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新潟県立歴史博物館2025年06月01日 00:05

新潟県立歴史博物館(にいがたけんりつれきしはくぶつかん)は新潟県にある歴史系の博物館である。

概要

平成12年8月1日に開館した。新潟県の歴史・民俗を総合的に紹介する歴史民俗博物館である。縄文文化を広く研究・紹介する 縄文博物館でもある。 総面積10,000平方メートルの規模を誇る。ジオラマがリアルである。展示される土器の数がかなり多い。

展示(古代関係)

新潟県のあゆみ

  • 新潟県の旧石器時代・縄文時代・弥生時代・古墳時代
  • 古代の新潟 - 奈良・平安時代
    • 新保遺跡
    • 柿崎古墓

縄文人の世界

  • 竪穴住居

縄文文化を探る

  • 人とものの交流
  • 縄文工芸
  • 縄文人の住宅事情

所在地等

  • 名称: 新潟県立歴史博物館
  • 所在地:新潟県長岡市関原町1丁目字権現堂2247番2
  • 交通: JR長岡駅大手口7番線(長岡駅前=希望が丘=長峰団地=技大=ニュータウン・歴史博物館線)発から越後交通バスで約40分、博物館前下車。 運賃500円。
  • 開館時間 - 午前9時30分~午後5時 (観覧券の販売は午後4時30分まで)
  • 休館日 - 毎週月曜日(月曜日が休日の場合は、その日以後の休日でない最初の日)
  • 入館料  - 通常展 大人:520円

参考文献

坪井清足2025年06月01日 23:30

坪井清足(つぼい きよたり、1921年11月26日 - 2016年5月7日)は日本の考古学者である。

概要

1921年(大正10)年11月26日、大阪府大阪市に生まれる。父は在野の考古学者として梵鐘研究を開拓した坪井良平である。1934年4月、大阪大倉商業学校に入学。1941年、京都帝国大学文学部に入学した。1943年に学徒動員により兵役に従事し、台湾に送られた。台湾では台北帝国大学医学部の人類学者である金関丈夫と交流を持った。1946年3月に復員により復学し、1948年に卒業する。1949年に京都大学大学院に進学する。1950年から平安中学校・平安高等学校教諭などを経て、1955年に京都国立博物館に採用された。同年、奈良国立文化財研究所(現奈良文化財研究所)に転出し、平城宮跡(奈良市)などの発掘や最古の仏教寺院、飛鳥寺の発掘調査を担当し、一塔三金堂の伽藍配置などの画期的な成果を挙げる。1977年から奈良国立文化財研究所長となり、1986年に奈良国立文化財研究所を退官する。1986年に財団法人大阪文化財センター理事長に就任する。2000年(平成12年)に財団法人元興寺文化財研究所所長就任を経て、2013年以降は公益財団法人元興寺文化財研究所顧問を務めた。2016年5月7日、急性心不全により死去。94歳没

評価

考古学、遺跡調査に関して測量・探査・保存科学・年輪年代・木簡学・史跡整備などの新たな調査研究分野を開拓したとされる。アルファペットと数字の組み合わせにより調査地点を表示する方法を考案する等、大規模遺跡の調査方法と記録方法を確立した。写真測量や遺物の保存処理などでは新技術を導入した。平城宮跡の調査では、3m四方の小地区を基本に、坪井は事前の発掘調査を義務付け、発掘調査費用は開発者側が負担する「原因者負担」の原則を確立する上で中心的な役割を果たし、埋蔵文化財行政の枠組みを構築するために尽力した。教育委員会には考古学がわかる人材が必要と力説する。発掘を請け負う民間業者にも考古学の知識が必要と力説する。

人柄

ヨーロッパの博物館を訪ね現地の展示方法に刺激を受けて、国内でビジュアルで印象に残る歴史展示の指導をした。後進の間では厳しさで知られたが、話す内容が的確であったため、逆に「怒られてよかった」という人もいた。率直に物を言う毒舌家としても知られ、名前の「きよたり」をもじって「あくたれ」のニックネームも付いた。

