はそう(TK47~MT15)
築造時期
- 6世紀前半~後半
被葬者
- 東国の大豪族
展示
- 大室はにわ館
指定
- 1927年(昭和2年)4月8日 国史跡指定
アクセス等
- 名称:前二子古墳
- 所在地:〒379-2104 群馬県前橋市西大室町2545番地
- 石室見学時間 9:00~16:00
- 交通:前橋駅 バス 50分
参考文献
- 前橋市教育委員会(1993)「前二子古墳」前橋市教育委員会
- 前原豊(2009)『東国大豪族の威勢・大室古墳群』新泉社
- 前橋市教育委員会(2021)「前橋市大室古墳群-前二子古墳・中二子古墳・後二子古墳・小二子古墳-」
- 前橋市教育委員会(2005)「史跡前二子古墳・中二子古墳・後二子古墳ならびに小古墳 保存整備事業報告書」前橋市教育委員会
横穴式石室 ― 2025年01月03日 00:30
横穴式石室(よこあなしきせきしつ)は、古墳の墳丘に横穴をあけ、羨道と玄室を石を積んで築造した墓である。
概要
横穴式石室は朝鮮半島北部で発達し、古墳時代の後半に日本列島でも行われた。完成後も石室の開閉が可能であるため、追葬、合葬ができる埋葬施設である。古墳時代の前期・中期は竪穴式石室が主流であったが、古墳時代後期からは横穴式石室が主流となった。
事例
鋤崎古墳(福岡県福岡市)は北部九州型の横穴式石室の祖型で、 4世紀末から5世紀初頭の前方後円墳であり、日本最古の横穴式石室とされる。 宮山塚古墳の横穴式石室は近畿で最古級のもので5世紀後半~末頃に築造された。新沢千塚221号墳(新沢千塚古墳群)は5世紀後半頃で近畿地方における初期の横穴式石室の例である。
構造
遺体を安置する玄室と玄室への通路となる羨道がある。玄室の入口部では玄室の幅が狭くなり、羨道との接続部を袖石という。
九州型と畿内型
横穴式石室は「九州型」と「畿内型」に大別される。「九州型」は初期横穴式石室と呼ばれ、4世紀末頃から福岡・佐賀県沿岸部を中心に前方後円墳の埋葬施設として築造され、その後5世紀に九州各地へ拡がる。玄室の閉塞には板石を用いる。当初のものは前庭部、羨道、玄室の境界に段差があり、徐々に降下する。 普及する過程で「肥後型(熊本県)」や「地下式横穴(宮崎県)」などに変化し、地域色がみられる。「畿内型」は5世紀終わり頃に出現するが、6世紀はじめに前方後円墳に採用された。畿内型の特徴は(1)玄室平面は矩形であり、平天状である、(2)立柱石を立てるが壁体に組み込まれて、せり出すことはない、(3)鴨居石を置かず、両袖式または片袖式に羨道を接続させる、(4)閉塞石に板石を使わない、(5)極端に狭い羨道はない、(6)石材は大型化の傾向がある。(7)玄室の隅角は丈夫まで保たれる。
袖
両袖型は玄室との境界の両側に袖があるものをいう。片袖型は片側だけに袖があるものをいう。玄室と羨道との間に袖がないものを無袖型という。
百濟
百済の最初の王都の漢城(現ソウル市)周辺に位置する、ソウル市可楽洞・芳イ洞古墳群でみつかった横穴式石室は、百済の初期横穴式石室とされる。
参考文献
前橋市総社歴史資料館 ― 2025年01月03日 00:38
前橋市総社歴史資料館(まえばししそうじゃれきしみんぞくしりょうかん)は群馬県前橋市にある歴史系資料館である。
概要
2016年(平成28年)10月に開館した。常設展示は、総社地区の文化財、総社古墳群、山王廃寺、秋元氏及び天狗岩用水などがある。古代史の展示では模型や複製品が多く、一次資料はあまりない。前身の資料館が酒蔵を利用した建物のため、蔵倉をイメージした木造建築としてリニューアルした。
常設展示
- 総社古墳群
- 総社二子山古墳出土 頭椎の大刀復元品
- 宝塔山古墳石室ジオラマ
