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真福寺貝塚2024年08月10日 00:21

真福寺貝塚(しんぷくじかいづか)は埼玉県さいたま市にある縄文時代の遺跡である。

概要

埼玉県東部の岩槻丘陵上に位置する繩文時代後期から晩期に営まれた集落跡である。径約150mの環状貝塚の中心から、台地西側に入りこんだ綾瀬川の小支谷の沖積低湿地に及ぶ。泥炭層遺跡が形成された谷と谷際の緩斜面に形成された包含層・遺構群とで構成される。東西160m、南北180mの範囲に貝塚や居住域が分布する。馬蹄形形状が盛り上げっているが、内側はすり鉢型の窪みとなる「環状盛土遺構」を形成する。窪地の一部は墓域や遺物の集積場として使用していた。隣接する谷には遺存状態のよい遺物を伴う泥炭層が広がる。貝塚の貝は縄文時代後期前葉では、マガキとウネナシトマヤ貝が大部分であり、泥質干潟を主体とする貝が大半を占める。縄文時代後期後葉ではヤマトシジミが90%以上で、はまぐりが僅かながら占める。周辺の水環境は汽水域に変化した可能性がある。 縄文時代晩期の編年研究でも重要な遺跡である。

調査

泥炭層遺跡の発掘調査で約3千年前の木材が発見された。1940年(昭和15年)東京大学が貝塚を発掘調査し、検出された建物跡は一辺10メートルの大型建物跡であるとした。

重要文化財「みみずく土偶」

ほぼ完形の「みみずく土偶」は重要文化財に指定されている。 大正時代に耕作中に発見された。顔がミミズクに似ており、一部に欠けがあるものの、全身がそろう。土偶の身体表現は縄文時代の風俗をうかがわせる素材となる。耳に丸い耳飾りをつけ、頭部の突起は髪型を表す。。目・口・耳には円板を貼りつける。関東地方を中心に千葉・茨城・埼玉の3県で見られる。高20.5cm、重量639g。東京国立博物館蔵。縄文時代後期後半から晩期前半にかけて製作された

「みみずく土偶」土偶1

土偶2より40cm下の層から出土した。目と口は円形に貼り付けた周囲に刻み線を放射状に施す。重要文化財に比べると装飾が減る。目、耳、口が規格化されている。縄文時代後期末葉の制作(約3000年前)。

「みみずく土偶」土偶2

重要文化財に比べ、胴部が簡略化される。目、口を表す丸い貼付の周囲に刻みを施す。全面に赤彩を施した痕跡がある。縄文時代晩期初頭の制作(約2900年前)。

遺構

  • 貝塚
  • 竪穴建物
  • 土坑
  • ピット
  • 包含層

遺物

  • みみずく土偶
  • 遮光器土偶
  • 縄文土器(後期+晩期)
  • 縄文土器(堀之内1式から安行式)
  • 縄文土器(堀之内2式から安行3c式+大洞式系
  • 縄文土器(加曽利E4式から安行3c式)
  • 動物遺存体(獣(骨))
  • 旧石器
  • ナイフ形石器

指定

  • 1975年7月19日(昭和50年07月19日) 国の史跡指定

展示

アクセス

  • 名称:真福寺貝塚
  • 所在地:埼玉県さいたま市岩槻区城南3
  • 交 通:

参考文献

  1. 文化庁(2024)『発掘された日本列島 2024』共同通信社
  2. 日本旧石器学会(2010)『日本列島の旧石器時代遺跡』
  3. さいたま市教育委員会(2020)『真福寺貝塚』史跡整備に伴う発掘調査概報

上野原遺跡2024年08月10日 10:39

上野原遺跡(うえのはらいせき)は鹿児島県国分市にある縄文時代早期前葉から弥生時代の複合遺跡である。

概要

鹿児島県のほぼ中央部、標高約260mのシラス台地上にある。縄文時代早期から中世にかけての複合遺跡である。約10,600年前に定住したムラとなり、約8,600年前に儀式を行う場ができ、約7,200年前に住居跡はなくなり、狩り場となった。約3,200年前に再び定住し、竪穴住居跡や掘立柱建物跡がみつかる。「国内最古で最大級の定住化した集落跡」といわれる。日本列島における縄文時代の始まりの様相を示す遺跡として重要である。

