Bing
PVアクセスランキング にほんブログ村

吉備真備2025年03月27日 23:03

吉備真備(きびのまきび,695年 - 775年10月)は奈良時代の学者、官僚、政治家である。

概要

奈良時代に遣唐留学生として唐に渡り、中国で19年間政治、経済、法律、天文、数学、暦、兵学、音楽、儒学、歴史を学んだ。帰国してから朝廷に出仕し、右大臣にまでなった。近世以前に学者で右大臣になったのは吉備真備が最初の例である。出生時の名前は「下道朝臣真備」であった。「吉備真吉備」とも記される。

修業時代

695年(持統9年)下級武官(右衛士少尉)の下道朝臣国勝の子として生まれた(『続日本紀』宝亀六年10月2日)。衛士府は宮腋を警護し、隊杖を検校し、朝議では儀杖に参列し、行幸の際は供奉する役割がある。位階は従八位相当である。吉備真備の母の墓誌は1723年(亨保13年)、大和国宇智郡大沢村(現奈良県五條市)の山麓で農民により発見された。すなわち「楊貴氏墓碑」である。 下道氏は吉備国において上道氏とともに豪族連合を形成しており、地方豪族であった。 『和名抄』に下道は「之毛津美知(しもつみち)」と読むとされている。上道は京畿に上る方向であり、下道は京都から筑紫に下る方向である。当時、国名は京畿に近いほうを「上」とし、遠い方を「下」とした。『古事記』では、若日子建吉備津日子命の後裔氏族であるとされる。『日本書紀』によれば、応神天皇によって下道臣の始祖である稲速別が吉備国川嶋県に封ぜられたとされる。 吉備真備の出生時は「下道朝臣真備」と称し、吉備地方の臣姓国造、すなわち族長的土豪の出身であった。天武13年に朝臣姓を与えられた(参考文献1)。 真備は15歳前後で大学寮に入り、6,7年の課程を経て、省試を受けて従八位下を授けられたとされる。

遣唐留学生

716年(霊亀2年)に真備は22歳で遣唐留学生に選ばれ、23歳で入唐した。『扶桑略記』によると、このときの遣唐使は過去最大人数の人数で、4隻557人であった。 真備は阿倍仲麻呂の7歳年長である。当時の留学生は遣唐使が唐の皇帝に持参する手土産や乗組員の私物を詰め込んだ船倉に入れられていた。 真備は唐で19年間(往復の期間を除くと実質は17年)の留学生生活を過ごし、735年(天平2年)に帰国した。「日本の留学生で唐で名をなした者は吉備真備と阿倍仲麻呂の二人のみである」(『続日本紀』)と称されるが、唐側の記録に吉備真備は現れない。 717年(養老元年)3月に難波を発した。押使は従四位下多治比縣守。大使は従五位上阿倍安麻呂(従五位下大伴宿禰山守に交代)、副使は正六位下(従五位下に昇叙)藤原宇合であった。716年(霊亀2年)8月20日に任命され、717年(霊亀3年)3月9日、多治比縣守に節刀を賜り出発した。717年(開元5年)10月1日に唐の長安に到達した(参考文献5)。10月1日に玄宗皇帝の勅を賜り、16日に中書省で宴集を受け、19日に孔子廟堂を謁し、寺院・道観の礼拝を許された。 『新唐書』巻220、東夷列伝第145日本の条に記載されている。

  • 「開元の初め、粟田復た朝す。諸儒に従って経を授けられん
  • ことを請う。四門助教趙玄黙に詔して鴻臚寺に即いて師と為す。
  • 大福布を献じて贄と為す。
  • 賞物を悉して、書を貿ひて以て帰る。(『新唐書』巻220)」 粟田は多治比縣守を粟田真人と混同したものである。真備は趙玄黙から『礼記』『漢書を学んだと思われる。開幅布(大福布)を束脩として差し出して入門したのは真備と考えられる。その布に「白亀元年調布」と書かれていた。白亀は神亀ではなく、「養老」前年の「霊亀」の誤りと見られる。霊亀元年(715年)に朝廷から賜った調布と見られる。

帰朝

真備は734年(天平6年)の遣唐使の帰国時に同行した。第1船の多治比広成は11月20日に種子島に帰着し(吉備真備・玄昉帰国。羽栗吉麻呂・翼・翔親子も帰国)、735年(天平7年)3月に帰国した。帰朝後、4月26日に基調報告し、従八位下から正六位下に昇叙し、大学助となった(注1)。従八位下から4階級特進である。 『続日本紀』天平七4月26日に「入唐留学生従八位下下道朝臣真備、献唐礼一百三十巻、大衍歴経一巻、立成十二巻、測影鉄尺1枚、銅律管一部、鉄如方響、写律管声十二条、楽書要録十巻、絃纏漆角弓一張、馬上飲水漆角弓一張、露面漆四節角弓一張、射甲漆箭廿隻、平射箭十隻」と書かれている。 真備は唐礼130巻、則天武后勅撰の音楽理論書『楽書要録』10巻や律呂(音階)調律用の「銅律管」など、礼・楽に関するものを招来した。唐礼一百三十巻とは高宗の『永徽礼』とされている(参考文献4)。『楽書要録』は『楽書要録』は則天武后選の音楽書で、中国には残存せず、日本に巻第五・巻第六・巻第七の3巻と残りの7巻の逸文が伝存する。このほか完本ではないが、歴史書の『東漢観気』を移せるだけ写し、持ち帰ったと伝えられる。 真備は道芸を恢弘し、学生400名に「五経、三史、明法、算術、音韻、籀篆等の六道」を学ばしめた(参考文献6)。 さらに翌736年(天平8年)正月の定期叙位で正六位下から外従五位下を授けられた。42歳の時である。翌737年(天平9年)11月には従五位下に叙せられ、入内した。入唐留学と学業の優秀性が認められたものであろう。12月27日には玄昉の宮子皇太后の看病平癒の功を賞して、大量の贈り物があり、同時に真備は従五位上に叙せられた。真備の昇進はかなり早いと見られる。