- 蛇穴山古墳墳丘模型・石室模型
- 山王廃寺
- 石製鴟尾・根巻石(複製品)
- 緑釉陶器一括資料(複製品)
- 緑釉陶器の水注椀、
- 皿、
- 銅椀
- 山王廃寺出土塑像群
企画展
- 第9回ミニ企画展「総社古墳群発掘調査速報」
- 展示期間 令和3年4月30日~令和3年8月29日
- 第8回ミニ企画展『遠見山古墳の調査』
- 遠見山古墳出土埴輪・土器
- 舞台1号墳出土高坏・石製模造品(想像復元品)
- 第7回ミニ企画展「火の用心!」
- 期間:平成31年4月27日(土)~令和元年7月19日(金)
指定
アクセス等
- 名称:前橋市総社歴史資料館
- 所在地: 〒371-0852 群馬県前橋市総社町総社1584番地1
- 休館日: 毎週月曜日(祝祭日の場合は、祝祭日後の休日ではない日)、年末年始
- 開館時間:午前9時~午後4時(最終入館は午後3時30分)
- 入館料: 入館無料
- 交通:JR群馬総社駅より徒歩17分。
参考文献
草加市歴史民俗資料館 ― 2025年01月04日 00:15
草加市歴史民俗資料館(そうかしれきしみんぞくしりょうかん)は埼玉県草加市都北区にある歴史系資料館である。
概要
1983年(昭和58年)11月1日、草加市の文化財を保護するための施設として開館した。建物は大正15年(1926)に草加小学校西校舎として建てられた埼玉県初の鉄筋コンクリート造りの校舎であったが、1979年に校舎は利用を終えた。
常設展示
- 第一展示室
- 原始から近代までの草加の歴史に関する資料等を展示
- 丸木舟(縄文前期)
- 鉢(土師器)大型
- S字状口縁台付甕(土師器)縁のみ
- 台付甕(土師器)
- 高坏(土師器)
- 坏(土師器)
- 第二展示室
- 草加の民俗文化、産業の歴史に関する資料を展示
- 鋤
- 鍬、
- 唐箕
- 地場産業の草加せんべいの製造工程を伝える道具
企画展
指定
- 2008年(平成20年) 国の登録有形文化財(建造物)
アクセス等
- 名称:草加市歴史民俗資料館
- 所在地:〒340-0014 埼玉県草加市住吉1-11-29
- 休館日: 月曜日(祝日の場合は翌平日)、年末年始(12月29日から1月3日)
- 開館時間:9:00~16:30
- 入館料: 無料(特別展を除く)
- 交通:東武スカイツリーライン草加駅 徒歩 8分 0.6km
参考文献
ホケノ山古墳 ― 2025年01月05日 00:37
ホケノ山古墳(ほのけやまこふん)は奈良県桜井市にある全長90メートル、後円部径60メートル、高さ8.5メートルの纒向型前方後円墳である。纒向古墳群に属し、箸墓古墳の東に位置する。
概要
3世紀中頃に造られた最古級の纒向型前方後円墳である。前方後円墳が定型化する直前の古墳とされる。 後円部側に周濠状遺構が巡る。埋葬施設は長さ5mの刳抜式木棺である。後円部の主体部西側に6世紀末頃の横穴式石室がある。前方部東斜面に木棺直葬の埋葬施設。後円部は3段築成。古墳時代前期の大規模集落の纒向遺跡から南東端に位置する。被葬者は不明である。 全面に葺石で覆われ、3 段築成、周壕があり、サークル状杭列が前方部にある。中心主体部は、後円部中央に南北主軸で設けられた「石囲い木槨」である。「石囲い木槨」はわが国で初めて確認された構造の埋葬施設で、木材で構成した木槨部分と、その周囲に石を積み上げて構築した石囲部分の二重溝造となっている。 木槨内部には、長さ約5m、幅1m内外のコウヤマキ製の長大な刳抜式木棺をおさめる。バラスとやや大ぶりの河原石を混用した棺床施設を有する。木棺の表面は一部が焼けている。木槨は弥生時代の大型墳墓では類例が知られているが、前方後円墳で確認されたのは初めてであった。使用された石材はハンレイ岩、黒ウンモ花崗岩を主体としており、すべて近くの纒向川から採取できるものとされた。
