製塩土器 ― 2026年02月05日 00:07
製塩土器(せいえんどき)とは、海水を加熱・濃縮し、最終的に塩を結晶として得るために用いられた土器の総称である。日本列島では、縄文時代後期末葉から古墳時代にかけて広く使用された。
概要
海水中には約3%の塩分(主に塩化ナトリウム)が含まれており、これを土器に入れて加熱し、水分を蒸発させることで塩を得ることができる。日本における本格的な製塩の開始時期は、考古学的には縄文時代後期末葉から晩期と考えられている。
縄文時代の狩猟・採集生活では、獲物となる動物の肉や血、また海産物などから一定量の塩分を摂取できたため、必ずしも人工的な製塩を必要としなかったと考えられる。しかし、弥生時代以降、稲作が普及し米を主食とする食生活が定着すると、塩分摂取の重要性が増大した。米に多く含まれるカリウムは体内のナトリウムを排出しやすくするため、塩の継続的な摂取が不可欠となり、製塩活動は社会的・経済的に重要な生業となっていった。
製塩土器は、通常の鉢や甕などの容器形土器と比較して、熱効率を高めるために器壁が薄く作られていることが多く、内面が比較的平滑に仕上げられている点が特徴である。また、使用時には急激な加熱・冷却を繰り返すため、破損しやすく、完形品で出土する例は少なく、多くは破片として発見される。
製塩土器の判定は、主に
- 器形(浅鉢形・椀形・脚付形など)
- 器壁の薄さや成形技法
- 内外面に認められる加熱痕・煤付着・赤変などの使用痕跡
といった複数の要素を総合して行われる。
製塩土器の分布
土器の分布を見ると、縄文時代後期・晩期には関東地方および東北地方の太平洋沿岸部に比較的広く認められる。一方、弥生時代後期から古墳時代にかけては、西日本を中心とした沿岸地域で製塩遺跡が顕著となり、若狭湾沿岸、能登半島、瀬戸内海沿岸、伊勢湾沿岸などが主要な製塩地域として知られる。
文献の製塩土器
『万葉集』や各地の『風土記』にみえる「藻塩垂る」という表現は、海藻(ホンダワラ類など)に海水を繰り返しかけ、天日乾燥させることで塩分濃度の高い鹹水(かんすい)を作り、それを煮詰めて塩を得る工程を詠んだものと解釈されている。作例として巻6-935(笠朝臣金村)の長歌が挙げられる。煎熬〈せんごう〉の手法は製塩土器を使用して製塩炉にかけて塩を作る。
瀬戸内地域の製塩土器の型式
瀬戸内海沿岸で出土する製塩土器は、形態と時期の違いから、概ね次の三つの型式に分類される。
- 脚台タイプ(古墳時代前期) 脚部をもつ土器で、炉上に据えて加熱する構造をもつ。
- 小椀タイプ(古墳時代中期) 比較的小型で浅い椀形を呈し、集中的な加熱・濃縮工程に用いられたと考えられる。
- 大型ボウルタイプ(古墳時代後期) 口径の大きい浅鉢状の器形で、大量製塩に対応したものと推定される。
製塩土器の出土例
- 製塩土器 - 上高津貝塚、茨城県土浦市上高津、縄文時代晩期
- 製塩土器 - 里浜貝塚、宮城県鳴瀬町、縄文時代/紀元前500年、東北歴史博物館
- 製塩土器 - 小島東遺跡、大阪府泉南郡岬町多奈川小島401番地、弥生時代後期以降期
参考文献
- 立松彰(2022)「尾張、三河の土器製塩のはなし」知多半島の歴史と現在 (26),pp.45-64
宝塚1号墳 ― 2026年02月05日 21:13
宝塚1号墳(たからづかいちごうふん)はは、三重県松阪市南部の丘陵上に築かれた古墳時代前期の前方後円墳であり、日本百名墳に選定されている代表的古墳である。伊勢平野を望む立地と規模の大きさから、当地における有力首長の墓域として位置づけられている。
概要
松阪市中心部から南へ約3kmの地点には宝塚古墳群が分布し、現在確認されているのは1号墳と2号墳の2基である。このうち宝塚1号墳は全長約111mを測り、伊勢地方において最大規模の前方後円墳として知られる。墳丘の主軸は前方部を東(やや南寄り)に向けて配置されており、周辺景観との関係を考慮した築造計画がうかがえる。
前方部基部には、幅約18m、奥行約16mの張り出し状施設、いわゆる造り出しが設けられている。この造り出しは古墳本体と土橋状の構造で結ばれ、祭祀や儀礼の場として機能した可能性が高い。周辺からは約140点に及ぶ埴輪が確認されており、葬送儀礼の具体像を考える上で重要な資料群となっている。なお、主体部(埋葬施設)については未調査であり、その構造や被葬者像は今後の研究課題である。
同一丘陵上に築かれた宝塚2号墳は、5世紀前半頃の築造とみられる帆立貝形前方後円墳で、朝顔形埴輪の出土によって知られる。宝塚1号墳に続く時期に営まれたと考えられ、両墳は同一首長系譜に属する墓域として理解される場合が多い。