藤原広嗣の乱

大宰少藤原広嗣は、吉備真備と僧玄昉が朝廷で重用されるのを妬み、740年、2人を討つという名目により北九州で挙兵し、乱を起こした。乱の原因として藤原氏の地位の相対的な低下が挙げられている。 737年の聖武天皇の時代から疫病が流行した。遣唐使のメンバーが唐から持ち帰った天然痘が原因と言われている。疫病のため737年1月から8月にかけて藤原不比等の第4子である藤原武智麻呂( 従二位・右大臣)・藤原房前(正三位、参議民部卿)・藤原宇合(正三位・参議)・藤原麻呂(従三位・参議)の4兄弟をはじめ、政府高官が次々と亡くなり朝廷は機能不全に陥った。聖武天皇は、危機を乗り越えるため生き残り政権幹部の橘諸兄を、738年に正三位 右大臣とし危機を乗り越えようとした<ref>橘諸兄は藤原不比等の娘を妻としており、藤原氏との関係が深い。橘諸兄は部下として遣唐留学生であった吉備真備、玄昉を抜擢した。当時は人材不足のため、それを解消するための措置であった。

ところが藤原宇合の息子である藤原広嗣(当時従五位下、式部少輔)は大きな不満を公言した。藤原広嗣は大宰府へ左遷されたため、上奏文を送り付けたが、右大臣の橘諸兄はこれを謀反と考えた。 『続日本紀』天平12年秋八月癸未(740年8月29日)に次のように書かれる。

「太宰少貳従五位下藤原朝臣広嗣、上表して時政の得失を指し
天地の災異を陳ぶ、因りて僧正玄昉・右衛士督従五位上
下道朝臣を除くを以て言となす」

『松浦廟宮先祖次第并本縁起』(参考文献3)は信頼できない記述も多いのであるが、採用できる部分もある。その中に藤原広嗣が上表した文を掲載している。他の資料には見られず、また誤りがほぼない個所となる。

「僧正玄昉・・・伝聞すらく、大唐の相師、当に天子となるべし
というと。竊に此言を負い、独り宝位を窺ふ。」
「従五位上守右衛士督兼中宮亮近江守下道朝臣真備は辺鄙
の伝氏、斗?の小人なり。海外に遊学して、尤も表短(ママ)を習う。
智あり勇あり権あり。
口に山甫の遺風を論じて意に趙高の権謀を慕ふ。
所謂、有為;姦雄の客、利口覆国の人なり。亦玄昉の
左翼となりて陛下の明徳を蔽う。」
「若し早く除かんば恐らくは噬臍の憂を胎さん」
「両翼去らずんば将に斧柯を用ゐんとす。」(『松浦廟宮
先祖次第并本縁起』)

と書かれている。玄昉が帝位を狙い、真備はそれを助けて天皇の判断を妨げているという讒言である。それを除くために武力を使うと脅している。玄昉と真備を追い落とそうとする急先鋒となった。 上表は740年8月29日に送付され、9月3日には兵を起こし、管轄下の1万余の兵を動員して東上を開始した。隼人を引き入れたとも伝わる。政府軍は大野東人を大将軍とする追討軍であり北九州各地で激戦する。政府軍は関門海峡をわたり、九月二十日から二十一日ごろ三鎮を陥落させた。敗れた広嗣は値嘉島(五島列島)からさらに西方へ脱出しようとして捕縛された。11月1日には松浦郡で切られた。反乱は約2ヵ月間であった。

二度目の入唐

天平12年(740年)11月21日、鈴鹿郡赤坂頓宮において真備は正五位下を賜る。さらに天平十三年7月3日(辛亥)、東宮学士となる。東宮は後の孝謙天皇であった。天平15年(743年)5月癸卯には皇太子安倍内親王に五節を舞う盛儀が行われ、五節舞は天下の人に君臣祖子の理を教えることであり、皇太子宮の官人の冠一階を進めた。博士であり真備には特に二階を進め、正五位下から従四位下とした。五位の期間は7年余りであった。天平15年6月には春宮大夫となる。都が平城に復都した5月11日から半年後の11月2日、玄昉は筑紫に左遷され、観世音寺別当となった。しかし天平18年(746年)6月18日、観世音寺造立供養の日に謎の死を遂げた。盟友の玄昉を失ったことは、真備にとって痛手であった。同年10月19日には吉備姓を賜る。真備は52歳であった。皇太子時代の安倍内親王を教えた真備は、孝謙天皇として即位した後に、従四位上に昇叙された。しかす、翌750年(天平勝宝2年)、当時の実力者である大納言の藤原仲麻呂に疎まれ、1月10日、真備は筑前守に左遷され、次いで肥後守に左降された。751年(天平勝宝3年)11月7日、真備を遣唐副使として任命した。大使は藤原清河(従四位下)、副使は大伴古麻呂(従五位下)であった。従四位上の真備の方が大使より位階は上であった。752年(天平勝宝4年)、3月9日大使に節刀を賜り、清河を二階級特進の正四位下、古麻呂を四階級特進の従四位上に昇叙させた。藤原が遣唐大使になったのは初めてのことである。閏3月3日、遣唐使は唐に出発した。

席次問題

753年(天宝十二載)正月、唐の朝賀の場において新羅と倭との席次争いが起きた。当初の席次はつぎの通りであった。

  • 天宝十二載(753)正月朝賀の席次は(当初)
    • 東班 第一 新羅、第二 大食
    • 西班 第一 吐蕃、第二 日本 すなわち日本を西畔の第二吐蕃(チベット)の下に置き、新羅を東班第一大食国(サラセン)の上に置いていた。そこで遣唐副使の大伴古麻呂が「昔から今に至るまで、新羅は日本に朝貢すること久しい。ところが新羅を東列の上位に位置し、我は逆に下位にあります。道理とした納得できません」と抗議した。唐の将軍呉懐実は、古麻呂が席次をよしとしない様子から、新羅を西列第二の吐蕃の下に置き、日本の使節を東列第一位とし大食国の上席に置いたと報告されている(参考文献8)。
  • 天宝十二載(753)正月朝賀の席次(修正後)
    • 東班 第一 日本、第二 大食
    • 西班 第一 吐蕃、第二 新羅

