旧唐書 ― 2023年07月13日 00:00
旧唐書(くとうじょ)は唐の成立(618年)から滅亡まで(907年)を記述した歴史書である。
概要
成立時は『唐書』の名称であった。その後、『新唐書』の編纂後に『旧唐書』と呼ばれるようになった。 巻数は200巻である。本紀20巻、志30巻、列伝150巻、 列伝第149巻上に「高麗 百濟 新羅 倭國 日本」(東夷)が記載される。 五代後晋の劉昫(887-946)による奉勅撰とされる。
編纂者
『旧唐書』は五代後晋の劉恂撰と言われていますが、実質的には張昭遠と賈緯による編纂である。正史の編纂では、前の王朝が自前で編纂した実録や国史等の歴史書を素材に用いていた。ところが唐末五代の戦乱により、歴史書の多くが失われるか、編纂すらされなかった。『旧唐書』編纂時点で材料が足りなかった。そこで当時現存していた行政文書等の各種記録が用いられたが、編集を加えることなく孫引きされた箇所がみられる。この点は現代の研究者からすれば史料としての価値が高いとみられる。
新唐書との比較
『旧唐書』は原史料をそのまま引用して取入れているのに対し,『新唐書』では史料の採集範囲は広いものの、書き改められているので、史料的価値は『旧唐書』が優れる。
倭国と日本国
倭国と日本とを分けて書いて2つの記事となっている。日本が倭国を併合したという記事と倭国の名前が日本国になったという記事が並列に書かれている。 これは倭国と日本とを別の国と思い違いしたのであろうか、それとも倭国の時代と日本と改称した時代を かき分けたのであろうか。「倭国伝」の末尾は 648年の記事で終わる。日本伝の最初の記事は703年である。この間に倭国が日本国に名称変更し、 その承認を求めに703年の遣唐使を派遣したとも考えられる。 森公章(2008)は702年の遣唐使の際には、日本側でも日本への国号変更理由が分からなくなっていたと指摘する。 古田武彦説では「九州王朝を併合した大和政権が九州王朝から「日本」という国号を受けついだ」としているが、 これはあり得ないことである。「九州王朝を併合した」なら、その頃に大規模な戦乱がなければ説明がつかない。 古田説は、史書の都合のよい所だけを切り取って解釈しているようにみえる。 なお『新唐書』では、2つの国を一本化して記述している。
倭伝
- (大意)倭国は古の倭奴國である。京師からは1万4000里の距離で新羅の東南大海中にある。山島によりて居し、東西は五月の行程,南北は三月の行程である。世々中国と通じる。城郭はなく、木で柵を作り草で家を作る。四面に小島があり五十餘國が服属する。王の名は阿每(あめ)、一大率を置き,諸国を檢察する,皆これを畏れる。官位に十二等がある。訴訟では,匍匐して前にでる。その地には女が多く、男は少ない。頗の文字を書き,佛法を敬う。みなはだしである。布で前後を蔽う。貴人は錦帽をかぶる。百姓は椎髻で,冠や帶を付けない。女性は淡色の衣で、腰に襦を垂らす。髪を後ろ束ね,銀花の八寸の長さを左右に数枝つけ、それにより貴賤や等級を表す。衣服のきまりは,新羅によく似る。
- (原文)倭國者,古倭奴國也。去京師一萬四千里,在新羅東南大海中。依山島而居,東西五月行,南北三月行,世與中國通。其國,居無城郭,以木為柵,以草為屋。四面小島五十餘國,皆附屬焉。其王姓阿每氏,置一大率,檢察諸國,皆畏附之。設官有十二等。其訴訟者,匍匐而前。地多女少男。頗有文字,俗敬佛法。並皆跣足,以幅布蔽其前後。貴人戴錦帽,百姓皆椎髻,無冠帶。婦人衣純色裙,長腰襦,束發於後,佩銀花,長八寸,左右各數枝,以明貴賤等級。衣服之制,頗類新羅。
- (大意) 631年、法物を献上し、検視した。太宗は道が遠いことを憐れみ、毎年の入貢を中止させた。新州の刺史・高表仁を持節とし安撫させた。表仁は綏遠之才がないため,王子と爭いを起こした。朝命を述べずに帰国した。
- 貞觀五年,遣使獻方物。太宗矜其道遠,敕所司無令歲貢,又遣新州刺史高表仁持節往撫之。表仁無綏遠之才,與王子爭禮,不宣朝命而還。至二十二年,又附新羅奉表,以通起居。
日本伝
- (大意)日本は倭国の別種である。その国は火の出る方に違いので、日本と名を付ける。あるいは、倭国の名が雅でないため、日本としたという。あるいは日本は小国で、倭国を併合したという。入朝するものは,多いに矜るところ大で、誠実に答えない。故に中國は疑いを持った。また、其國の界じゃ東西南北それぞれ數千里で,西界と南界は大海に至る。東界、と北界大きな山で区切られる。山の外側は毛人の国である。
- (原文) 日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅,改為日本。或云:日本舊小國,並倭國之地。其人入朝者,多自矜大,不以實對,故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里,西界、南界咸至大海,東界、北界有大山為限,山外即毛人之國。