宝塚古墳群では1999年以降、発掘調査が継続的に実施されてきた。なかでも2000年の調査において、宝塚1号墳の造り出しから、極めて特異な船形埴輪が出土したことは全国的に注目された。この埴輪は、船上に威信具を備えた立飾を伴う作例としては国内初の確認例であり、かつ規模の点でも最大級に属する。
出土した船形埴輪は、側板で補強された丸木舟系の準構造船を忠実に表現したもので、全長約140cm、円筒台を含めた高さは約94cm、最大幅は約36cmに達する。船首・船尾は垂直に立ち上がり、鰭状突起による装飾が施されているほか、心葉形隔壁板や線刻文様など、写実性の高い造形表現が認められる。
船体中央部には、蓋・威杖2本・大刀を象った立飾が据えられており、首長の権威や霊的象徴を強調する構成となっている。これらの要素から、本埴輪は被葬者の魂を導く「葬送船」を表現したものと解釈されることが多く、古墳時代前期における葬送観念や権力表象を考察する上で極めて重要な資料と評価されている。
この船形埴輪を含む「三重県宝塚一号墳出土埴輪」は、その造形的完成度と歴史的価値が高く評価され、2024年(令和6年)に国宝指定を受けた。
そのほか宝塚1号墳からは、円筒埴輪をはじめ、壷形埴輪、蓋埴輪、盾形埴輪、囲形埴輪、柵形埴輪、短甲形埴輪、家形埴輪など、多様な種類の埴輪が確認されており、当時の首長墓に付随する儀礼空間の構成を立体的に復元する手がかりを提供している。
規模(1号墳)
- 形状 前方後円墳
- 築成 後円部:3段
- 墳長 111m
- 後円部径 径75m 高11m
- 前方部 幅66m 長46m 高6.4m
- 外表施設 円筒埴輪 円筒・朝顔形
- 葺石 あり
遺構
遺物
- 底部穿孔二重口縁壺
- 埴輪棺
- 船形埴輪
- 囲形埴輪
- 家形埴輪
- 埴輪(円筒 楕円筒
- 壺形埴輪
- 蓋形埴輪
- 盾形埴輪
- 靱形埴輪
- 甲冑形埴輪
- 冠形埴輪
- 高杯形埴輪
- 家形埴輪
- 囲形埴輪
- 柱状
- 土製品(鳥笊高杯)
指定
- 2024年(令和6年)8月27日 三重県宝塚一号墳出土埴輪(278点)
- 1932年(昭和7)年 - 国史跡史跡
被葬者
築造時期
- 5世紀初頭
展示
- 松阪市文化財センター
アクセス等
- 名称:宝塚1号墳
- 所在地:三重県松阪市小黒田町ごけ山120-1
- 交通: 松阪駅 鈴の音バス 左回りバス 39分
参考文献
- 松阪市教育委員会(2000)『宝塚古墳発掘調査概要』。
国邑 ― 2026年02月05日 21:37
国邑(こくゆう)とは、中国古代史料にみられる用語で、一定の政治的支配が及ぶ領域における中心的な居住・統治拠点を指す語と理解されている。単なる集落や村落ではなく、王・首長・有力者などが居住し、政治的・社会的機能が集約された場所を意味する点に特徴がある。
「魏志倭人伝」における国邑
『三国志』魏書東夷伝倭人条(いわゆる「魏志倭人伝」)の冒頭には、「倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島によりて国邑をなす」との記述がみられる。
ここでは、倭人の居住域が帯方郡の東南方、海を隔てた地域にあり、山地や島嶼の地形条件を背景として国邑が形成されている状況が示されている。この「国邑」は、単に地理的に山や島の近くに存在する集落という意味にとどまらず、各国の政治的中枢が特定の地形環境と結びついて成立していることを表現したものと解釈される。
他史料にみる国邑の用法
国邑という語は、倭人伝に特有の表現ではなく、他の『三国志』諸伝にも用例が確認される。
たとえば、『三国志』呉書(虞・陸・張・駱・陸・吾・朱伝)には、同郷出身者が「国邑」において厚遇されていたという文脈でこの語が用いられている。この場合の国邑は、単なる出生地ではなく、故郷における中枢的都市、あるいは政治的中心地を指す語として理解するのが妥当であろう。
また、『三国志』魏書烏丸鮮卑東夷伝韓条においては、 「国邑には首長が存在するが、周辺の村落は雑居しており統制が及びにくい」 といった趣旨の記述がみられる。ここからは、国邑が支配者の拠点として機能する一方で、その統治が必ずしも全域に均質に及んでいたわけではない実態が読み取れる。
森浩一による解釈
考古学者の森浩一は、国邑という語について、「国」と「邑」とを機械的に分解して理解するのではなく、両者を一体化した概念として把握すべき語であると指摘している(森浩一(2010))。森によれば、倭人伝注釈の多くは「山の多い島嶼地域に国や村が点在している」と説明する傾向があるが、「韓伝」などにも国邑の用例が存在する点を重視すべきであるという。