公職

  • 文化財保護審議会第三専門調査会長、
  • 学術審議会専門委員、
  • 宮内庁陵墓管理委員、
  • 日本ユネスコ国内委員会委員
  • 文化庁文化財鑑査官、
    • 奈良国立文化財研究所所長

受賞

  • 1983年度 - 第35回NHK放送文化賞
  • 1991年- 勲三等旭日中綬章、
  • 1999年 - 文化功労者
  • 従四位
  • 1983年 - 日本放送協会放送文化賞、
  • 1990年 -大阪文化賞、
  • 1991年 -朝日賞を受賞
  • 1991年 - 勲三等旭日中綬章
  • 1999年 - 文化功労者

著書

  • 坪井清足(1964)『飛鳥寺』中央公論美術出版。
  • 坪井清足(1973)『陶磁大系2 弥生』平凡社
  • 坪井清足(1985)『古代日本を発掘する 2 飛鳥の寺と国分寺』岩波書店
  • 坪井清足(1986)『古代追跡―ある考古学徒の回想』草風館
  • 坪井清足(1986)『埋蔵文化財と考古学』平凡社
  • 坪井清足(1987)『宮都発掘』吉川弘文館
  • 坪井清足(2000)『東と西の考古学』草風館
  • 坪井清足・金関恕・佐原真 (2000)『考古学今昔物語』文化財サービス  

参考文献

稲荷前古墳群2025年06月02日 00:05

稲荷前古墳群(いなりまえこふんぐん)は神奈川県横浜市港北区に位置する10基の古墳群である。

概要

青葉区大場町の横浜上麻生道路に面した丘陵上にある横浜市で最大の古墳群であった。当時は「古墳の博物館」とも言われた。保存運動もあったが当時の飛鳥田一雄市長は全国革新市長会の会長を務める革新系の市長であったが、プロ野球球団の誘致や港北ニュータウン計画を優先させ、史跡保存には消極的であった。1969年(昭和44年)、緑と文化を守る会は5月に横浜市の稲荷前古墳群の部分保有に抗議した。それらのことから1969年、宅地造成のため1号墳は消滅し、1967年、宅地造成のため6号墳(中心部に盗掘孔あり)は消滅した。4世紀後半から7世紀にかけて造られた古墳群である。現在は前方後方墳16号墳、方墳15号墳と17号墳の3古墳が現存し、保存公開する。16号墳はは発掘された壺形土器から4世紀のものとされ、関東地方としては最も古く珍しいものである。1号墳と6号墳(現存しない)と、前方後方墳16号墳は歴代首長の墓とされる。B横穴墓からは人骨、耳輪、鉄鏃、ガラス玉、刀子などが出土した。

調査

1967年(昭和42)年、1969年(昭和44年)の2次の発掘調査が行われ、1981年は甘粕健・山口隆夫が周濠を調査する。前方後円墳2基・前方後方墳1基・円墳4基・方墳3基の計10基の古墳と3群9基以上の横穴墓が発見され、管玉・ガラス小玉、鉄刀・鉄鏃、耳環などの副葬品が発見された。また墳丘下から弥生時代の住居跡と方形周溝墳2基が出土した。

規模

稲荷前1号墳

  • 標高 60m
  • 形状 前方後円墳
  • 墳長46m
  • 後円部径 径25m 高3.8m
  • 前方部 幅18m 長21m 高2.5m
  • 外表施設 葺石 なし
  • 主体部
  • 室・槨 粘土槨
  • 出土品
    • 管玉5
    • ガラス小玉4

