漆下遺跡 ― 2025年04月06日 00:13
漆下遺跡(うるししたいせき)は秋田県北秋田市にある縄文時代後期の集落遺跡である。
概要
森吉山の北麓を流れる全長約20kmの清流の小又川左岸の東西の細長い微高地上に立地する。遺跡の長軸直線距離は約255m、高位面の標高は140~142m、低位面は140m前後である。 中でも縄文時代後期において豊富な遺構や遺物を検出した。高位面では数多くの掘立柱建物跡や土坑などが検出され、低位面には後期初頭の竪穴住居跡のほか、後期中葉の配石土坑・配石遺構群が構築された。 縄文時代早期から後期までの遺構遺物のうち、主体は後期初頭であり、石積階段状遺構やX字状・日時計状の配石遺構など特異な遺構が見られる。また、
調査
2001年、2002年、2006年の三次に渡って調査が行われた。台地の2個所で大がかりな土木工事が行われ、土地造成後に掘立柱建物群、配石遺構群、配石土坑群が作られた。遺跡西側斜面の捨て場から土器、石器、土偶のほか祀りや儀式に使われた道具が出土した。漆下遺跡は継続して営まれた大規模な拠点集落とみられる。陥し穴は2.70m×0.41mの長楕円形で逆茂木痕は見られない。
漆関係
捨て場から漆掻き(採取)から漆製品まで、製作工程を示す遺物が出土した。
遺構
- 竪穴建物37
- 掘立柱建物105
- 土坑(剥片埋納土坑2基含む)369
- フラスコ状土坑93
- 配石・集石30
- 石囲炉・立石炉2
- 土器片囲炉・土器埋設炉3
- 土器埋設8
- 焼土17
- 溝4
- 道路1
- 石積階段1
- 性格不明遺構1
- 捨て場5
- ロングハウス状の大形竪穴建物跡2
- 底面に埋設土器を伴う土壙墓2
- 複式炉を伴う竪穴建物 4軒
- 土器埋設炉を伴う竪穴建物 13軒
- 石積階段状遺構
- X字状の配石遺構
- 日時計状配石土坑
遺物
- 縄文土器(早期+前期+中期+後期)
- 土製品(土偶+環状+耳飾+鐸形+腕輪形+垂飾+キノコ形+スタンプ形+動物形+円盤状など)
- 剥片石器
- 礫石器)
- 石棒
- 石剣
- 石刀
- 青竜刀形
- 石冠
- 板状
- 線刻礫
- 動物形
- 有孔
- 球状
- 有溝
- 椀形
- 漆液容器
- アスファルト容器
- 漆塗り製品(糸玉+編組製品)
- 全形が復元可能な尖底土器2点
- 漆液容器
- 漆塗り糸玉
- 土器
- 土製品
- 石器
- 石製品
- 漆液容器
考察
縄文時代の漆の痕跡は様々な遺跡から見つかっている。なぜこのように各地の遺跡で、漆の痕跡がみつかるのであろうか。当時の情報交流やものの移動は、我々の想像以上に活発だったのではなかろうか。縄文時代の人々はかなりの健脚であったのではないか。現代なら「歩いていこう」などとは大多数の人が思わないような距離を往復していたのである。
展示
指定
所在地等
- 名称: 漆下遺跡
- 所在地:北秋田市森吉字漆下2-1外
- 交通:
参考文献
- 秋田県教育委員会(2011)「漆下遺跡」秋田県文化財調査報告書464集
狗奴国 ― 2025年04月06日 18:49
狗奴国(くなこく、くぬこく)は『魏志倭人伝』に登場する国のひとつで、3世紀に邪馬台国と戦ったとされる国である。
概要