森は、国邑を「それぞれの国における政治的根拠地」と位置づけ、さらに「韓伝」にみえる「別邑」という語との対比を通じて理解を深めている。「別邑」は宗教的・祭祀的機能を担う施設群を含む語であり、日常的な農村集落とは性格を異にする。こうした比較から、国邑は弥生時代の一般的な農村ではなく、人口・機能が集中した中心的都市的空間を指す語であった可能性が高いと論じられている。
倭人伝には「別邑」という語自体は用いられていないものの、同時代の東アジア史料との比較は、国邑の実態を考える上で有効な視点を提供している。
参考文献
- 森浩一(2010) 『森浩一の考古学人生』大巧社
- 石原道博編訳(1985))『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』〈中国正史日本伝(1)〉岩波書店
堂ケ谷戸遺跡 ― 2026年02月05日 21:56
堂ケ谷戸遺跡(どうがやといせき)は東京都世田谷区に所在する、旧石器時代から近世に至るまでの長期的な人間活動の痕跡が重層的に確認されている複合遺跡である。表記については「堂ヶ谷戸遺跡」とされることもある。
立地と周辺環境
東京都域の地形は、大きく台地部と低地部に分けられ、堂ケ谷戸遺跡はこのうち武蔵野台地上に位置する。武蔵野台地は、古多摩川による堆積作用で形成された扇状地性の段丘面であり、西方から東方へと緩やかに広がっている。 本遺跡は、多摩川水系に属する谷戸川と仙川の合流域に近接する台地縁辺部から台地基部にかけて展開し、標高約38mの段丘面上に立地する点に特徴がある。遺跡の広がりは、現時点で東西約38m、南北約540mに及ぶ可能性が指摘されている。
周辺の武蔵野段丘上には、大蔵遺跡や総合運動場遺跡、下山北遺跡、下山遺跡など、縄文時代を中心とした集落遺跡が点在する。一方、台地斜面部には堂ケ谷戸横穴墓群や岡本原横穴墓群といった古墳時代の墓域が形成されており、本地域が時代ごとに異なる土地利用を受けてきたことがうかがえる。
主な出土遺物と特色
堂ケ谷戸遺跡の出土資料の中でも特に注目されるのが、把手部分に人の顔を表現した装飾を伴う土器、いわゆる顔面把手付土器である。顔面表現と胴部が一体的に示された例は、世田谷区内では本遺跡の出土が初例とされ、地域的にも重要な資料と位置づけられている。
2019年(平成31年)2月に実施された第61次調査では、4号土坑から装飾性の高い小形土器が出土した。この土器は高さ約15.4cmの樽形を呈し、口縁部の一部を欠くものの、全体の形状はほぼ良好に残存している。 口縁直下には無文帯が設けられ、胴部の最大径付近に3条、底部直上に2条の横走隆帯が巡らされ、文様構成は上下2つの施文域に分けられる。隆帯によって区画された内部には、三角形や菱形を組み合わせた幾何学的構成が見られ、隆帯内側には角押文が施されている。また、胴部下半には長短の切り込みが上下方向に連続して配置される。
これらの特徴から、本資料は縄文時代中期の新道式土器2段階に比定されている。文様の中には、下向きの三日月状の胴体と円形あるいはC字形の頭部をもつ抽象的表現が認められ、サンショウウオ文あるいはミズチ文と呼ばれる意匠との関連が指摘されている。 同様の土偶装飾付土器の出土例としては、国立市の南養寺遺跡、町田市の木曽中学校遺跡や藤の台遺跡などが知られており、南関東内陸部における精神文化・象徴表現を考える上で比較資料となる。
最近の調査成果
2023年に実施された第64次調査では、縄文時代中期中葉から後葉にかけての集落遺構が集中的に検出された。確認された遺構は、竪穴住居跡11軒、土坑16基、ピット38基に及び、住居跡は弧を描くように配置されている点が特徴的である。
住居跡から出土した土器の型式を見ると、23号住居跡では勝坂式3段階、282号住居跡では加曽利E2式、288号住居跡では加曽利E1式が確認されており、集落の形成と変遷を具体的にたどることが可能となっている。 また、縄文期の遺構に加え、弥生時代の方形周溝墓も検出されており、堂ケ谷戸遺跡が長期間にわたって断続的に利用されてきた土地であることが明確になった。
調査
遺構
- 住居
- ピット
- 集石
- 屋外炉
- 炉穴群
- 土坑
遺物
- 縄文土器 - 勝坂III式/阿玉台式/加曽利E1式/夏島式
- 礫
- 石器
- 土製品
- 顔面把手付土器
指定
考察
アクセス
- 名称:堂ケ谷戸遺跡
- 所在地:東京都世田谷区岡本2丁目33
- 交通: 二子多摩川駅から徒歩25分 /2km
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