稲荷前6号墳

  • 形状 前方後円墳
  • 墳長 32m
  • 後円部径 径15m 高7.5m
  • 前方部 長17m 高2.7m
  • 外表施設 葺石なし

稲荷前16号墳

  • 形状 前方後方墳
  • 墳長 37.5m
  • 後円部 径1辺15.5m 
  • 前方部 幅14m 
  • 外表施設 葺石 なし

稲荷前15号墳

  • 形状 方墳
  • 規模 1辺12m

稲荷前17号墳

  • 形状 方墳

遺構

遺物

築造時期

展示

指定

  • 1970年(昭和45年)3月24日 神奈川県指定

考察

アクセス等

  • 名称:稲荷前古墳群
  • 所在地:神奈川県横浜市青葉区大場町156-10ほか
  • 交通: 東急田園都市線市が尾駅から バス水道局青葉営業所前 徒歩 3分

参考文献

  1. 甘粕健・山口隆夫(1980)「横浜市緑区稲荷前16号墳の調査」(『第6回神奈川県遺跡調査・研究発表会要旨』
  2. 横浜市教育委員会事務局社会教育部(1982)『文化財シリーズ56-3:稲荷前古墳群保存整備事業報告書』横浜市教育委員会事務局社会教育部

飛鳥寺西方遺跡2025年06月03日 00:38

飛鳥寺西方遺跡(あすかでらせいほういせき)は奈良県明日香村にある飛鳥時代の饗宴広場の遺跡である。

概要

飛鳥寺の西側で飛鳥川の右岸に位置する。遺跡の中央東よりに入鹿首塚がある。 日本書紀には7世紀中ごろ以降、寺の西側で外交使節を接待したと書かれる。明日香村教委は「供宴施設だった可能性が高い」とする。『日本書紀』巻第廿四、皇極三年春正月に「偶預中大兄於法興寺槻樹之下打毱之侶、而候皮鞋隨毱脱落、取置掌中、前跪恭奉」と書かれる。 飛鳥寺の西に「槻木の広場」があったと考えられ、飛鳥寺西方遺跡がその有力な候補である。 飛鳥時代以降の遺物も出土する。

調査

1966年に発掘が行われ、石敷帯、石組溝が確認された。石組溝は南北方向に延び、幅1.15m、深さ40cmである。側石は2段積で底石はない。底に砂礫が堆積しているため、水路として利用されていた。また1998年には飛鳥寺西門の規模や構造が明らかになった。そのほか砂利敷、土管暗渠、木樋、土坑、建物跡、掘立柱塀の遺構が確認されている。掘立柱壁は南北120m以上が確認されている。土管暗渠は南北延長185mである。遺跡は砂利敷や石敷が面的に広がり、石組溝、掘立柱塀が配置される。土管暗渠は直径約20cmの瓦製土管を連結したもので、幅1.6m、深さ約1mの掘形の底に土管を埋設していた。 2021年2月21日、「入鹿の首塚」から南へ約70mの場所で、東西19.2m以上、南北4.8mの大型建物跡が確認された。石敷の下に土管暗渠があった。

遺構

  • 石敷帯
  • 石組溝
  • 土管暗渠
  • 木樋
  • 土坑

遺物

  • 土師器
  • 須恵器
  • 黒色土器

考察

展示

指定

所在地等

  • 名称: 飛鳥寺西方遺跡
  • 所在地: 奈良県高市郡明日香村大字飛鳥173-1
  • 交通:

参考文献

  1. 木下正史(1997)「飛鳥寺西辺の儀礼空間」国立歴史民俗博物館研究報告 (74),pp.207-232
  2. 今泉隆雄(1993)「飛鳥の須弥山と齋槻」『古代宮都の研究』吉川弘文館

シゲノダン遺跡2025年06月03日 01:20

シゲノダン遺跡(しげのだんいせき)は長崎県対馬市にある弥生時代中期から後期の遺跡である。

概要

佐保川西岸の舌状突端部、段畑状の狭小な平坦部に位置し、段畑の崖面に銅鉾の鋒部が露出していたことから発見された。当時国内では出土例がなかった朝鮮系の青銅器が発見され、遺物は国指定重要文化財となった。国立歴史民俗博物館の所蔵となっている。鉄製の把頭類、鞘先、鐔、馬鐸など朝鮮半島からの将来品や銅剣、銅矛など儀器化された青銅器類、鉄剣、釶などの実用的な鉄製品が含まれる。 1967年の発見により長崎県教育委員会の依頼で九州大学が調査したが、新たな遺物の発見はなかった。遺跡の性格は祭祀、儀礼と関わる品を埋納する祭祀施設である。