『魏志倭人伝』記載の「其の南」とは邪馬台国の南(に狗奴国がある)と解釈される。ただし、『魏志倭人伝』の方角はあまりあてにならない(水野祐(1982)、p.262)とされる。「狗(ク)」は水野祐(1982)によれば、南ツングース語の「大きい」という意味であるという。また「奴(ナ)」は国の意味とする(水野祐(1982)p.191)。両者合わせれば、「大国」の意味になる。 『魏志倭人伝』における狗奴国の説明は「其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王」だけと解釈するのが、多数説である。しかし水野祐(1982)は「其南有狗奴國」、から「耳・朱崖同」までを狗奴国の説明とする(水野祐(1982)p.251)。これは一つの解釈であるが、この解釈では「黥面文身」は狗奴国だけという解釈になる。しかし、狗奴国の説明のすぐ後に、「自郡至女王國、萬二千餘里」の記載がある。これは狗奴国の説明ではないから、水野祐(1982)の解釈は不自然にみえる。やはり「男子、無大小皆黥面文身」以下の記述は、倭国の説明ではなかろうか。
狗奴国の位置論
『魏志倭人伝』では「その南に狗奴国あり」(其南有狗奴國、男子爲王。其官有狗古智卑狗、不屬女王。)と書くが、『後漢書』では「女王国より東、海を渡ること千余里、狗奴国に至る」(自女王國東度海千餘里至拘奴國,雖皆倭種,而不屬女王。)と書く。ここで、2点が注目される。1点目は方角である。『後漢書』は邪馬台国の東とするが、『魏志倭人伝』では邪馬台国の南とするので、方角が異なる。2点目は『後漢書』は邪馬台国と狗奴国の間に海があるとするが、『魏志倭人伝』には海の存在は書かれていない。 安藤正直(1927)は『後漢書』楽浪郡吏の報告をもとにし、『魏志倭人伝』は帯方郡吏の報告がもとにしていると指摘する。もとの報告『後漢書』では『魏志倭人伝』の記載の誤りを訂正したとみることができる。水野祐(1982)は邪馬台国と狗奴国は地続きとするが、そうすると『後漢書』の記載と反している。 海が間にあるとすれば邪馬台国九州説に不利な点になり得る。近畿説を取るなら、間の海は伊勢湾を指すと解釈できるし、九州説をとるなら、狗奴国は四国にあり、間の海は瀬戸内海と解釈できる。いずれも想定している邪馬台国の東にある。
狗奴国の位置比定の各説
これまで狗奴国の比定は様々に言われてきた。諸説を検討する。
九州南部説
狗奴国は、熊本県など九州南部に比定するとした説は、江戸時代の新井白石以後、白鳥庫吉、内藤湖南、井上光貞、小林行雄などが唱えている。白鳥庫吉は狗奴国を、「熊襲の国」とし、喜田貞吉は「球磨」とする。最近では山鹿市方保田東原遺跡や高森町・南阿蘇村の幅・都留遺跡のベンガラ生産遺跡の発掘成果が見られる。しかしその比定根拠は薄く、『魏志倭人伝』の記述に関連するとみられる地名の「くま」と「くくち」の両方が見られるのは「肥後の国(熊本県)」とする。地名の読みが同じだからというのはいかにも根拠が薄い。地続きでないとすれば、九州南部では地続きなので都合が悪い。王墓、王都に有力候補がないことも問題である。邪馬台国九州説の難点は考古学の成果を見ずに、もっぱら『魏志倭人伝』の解釈だけに依拠していることである。
四国説
本居宣長の四国伊予国河野郷説である。現在の松山市北条付近である。間に海はあるのは好条件であるが、難波奥谷古墳は円墳で古墳時代の後期の築造であるし、善応寺古墳は7世紀頃である。3世紀の有力な遺跡も見当たらない。
尾張説
最有力候補とされる。1960年代に田辺省三が提唱し、赤塚次郎(2009)が補強した。朝日遺跡に前方後方墳の原型が弥生時代中期に登場したとし、西上免古墳(愛知県一宮市)を最古の前方後方墳とした(赤塚次郎(2009))。そのほか、伊勢湾岸部から出土するS字甕(S字状口縁台付甕)をあげる。これは庄内式の甕と同じ厚みの薄い甕で、邪馬台国時代の甕とみられる。九州には弥生時代の厚みのある「厚甕」だけであり、このような薄い甕は見られない。王都の候補地は巨大弥生集落の萩原遺跡群(一宮市)、八王子遺跡、廻間(はざま)遺跡(愛知県清須市)が揚げられている。王墓は東之宮古墳が指摘され、築造年代は3世紀後半とする(赤塚次郎(2009))。