- (大意)703年、大臣朝臣真人(粟田真人)が来て方物を献上した。真人は中國の戶部尚書に似る。進德冠をカムリ、その頂に花を作り,分れて四散させる。身は紫の袍をまとう。腰帶は絹(帛)である・真人は經史を好み、屬文を理解する。たたずまいは溫雅である。則天は宴麟德殿で宴会を催し,司膳卿を除した。その後、本國に帰った。
- (原文) 長安三年,其大臣朝臣真人來貢方物。朝臣真人者,猶中國戶部尚書,冠進德冠,其頂為花,分而四散,身服紫袍,以帛為腰帶。真人好讀經史,解屬文,容止溫雅。則天宴之於麟德殿,授司膳卿,放還本國。
- (大意)713年、遣使が来朝した。儒士に教を授けるよう要請があった。四門助教の趙玄默に勅して、鴻臚寺ので教えを授けた。また玄默に闊幅布をもって束修の礼(授業料)とした。題して「白龜元年の調布」という。人々は偽物と疑った。得た錫賚で支柱の文籍をことごとく買い、海に浮かんで還った。副使の朝臣仲滿(阿部仲麻呂)は、中國を慕いとどまった。姓名を朝衡と改め、左補闕や儀王友を歴任した。衡は京師(長安)に留まること五十年書籍を好み、帰郷させようとしたが去らずに逗留した。753年、ふたたび遣使した。上元年間に衡を抜擢して左散騎鎮南都護とした。802年、遣使して留學生の橘免勢、學問僧の空海が來朝した。806年,日本国の使判官高階真人(遠成)は上して言い「前件の学生は藝業が達成され本國に帰ることを希望している。臣と同行して帰国するように要請する」というのでこれに従った。839年、又遣唐使が朝貢した。
- (原文) 開元初,又遣使來朝,因請儒士授經。詔四門助教趙玄默就鴻臚寺教之。乃遺玄默闊幅布以為束修之禮。題云「白龜元年調布」。人亦疑其偽。所得錫賚,盡市文籍,泛海而還。其偏使朝臣仲滿,慕中國之風,因留不去,改姓名為朝衡,仕歷左補闕、儀王友。衡留京師五十年,好書籍,放歸鄉,逗留不去。天寶十二年,又遣使貢。上元中,擢衡為左散騎常侍、鎮南都護。貞元二十年,遣使來朝,留學生橘免勢、學問僧空海。元和元年,日本國使判官高階真人上言:「前件學生,藝業稍成,願歸本國,便請與臣同歸。」從之。開成四年,又遣使朝貢。
参考文献
- 石原道博編(1986)『新訂 旧唐書倭国日本伝・ 宋史日本伝・元史日本伝』岩波書店
- 藤堂明保, 竹田晃,影山輝國 (2010)『倭国伝 全訳注 中国正史に描かれた日本』講談社
- 森公章(2008)『遣唐使と古代日本の対外政策』吉川弘文館
宇治橋断碑 ― 2023年07月13日 00:02
宇治橋断碑(うじばしだんぴ)は京都府宇治市にある古代の架橋碑である。
概要
1791年(寛政3年)、江戸時代に橘寺の石垣から発見された。大化二年の「大化」年号を記載する現存唯一の金石文である。『帝王編年記』(14世紀後半成立)に碑の全文が収録されている、 碑は道登が橋をかけたとするが、『続日本紀』は道昭とする。『日本霊異記』、『扶桑略記』[3]、『今昔物語集』は道登が架けたとする。しかし、道昭は大化二年には18歳頃であるから、僧侶になっているか分からない頃である。その後に遣唐使の学僧として唐に留学しているから、大化二年の時期の架橋は考えにくい。『続日本紀』によれば、道昭は入唐求法し、帰国後は元興寺に住んでいた。帰国後は社会事業をしたとされており、その事跡と宇治橋架橋とは混同されたと思われる。
原文
- 浼浼横流 其疾如箭 修々征人 停騎成市 欲赴重深 人馬亡命 従古至今 莫知航竿
- 世有釈子 名曰道登 出自山尻 慧満之家 大化二年 丙午之歳 搆立此橋 済度人畜
- 即因微善 爰発大願 結因此橋 成果彼岸 法界衆生 普同此願 夢裏空中 導其昔縁
読み下し
- 浼浼(べんべん)たる横流、その疾きこと箭(や)のごとし。修々たる征人、騎を停めて市をなす。重深にいかんと欲し、人馬は命が助かる。古より今に至るまで航竿を知ることなし。
- 世に釈子あり。名を道登という。山尻(やましろ)慧満の家に生まれる。大化二年、丙午の年、この橋を搆立し、人畜を済度す。
- 即わち微善により、ここに大願を発し、因を此橋に結び、果を彼岸になす。法界衆生、あまねく願いを同じくする。夢裏空中、その昔縁を導かん。
意味
浼浼(べんべん)は水量が豊かであることを意味する。横流は孟子に「洪水横流」となり、水が多量に流れていることを示す。「騎を停めて市をなす」は、馬出来た人があまりに流れが速いので、滞留する人が多いことを意味するが、そこに市場があったかもしれない。2行目は橋が掛かって人畜が救われたと語る。「亡」は逃れるという意味であり、亡くなる人も助かる人もいたと解釈する。
地名
「山尻」をやましろと読むのは古い書法である。聖徳太子伝のなかに山尻が登場する。奈良時代や『日本書紀』では「山代」表記で、『続日本紀』では「山背」である。
アクセス等
- 名称:宇治橋断碑
- 所在地:〒611-0021 京都府宇治市宇治東内11(橋寺内)
- 交通:JR奈良線宇治駅から徒歩で10分
参考文献
- 堀池春峰(1991)「宇治橋断碑」『古代日本 金石文の謎』学生社
- 蕨由美(1996)「「宇治橋断碑」を訪ねて」さわらび通信,pp.62-68
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