古来、日本の国威を発揚した逸話として知られるが、最近では当時の日本の国際的地位を示すものという見解がある(参考文献9)。さらに山尾幸久は虚構説を唱える。その理由は新羅の遣府使は、748年(天宝7年)から755年(天宝14年)まで見られない事、唐側の記録に記載されていないことを挙げている(参考文献7)。

大宰府

754年(天平勝宝6年)正四位下・大宰大弐に叙任され、九州地方に赴任した。その2年後の756年(天平勝宝8年)に新羅に対する防衛のため筑前国の高祖山に怡土城を築造する。758年(天平宝字2年)に大宰府で唐での安禄山の乱に備えるよう勅を受けた.。大宰府赴任は約10年に及んだ。764年(天平宝字8年)に造東大寺長官に任ぜられ、70歳で帰京することになった。藤原仲麻呂の乱において従三位に昇叙して、中衛大将として追討軍を指揮し、優れた軍略により乱鎮圧に功を挙げ、翌765年(天平神護元年)には勲二等を授けられる。

議政官

真備は764年(天平宝字8年)から770年(宝亀元年)まで議政官として、国の政策決定に関わった。真備が推進した政策は救貧対策として、国司郡司のうち真面目で勤勉なものを選出し、農民に麦作を奨励させたこと、二柱を建設(中壬生門の西に柱を立てる)ことである。「官司に圧迫されているものは、この柱の下に来て訴えよ」「人民の中で無実の罪を着せられているものは、この柱の下に来て訴えよ」と柱に記した。その訴えを弾正台に訴状を受け取らせた。公正な司法を実現するための仁政策である。

名称表記について

「真備」「真吉備」の2通りの表記がある。

  • 真備:『続日本紀』巻三十三・光仁天皇宝亀六年(775年)十月
  • 真吉備:『日本紀略』『正倉院文書』『類聚国史』、『続日本紀』慶雲元年・宝亀元年・延暦十年

本居宣長は「真吉備」が正しい名であるが、唐で「吉」を省略し。帰朝後もそのまま使ったとする(本居宣長『玉かつま』6巻)。杉本直治郎(1940)は唐風の記載に「真備」が使われ、和風の記載には「真吉備」が使われたとする(参考文献13)。

吉備朝臣への改姓

吉備朝臣の名を賜ったのは746年(天平18年)である(『続日本紀』天平十八年十月丁卯条「従四位下下道朝臣真備に姓吉備朝臣を賜ふ」)。これ以降一族は吉備朝臣を称した。真備は「吉備真備」(または「吉備真吉備」)を名乗った。

生年の検討

生年を直接的に記載した文献は存在しないので、文献の他の記載から類推することになる。 『続日本紀』宝亀元年(775年)十月丙申条「上啓して骸骨を乞ふ文」に「去る天平宝字八年(764年)正月、真備生年数えて七十に満つ」と書かれており、これからすれば695年(持統天皇九年)生まれとなる。 入唐したときの年齢は20歳(参考文献13)と文献による差異がある。入唐時(霊亀2年)に20歳なら697年生まれとなる。

結論としては本人の書いた上啓文が最も信頼性が高いと考えられるので、695年(持統天皇九年)生まれが正しい生年と理解できるであろう。

出生地

出生地は確定した説はないが、2説があり、真備地方生誕説と畿内生誕説とがある。 父親のルーツは備中国下道(現在の岡山県)であるが、中央政府の下級官僚であったため、真備の出生は畿内の可能性があるとされる。

  • (1) 真備地方生誕説の根拠
    • 一方、江戸時代の「吉備大臣聖廟旧蹟録」(吉備寺所蔵)には、吉備真備が真備地方で生まれたときの様子が具体的に書かれている。しかし、江戸時代史料では時代が離れすぎているので、信頼性に乏しい。
  • (2) 畿内生誕の根拠
    • 真備の父、下道圀勝は当時、平城京の警護兵であり、大和地方の豪族である八木氏(楊貴氏)の娘と結婚していた。八木一族は鴨大神に近い大和国宇智郡に住んでいた。

吉備真備が書いた墓誌

吉備真備が書いたとみられる墓誌が中国で、発見されたと2019年12月25日に[北京発表された(参考文献12)。墓誌は望野博館が2013年に入手したものという。734年(開元22年)6月20日に死去た李訓の墓誌である。まさに吉備真備が唐に滞在中に書いたとしても不思議ではない。墓誌の末尾に「日本国朝臣備書」と書かれている。日本国朝臣とは、日本で使用する姓(かばね)を表す。「備」とは真備のことであろう。唐に滞在した日本人で朝臣を名乗れ、名前に「備」がつく人物はかなり絞られる。734年は真備が日本に帰国する直前の時期であったし、李訓は外国使節謁見の儀礼を担当していたので、吉備真備とは顔見知りであったであろう。

古代日本人の直筆「日本国」の文字としては、最古の記録になるという。中国古代史研究者である氣賀澤保規教授(明治大学文学部元教授)は、「紛れもなく本物の墓誌」と明言した。墓誌蓋の拓本には筆跡が明確に分かる(参考文献10)。

吉備真備は当時「墓誌」執筆のアルバイトを唐で行っていた。当時は文字を書ける人は少なく、また書に優れた人物も少なかった。真備にはそれなりの収入になっていたと考えられる。書物を購入する資金源となっていた。

吉備真備の墓

吉備真備の墓と伝えられている吉備塚古墳がある。、奈良県奈良市高畑町の奈良教育大学キャンパスに残る古墳である。1986年に古墳時代中期後半の特徴を有する画文帯環状乳神獣鏡が採集され、学術調査により、墳頂部に2基の埋葬施設があることが確認され、5世紀後葉から6世紀初頭の埴輪片や2基の木棺直葬をはじめ、三累環頭大刀、貝装雲珠、挂甲などの遣物が多数発掘され、吉備塚は六世紀の古墳とされ、吉備真備とは時代が異なることが判明した。吉備真備の臨終地には、吉備説と大和説とがある。右大臣の辞職後、どこで余生を送ったのか史料がないため、終焉の地も不明である。岡山県真備町にも、吉備真備とされる墓が存在している。しかし臨終の地がどこか、はっきりとした記録や物証がないため確定できないのが現状である。