調査

1996年度の調査で桜島のP-13火山灰層の下から、竪穴住居跡52基、集石39基、連穴土坑16基、土坑約260基、道跡2条が検出された。初期縄文の安定した長期定住生活がうかがえる。P-13火山灰は約10,600年前の爆発と考えられる。なお鹿児島大学理学部の小林哲夫助教授は「噴火年代は9200~9400年前(14C年代)、暦年代では約1万300~1万600年前」と書かれている(小林哲夫、溜池俊彦(2002))。 遺跡の南側から約8,600年前(縄文時代早期後半)の壷形土器を含む土器や多種類の石器,土偶,滑車形耳飾など多彩な遺物が出土した。うち767点が縄文時代早期の文化を示すものとして、重要文化財に指定された。 。上坑は,単体で検出したものも含め約270基あり,平面形状から円形・楕円形・方形・長方形の4つに分類できた。縄文時代早期の集石は 2・3地点で100基,4地点で32基,7地点で8基が検出された。

竪穴建物

第4工区においては縄文時代早期の遺構は,竪穴住居跡・連穴土坑・土坑・集石・道跡が2・3地点で,集石のみが4·7 地点において検出された。縄文時代早期は,土器型式などから前葉.中葉・後葉と大きく分かれている。しかし各地点共に土器型式の混在などから時期の特定は困難な状況であった。竪穴住居跡の形状は,隅丸方形・隅丸長方形・釣り鐘形の3つに分類された。それぞれ竪穴内部に柱穴ないし柱穴状遺構を有するもの・竪穴外部に柱穴ないし柱穴状遺構を有するもの・竪穴内外部に柱穴ないし柱穴状遺構を有するもの・柱穴を打しないものの4つに分けられた。集落の変遷は竪穴住居跡を中心にまとめ,少なくとも1型式内4段階の集落の集合が見られる

土器

1類土器は,単純な円筒形の器形に貝殻条痕文を胴部に施すもので,前平式土器に比定された。 2類土器は胴部に貝殻条痕文を地文としその上に貝殻条痕文を主に重ねるもので,円筒形と角筒形の2種類の器形がある。 3類土器は,竪穴住居跡や連穴土坑などの追構を構成する当遺跡の縄文時代早期前葉を代表する土器である。器形には,円筒形・角筒形のほかに口縁部の上面観がレモン形を見するものとがある。 4類土器は,胴部に貝殻押引文を施すもので吉田式上指の範疇に収まる。 5類土器は,口緑部が外反し胴部に貝殻条痕文を施す特徴から倉園B式土器に比定される。 6類土器は,胴部に貝殻条痕による綾杉文を施すことから石坂式土器に比定される。 7類土器は,器面に貝殻刺突文を施すものである。口縁部が内側に湾曲するものや口唇部が肥厚するものなどがある。

遺構

  • 竪穴建物52
  • 集石39 ,集石140
  • 連穴土坑16
  • 土器埋納土坑12
  • 石斧埋納6
  • 磨石集積3
  • 落とし穴79
  • 掘込369
  • 土坑270
  • 道路2

遺物

  • 縄文土器(平栫式(深鉢+壺)
  • 塞ノ神式土器
  • 山ノ口式土器
  • 前平式
  • 加栗山式
  • 吉田式
  • 石坂式
  • 下剥峯式
  • 桑の丸式
  • 押型文
  • 中原式
  • 平拵式
  • 塞ノ神式
  • 土偶
  • 耳飾
  • 土製品
  • 石斧
  • 石鏃
  • 石皿
  • 深鉢形土器
  • 壷形土器、
  • 鉢形土器、
  • 石器、
  • 耳飾

考察

火山灰の痕跡から縄文時代早期は約10,600年前、すなわちBC8600年頃であることが判明した、これは縄文時代早期の定点となる。縄文時代の始まりは約13000年前なので、そこからすでに2400年が経過したことになる。この頃は温暖化が進み、、海水面が上昇し、地形や植生が代わり、定住生活が始まるようになる。

指定

  • 1998年(平成10年)6月30日 - 国指定重要文化財、鹿児島県上野原遺跡出土品
  • 1999年(平成11年)1月14日 - 国指定史跡、上野原遺跡

展示

  • 鹿児島県上野原縄文の森展示館
  • 鹿児島県立 埋蔵文化財センター

アクセス

  • 名 称:上野原遺跡
  • 所在地:〒899-4318 鹿児島県霧島市国分上野原縄文の森1-1
  • 交 通:JR国分寺駅 車20分、(8.7km)/最寄バス停はないようである

参考文献

  1. 小林哲夫、溜池俊彦(2002)「桜島火山の噴火史と火山災害の歴史」第四紀研究41(4),pp.269-278
  2. 鹿児島県立埋蔵文化財センター(2022)『上野原遺跡』鹿児島県立埋蔵文化財センタ一発掘調査報告書(41)