調査

畑の耕作中に偶然に発見した。

遺構

青銅器埋納遺構。板石(0.7m×0.3m)び下の窪みに中に銅(75cm)を中心にして多数の青銅器と鉄器を分けて埋納する。

出土

出土品は舶載青銅器、国産青銅器、鉄器が一括で出土した。中国産(貨泉)、朝鮮半島産(把頭金具、馬鐸、鰐形銅器)、国産(変形細形銅剣、中広銅矛、鉄製品)の祭祀具がみられる。貨泉と中広銅鉾,変形細形銅剣などが共伴し、弥生時代後期と見られる。

遺物

銅製の把頭類をはじめ鞘先、鐔、馬鐸など朝鮮半島からの将来品や、銅剣、銅矛など儀器化された青銅器類と鉄剣、釶などの実用的な鉄製品の組合わせが特徴である。

  • 中広銅矛
  • 鉄剣 5
  • 鉄矛
  • 鉄鏃 3
  • 双獣付十字形把頭金具
  • 粟粒文十字形把頭金具
  • 異型細形銅剣
  • 銅製鍔金具
  • 銅製鞘先金具2
  • 舌付き馬鐸
  • 貨泉(銭貨、天鳳元年)14
  • 鉄鉇 2
  • 鍔形銅器
  • 矛状鉄器
  • 刀子
  • 鉤状鉄器
  • 鉄製釣針

指定

  • 1980年6月6日(昭和55.06.06) 重要文化財 対馬シゲノダン遺跡出土品

アクセス等

  • 名称: シゲノダン遺跡
  • 所在地:長崎県対馬市(旧:下県郡豊玉村)豊玉町佐保シゲノダン328
  • 交通:

参考文献

  1. 長崎県教育委員会(1969)『対馬-シゲノダン・唐崎の青銅器を出土した遺跡の調査報告-』
  2. 宮崎 貴夫(2000)「長崎県出土の渡来銭・模鋳銭について」西海考古

箱式石棺2025年06月03日 18:49

箱式石棺(はこしきせっかん)は板状の石で周囲を囲んで箱形の空間を作り、その上方を同様の石で覆い、遺体を納める埋葬施設としたものである。「箱形石棺」ともいう。

概要

板石を組み合わせて箱を作り、その中に遺体を納める埋葬施設である。石造りの缶としては最も簡単な構造である。日本の古墳時代では全期間を通じて使用された。

石棺の形式

高橋健自(1915)によれば、石棺は刳抜式と組合式に大別される。刳抜式は大きな石をくりぬいて身と蓋を作る。割竹型、舟形、家型の3種類がある。組合式は複数の石を組み合わせて石棺を作るものである。組合式には箱形、家形、長持形の3種類がある。 箱形石棺は阿波の法隆寺と言われる丈六寺(徳島県徳島市)の例(文領古墳出土石棺)がある。

分布領域

弥生時代には九州から瀬戸内西辺にかけて西日本で分布し,古墳時代には九州から東北地方にまで分布した。

出土

  • 箱式石棺 - 横地山古墳、愛媛県四国中央市、弥生時代後期
  • 乙川北遺跡 - 広島県世羅郡世羅町大字小世良、
  • 大原箱式石棺群 - 岡山県玉名市岱明町、弥生時代終末期から古墳時代初

参考文献

  1. 高橋健自(1915)「石棺の研究」人類學雜誌 30 (6), pp.203-205
  2. 端野晋平(2021)「初期箱式石棺の二型式」【岩永省三先生退職記念論文集】上, pp.79-102
  3. 島津屋寛(2009)「熊本県下の古墳時代箱式石棺」