吉備真備の記念碑等

  • 中国西安市吉備真備碑 真備が長安で学んだ国士監(大学)の跡地(環城公園内)に「吉備真備記念碑園」が建設され、その除幕式が1986年(昭和61年)5月8日に西安市で行われた。碑面の「遣唐留学生 吉備真備記念碑」の刻字の下書きは、岡崎嘉平太の揮毫による(参考文献11)。
  • 岡山県真備町記念館 岡山県真備町のまきび公園に吉備真備の記念碑があり、まきび記念館が作られている。
  • 名称:まきび公園
  • 開設:1986年10月
  • 所在地:岡山県倉敷市真備町箭田3652-1
  • 交通:井原鉄道井原線 吉備真備駅から徒歩で15分

吉備真備公園

吉備真備公園は「日本の歴史公園100 選」(日本公園緑地協会)に選定されている。吉備真備銅像がある。

  • 名称:吉備真備公園
  • 所在地:岡山県小田郡矢掛町東三成3872-2
  • 交通:井原鉄道井原線 三谷駅から車で5分

参考文献

  1. 宮田俊彦(1961)『吉備真備』吉川弘文館
  2. 『続日本紀』宝亀六年十月壬戌薨伝
  3. 塙保己一 編, 続群書類従完成会校(1952)『羣書類従 第2輯』 (神祇部 第2巻第16-28))
  4. 内藤湖南(1930)『日本文化史研究』弘文堂
  5. 『冊府元亀』巻971朝貢、玄宗開元五年十月「日本国、使を遣わして朝貢す。通事舎人に命じ鴻臚寺に就いて宣慰せしむ」
  6. 三善清行(914)『三善清行意見封事』
  7. 山尾幸久(1970)「百済三書と日本書紀」(『朝鮮史認識の展開』朝鮮史研究会論文集15 収録)龍渓書舎
  8. 『続日本紀』天平勝宝6年(754年)条
  9. 坂元義種(1967)「古代東アジアの国際関係--和親・封冊・使節よりみたる」ヒストリア (49), pp.1-25
  10. 考古学における画期的発見、吉備真備直筆の書が北京で公開、2019年12月25日,CRI Online
  11. 岡崎嘉平太伝刊行会編(1992)『岡崎嘉平太伝』ぎょうせい
  12. 『扶桑略記』
  13. 『公卿補任』
  14. 杉本直治郎(1940)『阿倍仲麻呂伝研究』育芳社
  15. 「吉備真備の筆跡か 中国留学中の墓誌発見」産経新聞、2019年12月26日
  16. 阿曽村邦昭(2018)『吉備真備』文芸社

三宅イベント2025年03月15日 00:41

三宅イベント(みやけいべんと)は名古屋大学の三宅芙沙准教授が発見した大気中の放射性炭素14の濃度が急激に増加する現象である。

概要

炭素には炭素12、13、14の重さの異なる3種類の同位体が存在する。大気中には炭素12が約99%存在し、炭素13は安定同位体として約1%存在する。放射性同位体の炭素14は存在比が1兆分の1とごく微量に存在する。 大気中にある放射性炭素14は、地球外から飛来する宇宙線が大気と反応して生じた中性子が大気中の原子核と衝突し、種々の反応を引き起こす。その中でできる生成物のひとつが放射性炭素14(C-14)である。 大気中の放射性炭素14は大気循環により混合し、濃度が平均化され、光合成によって地上の樹木に取り込まれる。放射性炭素14は酸化されて2酸化炭素となる。重さが異なるだけで、化学的には区別できない。

放射性炭素14の濃度比変化

樹木の年輪には、放射性炭素14が含まれているから、その変化が年ごとに記録されていることになる。放射性炭素の濃度はシュワーベサイクル(太陽の磁場が約11年で反転する現象)により1年あたり0.6%程度増減する。 それより大きな変動があれば、高エネルギ-イベントがおきたと考えられる。1859年のキャリントンイベントでも大きな放射性炭素14の濃度変化はなかった。

775年イベントの発見

名古屋大学の三宅芙沙准教授と増田公明らは屋久杉の年輪を1層毎に分析し、西暦 774年から775 年にかけて1年 で12%の放射性炭素14急増イベントがあることを発見した。ドイツでオーク試料を用いた1年分解能の追試の測定を行い、本研究で得られた結果と非常に良く一致した。ヨーロピアンオークの特徴は樹齢が非常に長いことが知られている。 ドイツでは国樹となっている。リトアニア、デンマーク、ブルガリアなどには樹齢1,500年を超えるヨーロピアンオークが現存しており、「永遠性」を表す象徴となっている。 南極のドームふじアイスコアから得られた10Beの 10 年値でも同じよ うな増加が見られた。そのほか世界中の樹木北半球27地点、南半球7地点で発見されている。 地球の広い地域で記録された地球規模のイベントであったことが証明された。 775年頃に宇宙線が大量に飛来してきたことが明らかになった。

放射性炭素14の急激な濃度変化の原因

原因としてはいくつか考えられている。銀河系宇宙で発生したガンマ線バースト説、太陽フレアによる大規模な太陽陽子現象説、超新星爆発説、彗星衝突説などがある。氷コア分析や世界中の放射性炭素14分析での検証によれば、超新星爆発説、彗星衝突説、ガンマ線バースト説とは整合しない。すなわち太陽のスパーフレア説が最有力となる。現代の観測史上最大級の太陽面爆発の数十倍という超巨大な太陽面爆発と見られている。太陽高エネルギー粒子(SEP)現象として知られている。

歴史記録

歴史的な記録には対応するものはないが、『アングロ・サクソン年代記』の774年に「赤い十字架が日没後の空に見えた」との記録がある(66ページ)。なお大蛇が空に現れたとの記載は無い。

