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調銭2026年02月13日 00:25

調銭(ちょうせん)とは、律令制下の租庸調のうち「調」を本来の物納ではなく、銭貨で代納させた制度、またはその納入銭を指す語である。律令法では調は絹・布・糸・紙など各地の産物を中央に納める税目と規定されていたが、8世紀初頭に国家が銭貨流通を促進する政策を採用したことにより、銭納が制度化された。

1.導入の背景 ― 銭貨発行と国家政策

708年(慶雲5年)、武蔵国から銅が産出したことを契機として元号が「和銅」に改められ、同年には和同開珎が鋳造された。鋳銭司が設置され、国家主導による貨幣鋳造が開始される。

しかし当時の社会では物々交換や物納が経済の基本であり、銭貨は自発的には流通しにくかった。そこで政府は、税制を利用して銭の需要を人工的に生み出そうとした。その一環が調銭の制度化である。

709年には銀銭の使用を停止し、銅銭を正貨とする方針が採られた。711年(和銅4年)には官人給与の一部が銭で支給され、712年(和銅5年)には平城京造営従事者への日当として銭が支払われたことが記録されている。これらは、銭を租税・給与・労働報酬の三方面に組み込み、流通基盤を形成しようとした政策と理解できる。

2.調銭の実施範囲

当初、銭納が認められたのは畿内周辺に限定されていたとみられる。銭は都を中心に流通させる必要があったためである。

722年(養老6年)には、伊賀・伊勢・丹波・播磨・紀伊など周辺国へと拡大したとされ、銭流通圏を段階的に広げたことがうかがえる。

ただし全国一律に銭納が実施されたわけではなく、物納と銭納が併存する状態が続いた。

3.平安期の再編と地域限定

平安時代に入ると、銭流通はむしろ京および畿内に限定される傾向がみられる。『延喜式』では、左右京および山城・大和・河内・摂津・和泉における調銭が規定されている。

これは銭を都周辺に集中させる政策的意図を示すものと考えられる。

9世紀には銅資源の不足が進み、新規鋳造が困難となった。さらに蓄銭(銭の退蔵)も進行したため、市中流通量が減少した可能性が指摘されている。こうした事情のもとで、調銭は広域流通政策というよりも、都城経済維持のための限定的制度へと変質したとみられる。

4.歴史的意義

調銭は、単なる納税形態の変更ではなく、国家が税制を通じて貨幣経済を育成しようとした試みであった点に意義がある。 律令国家は、

  • 銭の鋳造
  • 税の銭納化
  • 官人給与の銭支給
  • 公共事業賃金の銭払い

を組み合わせることで、貨幣流通の循環構造を構築しようとした。しかし銅供給の制約や経済基盤の未成熟により、恒常的な貨幣経済への移行には至らなかった。

貨幣経済成立論争(律令国家と調銭をめぐって)

古代日本における貨幣経済の成立時期と性格をめぐっては、長く議論が続いてきた。特に和同開珎発行(708年)以降の銭貨流通をどのように評価するかが争点となる。ここでは主な立場を整理する。

1.国家主導的成立論(早期成立説)

この立場は、8世紀初頭の銭貨鋳造・調銭制度・官人給与の銭支給などを重視し、律令国家が意図的に貨幣経済を導入しようとした点を評価する。

主な論点

  • 鋳銭司の設置と和同開珎の発行は計画的政策である
  • 調銭は税制を通じた貨幣需要創出策である
  • 平城京造営などで銭が労賃として支払われた
  • 都城を中心に市場取引が活発化した可能性

この見解では、8世紀を日本における貨幣経済の本格的開始期とみる。ただし「全国的成熟」ではなく、「都城圏を中心とする段階的成立」と位置づけることが多い。

2.限定的流通論(部分成立説)

近年有力とされるのは、銭貨流通はあくまで都と畿内周辺に限定された現象であり、全国的な貨幣経済には至らなかったとする立場である。

根拠

  • 調銭の適用範囲が畿内中心であった
  • 地方では物納・物々交換が基本であった
  • 銭の退蔵(蓄銭)により流通量が不足した
  • 銅資源不足で鋳造が停滞した