調査
これまで4回の調査が行われた。
- 第1次調査- 1995年11月6日から1996年2月6日
- 第2次調査- 1996年11月26日から1997年3月28日
- 第3次調査- 1998年1月20日から1998年1月28日
- 第4次調査- 1999年9月10日から2000年9月20日
第1次調査
墳丘の東から西にかけて9本のトレンチを設けた。推定墳長80m、後円部径60m、後円部高8.5m、前方部長20m以上、前方部高3.5mとされた。後円部の短い前方後円墳である。 土器群は外堤側に集中しており、古墳築造後に投棄されたものと推定される。布留0式初期段階とみられる。
第2次調査
調査のため4個所のトレンチを設けた。墳丘と周濠の規模を確認する調査であった。葺石直下の大型壺は複合口縁壺と判明した。墳長は78m以上、後円部径58m、前方部長20m以上と判明した。
第3次調査
ホケノ山古墳の後円部の断面調査を行った。前方部の相当部分が地山を利用して作られていることが判明した
第4次調査
1999年(平成11年)9月より橿原考古学研究所と桜井市教育委員会により第4次調査を実施した。纒向遺跡にある纒向型前方後円墳の中では唯一の葺石を有する古墳である。埴輪はなく、おびただしい数の河原石と柱跡の痕跡が検出された。木槨材に大量の水銀朱が塗布されたと考えられており、棺床の河原石や木槨側板や柱の掘り方の充填土に痕跡がある。
規模
- 墳丘形状 前方後円墳 纒向型前方後円墳 帆立貝式前方後円墳
- 築成 前方部:段築の可能性あり
- 墳長 80m
- 後円部径 径55m 高8.5m
- 前方部 長25m 高3.5m
遺構
- 木槨墓 石囲い木槨
- 木棺
遺物
- 画文帯同向式神獣鏡 1面
- 内行花文鏡(破片)
- 素環頭大刀 1
- 鉄刀1点
- 鉄製刀剣 10口
- 鉄製農工具
- 鏟形鉄製品
- 二重口縁壷
- 銅鏃
- 鉄鏃
- への字形鉄製品
- 壺形土器
鉄器
近畿から鉄器が出土しないという主張が一部でされているが、ホケノ山古墳からは多量の鉄製品が出土している。
鉄鏃
鉄鏃の出土数は75点以上(未発掘場所を考慮すると80点以上を想定)、柳刃式と腸抉柳刃式の2種類がある。なお銅鏃は80点以上が出土している。いずれも矢の先端に用いられた。
刀剣類
素環頭太刀が1点出土した。残存長55cmである。ほか鉄刀1点、鉄剣6点以上を確認した。
鏟形鉄製品
全長15cm、刃部は緩い弧を描く。朝鮮半島の鉄鏟に形状が似る。朝鮮半島(国立金海博物館)のサルポと同じである。サルポは、水田に水を引き入れる水路を作ったり、草取りをする際に使用していた農具である。朝鮮半島でも、支配層の墳墓に副葬品として埋葬されている。これは当時の稲作が被葬者の支配下にあったという象徴的な意味が含まれているという。
への字形鉄製品
用途不明であるが、18点以上が確認されている。類例は椿井大塚山古墳(京都府)、国守古墳(山口県)に見られる。
積石木槨
白石太一郎(2000)は、ホケノ山古墳で見つかった「石囲い木槨」はそれまでに例がないと指摘する。土壙内に長さ7m、幅2.7mの石室状施設を組み立てその中にコウヤマキをくり抜いた木棺を置いた。さらに「石囲い木槨」の上に二重口縁壺を20個以上置いていた。箸墓古墳に代表される定型化した大型前方後円墳の出現以前の築造と見られる。しかし、銅鏃の形式は前期古墳のものに近いことから、時期差はそれほど大きくないと指摘した。ホケノ山古墳の年代はⅢ世紀の第2四半期から中葉の間と判断した(白石太一郎(2000))。