聖明王 ― 2026年02月20日 00:28
聖明王(せいめいおう、?-554年7月)は、百済第26代の王。『日本書紀』には「聖明王」「聖王」「明王」とみえる。『三国史記』百済本紀・聖王紀によれば諱は明穠(みょうのう)。父は第25代の武寧王。在位は523年~554年。
1.即位と政治改革
475年、高句麗の長寿王が漢城を攻撃し、百済は都を熊津(現・忠清南道公州市)へ遷した。523年5月に即位した聖王は、動揺する王権の再建を重要課題とした。『三国史記』はその人物像を「才知と決断力に優れる」と評する。
524年、南朝梁より、持節・都督百済諸軍事・綏東将軍・百済王に冊封され、国際秩序の中での王権の正統性を確保した。
538年には都を熊津から泗沘(現・忠清南道扶余)へ遷都。国号を南扶余と改め、王都の再編と中央集権体制の強化を図った。 この遷都は単なる地理的移動ではなく、
- 王都の計画的造営(官衙・寺院配置)
- 官制整備と地方統治機構の再編
- 貴族勢力の抑制と王権主導体制の確立
を目的とした政治改革であったと評価される。
- 2.仏教振興と対外関係 聖王は国家統合の理念として仏教を重視した。南朝文化の導入を積極的に進め、梁との外交関係を維持する一方、北朝勢力との緊張関係の中で南朝志向を明確にした。
倭国への仏教伝来
『日本書紀』巻第十九(欽明13年〔552年〕条)には、聖明王が
- 「この法は最も勝れた教えであり、幸福と悟りをもたらす」
とする上表文を添え、釈迦仏金銅像・幡蓋・経論を倭国へ送ったと記される。いわゆる仏教公伝記事である。
一方、百済側史料では549年とする伝承もあり、年代には異同がある。さらに上表文は後世の潤色・偽作の可能性が指摘され(飯田武郷『日本書紀通釈』)、史料批判上の検討が必要である。
- ※公伝問題は、日本側の編纂意図(仏教受容を王権主導で正当化する構図)とも関連し、単純な史実叙述とは切り分けて考える必要がある。
3.関山城の戦いと最期
554年、百済は大伽耶・倭と連合して新羅と対峙した。戦場は管山城(関山城)(現・忠清北道沃川郡)。
世子・昌(のちの威徳王)が出陣したが孤立した。これを救援するため聖王自ら出陣した。しかし狗川付近で新羅軍の伏兵に遭い戦死したとされる。 百済側は将軍4名、兵3万人を失ったと伝えられ、同盟関係は事実上崩壊した。
この敗北により、
- 百済王権の威信低下
- 新羅優位の朝鮮半島南部情勢の形成
- 百済内部での貴族勢力(馬韓系)の再浮上
が進んだと考えられる。
4.陵墓問題
聖明王の陵墓は、扶余の陵山里古墳群が有力視される。とくに2号墳が比定候補とされるが、盗掘を受けており被葬者の確定には至っていない。
補足:歴史的意義
聖明王は、
- 泗沘遷都による国家再編
- 南朝文化の体系的受容
- 仏教外交の展開
- 王権主導の中央集権化
を推進した改革君主である。
その死は百済の外交戦略の転換点となり、のちの新羅台頭、さらに7世紀の三国統一過程へと連なる歴史的連鎖の一環として位置づけられる。
仏教公伝問題の史料批判小論
聖明王による倭国への仏教伝来記事をめぐって
1.問題の所在
百済第26代王聖明王(在位523–554)が倭国へ仏教を伝えたとする記事は、『日本書紀』巻第十九(欽明13年〔552年〕10月条)に見える。そこでは百済王が上表文を奉り、釈迦仏金銅像一体・幡蓋・経論を献じたとされ、これがいわゆる「仏教公伝」の典拠となる。
しかし、
- 年代の異同(552年説/538年説/549年説)
- 上表文の文体・思想内容
- 百済側史料との齟齬
などが指摘されており、史料批判上の検討課題となっている。
2.年代の問題