この立場では、律令国家の政策は存在したものの、社会経済構造がそれを十分に支える段階にはなかったと評価する。

3.未成熟・不成立論(名目的貨幣論)

さらに慎重な見解では、8~9世紀の銭貨は実質的な交換媒体として広範に機能したとはいえず、貨幣経済は成立していなかったとする。

論点

  • 税や給与で銭が使われても、市場取引がそれに依存した証拠は限定的
  • 銭の鋳造量が少なく、流通基盤が脆弱
  • 物価体系が安定せず、貨幣価値の信頼性が低い

この立場では、古代日本は依然として物納経済を基礎とする社会であり、貨幣は国家財政上の補助手段にとどまったとみる。

4.再評価の視点 ― 「成立」の定義をめぐって

近年の研究では、「貨幣経済の成立」をどの水準で定義するかが重要視されている。

  • 全国的市場経済の確立をもって成立とみるか
  • 都城圏で貨幣交換が常態化すれば成立とみるか
  • 税・給与体系に組み込まれた段階で成立とみるか

評価基準によって結論が異なるため、単純な成立・不成立の二分法では整理できないことが指摘されている。

現在の理解(整理)

現在の研究動向を総合すると、

  • 8世紀初頭に国家主導で貨幣流通政策が展開されたことは確実
  • しかし流通は都城圏中心で、地方社会まで浸透したとは言い難い
  • 9世紀には銅不足・退蔵により停滞した

という点でおおむね一致している。

したがって、古代日本における貨幣経済は「国家政策として導入されたが、限定的地域経済にとどまった段階」と評価するのが比較的穏当と考えられている。

参考文献

  1. 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店

養老律令2025年09月23日 00:36

養老律令(ようろうりつりょう)は律令制国家の基本法典である。律十巻・令十巻から成る。行政の組織、職務、刑罰、税制を定めた法律である。

概要

718年(養老2)右大臣の藤原不比等の主導で、陽胡真身、大和長岡、矢集虫麻呂・塩屋古麻呂、百済人成が大宝律令を改正し養老律令を撰定したとされる。完成は養老年中(717~724)とする説がある。

編纂から施行まで

大宝律令と養老律令との大きな相違点はないと見られている。しかし戸令などはかなり改正されている。養老律令は757年(天平宝字元年)に施行されたとされる。藤原不比等が日本の実情に合わせて大宝律を修正して整備されたと考えられているが、選定から40年後の施行となった。藤原仲麻呂が孝謙女帝の勅により施行にこぎ着けた。 長い時間が掛かった理由に、藤原不比等の死去に伴う政治的な不安定性、長屋王の変、天然痘の流行、班田収授制や戸籍制度は理論と実際の乖離があったこと、人材不足などが挙げられている。その他の事情として、718年時点では完成されていないので、すぐに施行されなかったとする見解がある。

原典

上代の大和朝廷の法典の原文は、応仁の乱以後の戦乱で失われたとされて、『飛鳥浄御原令』と『大宝律令』の原文は現存しない。『養老律令』は、『令義解』『令集解』の令文などにその一部が、また、諸書へ引用された逸文としてその他の部分が残存している。律10巻約500条は大半が散逸し、令10巻は約1000条は大半が残存する。

背景

藤原不比等が藤原氏所出の首皇子(後の聖武天皇)の統治を裏づける新律令の制定をもくろみ、養老律令施行には不比等の功を顕彰し、仲麻呂の権勢を強める意図があったとされる。後に不比等の孫の藤原仲麻呂の主導で施行された。 形式的には明治維新まで存続した。

