中半入遺跡 ― 2024年03月10日 00:39
中半入遺跡(なかはんにゅういせき)は岩手県奥州市にある古墳時代の遺跡である。
概要
岩手県水沢市北西部の胆沢川沿いの段丘上に立地する。 古墳時代の遺構は約500m四方に分布していた、竪穴建物は約50棟が確認されている。住居跡は微高地に集中する。4世紀後半から6世紀前半まで続いたとみられる。出土遺物には土師器、須恵器、続縄文土器、黒曜石製石器、砥石、方割石、石製模造品、玉類、羽口などである。黒曜石製石器は小型スクレイパー、石核、剥片など1200点がみつかっている。使用する原石は宮城県湯倉産原石が90%である。琥珀は玉に加工したものは少なく、大部分は原石であった。石製品は双孔円板、勾玉、管玉、紡錘車などである。 5世紀後半から末の中半入遺跡出土の3体分の馬骨と歯牙が東北で最古の馬の出土である。御崎馬と同程度の小型馬(体高100~120cmのポニー)である。古墳時代には角塚古墳を築いた。*調査 第二次調査は平成14年4月7日から平成14年12月3日に行われた。黒曜石はエネルギー分散型蛍光X分析により、湯ノ倉産原石が使用されているとされた。ただし確率は19%である。放射性炭素年代測定では、1290±40Cal BPとされた。暦年代では西暦700年である。
考察
中半入遺跡からは、大阪府陶邑産の須恵器、宮城県産の黒曜石、久慈の琥珀やガラス製の玉類、馬の歯など、遠方との交易を示す品が大量に出土する。前方後円墳は大和朝廷の影響が見られる。古墳文化の最北端であると同時に、続縄文文化の最南端という両方の文化が交錯する場所とされる。竪穴住居跡から大量に出土した須恵器は、胎土分析により大阪府堺市の陶邑小窯跡群で焼かれたものであることが判明している。つまり相当に広域に渡る人々の交流があった。にもかかわらず、続日本紀では「山海二道(山道・海道)の果て賊奴の奥区」と書かれており、律令国家の外側に位置づけられていた。武力須支配と物流は別ものということであろうか。
遺構
- 土坑15
- 竪穴建物41
- 竪穴4
- 方形区画1
- 周溝2(円形)
遺物
- 土師器
- 須恵器
- 石器
- 続縄文土器
- 石製模造品
- コハク
- 黒曜石
指定
展示
アクセス
- 名称:中半入遺跡
- 所在地:〒023-0003 岩手県奥州市水沢佐倉河中半入39
- 交 通:
参考文献
- 岩手県水沢地方振興局(2004)『中半入遺跡』岩手県文化振興事業団埋蔵文化財調査報告書第443号
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