この木槨に影響を与えたのは、弁韓地域の木槨墓以外には候補はないと判断した(白石太一郎(2000)、p.118)。実際に伽耶の竪穴式石槨と類似した壁体構造であり、類例は金海良洞里98号墳や昌寧校洞3号墳、大邱城下里1号墳、霊岩沃野里1号墳などの朝鮮半島南部地域で見られる(鄭仁?・呉東?・尹享準(2021))。床面の横木、床面の敷石は壁体と同じ大きさの石材が、木槨周辺で確認されているが、この点は韓国・城下里1号墳と類似する。また、木蓋の使用は韓国・良洞里93号墳と共通している。なお、ホケノ山古墳は、弥生時代の木槨と古墳時代の竪穴式石室の間をつなぐ古墳的な棺槨をもつ初期的で過渡期的な様相として捉える見解がある(岡林孝作(2016))。
横穴式石室
6世紀末頃にホケノ山古墳の墳丘を利用して構築された。玄室は盗掘を受けており、天井石はすべて持ち出されていた。
年代の検討
画文帯同向式神獣鏡
棺内から出土した画文帯同向式神獣鏡は年代を示す有力な手がかりとなる。不老長生の神仙世界を描く銅鏡は後漢末の3世紀初頭頃に製作された可能性が高い。240年にわが国にもたらされたと推定されている三角縁神獣鏡は出土していない。年代の下限と上限によって、ホケノ山の築造時期を絞り込むことができる。画文帯神獣鏡は、北部九州に替わり近畿地方に分布の重心を移した中国鏡である。画文帯同向式神獣の分布は九州22、四国11、近畿77、中部14、関東12と近畿が最多である。紀年銘のある画文帯同向式神獣鏡は167年(後漢永康元年)から274年(西晋太始十年)までである。文様が類似した鏡は2つあるとされる。1つはBullコレクション(アメリカ、中国出土)の古代鏡であり、もうひとつは中国江蘇省盰眙県順河公社朱楼大隊出土鏡とされる(奈良県立橿原考古学研究所(2001))。大塚によれば、貞柏里三号墳(平壌)からも同型式の鏡が出土しているとする(大塚初重(2021),p.156)。絵柄が右回りであることから、大塚初重(2021)は後漢の末期に作られた舶載鏡であると見る。これらから画文帯同向式神獣鏡は中国で製作されたとみて良い。 3世紀前半以降は中国鏡の輸入は九州から畿内中心に移ったとみられる。
土器
周壕内から見つかった土器片は布留0式であるため、奈良県立橿原考古学研究所はホケノ山古墳は3世紀前半の築造と見ている。土器は壺形土器であるが、棺内副葬品ではなく、これらは墳丘から周濠へ落ち込んで出土したものである。布留0式の年代は西暦270年から290年の間とされる。
墳形
茸石を備えた前方後円墳としては箸墓古墳より古い。現時点で最古の前方後円墳に位置づけられているホケノ山古墳は、弥生時代の墳墓と、古墳時代前期の前方後円墳との中間的な様相をもっているため纒向型前方後円墳とされる。 「邪馬台国の会」は石囲い木槨(割竹形木槨)を持つことは『魏志倭人伝』の「棺あって槨なし」の記述と矛盾することから、築造は4世紀であると主張する。しかし木槨は弥生時代の大型墳墓に類例がある(楯築墳丘墓、西谷三号墓)ので、その主張は成り立たない。
放射性炭素年代測定
木棺の樹種はコウヤマキであった。木棺表面の炭化木材を採取し、C14炭素年代測定の加速器質量分析法(AMS)を実施した(アメリカで測定)。測定に用いた 試料が芯材が外皮の近い部分かで数百年の差が生じる。しかし炭化部分は木材の表面が焼けていた。炭化部分は棺の側面のため加工は少ないと判断された。測定は5サンプル行ったが、そのうちNo1とNo5が最も表皮に近い部分として採用した。なお全体(No1からNo5)の測定値のばらつきは最大50年であり、比較的安定している。No1はAD30年から245年、No5はAD55年から235年であった(確率95%)。つまり木棺の伐採年は幅の狭い方を取ればAD55年からAD235年となる。土器の年代より測定結果は少し古くなるが、土器は築造後に設置された可能性が高いので、木棺の年代測定の方がより信頼性が高いと思われる。