構成

  • 律 - 12篇。
    • 名例(みょうれい)、
    • 衛禁(えごん)、
    • 職制(しきせい)、
    • 戸婚、
    • 厩庫(きゅうこ)、
    • 擅興(せんこう)、
    • 賊盗、
    • 闘訟、
    • 詐偽、
    • 雑、
    • 捕亡、
    • 断獄
  • 令 - 30篇
    • 官位
    • 職員、
    • 後宮職員、
    • 東宮職員、
    • 家令職員、
    • 神祇(じんぎ)、
    • 僧尼、
    • 戸、
    • 田、
    • 賦役、
    • 学、
    • 選叙、
    • 継嗣(けいし)、
    • 考課、
    • 禄(ろく)、
    • 宮衛(くえい)、
    • 軍防、
    • 儀制、
    • 衣服、
    • 営繕、
    • 公式(くしき)、
    • 倉庫、
    • 厩牧(きゅうもく)、
    • 医疾、
    • 仮寧(けにょう)、
    • 喪葬、
    • 関市、
    • 捕亡、
    • 獄、

参考文献

  • 井上光貞,席晃,土田直鎮,青木和夫(1977)『律令』『日本思想大系3』岩波書店

ソグド人2025年07月28日 00:12

ソグド人(そぐどじん、sogd)は 中央アジアのソグディアナ地方を本拠地としていたイラン系民族である。

概要

ソグディアナ地方はアム川とシル川にはさまれた地方で、現在のウズベキスタンに当たる場所である。東に中国、東南にインド、西南にペルシア(現イラン)があり、東西交通の要衝である。都市はサマルカンド(康国)、タシュケント(石国)、ブハラ(安国)などの都市国家ができていた。 サマルカンドを中心とする都市から東西への商業を得意としてシルクロード周辺域の隊商など多様な経済活動を行っていた。ソグド人の領土は、サマルカンドを中心にゼラフシャン川流域にあった。シルクロード交易を約700年にわたり支配した謎の民族と言われる。中国語では栗特と呼ばれ、中国では西方から来た人々を胡人と呼んでいた。6世紀の中国の記録では240人の隊商が600頭の駱駝による隊列を組み、万に及ぶ絹を運んだと記される。移動先で集落を作り定住することもあった。2000年に西安で発見された墓は、ソグド人の墓であった。薩保(薩宝)という名前の人物であった。元はキャラバンのリーダーを意味していたという。碑文では集落の代表者を表すことばになっていた(NHK「隊商の民 ソグド」)。宗教的としてはゾロアスター教を信仰したが、2世紀から3世紀にかけて中国に仏教を伝えた。 6世紀60年代、エフタルはチュルク朝とイランによって征服された。8世紀初頭、アラブ人はソグド諸侯国を征服したが、政治は安定せず、反乱の鎮圧は困難であった。719年から739年にかけてほぼ絶え間なく続いた戦争のため、ソグドは荒廃し、深刻な衰退が訪れて、イスラム教を受容した。アラビア語では「川の向こう側にある地方」を意味するマー・ワラー・アンナフルの名で呼ばれ、この地名が定着する。最後には13世紀のモンゴルの来襲によって破壊され、終焉を迎えたとされる。

現代に残るソグド人

ザラフシャン川の流域はソグディアナ(ソグド人の土地)と呼ばれるが、現在はソグド人はいない。タジキスタンのアルトーチュ村にソグド人の子孫が300人残る。子供が生まれると蜜をなめさせ、コインを握らせる。ソグドの伝統で蜜は食べ物に困らないように、コインはお金持ちになるようにとの願いである。子供が20才になると旅に出す慣習がある。

中国への定住

北朝から隋・唐時代にソグド人の往来が最大となり、定住する者も多くいた。中国で定住すると戸籍にはいり漢字の姓を持つようになる。昭武姓と呼ばれ、出身地ごとに異なっている。サマルカンド出身なら「康」、ブハラ出身なら「安」、タシケント出身なら「石」となる。有名な安禄山は、「安」姓で、禄山もソグド語の名前を漢字で音写したものと考えられている。

