十善の森古墳 ― 2026年01月24日 00:22
十善の森古墳(じゅうぜんのもりこふん)は福井県三方上中郡若狭町に所在する前方後円墳である。
概要
JR上中駅の西約700m、小浜線南側に位置し、墳丘南側には国道27号が走り、前方部は西方向を向く。「天徳寺古墳群」「上中古墳群」の古墳である。墳丘規模は、主軸長約68m、後円部径約46m、同高さ約9.6m、前方部幅約50m、同高さ約9mで、3段築成である。埴輪・葺石・周濠がある。前方部と後円部にそれぞれ横穴式石室を持つ。前方部と後円部の双方に横穴式石室を有する点は、被葬者構成や葬送儀礼の複雑さを示すものとして注目される。後円部石室は、全長6.45mを測る片袖式で、北部九州型とされる。北部九州型横穴式石室の採用は、若狭地域が日本海沿岸ルートを通じて九州・朝鮮半島と結びついていたことを示す。周濠の一部に石室へ向かうための陸橋跡がみえる。築造時期は出土遺物や石室構造から、5世紀後半から6世紀初頭と考えられている。
繋と横穴式石室
中司照世(1990)は、若狭地方の大首長墓は複数系列ではなく、城山古墳から西塚古墳・十善の森古墳、さらに上船塚・下船塚へと連続的に変遷した一系列であると推定している。また、十善の森古墳出土の馬具の繋金具は、出雲地方の上塩冶築山古墳出土品と製作技法が共通するとされ、日本海沿岸を通じた広域交流を示唆する。
調査
1954年(昭和29年)、1994-1995年(平成6年から平成7年)に行われた。前方部を西方向に向ける。出土品に方格規矩神獣鏡・装身具類・玉類・馬具類、加耶系の金銅製轡のほか百済系の金銅製冠・履やとんぼ玉がある。当時の若狭地方の豪族が渡来文化を受け入れていた事を示す。
考察
福井県若狭町に所在する十善の森古墳(出土遺物および横穴式石室の形態から6世紀初頭と推定される)は、百済系・伽耶系の金銅製冠・履、馬具、トンボ玉などが出土した天徳寺古墳群を代表する前方後円墳である。これらの渡来系威信財は、当時の若狭首長層が北部九州や越前を含む日本海沿岸ネットワークを通じ、百済・伽耶系文化と密接な関係を有していたことを示す重要な考古学的資料である。
問題となるのは、こうした対朝鮮半島交流がヤマト王権とどのような関係のもとで行われていたかという点である。すなわち、若狭の首長がヤマト王権とは一定の距離を保ちつつ独自に百済・伽耶と関係を構築していたのか、あるいは王権秩序の枠内で経済・外交活動を展開していたのかが論点となる。
十善の森古墳を含む若狭地域の有力古墳群の動向は、後の継体大王擁立期における日本海沿岸勢力の政治的存在感の高まりと時期的に重なっており、若狭地域の首長層がヤマト王権に対して一定の自律性を保持しつつ、対朝鮮半島交流を担う役割を果たしていた可能性を示唆する。
規模
- 形状 前方後円墳
- 築成 不明
- 墳長 68m
- 後円部径 径46m 高さ 9.6m
- 前方部 幅50m 高さ9m
外表施設
埴輪
- 円筒埴輪あり
葺石
- あり
遺構
遺物
- 馬具、
- 玉
指定
- 1978年(昭和53年)10月11日 国指定史跡
被葬者
築造時期
- 築造時期は古墳時代後期(6世紀初頭)と推定される。
展示
- 福井県立若狭歴史民俗資料館
アクセス等
- 名称:十善の森古墳
- 所在地:福井県三方上中郡若狭町天徳寺字森ノ下
- 交通:
参考文献
- 入江文敏(2011)「十善ノ森古墳の研究 (1)」『勝部明生先生喜寿記念論文集』勝部明生先生喜寿記念論文集刊行会
- 福井県立若狭歴史民俗資料館(1993)『上之塚古墳発掘調査概報』若狭歴民だより1993年7月
- 李恩碩(2016)「繋の復元による製作技法の考察」奈良文化財研究所学報第95冊、日韓文化財論集Ⅲ、pp.129-144
- 中司照世(1990)「北陸」『古墳時代の研究11』雄山閣
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