考察
ホケノ山古墳に見られる墓制が弁韓地域からもたらされたものであるなら、弁韓地域から支配層の集団的流入が考えられる。3世紀初頭に突然に纏向遺跡が作られた事を考えるなら、集団移住説は現実味を帯びる。しかし、前方後円墳は弁韓地域にはないので、謎は残る。纏向遺跡に来たのは、岡山の支配層集団と弁韓地域の技術者の混成部隊だったのではなかろうか。
アクセス等
- 名称:ホケノ山古墳
- 形式:前方後円墳 (纒向型前方後円墳)
- 所在地: 奈良県桜井市箸中636
- 交通: JR巻向駅から徒歩15分
参考文献
- 大塚初重(2021)『邪馬台国をとらえなおす』吉川弘文館
- 奈良県立橿原考古学研究所(2001)『ホケノ山古墳調査概報』奈良県立橿原考古学研究所
- 白石太一郎(2000)『古墳の語る古代史』岩波書店
- 岡林孝作(2016)「古墳時代木棺の棺内空間利用と機能」日本考古学協会編 (42),pp.1-20
- 鄭仁邰・呉東墠・尹享準(2021)「古代日韓における古墳築造技法の比較検討」奈良文化財研究所学報 第100冊,pp.45-113
甕棺墓 ― 2025年01月06日 00:20

甕棺墓(かめかんぼ)は弥生時代の前期に登場し、土器に亡くなった人の手足を折り曲げて甕棺に入れ、土の中に埋める埋葬方法である。
概要
墓制には木棺墓、石棺墓、甕棺墓、土坑墓などがある。九州の弥生時代では初期に木棺墓、石棺墓が行われ、縄文時代の原型はあるものの、弥生時代前期中頃に成人用甕棺が成立した。 甕棺墓は弥生時代の北部九州を中心とする地域に多く分布する。大型の土器に死者を埋葬する甕棺墓は北部九州に特徴的な墓制とされる。大型の素焼きの土器を使用して、多数集合した共同墓地を形成している。成人用甕棺からはしばしば青銅器などの副葬品が出土する。弥生時代衣服の一部の絹織物片、毛髪、管玉、勾玉、鉄製品などが副葬されることがある。副葬品の違いから階級社会が推定されている。200年間、盛んに使われていた。埋葬用には専用の大型土器(甕)を製作する。吉野ヶ里遺跡では約2500基の甕棺墓が発掘されている。
目的
甕棺に埋葬すると骨がよく残るため、死後の再生を願うことから、甕棺墓が普及した。甕棺では遺体を屈曲させる屈葬となる。
支石墓との違い
支石墓は弥生時代「前期」の墓で、甕棺墓は弥生時代前期から後期の埋葬方法である。 支石墓は箱式石棺や土壙などの埋葬施設を設け、その上に大きな石を置く埋葬方法である。大石を支えるために石(支石)を置くことから支石墓と呼ばれる。 支石墓は巨大な蓋石を数個の塊状の石(支石)で支え、その下に埋葬部を作るものである。朝鮮半島からの影響が明らかにあらわれる。
埋葬法
単棺と合口棺とがある。前者は1つの甕に石蓋、土器や木蓋などで蓋をする、後者は2つの甕を開口部で合わせたものである。
出土例
- 甕棺墓群「甕棺ロード」- 吉武高木遺跡 福岡市西区大字吉武
- 安国寺甕棺墓群 - 福岡県久留米市山川神代
- 甕棺墓 - 須玖岡本遺跡 弥生時代中期前半(紀元前150年頃)
参考文献
- 藤尾慎一郎(1988)『九州の甕棺: 弥生時代甕棺墓の分布とその変遷』国立歴史民俗博物館研究報告第21集
- 吉井秀夫(1991)「朝鮮半島錦江下流域の三国時代墓制」史林 74巻1号,pp.63-101
- 鏡山猛(1939)「我が古代社会に於ける甕棺葬」史淵 21,pp.83-123
最近のコメント