アフラシアブ博物館

アフラシアブ博物館はサマルカンドで1970年に開館した。サマルカンドの中心部から北東近郊に広がる岩の丘 「アフラシャブの丘」の近くにある。サマルカンドの都城は、紀元前 6、5世紀頃から建設が開始され、ソグド人の康国の中心として繁栄した。アフラシャブの丘の宮殿址から出土した壁画は、ソグド王国の宮殿の壁に描かれており、特に外交使節を描いたものが有名である。 壁画はソグド王国のバルフマン王の治世の時に制作されたと推定されており、王国を訪問した様々な国の使節団が描かれる。高句麗の使節は鳥羽冠を被り、環頭大刀を腰に帯びて描かれる。バルフマン王は中国側の史料では、唐の高宗から康居都督府の都督に任じられた「拂呼縵」とされる。復元された壁画(オリジナルに近い模写図)はソウルの国立中央博物館3階中央アジア室に展示されている。

言語

紀元7世紀前半に中国人旅行家の義浄は、チュー川沿いのシュアブの町からケシュに至る土地すべてがソグドと呼ばれ、ソグド語を使用し、ソグド語が話されていたと述べている。ソグド語は国際的な言語であった。ソグド語はシルクロードの共通語として使用されていた。 ソグド人がもたらしたソグド文字はウイグル文字となり、そのウイグル文字が13世紀にモンゴル文字となった。イスラム時代には言語として近世ペルシア語を用いるようになり、ソグド語は使われなくなり、イランとの文化的な繋がりが緊密になった。1907年にイギリスの探検家のスタインは、中国・敦煌西北の烽火台の下から8通のソグド語の文書(手紙)を発見した。

ソグド人の遺跡

ソグド人の遺跡にはペンジケント、アフラシアブ(当時はマラカンダの名称)、バラフシャなどがある。全盛期は6世紀の都市遺跡であり、宮殿跡から壁画、幾何学紋様の塑像が発掘された。付近にゾロアスター経の神殿がある。中国でソグド人は胡人と呼ばれ、唐で胡服、胡歌、胡旋舞が流行した。ペンジケント遺跡はサマルカンドから東に65km、タジク共和国の西北にある。5世紀から6世紀の間に最も発展していた。ペンジケント遺跡から壁画や炭化した仏像が出土する。連珠文にパルメット紋を配する副服装は、ササン朝ペルシャと共通する。風貌は金髪、巻き毛、目は大きく蒼く、鼻は高く口髭を蓄え、眉毛は濃い。アフラシアブはサマルカンドの北にあるソグド人の都市遺跡である。

正倉院のソグド

渤海使として来日したソグド人もおり、日本の文化にも影響を与えたといわれる。 法隆寺献納宝物の一部として白檀2点と沈香1点が伝わる。白檀2点に刻まれた謎の刻印と焼印は、ソグド商人の海と陸にわたる交易のネットワークの手がかりである。白檀に記された墨書は天平宝字5年(716年)のもので、刻名の文字はパフラヴィー語(中期ペルシア語)で「ボーフトーイ」(人名)、焼印の文字はソグド文字で「ニーム・スィール」とされる(加藤九祚)。 ソグド人の特徴である「深目高鼻」の面が、正倉院に残る。ソグド人の首領は帽子を被っている。正倉院の「酔胡王」と「酔胡従」の伎楽面はソグド人を表す。酔胡王は泥酔した胡(古代ペルシャ)の王という設定であるが、高い鼻をもち、分厚い唇、太い眉毛、高い帽子でソグド人の特徴をもつ。奈良県明日香村の飛鳥池遺跡で、古代の仮面舞踊劇「伎楽」に使用する面の一つ「酔胡王」を描いた木簡が出土している。義浄の『南海寄帰内法伝』に671年の広州に住むペルシアの船商人について書かれている。唐招提寺の四代目住職の安如宝は中国揚州のソグド人であった。