『日本書紀』は552年を公伝年とする。一方、同書の別記事や寺院縁起、後世の伝承には538年説が見られる。また百済側の記録系統では549年を示唆する説もある。
年代の揺れは、
- 日本側編年の後世的再構成
- 複数回の仏教関連使節の存在
- 伝来と受容(国家的承認)を区別しなかった可能性
によって説明されることが多い。現在の研究では、「552年は国家的外交儀礼としての仏像献上」、「それ以前にも仏教は伝わっていた」とする段階的伝来説が有力である。
3.上表文の真偽
問題の核心は、聖明王の上表文である。そこでは仏教を最も勝れた教えであり、幸福と果報をもたらす、と称揚する文言が記される。
しかしこの文章は、
- 漢文の修辞が奈良時代的
- 日本王権中心の構図が強い
- 中国南朝外交文書の定型とやや異なる
などの点から、後世の潤色あるいは創作とする見解が提示されている(飯田武郷ほか)。
すなわち、実際の外交文書がそのまま伝存したとは考えにくい。 『日本書紀』編纂(720年)は律令国家成立後であり、仏教が国家理念の一部となった時代である。編者は、仏教受容を「外来文化の選択的導入」という形で王権の主導的決断として描いた可能性が高い。
4.百済側史料との比較
『三国史記』百済本紀には、倭国への仏像献上を明確に伝える記事は見えない。百済においては、対倭外交は軍事同盟や技術者派遣が主であり、仏教献上が特別視されていない可能性がある。
また、百済は南朝梁との外交関係の中で仏教文化を受容しており、倭への仏教伝播もその延長線上にあったと考えられる。従って、日本側が強調する「公伝」という劇的構図は、百済史の文脈とは温度差がある。
5.政治的文脈
仏教公伝記事は、単なる宗教伝播の記録ではなく、
- 百済と倭の同盟関係強化
- 南朝文化圏への参加表明
- 王権の文明的優位性の演出
といった外交的・政治的意味を持つ。
特に『日本書紀』は、後の蘇我氏と物部氏の対立を描く前段階として、仏教受容を国家的課題として提示する。すなわち、公伝記事は律令国家成立後の国家仏教観を遡及的に投影した叙述とみることができる。
6.研究史の整理(概観)
- 伝統的立場 552年公伝を史実とする立場。 538年説 『元興寺縁起』などを重視し、年代を遡らせる説。
- 段階的伝来説(近年有力) 6世紀前半から断続的に仏教が伝来し、552年は外交儀礼として象徴化された出来事とする。
- 編纂意図重視説 公伝記事は奈良時代的国家理念の反映であり、史実性は限定的とする。
7.結論
仏教公伝問題は、「最初にいつ伝わったか」という単純な年代論争ではなく、
- 外交儀礼としての仏像献上
- 実際の信仰受容過程
- 『日本書紀』編纂の政治的意図
を峻別して考える必要がある。
聖明王の倭国への仏教伝来記事は、百済王権の外交戦略と、日本律令国家の歴史意識が交錯する史料層として理解されるべきである。
したがって、「仏教公伝」は単一の出来事ではなく、6世紀東アジア国際秩序の中で形成されていた象徴的出来事と評価するのが妥当であろう。
参考文献
- 太田亮(1942)『姓氏家系大辞典』磯部甲陽堂
- 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
- 森浩一(2022)『敗者の古代史』KADOKAWA
- 角田春雄(1978)「日本書紀の仏教伝来について」印度學佛教學研究 26(2) pp.725~729
- 飯田武郷(1981)『日本書紀通釈』教育出版センター
- 金富軾(1983)『三国史記. 2 (高句麗本紀.百済本紀)』平凡社
by 南畝 [古代史人物団体] [コメント(0)|トラックバック(0)]
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