三宅イベント

AD774年の他、AD994年、BC660年、BC5259年、BC7176年にも同様のイベントがあったことが発見されている。これらは発見者の三宅の名前を取って「三宅イベント」(Miyake event)と呼ばれる。2012年に科学論文誌のNatureに掲載された。BC12350年から12349年に起きたことは過去最大の「三宅イベント」と考えられている。イベント後は気温上昇が顕著という報告もある。コレージュ・ド・フランスの気候学者、エドゥアール・バードはフランスアルプスの川床の端に露出した埋没林の年輪を分析して、約14,300年前の「三宅イベント」を発見した。最終氷期極大期の終わりに、地球の陸地面積の25%を覆っていた氷床が溶け始め、急流がヨーロッパアカマツ(Pinus sylvestris)の森に堆積物を運んだ。水没した無酸素環境によって木の幹がそのまま保存され、今もまっすぐに立って根を張っている。ドゥルーゼ川の岸沿いに生えてる 172 本の樹木から炭素 14 のサンプルを採取したところ、14,300 年前と推定される放射性炭素の異常な急増を発見した。

影響

775年の三宅イベントは地球上の生命に重大な影響を及ぼさなかった。しかし、現代で起きると通信や宇宙航行システムに壊滅的な被害をもたらすと想定されている。発生する太陽フレアは、宇宙飛行士にかなりの危険を齎すと考えられている。大規模な三宅イベントは、衛星通信を混乱させ、電気機器に過電流を誘導して送電網を破壊するといわれる。 大規模な三宅イベントは衛星、電力網などの世界的な技術インフラに重大な影響を及ぼす。

応用

三宅イベントは14Cスパイクマッチング年代決定法に応用されている。年輪等の炭素14の急増を捕らえることで、木材の年輪年代を精度良く決定することができる。

参考文献

  1. 大沢一雄訳(2012)『アングロ・サクソン年代記』朝日出版社
  2. Miyake, F.; Nagaya, K.; Masuda, K.; Nakamura, T. (2012). "A signature of cosmic-ray increase in AD 774-775 from tree rings in Japan". Nature. 486 (7402): 240-242

聖武天皇2025年01月16日 00:24

聖武天皇(しょうむてんのう、701年-756年,Emperor Shomu)は奈良時代(在位724年~749年)の第45代天皇である。

概要

701年(大宝1年)、奈良で生まれる。父は文武天皇、母は藤原不比等の娘の藤原宮子。諱は首(おびと)王子。7歳で父と死別する。父方の祖母である元明天皇が即位する。714年(和銅7年)、14歳で皇太子となる。716年(霊亀2年)、光明子は皇太子・首王子の妃となる。後宮には藤原不比等の女の安宿媛(光明皇后)、県犬養広刀自、藤原武智麻呂の女(名前不明)、同じく房前の女など4夫人が知られている。 719年、皇太子は始めて朝政を聴く。724年(神亀1年)2月首王子は24歳で即位する。長屋王が左大臣となる。3月、吉野に行幸する。8月、献新羅使を任命する。11月、大嘗祭。 727年7月、光明子が皇子を産む。11月。皇子を皇太子とする。728年9月、皇太子没。 729年2月10日、藤原不比等の4兄弟は陰謀によって長屋王を殺害し(長屋王の変)、729年8月に光明の立后を強行した。県犬養広刀自を夫人とし、728年皇子に安積親王が生まれる。井上内親王・不破内親王を得た。光明子との間に皇子として基王、内親王として阿倍皇女を得た。基王は皇太子になったが早世し、安積親王も744年(天平16年)に没したため、皇位継承に問題が残った。737年(天平9年)に天然痘の大流行により、藤原四兄弟を始め、政府高官の大多数が死去する。天皇の母の藤原宮子は長く病に伏していたが、唐より帰国した僧玄昉が看病してこれを回復させ,天皇は初めて母に対面することができた。それ以来,天皇は玄昉や吉備真備を重用するようになる。

政治的変動

玄昉が重んじられることへの不満をきっかけとして740年(天平12年)9月,藤原広嗣は九州において大規模な反乱をおこした(藤原広嗣の乱)。反乱を機に恭仁京(京都府)、紫香楽宮(滋賀県)、難波京(大阪市)と3度にわたる遷都を繰り返し、膨大な費用を要して国家財政は苦境に陥る。最終的に都は平城宮に戻ったが、政治的混乱の時期であった。740年(天平12年)12月からわずか 4年半の間である。 741年(天平13年)には国分寺建立の詔を発し、諸国に国分寺、国分尼寺を建てた。743年には盧遮那大仏の造立を発願した。

財政破綻

結果的に民衆の全負担が増大し、墾田永年私財法の制定とともに律令体制の崩壊を促進した。749年4月陸奥国産金の報を受けて東大寺へ行幸し、大仏に自らを三宝の奴であると述べて、749年(天平勝宝元年)7月2日(西暦の8月19日)、娘の阿倍内親王に譲位し(孝謙天皇、出家した。752年(;天平勝宝4年)4月9日(752年5月30日)、東大寺の大仏の開眼法要を行った。754年(天平勝宝6年)唐僧・鑑真から菩薩戒を受けた。756年(;天平勝宝8年)に天武天皇の2世王・道祖王を皇太子にする違勅を残し崩御した。御陵は奈良市法蓮町の佐保山南陵(奈良市法蓮町)。

正倉院宝物

遺品は正倉院御物として伝わる。仏教芸術は高度の技術と鑑賞眼による華麗な工芸品を中心とする、いわゆる天平文化とよばれるもので、聖武の遺品は光明皇后によって東大寺に献納され、正倉院宝物の母体となる。この時代の仏教芸術は高度の技術と高い鑑賞眼による華麗な工芸品を中心として、いわゆる天平文化を作り上げた。聖武天皇の唯一の書跡は正倉院に「雑集」が伝えられる。これは東大寺献物帳のうち国家珍宝帳に「雑集一巻(注略)右平城宮御宇 後太上天皇御書」とあるもので、巻末に天平3年(731)9月8日写了とある。天皇31歳の書である。