考察

参考文献

  1. 早田啓子(2005)「中央アジアとその周辺の宗教文化V」昭和女子大学紀要 学苑 (773), pp.88-97
  2. 早田啓子(2004)「中央アジアとその周辺の宗教文化Ⅳ」昭和女子大学紀要 學苑 (762) pp.113-122
  3. 「NHKスペシャル 文明の道 第5集 シルクロードの謎 隊商の民 ソグド」2003年9月14日放送
  4. 加藤九祚(1981)『西域の秘宝を求めて第2版』新時代社
  5. 森安孝夫(2016)『シルクロードと唐帝国』

備中国分寺跡2025年07月25日 00:08

備中国分寺跡(びっちゅうこくぶんじあと)は岡山県総社市にある古代の寺院跡である。

概要

低丘陵のゆるやかな南麓に位置する東西160m、南北178mの寺院跡である。備中国分寺は聖武天皇が741年(天平13年)に仏教の力を借りて天災や飢饉から人々と国を守る (鎮護国家)ことを目的に建てられた官寺の一つであった。 敷地の周囲は底面の幅約1mの築地によって区画されていた。創建当初の国分寺跡は現在の国分寺境内と重複する。建物は南門や中門が発見されており、ともに5間×2間である。1971年(昭和46年)に岡山県教育委員会が実施した発掘調査によって、南門跡、中門跡、建物跡、築地土塀などが確認されている。金堂跡や講堂跡は現在も寺の境内地のうちに含まれており、その位置や規模などは明らかではない。 出土品は軒丸瓦や軒平瓦のほかに、鬼瓦や鴟尾などがある。 出土した土器などから、中世初期まで存続したと推定されている。備中国分寺は、中世には廃寺となったが、その後江戸時代中期に至って清水山惣寺院住職増鉄和尚が、領主蒔田氏から再興の許可と国分寺の跡地を賜り、江戸時代・1717年(享保2年)から19年の歳月を費やし、日照山国分寺として再建したものである。建設費用は銀360貫目、金に換算すると5,000~6,000両と言われる。 現存する伽藍はすべて再興後に建てられた建築である。 岡山県唯一の五重塔がある。

調査

遺構

出土遺物

指定

  • 昭和43(1968)年2月15日 国指定 史跡
  • 1968年2月15日 - 重要文化財 五重塔

アクセス

  • 名称:備中国分寺跡
  • 所在地:〒719-1123 岡山県総社市上林
  • 交通:JR伯美線総社駅から総社バス「吉備路もてなしの館」下車、徒歩約15分

参考文献

  1. 大塚初重(1996)『古墳事典』東京堂出版
  2. 葛原克人(1975)「備中国分寺」『仏教芸術』103

臈纈2025年06月17日 21:39

臈纈(ろうけち、ろうけつ)は染色技法のひとつで布帛に蝋で文様を描き、染液中に浸したあとで蝋を取り除く染め方である。 「蝋纈」、「蝋結」、「﨟纈」とも書く。

概要

インドで生み出された染色技法とされる。飛鳥・奈良時代に中国経由で伝わったとされ、正倉院に蝋纈が残る。型で蝋を押して文様を表したものが多い。奈良時代に盛行したが、平安時代以降は、ほとんど使われておらず、明治時代から大正時代になって復活した。着物、帯、暖簾、タペストリーなどの染色に使われる。 布帛の模様部分を蝋で防染し、模様を描き出す。布帛を染料に浸し、その後、蝋を洗い落とすと、蝋のあった個所に模様が表現される。

天平の三纈

「天平の三纈」と言われる染色技法に夾纈(キョウケチ)・纐纈(コウケチ)・﨟纈(ロウケチ)がある。

正倉院

正倉院では以下の宝物に蝋纈が使われている。

  • 臈纈屏風  象木屏風
  • 御袈裟箱袋 第1号
  • 臈纈屏風  鸚烏武屏風
  • 縹臈纈布袋 第13号
  • 赤地鳳凰唐草丸文臈纈絁
  • 白綾几褥 第23号
  • 緑地唐草襷花文臈纈絁
  • 白橡臈纈?袴 第1号