関東説
西谷正(2009)は狗奴国をのちの毛野国に比定する(西谷正(2009)、p,368-371)。根拠は『国造本紀』に毛野国が現れること、狗奴(クナ)が仁徳の時代に毛野(ケヌ)に変わったとする。王墓(古墳)では芝崎蟹沢古墳(高崎市)に注目している。この古墳から正始元年銘の鏡(三角縁重列式神獣鏡、正始元年銘、東京国立博物館蔵)が出土していることを挙げる。王都は言及がないので、弱点がある。
考察
狗奴国と認定される条件はいくつかある。(1)邪馬台国に対抗する強大な武力をもつこと、(2)人口規模がそれなりにあること、(3)弥生時代から続く集落であること(必須ではない)、(4)王都と王墓があること、(5)土器に広がりがあること、(6)邪馬台国からの経路に海があること(『後漢書』)、(7)独自の文化があること、などであろう。
- (1)について:後代の出来事になるが、壬申の乱においても尾張(尾張連)は重要な役割を果たしているから、弥生時代から強大な武力を持っていたと解釈できる。朝日遺跡や見晴台遺跡などに環濠集落が作られていることは、弥生時代の当時にも争乱があったことを示唆する。
- (2)について、は弥生時代には朝日遺跡、見晴台遺跡など大規模な遺跡があり、尾張地方の人口規模は弥生時代でも大きかったと推定される。
- (3)について、尾張地方には弥生時代から現代まで続く集落がある。
- (4)について、狗奴国の王都は八王子遺跡( 愛知県一宮市)が想定され、王墓は西上免遺跡(愛知県西尾市)、東之宮古墳などの前方後方墳が想定される。西上免遺跡には日本列島最古の前方後方墳がある。象鼻山古墳群( 岐阜県養老町)は2世紀前半から続く遺跡である。
- (5)について、尾張の土器は「パレススタイル土器」「S字甕」S字甕は、2世紀前半に登場し、短期間に伊勢湾沿岸部に広がった。
- (6)について、邪馬台国からの経路にある海は伊勢湾の可能性がある。弥生時代の尾張は海が入り込んでおり、現在の内陸まで海だった。「尾張太古之図」(養老元年〔717 年〕)によれば、古代の海岸は現在の桑名、大垣、岐阜、犬山、小牧、名古屋市緑区を結んだ位置にあり、名古屋市をはじめ現在の濃尾平野の大部分は海にであった。 古代の官道はこの区間は海を通っていた。
- (7)について、見晴台遺跡、朝日遺跡、西上免遺跡では「パレススタイル土器」「S字甕」「前方後方墳」に示されるように、邪馬台国とは異なる独自の文化をもっている。 これらのことを考えれば、狗奴国の尾張比定説は最も可能性が高いと考える。
参考文献
- 石原道博編訳(1951)『新訂魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝』岩波書店
- 藤堂明保他(2010)『倭国伝』講談社
- 水野祐(1982)『評釈 魏志倭人伝』雄山閣
- 藤堂明保他(2010)『倭国伝』講談社
- 佐伯 有清(1981)『邪馬台国基本論文集 (1) 卑弥呼考』創元社
- 西谷正(2010)「邪馬台国最新事情」『石油技術協会誌』第75巻,第4号
- 西谷正(2009)『邪馬台国の考古学』学生社
- 赤塚次郎(2009)『幻の王国、狗奴国を旅する』風媒社
- 安藤正直(1927)「邪馬台国は福岡県山門郡に非ず」『歴史教育』2-5,6,7
- 山田孝雄(1922)「狗奴国考」『考古学雑誌』第12巻8号、10号、11号、12号
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