繰り返された遷都

先行研究では大宰府での藤原広嗣の乱の平城京への波及を恐れたこと、先代の天皇である元正上皇からの独立を求めたこと、737年(天平9年)に流行した天然痘,またその原因とみなされた長屋王の怨霊を忌避したいとの願望,などが指摘されている。737年の疫病流行で不比等の4子が没してから貴族間の抗争が激しくなったことも理由に挙げられている。

恭仁京への遷都の理由

 松浦茂樹は遷都の理由を天平 6年(734年)4月,畿内は大地震に見舞われたが,その時に地すべり地帯である大和川亀ノ瀬峡谷部で舟運に影響を与える変動が生じたと推測する(参考文献1)。すなわち平城京の物資輸送に大きな役割を果たしていた大和川舟運に支障があったためと推測する。

平城京還都の理由

松浦茂樹は平城京還都の理由を745年(天平17年)4 月に美濃国を震源とした大規模な内陸直下型群発性に襲われたことを最大の理由とした。

考察

長屋王の変

皇子の誕生で、聖武が有頂天になった様子は、727年10月5日の「大赦、官人に賜物を配布」、翌6日の「王臣以下への賜物」に見られる。そして聖武は生後わずか1ヵ月の皇子を皇太子にした。それ以前の例では若くとも15歳で皇太子になっている。寺崎保広(2020)は長屋王が皇太子の指名に異を唱えた可能性を指摘する。根拠として、11月14日のお祝いに不比等邸を訪れた官人に長屋王の名がないことを挙げる。律令の規定を厳格に守ろうとする法治主義の長屋王であるから、当然あり得たことであろう。 しかし、翌年728年の9月に皇太子は2歳(数え)で没する。聖武は相当に落胆したと思われる。そして藤原氏は聖武の皇子が生後まもなく亡くなったのは、長屋王の呪詛が原因であると耳元でささやいた可能性も想定できる。単純で神経質な聖武はそれを信じたかもしれない。そして愛する我が子の殺害を許せないという感情にかられ、無実の長屋王の殺害に聖武の事前了解を与えたのではなかろうか。長屋王の殺害は聖武天皇の意向があったとみてよいのではないか。「処刑に値する密告」は時の天皇である聖武天皇にも報告されていたであろう。その前の伏線として、聖武が母宮子に『大夫人』という尊称を勅命で与えたときに,長屋王は律令違反を理由に反対し,聖武の出した勅を撤回させた事件があった。聖武はこのことを恨みに思っていたであろう。長屋王の弁明を一切何も聞かず、天皇直属の親衛隊である六衛府軍を派遣する決定は、天皇の許可や指示がなければできなかったであろう。聖武の頻繁な遷都の気の弱さは、ある種の暗さや性格の歪みが見られる。とすれば長屋王の殺害で冷酷なストーリーを描くことも可能である。

光明子の立后

藤原氏からすれば皇族出身でない光明子を皇后に立てることができれば、将来男子が生まれたときに他の皇子より優位な地位を得ることができる。これは藤原氏の権力維持に必要な舞台であった。皇族を皇后とする従来の慣例を破り。藤原不比等の娘の安宿媛を皇后(光明皇后)にするには、長屋王の存在が邪魔になる。律令の規定を何よりも重視する長屋王の存在は、聖武にとっても、藤原氏にとっても邪魔な存在であった。聖武が愛する光明子を皇后にするために障害となった長屋王を無実の罪を着せてでも殺害したとしても不思議ではない。藤原氏としては、聖武を味方に付けなければ、リスクが大きく実施できなかったであろう。その意味で、長屋王殺害の黒幕説には光明子もあるが、やはり聖武であろう。

参考文献

  1. 松浦茂樹(2017):「聖武天皇と国土経営」53『水利科学』 No.358
  2. 寺崎保広(2020)『聖武天皇』山川出版社

武蔵国分寺跡2024年12月10日 17:41

武蔵国分寺跡

武蔵国分寺跡(むさしこくぶんじあと)は奈良時代に建てられた武蔵国分寺の跡である。

概要

741年(天平13年)3月24日の聖武天皇の詔(続日本紀)により全国に国分寺が建立された。武蔵国分寺は東西880メートル南北550メートルの広大な敷地が充てられた。敷地の東に野川が流れ、西は東山道武蔵路が走る。北に国分寺崖線があり、その坂を下ったところに武蔵国分寺跡がある。当時は僧寺には20人の僧侶、尼寺には10人の尼僧が住んでいた。

伽藍配置

①経典の講義などを行う講堂-本尊を安置する金堂-中門-南門が南北一列に中軸線を揃えて並び、②中軸線の東側に鐘楼と東僧坊が、対する西側に経蔵と西僧房がシンメトリーに建つ。③これらの建物を中門から両翼に延びる掘立柱塀(築地塀に建て替え)と大小複数の溝で囲まれる。④七重塔跡は、金堂・講堂跡から東方200メ-トルに位置する。

講堂

講堂跡は、創建時は桁行5間(東西約28.5 m )、梁行4間( 南北約16.6 m)であったが、再建時に桁行7間(東西約36.2m)、梁行4間(南北約16.6m)と建て替えられた。創建時の基壇は、東西約34.3 m、南北約22.6 mで8世紀中頃に生産された南比企窯跡群産の有段男瓦が多用され、一方の再建時の外装瓦は創建期から9世紀中頃までの製品が混在して使用された。

金堂

金堂の建物は、桁行7間( 東西約36.2 m )、梁行4間( 南北約16.6 m ) で、再建時の講堂跡とほぼ同規模である。屋根構造は入母屋造もしくは寄棟造と考えられる。軒の出は、廂部分に相当する礎石の位置から基壇縁、及びその外周雨落石敷まで約16 ~ 17 尺を有するが、国分寺の金堂としては最大級の規模である。基壇は河原石による乱石積外装で、規模は東西約45.4 m、南北約26.3 mである。礎石は基壇上に19 個残存する。付帯施設として基壇の南と北に階段が存在する。いずれも河原石積の構造で、北面階段は大凡建物中央間一間分( 約4.5 m ) の幅で、階段の出は約1.35 mを測る。