唐招提寺2025年06月08日 17:03

唐招提寺(とうしょうだいじ)は唐の高僧の鑑真和上により奈良時代中期に創建された南都六宗の一つである律宗の総本山である。

概要

鑑真大和上は、東大寺で5年を過ごした後、759年(天平宝字3年)、官が没収していた新田部親王の旧邸宅を下賜されたのが唐招提寺の始まりである。戒律を学ぶ人たちのための修行の道場として唐招提寺を開いた。当初は戒律を説く学問所として「唐律招提」という名称であった。唐では官寺でない寺を「招提」と称しており、四方から僧が集まり居住する所を意味した。

建築の変遷

当初の建物は講堂や新田部親王の旧宅を改造した経蔵、宝蔵だけであった。僧坊は藤原清河 邸から施入された。8世紀後半の鑑真の死後に金堂が完成した。 平安末期には興福寺の末寺となった。1900年(明治33年)に興福寺から独立して律宗総本山となる。1998年(平成10年)、奈良時代の建築が残るものとして、世界遺産のひとつとして登録された。天平時代の金堂と講堂が残るのは唐招提寺だけである。金堂の柱間は中の間の三つが等間隔が一般的であるが、当金堂は中央の間から端の間に向けて逓減している。金堂の垂木の伐採年代は781年と判明しているので、金堂の建立はその数年後であろう。『招提寺流記』に、食堂は藤原仲麻呂家から施入され、羂索堂は藤原清河家から寄進されたと記される。両者とも現在は失われている。

金堂

  • 国宝 奈良時代(8世紀後半)
  • 奈良時代建立の寺院金堂としては現存唯一のものである。
  • 外観は、正面桁行七間、梁間四間、一重、寄棟造、本瓦葺で南面する。

講堂

  • 国宝 奈良時代(8世紀後半)
  • 平城宮の東朝集殿を移築・改造したものである。

宝蔵

  • 国宝 奈良時代(8世紀)
  • 唐招提寺創建にあわせて建立されたといわれ、経蔵より一回り大きい。

鼓楼

  • 国宝 鎌倉時代 仁治元年(1240)

経蔵

  • 国宝 奈良時代(8世紀)
  • 高床式の校倉
  • 唐招提寺創建以前の新田部親王邸の米倉を改造したものといわれる。
  • 唐招提寺で最も古い建造物

礼堂

  • 重要文化財 鎌倉時代
  • 礼堂は、隣の鼓楼に安置された仏舎利を礼拝するための堂である。

基本事項

  • 名称:唐招提寺
  • 本尊:盧舎那仏
  • 宗派:律宗
  • 拝観時間:8:30~17:00(受付は16:30まで)
  • 拝観料 大人・大学生 1000円
  • 国宝 鑑真和上坐像 特別公開 1000円
  • 所在地:〒630-8032 奈良県奈良市五条町13-46
  • 交通:近鉄西ノ京駅徒歩10分/ 奈良交通バス「唐招提寺」「唐招提寺東口」