瓦が語る歴史2025年06月04日 00:05

明治大学博物館

瓦が語る歴史(かわらがかたるれきし)は、明治大学博物館の2025年における企画展である。

概要

  • テーマ:瓦が語る歴史 -前場幸治コレクションの名品-
  • 主催:明治大学博物館
  • 会場:明治大学博物館 特別展示室
  • 期日:2025年5月29日(木)から7月16日(水)
  • 趣旨:前場幸治氏は株式会社前場工務店の会長で、名棟梁として知られていた。一方、総数1万点に上る瓦のコレクションでも知られていた。瓦の収集は奈良時代の国分寺の瓦、古代の瓦、城郭の瓦のほか、中国、朝鮮、中央アジアに及ぶ。それらのコレクションは明治大学博物館に寄贈されている。今回は2010年、2013年に続く瓦の名品展である。 以下は展示された内の古代の特徴的な瓦を紹介する。(中世、近世以降は省略)。

瓦の誕生

  • 瓦は古代中国で発祥され、約3000年前の西周時代に宮殿や寺院の屋根に使われた。『日本書紀』によれば、日本には588年に百済から「瓦博士」が4名(麻奈文奴、陽貴文、陵貴文、昔麻帝弥)が来日し、飛鳥寺の瓦を作り始め、技術を伝えたとされる。当初の飛鳥寺は鎌倉時代に落雷で塔と金堂が焼失したが、発掘により創建瓦が出土している。

「元延元年都司空瓦」銘平瓦 

紀元前12年に中国で作られた瓦である。出土地は不明である。残存片13.3。厚1.6。 元延は、中国、前漢の成帝劉驁の治世の年号である。

高句麗の瓦(軒丸瓦)

三国時代の朝鮮半島。蓮蕾文軒丸瓦・高句麗の瓦は赤味が強いので、目立つ。8つの蓮の蕾が太い線で描かれる。直径14、厚3.5。帝塚山学院大学にも高句麗の瓦のコレクションがある。

楽浪郡の瓦

「大晋元康」銘垂木先瓦。元康は291年から299年である。「大晋元康」棰先瓦は東京国立博物館にもある。

山田寺の瓦

飛鳥時代、四重弧文軒平瓦。山田寺は、『上宮聖徳法王帝説』や『日本書紀』によれば、舒明十三年(641年)に蘇我倉山田石川麻呂の発願により造営が開始されたという。四重弧文軒平瓦は単弁八弁蓮華文軒丸瓦と組み合わせて用いられた。七世紀の瓦である。

飛鳥寺の瓦

飛鳥時代。素文縁複弁八葉蓮華文軒丸瓦、奈良県高市郡明日香村飛鳥682で出土。日本最古の瓦である。

平城宮の軒丸瓦

凸鋸歯文複弁八葉蓮華文軒丸瓦。直径16.5、厚4.1。デザインはかなり簡素化されている。

常陸国分寺の瓦

奈良時代、素文珠文縁素弁十葉蓮華文軒丸瓦、素朴な瓦である。直径17.5、厚4.4。

神奈川県千代廃寺の瓦

奈良時代。「大伴五十戸」銘をもつ稀少な文字瓦である。千代廃寺は奈良時代に創建されたと考えられている。直径19.4、厚1.0。

中広形銅矛

弥生時代、出土地不明。当初は柄をつけて槍のように使ったが、鉄器が普及すると大型化し、祭祀に使用した。

手焙型土器

愛知県安城市出土。鉢の上に覆いをつけた土器である。祭祀に使われたとみられる。弥生時代前期から古墳時代。九州から千葉県まで分布が広がる。

所感

今回出展された瓦は前場幸治コレクションのホンの一部である。今回は出ていないが、統一新羅の瓦など優品がある。文字瓦は「国分寺」のほか「崎」「榛」「荏」など生産地が書かれた瓦は貴重である。

参考文献

  1. 明治大学博物館所蔵(2014)「前場幸治コレクション」資料目録