中門

金堂と南門との間にある中門は創建期の礎石建てから、その後掘立柱建物の門に建て替えられたことが判明した。底面に敷かれた瓦は創建期段階のもので、「高( 高麗郡)」の押印、「播( 播羅郡)」のヘラ書き資料が出土した。屋根の構造は寄棟もしくは入母屋と推定された。各地の国分寺の中門の両側には回廊が巡り、金堂や講堂などの建物と連結している伽藍配置であるが、武蔵国分寺(僧寺)では回廊はなく、伽藍中枢部は塀と大溝で囲まれていることが判明した。

南門

薬師大門と呼ばれた場所に明治時代の肇は礎石が3、4個あったが、大正11年には1つもなくなっていた。昭和33年度に日本考古学協会により調査され、4つの礎石据え付け痕跡が発見された。平成20年度調査で地表した0.55mから0.75mの位置で遺構確認を行った。金堂心から南に115m、礎石建築で二本の親柱と背後に控柱が各1本が伴う。間口1.5m、親柱と控え柱の距離は2.3mであった。

鐘楼跡

鐘楼跡は礎石建ちの南北棟総柱建物で、桁行3間(南北9.6m)、梁行2間(東西6.0m)の規模であり、廂を伴わないことから屋根構造は切妻造りと見られる。

七重塔

七重塔は3間(約10メートル)四方の礎石建物であり、高さ約60メートルと推定されている。中央にほぞ穴がある心礎を含め7個の礎石が残る。

焼失

武蔵国分寺の伽藍は1333年(元弘3年)の分倍河原の合戦で焼失したと伝えられる(寺伝)。その後、新田義貞は金堂付近に薬師堂を建立したとされる。

遺構

  • 金堂跡
  • 講堂跡
  • 七重塔跡

遺物

展示施設

  • 武蔵国分寺跡資料館

指定

  • 大正11年(1922年)10月12日 国史跡

考察

アクセス等

  • 名称: 武蔵国分寺跡
  • 所在地: 国分寺市西元町1丁目から4丁目
  • 交通: 西国分寺駅徒歩15分

参考文献

  1. 国分寺市遺跡調査会(2010)「国指定史跡 武蔵国分寺跡」国分寺市教育委員会

下野国分寺跡2024年11月10日 00:23

下野国分寺跡(しもつけこくぶんじあと)は栃木県下野市にある奈良時代の寺院跡である。

概要

奈良時代の741年(天平13年)、聖武天皇の詔によって全国60数か所に建てられた寺院のひとつで、下野市西部、姿川と思川に挟まれた台地上に残る寺院跡である。伽藍配置は、奈良の東大寺と同形式で、南北軸上に南から、南大門、中門、金堂、講堂が並び、中門と金堂は回廊によってつながる。下野国分寺に建てられた七重塔は高さ60m以上であった。 国分寺では七重塔が最重要視され、塔は回廊の外側に置かれた。金堂の前に儀式空間を確保するためとされる。回廊形式には単廊と複廊とがある。下野国分寺は単廊であった。単廊には礎石建ちと掘立柱がある。 金堂・講堂の間の東西に鐘楼、経蔵が作られる。瑠璃光山国分寺阿弥陀堂の礎石は、下野国分寺跡から移設された凝灰岩の礎石が転用された。現在は、史跡公園として公開されている。

調査

発掘調査により寺院地の規模は東西413m、南北457mと判明した。1~5期に時期区分され、1期(8世紀中葉)は塔・金堂などの建造、2期(8世紀後半~9世紀前半代)は主要堂塔が完成し伽藍を塀で囲む。3期(9世紀後半代)は伽藍地を縮小し、掘立柱塀を築地塀に建て替え、寺院全体を改修した。4期(10世紀以降)は主要堂塔の補修や溝の掘り直しを停止した。金堂の規模は33.6m(112尺)×21m(70尺)、講堂は25.2m(84尺)×16.8m(56尺)である。僧坊は最も奥にあり、74.1m(247尺)×16.8m(56尺)である。

遺構

  • 寺地南西隅部
  • 寺地北東隅部
  • 寺地の南門
  • 寺地西辺溝
  • 塀跡
  • 築地塀
  • 建物跡
  • 回廊跡
  • 溝状遺構
  • 伽藍創建期の北西隅区画施設
  • 創建期から最終期の北門
  • 竪穴住居

遺物

  • 土器類
  • 泥塔
  • 鉄製品
    • 風鐸
  • 青銅製品
    • 増長天像
    • 金具
  • 鐙瓦
  • 宇瓦
  • 土師器
  • 須恵器
  • 灰釉陶器
  • 青磁
  • 灰釉陶器
  • 緑釉陶器
  • 墨書土器
  • 小金銅仏

指定

  • 大正10年3月3日 国指定史跡

展示

  • しもつけ風土記の丘資料館

考察

アクセス

  • 名称:下野国分寺跡
  • 所在地:〒329-0417  栃木県下都賀郡国分寺町大字国分乙474
  • 交通: JR宇都宮線小金井駅から西方へ約3.5km/徒歩約60分

参考文献

  1. (財)栃木県文化振興事業団埋蔵文化財センター(1998)『栃木県埋蔵文化財調査報告206:下野国分寺跡』栃木県教育委員会他
  2. 有賀祐史(2013)「国分寺の回廊形式と伽藍配置」半田山地理考古 1,pp.41-51
  3. 海野聡(2011)「国分寺伽藍の造営と維持システム」日本建築学会計画系論文集 (660), pp.447