参考文献

紫香楽宮2025年05月05日 00:24

紫香楽宮(しがらきみや)は奈良時代に聖武天皇が建設を命令し、一時は遷都された宮都である。

概要

741年(天平13年)、聖武天皇は恭仁宮に遷都した。同じ年に諸国に国分寺、国分尼寺の造営の詔勅を出した。742年(天平14年)8月、聖武天皇は近江国甲賀郡紫香楽村に行幸の詔を発し、同時に造離宮司が補任された。聖武天皇は恭仁京(京都府木津川市)の離宮として紫香楽宮を造営を開始した。743年(天平15年)11月の体骨柱(大仏鋳造の内型の芯柱)を立てる式典に際して、天皇自身が綱を引いたと記録される。『続日本紀』天平16年(744年)2月24日、聖武天皇は紫香楽宮に行幸した。紫香楽宮の建設状況の確認があったとみられる。天平16年(744年)、朝廷では難波宮を都にする準備を進めており、2月末には正式に難波を都と宣言した。一方では、紫香楽宮の建設は引き続き進行していた。 翌745年(天平17年)1月になると聖武天皇は紫香楽宮に遷都し、新京として百官朝賀の新年儀式を執り行なった。紫香楽宮は「新京」と呼ばれ、宮殿の門前に立てる大きな楯と槍が立てられた。ところが4月ごろ香楽宮や甲賀寺周辺の山々で大火災が相次いだ。その上、美濃国(岐阜県)で起きた大地震の余震と思われる地震などの災害も起こり、人心の不安が募ったことから、天平17年5月には再び平城京に遷都し、紫香楽宮は無人の地となった。 わずか3ヵ月前後の宮都であった。 数年間に、めまぐるしく「平城京→恭仁京→難波宮→紫香楽宮→平城京」と相次いだ遷都の事情は不明な点が多い。

調査

1923年、考古学者の黒板勝美が現地視察を行い、257個の礎石の配置図を作成した。1926年、内務省により「紫香楽宮跡」は国の特別史跡に指定された。しかし肥後和男は礎石配置が寺院に類似すること、宮殿遺構の礎石にしては多すぎると指摘した。1930年1月6日から9日まで短期間の発掘調査が行われ、経楼跡、鐘楼跡、塔跡、塔院の垣が検出された。東大寺の建物配置に類似すること、山城国分寺跡と同笵瓦が出土することから寺院跡と判明した。現存する礎石遺構が大仏建立のために建立された甲賀寺とするなら、東大寺の規模と比較すると面積は3割弱となり、丘陵全体では東大寺に匹敵するの面積が確保できるが、「国中の銅を尽くし、大山を崩す」という大仏建立の詔の表現に対して、その規模が小さいことが論議の的となる。

1984年に宮町遺跡で発掘調査が行われ、掘立柱、塀の跡の柱穴群、溝などが検出された。信楽町教育委員会の単独発掘調査の第4次調査で、溝から「奈加王」「垂水○」などと記された6点の木簡が発見された。1993年の第13次調査で、四面庇の大型東西建物が検出され、「天平十三年十月」と記される駿河から鰹を貢納する調の付札木簡が出土した。「天○○五年十一月二日」と記された木簡は、『続日本紀』天平十五年10月16日条に紫香楽で盧舎那仏を造仏する詔勅が出され、東海、東山、北陸の三道から貢納する調は紫香楽に運ぶよう命じている。これに対応する調の木簡とみられる。2000年の調査では南北棟の掘立柱の建物が検出され、100mを超える大型建物と判明した。宮町遺跡の中央の南半分に位置し、『続日本紀』天平17年(745年)正月七日条に記載される紫香楽宮の朝堂と見られる。宮町遺跡が紫香楽宮であることは決定的になった。宮町遺跡の一部は、平成17年に史跡紫香楽宮跡に追加指定された。小規模の宮殿と思われていた紫香楽宮が、相当に大規模な宮であったことが明らかになった。正殿と東西脇殿の朝堂区画と、その北方に西建物と東建物を中心とする内裏区画が作られていた。

遺構

  • 掘立柱建物
  • 掘立柱塀1
  • 溝1

遺物

  • 須恵器
  • 土師器
  • 木簡
  • 銭貨
  • 墨書土器
  • 木製品

指定

被葬者

築造時期

展示

アクセス等

  • 名称:紫香楽宮
  • 所在地:滋賀県甲賀市信楽町宮町
  • 交通: 宮町遺跡まで信楽高原鐵道 雲井駅 徒歩45分/紫香楽宮遺跡跡まで信楽高原鐵道 雲井駅 徒歩 15分/雲井駅から雲井国道線(信楽駅?雲井駅・小学校経由)バス 宮町遺跡前まで19分

参考文献

  1. 甲賀市教育委員会(2023)『甲賀市文化財報告書41:史跡紫香楽宮跡(宮町地区)発掘調査報告書』甲賀市教育委員会