和同開珎2024年09月08日 00:19

和同開珎/銅銭/東京国立博物館

和同開珎(わどうかいちん)は日本最古の流通貨幣である。

概要

「皇朝十二銭」のうち、708年に催鋳銭司(鋳銭司を設置する準備のための宮司)が最初に作られ、鋳銭司長官に多治比真人三宅麻呂が任命された。翌、和銅2(709)年8月には、河内鋳銭司が設置された。いつ発行されたかは、分からないが和銅3年に都は藤原京から平城京に移るため、その前後に和同開珎が発行されたと考えられる。鋳銭司は神亀3年(726年)まで存続していた。 発行目的は第一に都城造営のための大量の物資や人員を調達すること、次に実物貢納では政府や貴族官僚のニーずと合っていなかったため、フレキシブルな収入が必要であったこと、第三に中国の貨幣制度を真似することであった。丸い貨幣の中央に四角い穴を開け、上下左右に4つの文字を配するというデザインは唐の様式をそのまま模倣したものであった。 政府の支払手段説があるが、『続日本紀』和銅二年条「交関の雑物・・価三文以下は皆銅銭を用いよ」と書かれ、流通を意図していたと見られる。 和同開珎は銀銭と洞銭とがあり、洞銭は字体の違いから「新和同」と「古和同」とがある。 全国から出土する和同開弥はそのほとんどが新和同で、その出土点数は6,300枚近く、規格性の高い均質な銭貨の大量生産ができていた。

最古の貨幣

奈良県明日香村の飛鳥池遺跡から33枚の富本銭が見つかり、それが日本最古の貨幣と判明している。ただし流通貨幣とは見られていない。

考察

参考文献

諏訪前A遺跡2024年07月27日 00:04

諏訪前A遺跡(すわまええーいせき)は、神奈川県平塚市にある奈良・平安時代の遺跡である。

概要

諏訪前A遺跡は相模国府跡であり、官衙域中枢にあたる。縄文時代以降の遺物が散布されている。集落形成は古墳時代以降となる。8世紀後半から9世紀の遺構が多いのは、相模国府が成立し、成熟期を迎えて遺構が増えたと思われる。

調査

第一地点

第1地点は四之宮下郷の3・4区に該当し、313基の遺構の内、住居址65軒・掘立柱建物址9棟の住居址を確認。

第3地点

  • 第3地点は掘立柱建物址8棟・住居址12軒を検出した。掘立柱建物址は8世紀と10世紀、住居址は9世紀が中心である。遺物の中で注目するものは1号掘立柱建物址から出土した墨書土器である。甲斐型の土師器坏底面に「家」の墨書の他に口縁部外面に水鳥の墨絵が対角線に描がれ、棟上げなどの慶事・祭祀に使用されたと報告される。出土状況不明であるが、地鎮の性格が想定される。また、縄文土器勝坂式の完形の深鉢が逆位で出土した。沖積低地での初の縄文完形土器の出土となり、様々の問題を提起する。

第4地点

第4地点での住居址18軒は7世紀後半から10世紀後半までのもので、比較的継続的に存続したと考えます。出土遺物の特徴を上げると、墨書土器「垂」8点、銅か3点、円面硯2点や太刀の鍔があります。一般集落ではなく、官人層の住居域と考えます。第5地点は掘立柱建物址3棟・住居址24軒を検出しました。掘立3棟は9世紀であるのに対し、住居は8世紀後半から9世紀前半のものは確認されていません。遺物は灰釉陶器碗を転用した朱墨の硯や墨書土器「西」・「井」があります。

第6地点

第6地点は掘立柱建物址2棟・住居址23軒を検出しました。掘立2棟の時期は分からない。住居は8世紀前半と9世紀後半以降のものが確認されています。遺物は透かしのある銅・巡方が出土する。

第8地点

第8地点は掘立柱建物址2棟・住居址6軒を検出し、掘立2棟は8世紀前半に対し、住居は8世紀前半と9世紀以降のものです。8世紀前半の掘立と住居は国府成立過程のものであろう。

第9地点

9地点は掘立柱建物址7棟・住居址5軒を検出され、掘立7棟の内3棟は7世紀後半、8世紀前半・後半に対し、住居は9世紀以降のものである。

第12地点

  • 主として近世以降、中世、古墳時代後期~奈良・平安時代の以降・遺物を検出した。その中心は古墳時代後期から奈良・平安時代の集落跡であり、古墳時代後期(7世紀)に始まり、10世紀後半まで存続していたと推定される。
  • 竪穴住居は7世紀中頃~後半が最も多く、次いで8世紀中頃にも一つのピークが認められる。本地点の東側約450mからは、相模国府庁の脇殿と推定される掘立柱建物が検出されており、本遺跡も国府推定域に含まれているが、検出した遺構は竪穴住居址が中心で、遺物も官衙的なものは少ない

第14地点

砂丘から凹地へ向かう傾斜地際であり、諏訪前A遺跡第14地点は他の調査地点と比べ国府に関連する遺構は希薄になる傾向が窺える。掘り込みの溝状遺構がL字状に認められ、その東側から南側で本時期の遺構の大半が認められた。竪穴住居跡の1/4程を確認。床面の作り替えが認められた。

第15地点

  • 中原街道から近い。110号礫群では中央に窪みあり。礫集中が2区第二文化層にある。 1区では竪穴建物9軒、掘立柱建物跡3棟、竪穴状遺構30基、

遺構

  • 竪穴住居址 - (古墳後期~平安)
  • 掘立柱建物跡 - (古墳後期~平安)
  • 竪穴状遺構- (古墳後期~平安)
  • 道状遺構- (古墳後期~平安)
  • 溝状遺構- (古墳後期~平安)
  • 井戸址- (古墳後期~平安)
  • 土坑- (古墳後期~平安)
  • ピット- (古墳後期~平安)

遺物

  • 須恵器(古墳後期~平安)
  • 土師器(古墳後期~平安)
  • 灰釉陶器(古墳後期~平安)
  • 土製品(古墳後期~平安)
  • 石製品(古墳後期~平安)
  • 鉄製品(古墳後期~平安)

指定

アクセス

  • 名称:諏訪前A遺跡
  • 所在地:神奈川県平塚市東真土二丁目地内
  • 交 通:

参考文献

  1. 神奈川県教育委員会(2024)「神奈川県発掘調査成果発表会」資料